“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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四十四話

 それはまさしく墜ちる太陽そのものであった。

 輝く紅蓮。

 燃え盛る炎。

 対神宝具『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』――――雷神インドラですら使いこなせなかったとも伝わる古代インド最強の神槍であり、ただの一撃ですべてを焼き払う猛火の具現。

 その神威を前にして生を拾おうなどと考えることそのものがおこがましい。

 逃げることも防ぐことも不可能。ありとあらゆる存在は、ただ焼き払われて死ぬだけである。

 そこに一つの例外も存在しない。

 英雄はもちろん、幻想種も要塞も魔術も空間も、――――そして神すらも等しく焼き払う超絶宝具は、今まさに一人の大英雄を焼滅せんと牙を剥いた。

 迎え撃つのは竜殺しの大英雄“黒”のセイバー(ジークフリート)。その手に輝く『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』は、かつて邪悪な竜(ファヴニール)を討ち果たした至高の聖剣である。

 生半可な宝具では、この聖剣には歯が立たない。現に、災厄の象徴たる悪竜を討伐しているではないか。

 されど、竜種が如何に幻想種の頂点に君臨していようとも、神霊種には及ぶべくもない。 

 あらゆる命を摘み取る竜殺しの聖剣はしかし、神殺しの神槍を前に傍目から見ても劣勢と分かるほどに押し込まれていた。

「ぐ、ぐくぅ――――!」

 歯を食い縛って灼熱に耐える。

 黄昏色の極光は尚も燦然と輝きを放っている。しかし、相手は事もあろうに太陽そのものである。如何に強烈な輝きであろうとも、太陽を上回る明るさなど、この世にありはしないのである。

 踏み込む地面がひび割れる。

 視界は隈なく赤熱して燃え上がり、決闘場を構成する空間は宝具の発動と共に焼け落ちた。後はひたすら耐える竜殺しが太陽に呑み込まれてすべてが終わる。

 一秒後か、二秒後か、多く見積もっても五秒は持つまい。

 そこに大した理由は必要ない。

 厳然たる事実として、最大威力の『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』が、『日輪よ、死に随え(ヴァサヴィ・シャクティ)』に遠く及ばなかったということが突きつけられるだけである。

『令呪を以て、告げる――――』

 その時、唐突に、脳裏に響いた言葉があった。

 黄昏の剣気は膨れ上がり、太陽に再び喰らい付く。その勢いは今までの比ではない。押し迫る太陽を、黄昏の帳が受け止めた。

『何を弱気になっている、セイバー! 貴様、まさか私に勝利を捧げると言ったのは出任せか!』

 令呪で強化されたパスを通じて、マスター(ゴルド)の声が頭を叩いた。

 セイバーの瞼の裏にゴルドの姿が浮かび上がる。

 小心者で、ひねくれ者。魔術師の誇りを掲げながら、どこか人間臭い――――ありふれた男だ。夢を捨てきれないところなど、意外にも好感が持てた。そもそも、夢を見失ったセイバーにとっては、ああいった人物は羨ましく思えるのである。

 よもや、そのマスターに叱咤されることになるとは思いもしなかったが、確かに彼の言うとおりだ。

 まだ、死んでいない。

 死んでいないのであれば、最期の一瞬まで諦めてはならない。諦めた瞬間にすべてが終わる。どうせ終わるのなら、最期まで喰らい付く。あの竜を倒したときのように――――。

 

 

 

 トゥリファス、ミレニア城塞内。

 ゴルドは貯水槽が乱立した工房で、手を握って歯軋りしていた。

 苛立ちはある。当然だ。必勝を期した聖杯戦争が、思いもよらない形で進展し、そして終わろうとしているのだから。

 たとえ勝利したとしてもユグドミレニアは終わるだろう。魔術協会によって取り潰されるに違いない。“黒”のセイバーが確保した交渉材料に一縷の望みを賭けるしかないという状況である。そんな中で、さらに自分のサーヴァントが死を迎えそうになっているのだ。

 このままでは、ゴルド・ムジーク・ユグドミレニアは負け犬以下だ。

 状況に流されて、満足にマスターとしての仕事もこなせず、穴倉に篭って肉塊と四苦八苦しているだけではないか。

 己の力不足は散々痛感した。

 自分が原因で敗北するというのであれば、まだ分かる。

 最強のサーヴァントを召喚していながら使いこなせなかったということだ。

 だが、自分と関わりのないところで敗北するのは許し難い。

 それでは、そのサーヴァントに目を付けたことそのものが失策だったということになる。それはマスター以前の話ではないか。

 そもそも、聖杯戦争に参加するということ自体が穴だらけだったのだ。

 神話の英雄を召喚して殺しあう。馬鹿げている。馬鹿げているからこそ、ダーニックは全身全霊をかけ、自分たちはそれに唯々諾々と従った。

 どうしようもなく愚かだ。

 魔術師として秀でていたところで、何も意味がなかった。

 彼らの戦いに、魔術師は魔力タンクとして存在していればいいだけで、魔術師の誇りなど欠片もない。これは、そういう儀式だったのだ。だというのに、自分の命は担保にしなければならない。割りに合わないどころの話ではない。

 ダーニックであれば、よかったのだろう。あるいはフィオレであれば、聖杯大戦でない聖杯戦争でも勝ち残れたに違いない。

 けれど、ゴルドはだめだ。自分でも実感する。自分にはサーヴァントを使役することはできても、使いこなすことはできなかった。指示を出すなどもっての外だ。ゴルドには魔術を手繰ることはできても、戦略や戦術を組み立てる力がなかったからである。

 だから、マスターとしてはおそらく三流なのだ。

 今、視界を共有して自分のサーヴァントが太陽に焼かれそうになっているにも拘らず、まともな打開策を打ち出すこともできないでいるのだ。

 令呪一画では、僅かに拮抗する時間を作れただけだった。その拮抗も、徐々に崩れてきている。

 令呪で転移させようか。

 一瞬そう思ったが、即座に不可能だと悟る。

 令呪の奇跡も、方向性を定めねばならないという点では聖杯と同じだ。転移させるのであれば、どこに転移させるのかを明確に意識しなければならない。

 だが、ゴルドはセイバーの視界を通してでしか状況を認識できない。そして、セイバーの視界は、今太陽で燃えている。よって、どこに転移させるのか狙いを絞ることができないのであった。

 マスターとしてゴルドにできることは、魔力供給量を増加させるということだけであった。

 ゴルドは、セイバーを支援するために、予備として用意していた貯水槽をすべて稼動させた。不測の事態に対処するための予備バッテリーは、そのすべてがセイバーとのパスに接続されて急速に魔力を供給する。だが、これでは焼け石に水でしかない。現状維持では、話にならない。

 もうどうにでもなれ、とゴルドは捨て鉢になった。どうせ、ここで押し負ければ終わりなのだ。

『二画の令呪を以て告げる。セイバー、お前の宝具で以て押し返せ!』

 令呪の使い方としては極めて頭の悪い方法で、全令呪を消費する。莫大な魔力を、ただ『幻想大剣・天魔失墜(バルムンク)』の出力上昇に費やしたのである。

 

 

 

 “赤”のランサーはここにきて顔を歪め、瞠目した。

 灰すら残さず焼き払う神殺しの槍が、黄昏の光と拮抗を始めたのである。急激に相手の宝具の威力が上昇した。その原因に心当たりがないわけではない。サーヴァントは一人で戦っているわけではない。姿は見えずとも、彼の背後にはマスターがいて、令呪で以て“黒”のセイバーを後押しすることができる。

 令呪というのは、時として奇跡すら呼び起こす。

 とはいえ、奇跡を一つ起こした程度で神殺しの槍とは拮抗できない。ゴルドが用いたように、さらに二つの奇跡をこのときに限定して宝具の出力を上昇するという方法は、令呪のブースト機能を最大に高める使い方であったが、それでも尚押し戻すには足りない――――。

「なるほど、ジークフリート。お前は強い。この槍がなければ、鎧を持つオレすらも討ち果たしたかもしれん」

 静かに、ランサーは呟いた。

 余裕があるわけではなかった。気を抜けば、あの黄昏が太陽を押し戻してしまいそうだからである。故に、ランサーは、勝利を願い、全力を打ち込むのである。

 自らを呪縛するように、ただ負けないと心に誓う。

「神の慈悲まで賜って得た自慢の槍だ。さすがに撃ち負けるわけにはいかんのでな」

 柄にもない、とランサーは思う。

 それでも、雄叫びを上げなければならなかった。

 地面を踏みしめ、槍を突き出し、黄昏の帳を引き裂かんと魔力を燃やす。

 この一撃で、勝負を決するために全力を尽くす。

 それが、“黒”のセイバーとの誓いであり、戦士(クシャトリヤ)の誇りだからである。

 今、この場で勝敗を決するのは純然たる力のみ。

 圧倒的な力は、小手先の技を打ち砕き、絶望する間も与えず敵を焼き払うであろう。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 戦況は七:三で“黒”のアーチャーが不利。

 “赤”のライダーを固有結界に取り込むことで、“黒”の陣営は戦車の猛威に曝されることもなく空中庭園に突入できたが、アーチャーはライダーと一対一で戦う必要に迫られた。

 それ自体は問題ない。

 今までもあったことだ。

 すべての令呪を費やした補強によって、アーチャーは常にない力を発揮することができる。

 全身の血液が沸騰しそうな感覚。

 視神経は今にも裂けそうなくらいに悲鳴をあげ、骨という骨はとうに磨り減り、筋肉は次々に断裂していく。

 だが、止まらない。

 戦えと命じられたから。勝利すると誓ったからである。

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ」

 裂帛の気合を込めて、アーチャーはライダーを蹴り飛ばす。ダメージにはならないが、彼を押し返すことはできた。

 アーチャーはすでに限界が見えつつある。一方のライダーはまだ余裕が持てている。決定打はなくとも、アーチャーは何れ崩れるのが見て取れるので、ライダーのほうに焦りは一切ない。

「弓兵如きがと甘く見てたぜ。アーチャー。ここまでこの俺に食い下がれる弓兵はそうはいねえ」

「ありがたい言葉だな。もっとも、これは私だけの力ではない。我がマスターの助力があってのことだ」

「ははあ、なるほど。つまりは令呪か。俺の全力を防げるのもそこに秘密があったわけか」

 別に不思議にも思わないし、卑怯とも思わない。

 脆弱な人間が自然界で生きていくために武器を取ったのと同じこと。自分にとって使える武器は何であれ使うべきだ。そうでなければ、全力とは言い難い。使えたのに使わなかったから負けたのだと、後で吼えられても締りが悪いだけである。

「必要なものはほかから持ってくるのが魔術師だろう。私が君を傷付ける武具を用意するのと同じことさ」

 予備動作など必要ない。

 アーチャーが召喚した巨大な剣が、瞬時にライダーの周囲を取り囲む。さながら、それは剣の檻とも言うべきものであった。

 対神宝具でなくとも、ライダーの動きを押さえるくらいの仕事はできる。障害物として利用するだけならば、大きさだけがあればいい。

 とは言っても、この檻すらも数秒の時間を稼ぐことにしかならない。

 ライダーはアーチャーの剣を砕き、容易く檻から脱出を果たすであろう。

 事実、この状況下にあって、ライダーは笑っている。

「ハッ! こんなもので、この俺を抑えきれると思っているわけじゃねえだろうな、――――アーチャーッ!」

「もちろんだ、ライダー。とはいえ、如何に君と雖も、これを避けきることはできんだろう」

 アーチャーが必要としたのは、攻撃準備のための時間である。

 そして、その時間は一瞬あればいい。

 何せ、ここは『無限の剣製(アンリミテッド・ブレイドワークス)』の内部である。ライダーが停止した一瞬で、無数の剣を空に待機させることができる。

 詠唱は不要。

 過程すらも意味をなさない。

 この世界の内部には、すべての剣が装填されている。後は、アーチャーが引き金を引くだけで、(弾丸)は射出される。

「てめッ」

 宙に舞う剣を数えることなど不可能だ。視界を埋め尽くす黄金の輝きは、三百六十度すべてを隙間なく覆っており、ライダーに逃げる道を与えない。

 速すぎて捉えられないのであれば、そもそも走らせるスペースを与えなければいい。考え得る限りの逃げ道をすべて潰し、絶対に避けられない攻撃をすればいいのである。

「私の剣が、私の周囲に展開されるものだけだと思っていたのかね? だとしたら浅慮に過ぎる。見てのとおり、視界に映るすべてに、私の剣は存在しているのだからな」

 もはや、ライダーにこれを捌く時間は残されていない。如何に最速のサーヴァントといえど、球状に自分を包み込む剣の群れを相手に槍一本でどのように戦うというのか。一度に弾ける剣の数に限りがある以上、飽和攻撃に対処するなど不可能である。

 “赤”のライダーはその俊足で以て視界に映るすべてを間合いに収めていると豪語するが、“黒”のアーチャーは視界に映るすべてが射程に収まっている。

 そして、例え俊足のライダーであっても、足を止めればただの的に等しい。

 宙に浮かぶ天蓋は、対神宝具で構成された神殺しの刃の塊である。ライダーの不死は、あの剣を前にすればあってないようなものである。

 アーチャーが掲げた腕を振り下ろす。それを合図に天蓋が崩れ、剣の壁が押し迫る。“赤”のライダー(アキレウス)が大英雄であろうとも、蘇生能力を持たない以上は、全身を引き裂かれ、剣に刺し貫かれれば死ぬだろう。

 バーサーカー(ヘラクレス)のような規格外でなければ、一回殺せば終わる。そう思えば、精神的に多少は楽になるというものである。

 そして、今まさにアーチャーはライダーを仕留めようとしていた。

 剣の檻には脱出可能な隙間はなく、破壊したとしてもその外側には剣の群れが押し迫る。一秒後には、血と肉の塊ができあがっているという状況の中で、――――それでも、“赤”のライダー(アキレウス)は笑ったのだ。

「侮るな、アーチャー――――」

 視界を覆い尽くす剣の雨に曝されているのだ。解決策を模索する時間もなく、逃げ道もないという中で、万人は死を自覚して思考を停止するであろう。しかし、ライダーは違う。須らく絶望するべき状況にあってなお、彼は笑って乗り越える。

 その手に現れたのは一つの円楯であった。

 ただの楯ではなく、宝具であることは見て分かる。

 トロイア戦争でのことである。“赤”のライダー(アキレウス)が戦いをボイコットしたとき、アカイア勢はこれ幸いと攻めかかるトロイア勢によって撤退寸前まで追い込まれたことがあった。この危機を救ったのは、ライダーの武具を携えて戦いに望んだ親友(パトロクロス)であった。彼は、ライダーとは竹馬の友であり、曾祖母アイギーナより分かれた一族の者でもあった。パトロクロス自身も優れた武人であり、“赤”のライダー(アキレウス)に扮して大いに善戦し、敵を押し戻してアカイア勢の士気を高めることに成功した。

 しかし、大英雄にしてトロイア最大の勇士たるヘクトールには届かず、その槍を受けて落命してしまう。

 この戦いで、ライダーは出陣を決意してヘクトールを討ち果たすのであるが、このときにパトロクロスが纏っていたライダーの武具は戦利品として敵に奪われてしまっていた。

 武具をなくした息子を憐れんだ女神メティスは、鍛冶神へパイトスに懇願し一つの防具をライダーに送り届けた。

 それこそ、『イリアス』に百行以上に亘って謳われた伝説の楯。至高の芸術品にして、人智を超えた究極の逸品。――――その名は、

「『蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)』!」

 真名の解放と共に、楯に刻み込まれた世界が動き出し、前面に押し出される。

 大地と空と太陽と月。神と人と自然が絡み合い、戦いと娯楽が混ざり合う。そして、それらすべてを取り囲む最果ての海。

 これは、“赤”のライダーが駆け抜けた世界そのもの。

 彼が全身全霊をかけた生き様の結晶であった。降り注ぐ神殺しの剣も、世界そのものを殺すには至らない。たとえ神が消えても、世界は変わらず時を刻むであろう。

 アーチャーの宝剣は、ライダーの楯に傷一つ付けることができずに弾き返される。壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)を叩き込んだとしても、あの世界を揺るがすことすらもできまい。

 宝剣の包囲網が崩壊した。

 それが楯である以上、一方向からの攻撃を防ぐことしかできないのは他の楯と変わらない。しかし、包囲網に一つ穴が開けば、ライダーはそこから脱出することができる。

 もはや楯は必要ない。

 剣の壁は崩落し、アーチャーに向かって道は開かれた。

「終わりだ、アーチャー」

 そして、最速の英雄が、その脚力を遺憾なく発揮する。

 それは瞬間移動にも等しい奇跡。

 大気そのものを後方に置き去りにして、ただの一歩でライダーはアーチャーに肉薄する。

 最早回避は間に合わない。

 鉄壁の守りを見せた双剣も、撃ち出される槍を前にしては頼りない。神速の槍は、一直線にアーチャーの心臓を目掛けて突き進む。

「ガッ――――」

 遂に均衡は崩れ落ち、双剣使いの弓兵は血を吐いた。

 英雄殺しの槍は、アーチャーの胸を深々と貫き、滴り落ちる血が柄を伝って流れ落ちる。

“終わったな”

 “黒”のアーチャーには驚かされることが多かったが、それもここまでだ。

 最期の足掻きで槍の軌跡に剣を割り込ませ、全力で回避行動を取ったようだが、それも心臓から逸らすのが精一杯であった。ライダーの槍はアーチャーの右胸をしっかりと刺し貫いている。

 アーチャーの手から双剣が地に落ちて、霧散していく。

 後は止めを刺せば完全に終わりだ。

 ライダーは槍を引き抜こうとして、目を見張った。

 アーチャーが、自らを貫く槍を右手で握ったのである。血塗れた顔に、死相はなく、不敵な笑みが浮かんでいた。

「アーチャー……てめッ」

 何かある。

 この男には、何か思惑があるに違いない。ライダーは危機感と共に、距離を置こうとする。アーチャーを蹴飛ばして、槍を抜くと共に後方に跳躍すればいい。

 ライダーが強烈な蹴りをアーチャーに叩き込もうとするその一瞬前に、すでに準備を完了していたアーチャーが動いていた。

「令呪を以て我が身体に命ず――――」

 アーチャーの右手に隠された令呪が起動する。その強力な強制力が、対象となったアーチャーの身体を縛りつけ、生きている限りその命令を実行させようとする。

 右胸を貫かれ、満身創痍の状況で、アーチャーだけの力ではどうしても目的を達成できない。

 それを、令呪が強制的に実行させる。

「“赤”のライダーの踵を、穿て――――!」

 アーチャーの左手に、長柄の鎌が現れた。

 銘を『ハルペー』。

 不死殺しの神鎌は、ライダーよりも遙か前の時代で活躍した英雄が振るった高名な宝具である。

 出現した瞬間には、すでにライダーの踵に照準を合わせている。鎌という性質上、ライダーの背後から奇襲するという形を取ることができるというのも効果的である。

 正面から刃を突き込めば、たとえ令呪で縛っていたとしてもこの英雄は回避するなり防御するなりしてしまうだろう。

 だが、背後から踵を狙う鎌を、この一瞬で防ぐのはまず不可能である。

 ライダーはアーチャーを蹴り上げようと上げた足を、蹴りではなく回避に使用する。

 地を蹴り、身体を捻って己の弱所を鎌から守る。

 踵だけは、ライダーの不死性が機能せず、伝承をなぞるのであれば、間違いなく踵を穿てば不死の鎧を剥ぎ取ることができるはずであった。

 最速のサーヴァントたるライダーが全力で回避しようとすれば、大半の攻撃は空しく宙を切るだけで終わるだろう。

 しかし、今アーチャーはライダーの槍を掴み、令呪まで用いて奇襲している。

 アーチャーの肉体の限界を超えて、アーチャーの腕は勝手にライダーの踵を狙い撃つ。

「――――ぐッ」

「――――がッ」

 引き抜かれた槍が血の糸を引く。アーチャーは後ろ向きに倒れ、苦悶の声を上げる。 

 振るわれた鎌が鮮血を纏う。ライダーは空中でバランスを崩し、踵から走る激痛に顔を歪めて地に落ちた。

「が、――――ぐ、があああああああああッ!?」

 ライダーの全身が激痛に苛まれる。

 生肌を引き剥がされたかのような痛み。激烈な痛みが、脳を焼く。痛みが生前の記憶をフラッシュバックした。太陽神アポロンの加護を受けたパリスに踵を射抜かれ、心臓を撃たれて死したあのときとまったく同じ激痛であった。

「き、さま――――アーチャーあああああああああああッ!!」

 立ち上がるライダーは激高のままに槍を握り締めた。

 そんなライダーに対し、アーチャーは座り込んだまま弓に矢を番え、無造作に射放った。明らかに宝具ではないただの矢。踵を斬られる前のライダーならば避けることもなければ弾くこともなかったであろうそれを、ライダーは槍で打ち払った。

「やはり、踵に傷を負うと君の不死は解けるらしい。賭けに出た甲斐があったな」

 “赤”のライダー(アキレウス)は、踵を除いて不死身の英雄であった。しかし、そんな英雄が死したのは、踵を射抜かれた後で心臓を穿たれたことによるものであった。サーヴァントが自らの伝説をなぞる存在であるとするのなら、踵を射抜かれれば不死身の宝具を失うのも不思議ではない。

 アーチャーはやおら立ち上がり、双剣を構えた。この双剣でも、ライダーを傷付けることはできるようになった。

「さて、ライダー。この空間のすべてが君を傷付けうる刃となったわけだが、それでも挑むのかね?」

「たかが踵を斬ったくらいで図に乗るなよ、アーチャー」

 弱点を突かれ、弱体化したライダーであったが、それでも覇気は失われていなかった。

 足の速さもしばらくは三割ほどに抑え込まれた。だからどうした。もとより速すぎる英雄だったのだ。三割程度に減少したとはいっても、それでも高速移動が可能なレベルに留まっている。

 第一、速度が衰えたからといって、ライダー自身の技術が失われたわけではない。

 おまけに、アーチャーはすでに死に体だ。

 傷の度合いでいえば、踵を斬られただけのライダーに比べて、アーチャーは胸に穴が開いている。どこからどう見ても重傷なのだ。

 ライダーは臆せずアーチャーに接近する。射放たれた三矢を弾き、顔面を狙って槍を撃つ。アーチャーは咄嗟に顔を逸らしてこれを躱すも、頬から血が噴き出した。『干将・莫耶』で斬り合いを演じるが、アーチャー自身も動きが大幅に鈍っていた。

 息が詰まる。

 出血は止まることを知らず、息はすでに止まりつつあった。血の気はすでに引き、痛みを感じる力すらも残っていない。

 そんなアーチャーが生きていられるのは、偏にフィオレの令呪のおかげである。

 三つの奇跡は、アーチャーに擬似的な『戦闘続行』スキルを付与しており、霊核を潰されるなどの致命傷を受けなければ、瀕死の重傷でも戦い続けることができる。

 戦え、負けることは許さない。

 肉体に宿った強制力が、アーチャーに戦いを促し続ける。

 この固有結界はアーチャーの意思では解除できず、剣を握る手を止めることもできない。

 ライダーの槍がアーチャーの左二の腕を引き裂いて肩に抜けて行く。同時にアーチャーが突き込んだ剣がライダーの右肩に突き立つ。

「ご、おおおおおおおおおおおッ」

「あああああああああああああッ」

 そして、二騎はほぼ同時に蹴りを放って互いの胴を打つ。両者共に後方に飛ばされた。ダメージが多いのは、やはりアーチャーのほうか。筋力数値はもとよりライダーが有する高ランクの『勇猛』が格闘ダメージを向上させているからである。

 だが、吹っ飛びながらもアーチャーは剣を空に呼び出した。

 降り注ぐ剣群は対神宝具に留まらず、その場で瞬時に呼べるものを掻き集めたものであった。

「このッ」

 ライダーは細かく動き、槍を回して剣を払い、隙を見つけて大きく飛び退く。その直後、激しい爆発が生じ、ライダーの背中を爆風で押す。

「チィ、鬱陶しい!」

 ライダーは、流麗に槍を手繰り、アーチャーと向かい合う。無数の剣が叩きつけられ、その身に爆風を受けながらもライダーは倒れない。

 何とか踵を傷つけ、敵の不死性を破ったはいいものの、その命に手を伸ばすとなると今までの攻撃ではまったく以て力不足である。それは、アーチャー自身がよく理解している。

「この世界で君を倒せと、マスターからこっぴどく命じられていてな。例え君が大英雄であろうとも、この世界がある限り、私は負けんよ」

「この世界、な」

 固有結界は術者の心象世界が具現化する大魔術。

 アーチャーがライダーに喰らい付くことができたのは、偏にこの世界の特性によるものであるというのはライダー自身も分析済みであった。表と異なり瞬間的に、際限なく剣を用意できるという特性は、手数で速度を補う形でアーチャーを助けている。

 乗り越えられないというほどではないが、厄介なのは確かだ。

 ライダーの選択肢は三つある。

 一つ目は、このまま槍術で戦いを挑み、圧倒する。

 近接戦の技術も耐久力もライダーのほうが上であり、アーチャーは死に体となっている。これならば、押し切れる。

 二つ目は、戦車の宝具で叩き潰す。

 圧倒的な破壊力で以てアーチャーを抉り殺す。ただし、すでに戦車を牽引するのが神馬の二頭になっており、最高速度、最大威力は期待できない。小回りが利かないというリスクもあり、現実的ではない。

 三つ目は、最終宝具を解放する。

 この槍に隠された真の力を引き出し、アーチャーを倒す。

 大英雄ヘクトールを討ち果たした英雄殺しの槍は、一度解放すればアーチャーの世界を上書きし、あらゆる武具も宝具も機能しない真の意味で対等な空間が生成される。

 この忌々しい宝具(英雄たちの誇り)を平然と愚弄する世界を打ち壊すことで、アーチャーとの戦いに決着をつける。

「――――決めたぞ、アーチャー。貴様のこの大層な世界。そろそろ終いにしてもらおうか!」

 宣言と共に、ライダーが己が宝具()を地面に突き立てた。

 ライダーの最終宝具の効果を、アーチャーは解析によって理解していた。万全の状態で使われれば、まず間違いなく敗北する。

 しかし、同時にこのとき、アーチャーが死に物狂いで構築してきた勝利のための方程式が完成した。

「『宙駆ける(ディアトレコーン)――――」

後より出て先に断つ者(アンサラー)――――」

 ライダーが真名を紡ぐと同時に、アーチャーの背後に帯電した鉄球が浮かび上がる。迎撃のつもりか――――ライダーは構わず魔力を槍に注ぎ込み、最後の一節を解放する。

星の穂先(アステール・ロンケーイ)』!!」

 ライダーがアーチャーに先んじた。

 ライダーの『宙駆ける星の穂先(ディアトレコーン・アステール・ロンケーイ)』は槍として使う宝具ではない。固有結界に酷似した、両者平等な決闘場を生み出す大魔術である。一度発動したら最後、その空間で武器にできるのは己が肉体のみ。即ち、アーチャーの迎撃は何の意味も為さず、固有結界は書き換えられる。

「『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』!!」

 その発動にほんの一瞬、されど明らかに遅れてアーチャーの帯電した球が真の力を解き放つ。

 

 

 

 固有結界が崩壊する。

 灼熱した大地は色を失い、漆黒の空へと変わる。満天の輝く星々。

 世界の崩壊と共に、弓兵は先を進み、騎乗兵は失墜した。

 大理石の大地に、アーチャーは到達した。固有結界を解除する際に、多少は出現位置を調整できる。空中庭園の守りはすでになく、アーチャーが乗り込むのは難しくなかった。

 アーチャーにとって重要だったのは、タイミングであった。

 ライダーの『宙駆ける星の穂先(ディアトレコーン・アステール・ロンケーイ)』に飲み込まれれば、起動状態に入った『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』が打ち消される恐れがあった。決戦前のイメージトレーニングの最大の目的は、この最後の一手を絶妙なタイミング――――ライダーが真名を解放し、その能力がアーチャーに及ぶまでのほんの一瞬にカウンターを合わせられるようにすることであった。

 逆光剣とも称される『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』は、相手が切り札を使用したときのみ、発動順序を改竄する運命干渉系の宝具である。

 明らかに遅れて発動した宝具は、時間を遡りライダーが宝具を解放する寸前でその心臓を撃ち抜いた。倒れた者に切り札は使えない。結果としてライダーの槍の効果はキャンセルされ、ライダー自身も何が起こったのか理解できないまま、崩れ落ちたのであった。

 対ライダー戦の戦術は二つの段階に分かれていた。

 第一段階は、何としてでも踵を穿ち、不死の宝具を無力化すること。そして、第二段階が、ライダーに槍の宝具を使わせることであった。

 

 極めて危険な綱渡りをしてきたとしか言えない。

 仮に、第一段階が達成されていない状態のまま、ライダーが『宙駆ける星の穂先(ディアトレコーン・アステール・ロンケーイ)』を使っていたら、『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』は無効化されていただろう。踵を斬り裂くことができなかったら、そもそもアーチャーは敵の猛攻を凌ぎきれずにやがて討ち取られていたに違いない。そのほかにも様々な敗因が考えられる。アーチャーがライダーを倒すには、不死を打ち消した上での『斬り抉る戦神の剣(フラガラック)』以外になかった。

 傷ついていない部位がないというほどに、徹底して痛めつけられた。

 戦士として遙かに格上の敵を相手にするには、やはり宝具の存在は大きかったということであろう。まともに戦えば、万に一つも勝ち目がない。それほどの、強敵だったのである。

 吐血したアーチャーは近くの柱に手を付いた。倒れるわけにはいかない。これだけの重傷を負えば、サーヴァントとしては致命的だろう。霊核も無傷とはいえない状況であり、遠からず消滅する。だが、まだ消えるわけにはいかない。最後の命令をまだ遂行していないのだから。

 そのとき、血の気の引いたアーチャーの背筋に、追い討ちをかけるかのような悪寒が走り抜けた。身体が、勝手に横っ飛びをする。

「ぐ、があッ」

 背後から襲い掛かってきた何かが、アーチャーが直前までいた場所を通り過ぎていった。大理石の床は砕けて、石柱は木っ端微塵に飛び散った。

 衝撃で吹き飛ばされそうになったアーチャーは、歯を食い縛って敵を見た。

 空を駆ける一両の戦車が、神馬の嘶きと共に舞い上がっていた。

 手綱を持つのは、当然“赤”のライダーであった。

「舐めるな、アーチャー――――――――この、俺を、舐めるなああああああああああああッ!!」

 雲下に失墜したはずのライダーが、戦車を駆って舞い戻ってきたのである。

 馬鹿な、とアーチャーは目を剥いた。

 心臓を宝具で貫かれていながら、あそこまで激しい魔力消費が可能なのか。霊核はあらゆるサーヴァントにとっての急所であり、蘇生能力を持たない限りは修復することも困難な部位である。脳と心臓のどちらを破壊されても、サーヴァントは現界できずに消滅するのがルールだというのに、このサーヴァントはそのルールを覆そうとしているのか。

 そんなはずはない。

 世界の法則を意思一つで覆すことなどあってはならない。

 そこには何かしらの理屈がなければならない。

 そして、このライダーについていえば、きちんとした理屈が存在する。

“なるほど、『戦闘続行』のスキルか――――!”

 瀕死の重傷であっても戦い続ける往生際の悪さ。パリスに心臓を射抜かれながら、死ぬそのときまで戦い続け、数多くのトロイア兵を道連れにしたライダーは、このスキルをAランクという極めて高いランクで保持している。

 ただし、それは死を覆すスキルではない。

 死を緩慢にし、僅かな時間で敵を道連れにするためのスキルである。

 決して死なないというわけではなく、霊核を失った以上“赤”のライダーは消え去るしかない運命にある。だが、それでも尚、彼は戦うために死力を尽くしている。

 事前に一頭射殺しておいてよかった。

 戦車の速度が、従来のままであれば、弱りきったアーチャーでは一撃目で撥ねられていただろう。

 地面を転がって、戦車の突進を回避しつつアーチャーは弓を呼び出した。

I am the bone of my sword.(我が骨子は捻れ狂う)―――― 」

 捻じくれた宝剣を弓に番え、弓弦を引き絞る。切先から魔力風が吹き荒れて、

「ぶっ飛ばすぞ、『疾風怒濤の不死戦車(トロイアス・トラゴーイディア)』!!」

「捻り撃ち抜け、『偽・螺旋剣』(カラドボルグⅡ)!!」

 墜ちる彗星と伸び上がる虹がクロスする。

 炸裂する閃光は、月のない漆黒の夜空に巨大な星を生み出して、夜闇の中で眠りに就く下界にまで、地鳴りの如き爆音を轟かせた。


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