“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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三十八話

 “赤”のアサシンが全員に召集をかけたのは、“黒”の陣営がトゥリファスからブカレストに移動した直後であった。

 王の間に集った“赤”のサーヴァントたち。珍しく“赤”のキャスターまでいる。

「アサシンによれば、“黒”の陣営がいよいよ動き出したようです。早ければ明日にでもなんらかの方法でこちらに攻め込んでくるでしょう」

 四郎の報告に、今更驚く者はいない。

 聖杯がここにある以上、決戦が近いのは誰の目から見ても明らかだからである。

「まさか、そのためだけにここに全員を集めたわけではあるまい」

 “赤”のランサーの言葉に、四郎は無言で腕を掲げて見せた。

 そこに、令呪の輝きが宿っている。

「私はこれから計画の最終段階を進めなければなりません。しかし、そうなるとルーラーの令呪を打ち消すことができなくなります。そこで、今のうちに令呪を二画使ってルーラーの令呪に対する抵抗力を与えておきます」

 ルーラーが特権として保有する令呪は各サーヴァントにつき二画ずつである。それは、第三次聖杯戦争において『ルーラー』として召喚された天草四郎時貞がよく知っている。

 令呪の強力な強制力には、令呪でなければ干渉できない。

「あのルーラーがするとは思えませんが、自害を命じられて果てるわけにはいかないでしょう」

「ま、そらそうだわな」

 “赤”のライダーだけではない。

 他者に死ねと命じられて死ぬなど、英雄かどうかに関係なくお断りである。

 令呪であれば、世界屈指の大英雄である“赤”のライダーや“赤”のランサーであっても例外なく自害させることができる。戦力に劣る“黒”の陣営が、追い込まれて令呪に訴えないとも言い切れない。

「一応、皆さんに令呪を行使するわけですから、直接お伝えしようと思いましてお呼びしたわけです」

「律儀なこったな」

「では、異存はないということで」

 そうして四郎は令呪の輝きを解き放った。

 見た目に何かしらの変化があるわけではない。サーヴァントの力を上昇させることもなければ、何かしらの奇跡を起こすわけでもない。

 しかし、相手の切り札の一つを潰すという点においては、これ以上の使い方はないのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 フィオレとカウレスは、決戦を前にして、フォルヴェッジ家の人間としてしなければならないことがあった。

 魔術刻印の移植である。

 家の跡継ぎとして期待されていたフィオレは、挫折した。

 もう、彼女は魔術師として立つことはできない。家を継ぐのは魔術師としては頼りない出来の悪い弟である。

 移植そのものには、大した時間はかからなかった。

 刻印は臓器のようなものだ。

 通常は、数年おきに少しずつ移植することで身体に慣らしていくのだが、今回、カウレスはフィオレから全体の八割方の刻印を譲られた。

 身体にかかる負担も相当なものとなる。

 刻印が疼き、脳に痛みを送り込む。

 こんなものに、姉が何年も耐えてきたのかと思うと自分が泣き言を言うわけにはいかないと奮い立った。

 それから、何時間が経っただろうか。

 疲れ果てて眠りに就いたカウレスは、深夜に目が醒めた。

 身体は相変わらず重く、頭はずっしりとしている。

 身体を起こして室内を見回しても、薄い月明かりが窓から差し込んでいることが分かる程度で細かいところまで見通すことは出来ない。

 しかし、調度品の中にある花瓶に差された花ははっきりと見て取れた。

「ッ……」

 不意に胸に去来した痛みは、魔術刻印とは関係がないのだろう。

 “黒”のバーサーカーは花が好きだった。

 そもそも少女の姿をしているとは思っていなかったが、性別を思えば花を摘んでいても不思議ではないのかもしれない。少女だから花が好きというのも短絡的かもしれないが、彼女の容姿は花によく合っていた。

 だが、バーサーカーはもういない。

 カウレスは手の甲に浮かび上がる令呪を見た。

 そこにあるのはバーサーカーの令呪ではなく、ルーラーから移譲されたライダーの令呪である。バーサーカーとの繋がりは、彼女が消えた瞬間に失われた。

 カウレスが死ねと命じたのである。使えば最期、消滅してしまう宝具の使用を令呪で強制したのである。

 彼女の夢を知りながら、それが叶わないと初めから覚悟していた。

 最初からバーサーカーを裏切っていたようなものではないか。

 姉もアーチャーもルーラーも、口に出せばそうではないと否定してくれるだろう。しかし、カウレスは、どれだけ慰められたところで納得することができないに違いない。ならば、この罪悪感をずっと背負っていくしかないのであろう。

 相変わらず胸はギチギチと痛んでいる。

 ルーラーの聖骸布でも、この痛みだけは消してくれない。

 カウレスは目を瞑る。

 眠りに落ちればこの痛みも消えてくれるかもしれない。

 今は“黒”のライダーのマスターである。

 夢の中であの能天気な英雄の記憶が覗き見れるかもしれない。

 淡い期待を胸に抱き、カウレスは睡魔に身を委ねた。

 

 

 

 □

 

 

 

 夜が深ける。

 月明かりの下、“黒”のアーチャーは中庭に出た。

 全身の力を抜き、脳裏に一挺の槍をイメージする。

投影開始(トレース・オン)

 アーチャーは静かに呟き、右手に槍を投影する。

 剣からかけ離れた物品ほど、投影には時間と魔力を要するが幸いにして今はその心配はない。

 投影したのはアキレウスの槍。

 投擲に優れ、取り回しやすい、青銅の穂先を持つ短い槍である。

 伝説には、不治の呪いを有するとされていたが、解析したところ、この槍そのものにはそういった呪いはないようだ。

 『ランサー』として召喚されれば、宝具の能力として解放されるということか、それとも呪いの槍とは別物ということであろうか。

 いずれにしても、伝承通りの能力ではない。

 万全の状態でこの槍を使わせれば、アーチャーは限りなく不利になる。ただでさえ、素のスペックが違いすぎるのだ。

「憑依経験」

 アーチャーの身体にアキレウスの槍技が伝わる。三連の刺突。上体を崩して足払い。倒れたところに止めの刺突。これを、ほぼ一瞬のうちに行う。

 “赤”のライダーの槍筋を可能な限り頭と身体に叩き込む。

 アーチャーが再現できるのは、劣化した槍術ではあるがそこにある癖や型は事前に学ぶことが可能である。戦場で“赤”のライダーを相手に同じ技を使うことはできないが、彼と対峙するからにはその技をイメージできるようにしておくのは必要である。

 次の戦いでは、“赤”のライダーはかつてない猛攻を仕掛けてくるに違いない。

 前回の戦いでは、アーチャーの引き出し(投影)をどこか警戒して最後の一線に飛び込まないところがあったように思う。

 圧倒的強者が全力を尽くして自分を殺しに来る。

 そそり立つ壁はあまりにも大きく、乗り越えるには厳しい道のりである。

 アーチャーは“赤”のライダー個人に対して思うところはない。恨みもなければ憧憬もない。ただ、聖杯に至り、天草四郎の望みを絶つためには排除しなければならず、“黒”の陣営の中で“赤”のライダーに対処できるのは自分だけであるから戦うのである。

 その槍は突くというよりも撃つに近い。

 ミレニア城塞での戦いで、幾度となく撃ち込まれたから理解できる。こうして、その技量を再現してみても、技量に身体がついていかない部分がどうしても出てくる。型落ちでこれなのだ。最後の戦いにおいて、その力がどれほどのものになるか想像もできない。

「アーチャー、一人で鍛錬ですか」

 車椅子を操って、アーチャーのマスターであるフィオレがやってきた。

「フィオレ、まだ起きていたのか」

「どうしても、眠れなくて。緊張しているのでしょうか」

「決戦までまだ四日もあるのだ。今から緊張していたら身体が持たんぞ」

「そうですね。なんとかしないと」

 フィオレはくすり、と笑った。

「身体のほうはどうだね?」

「わたしは問題ありません。刻印の大半がなくなったので、むしろ体調がよくなったくらいです」

「では、足も」

「そうですね。魔術師を諦めましたから、リハビリ次第では足が動くのも夢ではありませんね。何年先になるか分かりませんが、何とかやっていこうと思います」

「いいことだ。挫折を経験しても、そこで折れないのは君の美徳だろう」

「次があるかどうかは、最後の戦い次第ですけどね」

 フィオレは手の甲をなでて、言った。

 フィオレは前線に乗り込むつもりでいるという。聖杯を最後に確保するために、サーヴァントだけでなくマスターも同行しているべきだと主張して退かなかった。命の危険は無論ある。しかし、マスターとして、あるいは魔術師として、この戦いに最後まで関わるのは己の責任であると思っているのであった。

「あの、アーチャー。気を悪くしないで聞いてください」

 フィオレはそう前置きをした上で、口を開いた。

「ライダーは、非常に強大なサーヴァントです。無数の宝具を有するあなたでも、極めて厳しい状況だと思います」

 厳然たる事実として、大英雄として名を馳せたアキレウスと未来では違うかもしれないが現代では無名のエミヤシロウでは英霊としての霊格も戦闘能力も何をとってもアーチャーが勝るところはない。

 オブラートに包む必要がないくらいに、それは明々白々であった。

「しかし、それでもわたしたちはあなたに賭けなければなりません。飛行機が空中庭園に到着する前に、ライダーに撃墜されないようにするためには、あなたにライダーの足止めをしてもらわなければならないのです」

「ふむ、それで」

「わたしの手に在る令呪の一画を、あなたに転写しようと思います」

「何……?」

 アーチャーは目を見開いた。

 令呪を、自分のサーヴァントに与えるなどというのは前代未聞の判断である。

「正気か、フィオレ」

「もちろん正気です。わたしは四画もの令呪を持っているのです。一画をあなたに託し、あなた自身の判断で使ってもらったほうがいい」

 令呪の本来の用途はサーヴァントの反逆を防ぎ、自由意志を奪うためのものである。

 その一方で、強大な魔力はサーヴァントの能力を上昇させたり、一時的に奇跡に近い現象を引き起こすことも可能となる。これが、令呪が切り札として認識されている理由である。

 そして、令呪はサーヴァントでも持つことは可能なのだ。

 令呪をアーチャーが持つことで、アーチャーはここぞというときに己に令呪の加護を与えることができるようになる。

 勝率を僅かにでも引き上げるための苦肉の策であった。

「まったく、君も思い切ったことをする」

「ですが、必要な措置です」

 アーチャーの能力が低いのなら、可能な限り令呪で補強する。

 アーチャーが“赤”のライダーとどこまで戦い続けられるかというところに、作戦の正否がかかっているのだから当然であろう。

「ルーラーが持っている最後の令呪も、強化に回せるかどうか交渉中です」

「彼女が同意するかな」

「世界の命運がかかっているのです。ルールに固執してもらっては困ります」

 フィオレは苦笑しつつ真面目な少女を思い浮かべる。

 世界的に名を馳せた聖女。享年は自分よりも若く、その悲劇的な生涯は決して真似できるものではない。しかし、会話をしてみると特別なものは何もない普通の少女といった印象を受ける。

 説得するのは骨が折れそうだが、彼女も最前線で全力を尽くすためならば、アーチャーの時間稼ぎは必要不可欠のはずだ。

「それでは、アーチャー。手を……」

 赤い光が舞い上がり、フィオレの手から令呪が一画消える。

 そして、アーチャーの手に転写された令呪は莫大な魔力を湛えて使用されるときを今か今かと待っている。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 “黒”のアサシンと玲霞は努めていつも通りに生活していた。

 ゴルドと異なり、ミレニア城塞に逗留していた玲霞には人質以上の価値はなく、敵地にアサシンが乗り込んでしまえばもはや反抗の仕様もない。よって、アサシンの精神面を支える意味も加味して玲霞はブカレストにやってきていた。

 ベッドに腰掛ける玲霞の隣には、アサシンが座っていて玲霞が開いた料理本を興味深そうに覗き込んでいる。

マスター(おかあさん)。これ、何?」

 アサシンが指差したのは、煮込み料理の写真であった。キャベツと豚肉のほか、人参やジャガイモが入っているのが見て取れる。

「ポテね。フランスの煮込み料理の一つよ」

「ポトフじゃないの?」

 アサシンは、つい先日夕食で出たフランスの代表的家庭料理を思い浮かべた。 

 ポトフもまた煮込み料理である。フランス人のルーラーなどは故郷の味に近いとして喜んでいたが、料理担当のホムンクルスが料理名をアイントプフであると主張したことからちょっとした論争に発展した。

 地域が変われば呼び名が変わる。

 ポトフもアイントプフも、フランスとドイツの違いだけで、大きな違いはなく料理としてはほぼ同じである。

 現地では日本版ポトフとしておでんを紹介することもあるなど、煮込み料理全般にポトフという呼称が用いられつつある。

「ポトフとは厳密には違うみたいね。牛肉なのか豚肉なのかとか、材料で変わるみたいだけど、詳しくは分からないわ。ごめんなさい、ジャック」

「ううん、謝らなくてもいいよぅ」

 アサシンは、玲霞の機嫌を損ねたと思ったのか申し訳なさそうな顔をした。それから膝立ちで玲霞の後ろに回りこみ、後ろから玲霞に抱きついた。

 玲霞は小さなアサシンの手の甲に自分の手を添えた。

「ん……」 

 母親の手の温もりにアサシンは目を細める。

 戦いは四日後だという。

 玲霞には、アサシンを正しくサポートすることはもうできない。成り行きに任せて、見守ることだけが玲霞にできることのすべてである。

 だが、フィオレに頼めば、アサシンと視界を共有することもできるかもしれない。

 そうすれば、最後の令呪の使いどころも見極められるかもしれないのである。

マスター(おかあさん)。ハンバーグ、食べたい」

 アサシンは玲霞を揺する。

 無邪気なアサシンの要求に、玲霞は微笑みを浮かべた。

「あら、アーチャーさんのハンバーグじゃなくてもいいの?」

マスター(おかあさん)のがいい」

「そう? それなら、頑張ろうかしら」

 厨房は使えただろうか。 

 もしも冷蔵庫に何もなければ食材の用意も必要だが、一応はこれまでに稼いだ軍資金がある。ちょっと上等な肉を購入しても問題ない。

 玲霞は立ち上がって、アサシンと手を繋ぐと、一緒に部屋を出ていった。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 そして、決戦までの日々は、流れるようにあっという間に過ぎ去った。

 各々が思い思いに四日という時間を使った。

 “赤”のサーヴァントが攻めてくることもなく、開戦以来久しぶりの穏やかな日常であった。

 そして、今いよいよ決戦に挑むため、サーヴァントとマスターは空港にやってきた。

 戦いのために必要な準備はすべて済ませた。後はもう、決戦に臨むだけである。

 そのための足もすでに飛行場でエンジンを温めている。

「本当に、これを……?」

 空港に集った面々は、すでに戦闘用に衣服を整えている。

 当世風とはとても呼べない鎧兜に身を包むサーヴァントと魔術礼装を自らの足とするフィオレ。人込みに紛れることができるのは、カウレスと玲霞だけである。

 しかし、今はその心配をする必要もない。

 広い空港のロビーは見事なまでに人気がない。入口を、黒服の男が守るだけであった。

 その異様さに、ルーラーはただ息を呑むばかりであった。

「空港を丸ごと貸切にするなんて、とんでもないことするなぁ、姉さん」

「でも、これ自体は大したことないわよ。かかった費用もわたしが自分で捻出できる程度だったし」

 空港を十二時間貸し切るのに使用した費用は、フィオレが開発した魔術礼装五つ分である。

 それを高いというか安いというかは個々人の感覚に拠るところが大きいが、自分の才覚でも資産を築くことのできるフィオレの感覚ならば、まだまだこのくらいは、という程度なのか。

「それ以上にお金がかかったのは、飛行機のほうです。さすがに、これだけの数を用意するのは大変でした。どうせ潰すのだから、中古の安いものでよかったのに」

「……ジャンボジェットだから、高いのは当たり前だろ」

 カウレスの冷静な言葉も、飛行場に鎮座する十五機あまりのジャンボジェットを前にすれば霞んでしまう。

 いったい、どれだけの金がここに費やされたのか想像もしたくない。

 “黒”のアーチャーと“黒”のセイバーが協力して築き上げた追加資金も、ほぼ消し飛んでいる。

「配置は事前に決めたとおりになります。それと、ライダー」

「うん?」

「あなたの宝具が頼りです。可能な限り、敵アサシンの魔術を防いでもらわないといけませんが……思い出しました?」

 “黒”のライダーの魔導書はあらゆる魔術を打ち破る能力がある。最強クラスの魔術師である“赤”のアサシンが張り巡らせた防衛機構を突破するためにも、どうあってもライダーが魔導書の真名を思い出す必要がある。そのために、新月の夜を選びユグドミレニアの最終的な勝利を擲ったのである。

「え、えぇとね」

「ちょ、本当に大丈夫なんですか!?」

「だ、大丈夫大丈夫。まだ、夕方だからあれだけど、夜になれば間違いなく思い出せるから!」

「本当ですね。信じてますよ」

「任せて」

 ライダーは自信満々に胸を張る。

 とはいえ、思い出すかどうかは完全に本人にしか分からない。他人は信じることしかできないのだから疑念の目は自然とライダーに向く。

 さすがに居心地が悪くなったライダーは、視線を彷徨わせた。

 そのライダーの視線がある一点で止まった。

 そして、その目が大きく見開かれた。

「ど、どうして!?」

 ライダーの視線の先には銀色の髪と赤い目の少年が立っていた。剣を佩いたホムンクルスである。外見的な特徴はミレニア城塞で働く個体とほぼ同じだ。だが、まったく別物だと分かる。第一に、明らかに無我ではないからだ。それだけで、大きく雰囲気が変わる。フィオレとカウレスはこんなホムンクルスはいただろうかと首を傾げたが、サーヴァントたちはそうではなかった。

「わ、わ、ちょっと。どうして彼がいるのさ!?」

 ライダーが驚いて声を上げた。

「わたしがお呼びしました。最後になるかもしれませんから」

 答えたのはルーラーである。

「もしかして、以前アーチャーたちが逃がしたというホムンクルスですか?」

「ああ、今はトゥリファスの街中でホーエンハイムと名乗って生活しているようだ」

 声を潜めてアーチャーに尋ねたフィオレは、想像が当たって納得したというような表情になる。

 それにしても、ホーエンハイムをホムンクルスが名乗るというのは、魔術師としては奇妙な感覚がする。

 表の歴史にも名を残した偉大なる錬金術師ヴァン・ホーエンハイム・パラケルスス。賢者の石やホムンクルスの作成で名高く、魔術師としては五大元素を操るアベレージ・ワンであったと伝えられている。

 そんな偉人の名を冠するホムンクルスはさりとて特別な何かがあるわけでもない。彼の寿命は三年ほどで尽きる。今更フィオレの前に現れたところで、彼を害する理由はない。

 ライダーは慌てて駆け出し、ホーエンハイムの下へ急いだ。

「久しぶりだな、ライダー。また会えて嬉しい」

「会えて嬉しい、とかそんなこと言ってる場合か。下手したらここも戦場になったかもしれないのに、わざわざ安全なところから出てくるなんて」

「だが、最も危険なのはライダーたちだろう。これが最後になる公算が高いと聞いて、一言言葉を交わしたかったんだが、迷惑だったか?」

 ホーエンハイムにとってブカレストはとてつもない異世界である。

 トゥリファスの五十倍の人口を誇るルーマニアの首都は、無知に等しいホーエンハイムを圧倒して余りある。

「迷惑なんかじゃないけど、どうやってここまで来たんだ?」

「俺の下宿先の人がここまで送ってくれた。帰りもその人の車で帰ることになっている」

 ホーエンハイムの下宿先の教会でシスターをしている女性は、ジャンヌ・ダルクの影響を大きく受けた人物でもあった。聖堂教会の関係者でもあり、今回の聖杯大戦を密かに監視しているのである。そんな人物だから、ルーラーの要請を断ることはない。

 ホムンクルスの作成は神の領域を侵す蛮行ではあるが、生まれてきた命に罪はない。

 ホーエンハイムについても、最大限に理解を示してくれている。

「そ、そうか。一人じゃないなら、大丈夫かな」

「俺は、一人で外出も儘ならないような子どもではないのだが」

「君、生まれて一ヶ月も経ってないだろう」

「む、それは、確かにそうだが」

 ホーエンハイムはそこで言葉に詰まる。

 ライダーの言うとおり、彼には人生の積み重ねがない。知識だけならば、一般人を凌駕しているものの、それは知っているだけだ。経験の積み重ねによって形成される人生の知恵は小さな子どもと同程度でしかない。

「ルーラーに聞いてたけど、そっか。元気にしているのか」

「ああ。俺は何の問題もない。それもこれも、すべてライダーたちのおかげだ。一度、直接会って礼を言いたかった」

「そんなの、別にいいのに」

 ライダーはそれでも嬉しそうに相好を崩した。

「あのとき、君がいなければ始まらなかった。ありがとう、ライダー」

「いやいや、照れくさいな。僕は僕にできることをやっただけだってのに」

「ああ、それでこそライダーだ」

 ホーエンハイムは最後に会ったときとほとんど変わらず、ライダーに全幅の信頼を置いている。

「どういうこと?」

「君はもともとやるべきことをやり遂げる人間だろう。これからも、それは変わらないはずだ。これは、まあ、俺の勝手な考えだが」

「む、……ははは、いや参ったね。そのとおり。僕は僕にできることを最後までやり遂げる。ここだけの話、自信はなかったんだけど、うん……でも、君のおかげでどうにかなりそうな気になってきた」

 ライダーは大いに笑った。

 彼が言ったとおり、最後の戦いに臨むに当たって大きな不安を抱えていた。しかし、そんなことはこのホーエンハイムが直面するであろう、未来の問題に比べればなんと分かりやすく、乗り越えやすいものであるか。

 到達すべき場所ははっきりしている。乗り越えるものも明確だ。道に迷うことなどありえず、ならばただ進めばいい。理性があろうがなかろうが、アストルフォには変わりない。

「よし、じゃあセイバーとアーチャーにも挨拶していけよ。出発まで、もう少しあるはずだからさ」

「む、迷惑でなければそうしたいが……」

 ホーエンハイムの答えを聞く前に、ライダーは彼の手を引っ張ってセイバーたちのところまで連れて行く。困ったような顔をして、ホーエンハイムはその後ろをついていった。

 

 

 

 すっかりと日が没し、星が輝く夜がやって来る。

 月明かりはまったくなく、新月の夜に相応しい闇がそこにあった。ブカレストは人工の光に照らされてまだ明るいが、飛び立ってしまえば四方は深海の如き闇に包まれるであろう。

 複数の飛行機に、それぞれ分散して乗り込むことで撃墜の危険性を可能な限り低減する。

 費用を度外視すれば、実に理に適った戦術である。

 操縦は飛行機の操縦法をインプットしたゴーレムに任せる。

 ロシェが遺した作品をそのまま流用したものである。

「アーチャー。これが、最後ですね」

「そうだな。遂に、聖杯に挑むときがきたというわけだ。今のうちに新たな願いを考えていたほうがいいのではないかな、フィオレ」

 常と変わらない減らず口に、フィオレは緊張を忘れて微笑む。

「この飛行機にも、ずいぶんと魔術を打ち込んだようだな」

「飛行機というのは存外に脆いものです。機体に穴が開けばそれだけで砕けてしまいますから、補強のための強化です」

 鉄骨などで支えられている建造物と異なり、飛行機は卵の殻と同じように筒状の構造を取ることで圧力を均等に散らしている。こうした筒状の構造をモノコック構造といい、飛行機の場合は更に強度を確保するために骨材を水平方向に組み込み、支えとするセミモノコック構造を採用しているものが多い。

 この構造はメリットもあるが同時にデメリットもある。そして、戦闘という本来の用途から大きく外れた使用方法では、そのデメリットが浮き彫りになる。

 圧力を散らして機体全体で支える構造は、一部が破損するだけで容易く崩壊する。

 高高度での戦闘は想像に難くない上に、敵の攻撃に曝されては飛行機の胴体は容易く穴が開いたり、引き裂かれたりするだろう。地上では形を保てても、機体の内外の圧力差の急激な変化や飛行速度による慣性などであっという間に粉微塵になってしまうということもある。それでは、あまりにももったいない。

 そうならないように、魔術で強化を施した。

 単純な材質の強化はもちろんのこと、圧力そのものを魔術で受け流す。

 相手には長距離狙撃を旨とする“赤”のアーチャーがいる。加えて空中を自在に疾走する“赤”のライダーまでいるのである。飛行機を落とすことなど、造作もない。

「アーチャー。あなたが一番手です。令呪まで使ったのですから、きっちり空中庭園を捕捉してくださいね」

「ああ。まずは、その期待に応えることから始めよう」

 アーチャーがどれだけ“赤”のライダーを押さえ込めるかで戦いの趨勢は大きく変わる。

 しかしながら相手は正真正銘の大英雄。

 まともに戦っては、如何にアーチャーが守り上手であっても切り崩される公算のほうが高い。

 そこで、フィオレは弟のカウレスから令呪を一画だけ譲り受け、アーチャーの強化に使用した。

 “黒”のライダーは敵との直接的な戦闘を想定しておらず、アーチャーを強化するのに使用するほうがいいという判断からであり、もはや聖杯大戦後に内輪揉めをする可能性も潰えたといっても過言ではないこの状況では、令呪も“黒”の陣営が共有する武器の一つとしてカウントされていた。

 強化内容は「スキルランクの向上」。特に、『千里眼』と『心眼(真)』に限定して令呪のブーストをかけた。

 スキルのランク上昇は令呪を以てしても極めて限定的にならざるを得ないが、それでもアーチャーの索敵能力並びに動体視力は向上した。要するに、今のアーチャーは未だ嘗てないほどに目がよくなっているのである。

 ルーラーの気配感知能力とアーチャーの視力で空中庭園を早々に発見。然る後にアーチャーの長距離狙撃による先制攻撃を放つ。

 先の戦いでは“赤”の陣営に先手を許した。

 この最終決戦では、“黒”の陣営が先手を取る。

 それは、“黒”の陣営が勝利に拘っているという、何よりの証であった。


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