“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

47 / 52
四十七話

 車輪が砕け、傾いた戦車に背中を預けた“赤”のライダーは、最期の力を使い果たして消滅しかけていた。神馬も崩れ落ちて動きを止める。対峙した“黒”のアーチャーは、五メートルも離れていないところで倒れている。

 手応えからして、殺しきれたわけではないだろう。

 アーチャーの霊核にも少なからずダメージを与えていたが、こちらはアーチャーの宝具によって霊核そのものが砕かれた状態だった。宝具の全力解放をすれば、数分と持たずに消滅するのは分かりきっていた。それを意地を張って押し留めていたのだから、ここまで持ち堪えたことそのものが奇跡と言えよう。

“締まんねえ最期だぜ……”

 踵と心臓を穿たれて死ぬとは、生前とまったく同じ終わり方だ。馬鹿馬鹿しくて笑えてくる。とはいえ、世界の変革という巨大な夢に槍を預けることができたのは、面白かったと思うが。

 天草四郎の夢の正誤は、ライダーには分からない。

 恐らく、正しいと確信しているのは四郎だけだろう。これまで、数多の英雄を初めとする指導者たちが取り組み、挫折した人類の救済。確たる自分の意思でそれを成し遂げようとする小英雄。霊格でも実力でも遙かに劣る男であったが、彼が生きた十七年と七十年はライダーの生涯に倍する時間だ。それほどの時間をたった一つの壮大な夢にかけた男には、何か褒美がなければならない。

 四郎の在り方に感じ入るものがあったから、ライダーは槍を貸すことにした。

 四郎の夢が正しいかどうかは置いておく。命を奪って成り上がった英雄に、世界の平和を説く資格はもとよりなく、世界の在り方にも興味はない。けれど、心の底から世界平和を望み、誰も為し得なかった偉業に手を伸ばそうとする馬鹿な男に、少しだけライダー自身も夢を見た。

 英雄になるべくして生まれ、英雄として死ぬために駆け抜けた人生だった。

 四郎の夢は、そんなライダーの人生を根本から否定するものではあったが、それでも、あそこまでの信念を持って戦いに赴くというのは、紛れもない英雄の所業である。

 故に、夢の一翼を担えたことをライダーは後悔していない。むしろ、清清しいまでに爽快だった。いけ好かない女帝の意外な一面も見れたことだし、悪くはなかった。

 彼の夢が叶うとすると、自分も不老不死の肉体を得て、英雄ではないただの人間としてケイローンと共に山野を駆け回っているのだろうか。それとも、逢うことの叶わなかったヘラクレスと力比べができるのだろうか。あるいは、武芸を離れ、両親と共に生きるということもありえるか――――。

 埒のないことを思い浮かべたライダーは、なるようになるかと思考を放棄した。

 ともあれ、自分はここでリタイアだ。

 どうやら、アキレウスという英雄は、物語の最後には付き合えない運命にあるらしい。

 せめて、どのような結末に至るのか、それだけは見ておきたかったが――――。

 小さく自嘲気味に笑みを浮かべて、大英雄は逝った。

 主を失った神馬と戦車が、主人の後を追うように消えていく。

 風に流れて、輝く魂は夜の闇に溶けていった。

 

 

 

 □

 

 

 

 手足が痺れる感覚。

 視界が歪み、呼吸ができず、肌が焼かれるような痛みを感じる。

「クソ、毒かッ」

 “赤”のセイバーは、危険を感じて咄嗟に兜を取り出し、顔を覆った。対毒性能は持たないものの、この兜そのものが宝具である。防具は外敵から身を守るもの。その在り方がある限り、毒をそのまま通すことはない。

「ほう、それならば多少は持つな。さて、どれくらい踊り続けることができるかな」

 クスクスと“赤”のアサシンが笑うのが聞こえる。

 ――――腹立たしい。

 召喚された鎌の海を剣と赤雷で粉砕し、“赤”のアサシンに突貫する。

 全身を鎧で固めたセイバーの突進は、進路上のすべてを粉砕する。剣で斬る必要もなく、体当たりで“赤”のアサシンの身体を砕くこともできるだろう。

「フン、そよ風のようだぞ」

 ほくそ笑んだ“赤”のアサシンが、指を宙に走らせる。

 真っ黒な球が召喚され、その中から神魚が躍り出た。ウツボのような姿をした巨大な魔獣である。大きな顎でセイバーを噛み砕こうとする。

「こ、な、くっそおおおおおおおお!」

 セイバーは、さらに魔力を炸裂させる。後方に噴き出した魔力はまさしくジェット噴射。雷光を纏うセイバーは、臆することなく魔獣の口内に猛然とタックルする。硬質な歯が砕け、上顎が内側から砕かれる。

「魚如きがデカイ顔曝してんじゃねえ」

 セイバーはドリルのようにウツボの頭を掘り進む。魚の声なき絶叫は、頭蓋を木っ端微塵に砕くことで封殺する。

 しかし、それまでだ。

 外に飛び出た瞬間に、セイバーは弾き飛ばされた。

 真横から跳んできた鉄球が、セイバーの小さな身体をゴム鞠のように撥ね飛ばしたのである。

「ぐ、があッ」

 バウンドして地面を転がるセイバーは、即座に立ち上がろうとして両腕に力を加える。

「が――――ッ?」

 身体を起こそうとしたセイバーは、がくりとその場に倒れ伏した。

 両腕がブルブルと震えて力が入らない。

「どうした、セイバー。動けないか? 動けないだろうなぁ。そういう毒を使ったのだからな」

 ねっとりとした声がセイバーの耳に届く。が、反論することもできない。忌々しいことに、舌も痺れて発声できないのである。

「世の中には様々な毒がある。我はな、この王の間においてのみだが、ありとあらゆる毒を生成できるし、ありとあらゆる毒に対して耐性を有する。それが、我が宝具『驕慢王の美酒(シクラ・ウシュム)』の能力だ。どうだ、セイバー。如何なる英雄であろうとも、毒を前にしては手も足も出まい」

 戦場にあって無双を誇る大英雄ですら、毒に倒れて死んだ。

 絶対の強者などこの世には存在しない。何かしらの理由で必ず死ぬ。故に英霊なのだ。英雄の死因は様々だが、“赤”のセイバーのように戦場で果てない限りは大概が病死か暗殺だ。そして、暗殺には毒が付き物である。

「どうして我が戦場を駆ける騎士どもと同じ舞台で戦うと思った? 愚かよ、セイバー。実に愚かだ。増えることにも使えぬメスは、そのまま苦悶のままに果てるがいい」

 セイバーに盛った毒は麻痺毒。次は、激痛を与える毒にしてみようか。セイバーの前に“黒”のアサシンに止めを刺すのが先か。

 少し考えてから、“赤”のアサシンは“黒”のアサシンを捨て置くことにした。いつでも殺せるが、脅威の度合いとしては極めて低い。毒素の充満したこの空間にあっては、“赤”のアサシンがわざわざ手を下すまでもなく死に至る。

 自分はただ苦しみ、死んでいく敵を高みから眺めていよう。

 絶対の強者は地を這う弱者を玩ぶ権利を有する。男も女も関わりなく、英雄豪傑も女帝の前に膝を屈するのが当然なのだ。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 “赤”のセイバーが敵の術中に嵌ってからも、しばらく活動できたことは獅子劫も把握している。

 戦況は極めて劣勢。

 王の間にはセイバーのほかにも“黒”のアサシンがいるが、とても戦力として数えられるほどではない。突入時に遠目で確認したが、あの時点で戦う力を喪失していたのは間違いない。つまり、“黒”のアサシンに助けを請うことは不可能だし、利用することもできない。

 三画あった令呪は二画に減った。 

 令呪を使用して、セイバーに撤退を命じたのである。

 ところが、結果は散々だった。令呪が失われただけで、セイバーは依然としてこの壁の向こうに取り残されている。

「ここで令呪封じとか、クッソ」

 獅子劫は苛立ちを露にして壁を殴りつけた。

 “赤”のアサシンが令呪による転移を封殺したのである。神代の大魔術師である“赤”のアサシンが令呪に干渉できる可能性は以前から指摘されていたことであったが、実際にされるとなると驚愕せざるを得ない。

 令呪の存在は聖杯戦争に参加したマスターにとっては切り札であり、サーヴァントを統べるために必要不可欠なものである。

 サーヴァントが令呪システムに干渉するとなると、聖杯戦争の根本が崩壊する。

 そもそも楔としての令呪は、“赤”のアサシンのような従えるには危険なサーヴァントを統べるために用意されたものだというのに、それがサーヴァントの意思一つで支配されるとなるとマスターは常に身の危険にさらされることになる。

 おまけに、今回“赤”のアサシンが干渉したのは敵対する獅子劫の令呪だ。

 反則にも程がある。

“どうすりゃいい――――!”

 焦るなと自分に言い聞かせても、無理というものだ。セイバーはすでに動けず、視界を共有しても真っ暗なままで内部の様子が分からない。セイバーが視力を失っているか、目を瞑っているかのどちらかだ。

『おい、セイバー聞こえるか!?』

 答えはない。

 答えはないが、繋がっているという確信はある。魔力はきちんとセイバーに供給されていて、彼女の存命を伝えている。

『答えろよ、セイバー!』

『……うっせー。耳元で叫ぶな!』

 怒鳴り声に怒声で返答があった。思っていたよりも元気があって、少しだけ安心する。だが、このまま放置すれば、セイバーは死ぬ。今元気かどうかは、この先の展開には何の楽観的要素にならない。

『マスター、何とかしろ』

『何とかするつっても、こっちにゃ状況が分からん。分かる範囲で説明しろ』

 お互いに言っていることが無茶だということは理解できている。

 “赤”のセイバーは、ただの魔術師である獅子劫がこの状況を何とかできるとは思っておらず、獅子劫も毒に苛まれているセイバーに詳細な説明は難しいと考えていた。

 しかし、会話することによってセイバーの意識を繋ぎとめることはできるはずだ。『戦闘続行』スキルを有する彼女は、そう簡単に死ぬことはない。猶予はないが、完全に詰んでいるわけではない。

『あのクソババア、玉座で踏ん反り返りやがって。この、チクショウが。うぜえ、チョーうぜえッ』

『うぜえのは分かるが、お前、見えてるのか?』

『辛うじてな。目ぇ瞑ってんだよ。魔術の発動の気配くらいは感覚で分かるしな』

『そうかい。それを聞いて安心したぜ』

 セイバーは起死回生の一撃のために、視力を失わないようにしている。毒の性質は分からないが目に入れば視力を失うような劇薬など自然界にも存在するようなありふれた物だ。

 問題なのは、セイバーは麻痺毒を受けて身体が動かないということである。一撃入れようにも、そんな状態では宝具すらまともに使えない。

 ではどうするか。

 獅子劫が生き残るためには、この空中庭園から脱出しなければならないが、そのためにはセイバーが必要だ。だが、セイバーを連れ出そうにも令呪は封じられている。打つ手がない。打つ手がなければ、命を賭して足掻くしかない。

『セイバー。アサシンは生きてるか?』

『どっちのだ?』

『“黒”』

『ああ“黒”な……』

 数秒してからセイバーは答えた。

『死にかけだが?』

『生きてるなら、逆転の目はある』

 サーヴァントが二騎いる。セイバーは近接戦を主体にするサーヴァントだから、麻痺してしまえば無力化されるが、“黒”のアサシンは違う。彼女の宝具は呪詛である。つまり、身体が動くか否かは関係がない。

『セイバー。お前、できる範囲で女帝様を見張れ』

 そう命じてから、獅子劫はセイバーの念話のラインにさらに“黒”のアサシンのラインを繋いだ。

『“黒”のアサシン。起きてるか? しゃべれるか? ダメでも返事はしろよ、呻き声でもいいからな!』

 これは賭けだ。

 ここで、“黒”のアサシンの意識がなければ、それで終わる。手も足も出ず、女帝になぶり殺しにされる。だが、女帝の毒は、敵対者に苦しみを与える類の代物だ。意識を失うことを許さず苦しませて殺す。悪辣で陰湿な毒物だが、“黒”のアサシンが完全に死んでいないのなら、まだ可能性が残っているということでもあった。

 何度か呼びかけると、かすかに答える声が聞こえた。

『“黒”のアサシン。お前の宝具を使ってもらうぞ』

 

 

 全身を走る激痛に、思考そのものが失われつつあった。

 “黒”のアサシンは喉が焼け、皮膚が爛れて悶絶し、涙を流してただ死を待っていた。

 “赤”のアサシンは容易い死を許さない。毒は確かに“黒”のアサシンを蝕んでいるが、放っておいても死ぬからと、トドメを刺されずに苦しむ様を観賞されている。

 痛すぎて、何が起こっているのかも分からない。

 マスター(お母さん)に助けを求めても、答える声はない。見捨てられたのか、と一瞬絶望したが、そんなはずはないと否定する。空中庭園が遠すぎて、玲霞との間に念話が通じていないのだ。玲霞は“黒”のアサシンの状態を理解できず、ただその帰りを待っている。

 “赤”のセイバーのマスターが念話を繋いできたのはそんなときであった。自分の宝具を使えと、“赤”のセイバーのマスターは言う。さらに、男は続けた。

『お前、このまま殺されていいのか?』

 一度しか会ったことはないが、ふてぶてしい魔術師だと思った。彼の言葉はそんな“黒”のアサシンの感想を裏付けるものであった。

『……な、に』

 頭が割れるような痛みを堪えて微かな返事をする。

『このままじゃ死ぬぞ』

 優しい言葉をかけてくれる母はおらず、そこにいるのは厳然たる事実を告げる魔術師である。

『何も遺せず、死ぬ』

 獅子劫に言われて、“黒”のアサシンは恐怖に震えた。

 “黒”のアサシンはすでに二度の死を経験している。生まれることすら許されずに破棄された命の集合体。それが、ジャック・ザ・リッパーの正体であった。

 反英霊となる以前はただの数千数万の胎児の怨霊であった。凶行の末に名もなき魔術師によって討伐されたが、彼女が繰り広げた凶行は歴史的なミステリーとして語り継がれ、現在に至る。

 胎児としての死、怨霊としての死、どちらも最悪の経験だった。自分が消える感覚。この世に何も刻み込めず、消滅する恐怖は絶対に味わいたくない。

『いや、だぁ……』

 “黒”のアサシンは呻いた。恐怖が痛みを凌駕する。彼女は英雄ではない。ただの怨霊で子どもだ。だからこそ、痛みからも恐怖からも逃げようとする。立ち向かうという感覚はもともとなく、安全圏を捜し求める。それがだめならどうするか。自らを害する者に対して、復讐しようと怨嗟の念を募らせる。何も遺せず死ぬなど真っ平だ。自分を殺そうとする者は、何であれ殺害する。

『死にたくない……!』

 “赤”のアサシンを殺す。

 何をしてでも殺害する。

 聖杯に辿り着き、マスター(お母さん)の下に帰還するために。

『よし、言ったな。なら、お前の宝具をあの女帝さんに食らわせてやるんだ。隙は、俺たちで作る。外すなよ』

 いいだろう、と“黒”のアサシンはどろりとした感情を募らせた。

 “赤”のセイバーとそのマスターがどのような方法で隙を作るのかは分からない。けれど、一度宝具を使えれば殺せる。相手は女で今は夜。条件を満たすには、あと霧が必要だが、自分で生成できる上に発動に時間はかからない。

 

 

 

 女帝は蛇のような視線で毒の世界を睥睨した。

 王の間を支配する絶対的存在である“赤”のアサシンは、この部屋に存在する限り無敵だ。ここは王が世界を見下ろす場であり、有象無象を処分する処刑場であり、そして娯楽のための鳥かごでもあった。

 気に喰わないのは“赤”のセイバーがまったく屈服する様子を見せず、懸命に立ち上がろうともがいていることだ。“黒”のアサシンは毒によって死に瀕しており、あと数分で消滅するだろう。

 やはりあの兜が邪魔だ。

 生かさず殺さず、しかし悶絶させるためには、兜を取り除く必要があろう。

 最強クラスの毒をぶち込むという手もあるが、自分の手をここまで煩わせた敵に恩情をかけてやるほど“赤”のアサシンは優しくはない。

 動くこともままならず、剣を振るう力もない“赤”のセイバーなど恐るるに足らない羽虫でしかないが、それでも反逆の騎士という呼び名が示す通り、あの英雄は逆境に強い。追い込まれた鼠は猫を噛むという。決して近付かず、隙を見せず、しかし堂々と女帝たる威を示してセイバーを魔術で強かに撃つ。

 兜が壊れればそれでよし。壊れなくとも、無様に地面を転げまわる様を見るだけで嗜虐心が充足されるので、それもよし。

 “赤”のアサシンが負ける道理はない。

 ほぼ、勝利が確定したと思ったその瞬間、唐突に出入り口を塞いでいた石壁が爆発して砕け散った。

「何……?」

 魔術の発動は感知できなかった。となれば、現代兵器の類であろう。

「セイバーのマスターか」

「どーも、女帝さん」

 愚かにも毒の空間に足を踏み入れてきた“赤”のセイバーのマスターは、顔をジャケットで覆い、対毒礼装を一気に発動させた。

 獅子劫のジャケットは、魔獣から引き剥がした革で造り上げたものだ。外部からの魔術的干渉、概念攻撃に対して耐性を持つ。さらに、時計塔からヒュドラの幼体を手に入れていたことで、万が一に備えて対毒礼装を装備していた。

 可能な限りの毒への耐性を身に纏い、踏み込んだ獅子劫はショットガンの引き金を徐に引いた。銃口は滑らかに“赤”のアサシンへ向けられ、火を吹く。射出されたのは魔術師の指で作った指向性のある呪弾である。たとえ、実体化していても霊体にカテゴライズされるサーヴァントに通常の兵器は通じないものの、魔力が込められたものならその常識には囚われない。まして、対魔術師用の呪いが篭った弾丸は、当たりさえすればサーヴァントにも効果がある。

 しかし、そんなものを正面から撃たれて直撃するようならサーヴァントなどできはしない。 

 獅子劫の銃弾を、“赤”のアサシンは動くことなく指一つで魔術を操り防いでしまう。撃ち尽くしたショットガンを捨て、獅子劫はしなびた心臓を投じる。呪いの爆弾は、“赤”のアサシンの正面で爆発する。

「鬱陶しいな、魔術師」

 “赤”のアサシンに傷はなく、ただ無駄な抵抗をされたことが不快だと雷撃を獅子劫に向ける。

「よし、行けッ、セイバーッ!!」

 “赤”のアサシンの注意が獅子劫に向いたその時、倒れ伏した“赤”のセイバーが吼えた。出ないはずの声を出し、魔力のジェット噴射で女帝に対して猛然とタックルする。

 まだ動けたことには驚いたが、それも無意味だ。

 動かない身体を『魔力放出』で弾丸のように飛ばしただけである。放たれた弾丸は、途中で進路を変えることもできず失墜するのが関の山であった。

 それを、マスターが覆す。

「セイバー。宝具を開帳しろッ」

 獅子劫の手から令呪が消える。

 封殺されたはずの令呪。しかし、今度は明確にセイバーの身体に令呪の魔力が纏わりついた。やはり、と獅子劫はほくそ笑む。“赤”のアサシンにできたのは令呪そのものへの干渉ではなく令呪によって編み上げられる空間転移の術式だ。令呪は魔力の塊であってそれ以上のものではなく、転移などの命令にはそれぞれ独自に術式を編み上げることで奇跡を為す。故に、宝具をブーストする際の術式と転移の術式は別物であり、逃げられないように転移を封じても、別の命令を打ち消すものにはならない。

我が麗しき父への叛逆(クラレント・ブラッドアーサー)!!」

 痺れた身体を動かして、セイバーが邪剣を振り下ろす。

 赤雷の収束エネルギーが、容赦なく女帝に向かって駆け抜ける。

 逃げるには一瞬遅い。

「みずの、おう」

 “赤”のアサシンが、自身の持つ防御手段の中で最強の守りを展開する。

 現れたのは澄んだ水のような美しさを湛えた一枚の巨大な鱗。神代の海を泳いだ海棲生物の鱗であり、その防御力は神々の楯に比肩する。

 絶望を謳う邪剣の一閃は、“赤”のアサシンの大楯と鎬を削る。轟音を立てて、青と赤が互いを塗り替えようと喰らい合う。

「どこまでも目障りな、“赤”のセイバー――――。無益な抵抗だ。そのような中途半端な宝具で、我の楯は越えられぬぞ!」 

 本来、“赤”のセイバーの宝具は“赤”のアサシンが正面から受け止めるには威力が高すぎる。この大楯でも防ぎきるのは不可能であろう。しかし、弱りきったセイバーは話が違う。空中での振り抜きという枷もあって、令呪の補佐を受けていても万全の宝具解放には及んでいない。

 “赤”のアサシンはそう判断し、セイバーの宝具に対して余裕を持って対処する。

「ハッ。……そいつは、どうかな」

 兜の奥で、“赤”のセイバーが獰猛に笑った。

 今、王の間を満たすのは眩いばかりの赤と青。そこに、濁りきった黄色が混じる。

「何……」

 この異変を、“赤”のアサシンは即座に察した。察して、しかし手出しができない。完全に墜ちていると判断した“黒”のアサシンが、ここに来て手を伸ばしてくるということが想像の範囲外だったからである。

「“黒”のアサシン――――貴様ッ」

「バイバイ、――――『聖母解体(マリア・ザ・リッパー)』」

 そして、すべての条件を揃えた最大威力の必殺宝具が発動した。

 ありとあらゆる女を問答無用で殺害する呪詛が“赤”のアサシンの身体を捉え、その腹部に手を伸ばす。

 

 

 

 □

 

 

 

「ガハッ、うぐ、へはぁッ!」

 “赤”のセイバーは兜を外して大きく深呼吸した。

 王の間に充満していた毒素は完全に消失した。宝具によって生み出された毒は、極めて凶悪な代物ではあったが魔力に依存する概念上の毒であるために残留性が低い。“赤”のアサシンからの魔力供給を失った以上、消滅するのは当たり前であった。

「セイバー。大丈夫か?」

「ああ、なんとかな。クソッタレ、あのカメムシが、マジで死ぬかと思ったぞ」

 大の字になって寝転ぶセイバーの顔は焼け爛れていて見るも無残と言った有様だった。しかし、それも治癒魔術で修復できるものである。霊体であるセイバーは毒が消えれば肉体の異常も時間と共に消えるだろう。短時間ではあるが、毒に触れた獅子劫のほうが命を削っている。

「仕留めたと思うか?」

「いいや、ダメだろ。崩壊の兆しもねえからな」

 獅子劫の問いをセイバーは無情にも否定する。

 “赤”のアサシンは“黒”のアサシンの宝具を受けて怪我をしたのは間違いない。だが、必殺を誇るはずの宝具はなぜか必殺には届かず傷を負いながらも“赤”のアサシンは転移の術を使って王の間から脱出した。

「マスターは大丈夫かよ」

「大丈夫かどうかっていえば、大丈夫じゃねえな。けど、怪我の具合はどっこいどっこいだろ。俺は、見ての通り身体は動く」

 対毒礼装を合わせても“赤”のアサシンの毒は強かった。肉を持つ獅子劫は一度毒に蝕まれれば、その毒がなくなっても侵された臓器の機能が戻るわけではない。死に至るほどではないが、まともに動かせば危険というほどには侵食されていた。

 治癒術も万能ではない以上は、この毒に蝕まれた部位を完璧に治すには時間を要することになる。

 それから、獅子劫はうつ伏せで倒れる“黒”のアサシンの下に歩み寄った。

 “黒”のアサシンは、最期の意地を貫いて力尽きたのかすでに下半身が消えかけていた。

「“黒”のアサシン。お前のおかげで、こっちは命拾いしたぜ。感謝してる」

 “黒”のアサシンは答えない。もう、ほとんど死んでいるのだから無理もない。今は身体に残った魔力だけで存在を維持している状況であった。

「最後に、お前さんのマスターに念話を繋いでおいた。魔力供給のパスが別だったんで、ちっと手間取ったが、何か言い残したいことがあるんなら、残しとけ」

 念話は魔術師にとっては基本的なスキルである。他者の念話に介入するのは電話を傍受するようなもので中々難しいのだが、“黒”のアサシンのマスターは魔術師ではない。こちらから一方的に術をかけることは可能であった。その際、目の前にいないというのが問題だったが、それもパスを通して逆探知することで何とか繋ぐことができた。数分もかからずにこのような離れ業を成し遂げたのは、戦場を渡ってきた獅子劫が何よりも情報を重視していたからである。

「じゃあな、“黒”のアサシン。俺たちは先に行ってるぞ」

 そう言って、獅子劫は鎧を解除した“赤”のセイバーを背負って王の間をゆっくりと降りていく。向かう先には聖杯がある。そして、そこでは生き残ったサーヴァントによる最後の戦いが行われているはずであった。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 “黒”のアサシンの視界はすでに失われ、真っ暗に染まった。

 墜ちていく、どこまでも。

 深い闇の中に取り込まれ、永遠に抜け出せない。

 嫌だなぁと、漠然と思った。“赤”のアサシンに一矢報いたものの、自己の崩壊は止められない。“黒”のアサシンの戦いはここで終わった。

「お帰り、ジャック」

 意識が完全に消えてなくなるその瞬間、優しいマスター()の声が聞こえた。死に際の走馬灯か幻聴か、何でもいいが、アサシンはそれだけで泣きそうになった。

「よく、頑張ったわ、ね……!」

 不思議だ。

 死ぬのは冷たい世界に放り出されることだと知っていたのに、どうしてこんなに温かいのだろう。

 優しく髪を梳くように撫でられているのが分かる。

 この香りも、この温もりもすべて知っている。

()マスター(お母さん)……?」

「なに、ジャック」

 恐る恐る問いかけると、当たり前のように返事があった。目は見えず、表情は窺えないが、それでも自分が母の傍にいるのが実感できた。如何なる奇跡か分からないが、アサシンは今空中庭園を離れて母親の膝の上に頭を乗せているのである。

 それだけで、すべてがどうでもよくなった。

「頑張ったわね。すごいわ、ジャック」

 誉められた。

 それだけで、心が満たされてはち切れそうになった。

 痛みではなく、幸福感に包まれる。胸が苦しくなって涙が溢れた。

「疲れたでしょう。少し、休もうか」

「うん。ちょっと、疲れた、かな」

 急速に襲い掛かってくる眠気にアサシンは身を委ねる。母が近くで見守ってくれる。それだけで、アサシンは幸せだった。夢は志半ばで届かなかったけれど、欲しかったものは手に入ったから。

マスター(お母さん)

「なぁに、ジャック」

「起きたら……」

 起きたら、何をしようか。

 魔力供給は安定しているから人を殺す必要はない。だったら、もっといろいろな経験がしてみたい。遊びや食事、やりたいことは一杯あった。ああ、どうしよう。眠る前に伝えないと、突然言われてもマスター(お母さん)は準備できないかもしれないから。

「目が醒めたら、また、ピアノが聴きたいな……」

 墜ちる寸前に思い浮かんだのは、ある魔術師の家にあったピアノを玲霞に弾いてもらったときの記憶であった。

 あのときは、途中で演奏を切り上げて塒に戻ったのだった。聞いたことのない曲だったが、とても優しくて安らいだ気持ちになった。

 そう、だから戦いの後にはマスター(お母さん)の弾くピアノを聴いてみたい――――。

 そして、アサシンは静かに息を引き取った。三度目になる命の終わりを、彼女は夢見心地の中で受け入れた。魔力は散って、彼女がいたという痕跡は何一つ残らなかった。

 空港の待合室でただ一人、愛する娘の最期を看取った玲霞の心に去来したのは、ただただ大きな虚無であった。心に大きな穴が開いたような気持ちになり、頭の中が真白になった。

「ごめんなさい、ジャック……本当に、本当に、ごめんなさい……」

 ぎゅっと握り締めた手の甲に、水滴が零れ落ちた。

 自分がもっとしっかりとしていれば、せめて魔術師であったなら、彼女を救えたのではないか。もしも、彼女と出会っていたのが自分ではなく、正規のマスターであったならこんな形で死を迎えなくても済んだのではないか。

 膝の上で感じた重さはすでにない。覚悟していたなどまったくの嘘だった。悲しいなどという言葉では語れない感情の波が玲霞の心を蹂躙する。

 こんなに胸が苦しくなるのは、いったい何年ぶりのことだろうか。

 だが、どれだけ泣いても意味がない。生者は死者を思い涙することしかできない。

 最後の令呪は消滅し、六導玲霞の聖杯大戦はここに終結した。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。