“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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五十一話

 四郎が敗れ、“赤”の陣営はここに倒れた。

 激闘を繰り広げたアーチャーは、膝をつき、幾度目かの血を吐いた。この日だけで、一生分の血を流したに違いない。令呪の補強もない今、消えるのも時間の問題だろう。

「アーチャー!」

 一番初めにレティシアを抱いたままフィオレが駆けつけてきた。

「アーチャー、怪我を。……すぐに治療します」

 そう言ってフィオレはアーチャーに治癒魔術をかける。聖杯大戦は終わり、誰一人として勝者にはなれなかった。アーチャーも直に消えるとなれば、フィオレの治癒魔術に意味はない。

 しかし、それを分かっていてフィオレは治癒魔術をかけようとしたし、アーチャーも甘んじて受け入れる。

「全員ボロボロだな」

 そこにやってきたのは獅子劫であった。

 彼自身、“赤”のアサシンの毒を僅かなりとも受けてしまっていて、火傷のような傷を全身に負っている。カウレスも自分の力の限界を超えた宝具の使用で激しく消耗していて、両腕は筋肉の断裂や皮膚からの激しい出血などの怪我をしている。

 怪我らしい怪我をしていないのは、直接戦闘に参加しなかったフィオレとレティシアだけであった。

「なあ、アーチャー。その剣」

 “赤”のセイバーは、獅子劫に背負われたまま、アーチャーが持つ聖剣を指差した。

「紛い物だぞ」

「知ってる。でもよ、ちょっと持たせてくれ」

 アーチャーにとって重要な意味を持つ『勝利すべき黄金の剣(カリバーン)』であるが、この剣はセイバーにとっても大きな意味を持つ聖剣である。

 彼女が興味を示すのは当然であった。

 アーチャーから剣を受け取ったセイバーは獅子劫の背中に張り付きながら器用に剣の調子を確かめるように柄を握り直し、それからアーチャーに返却した。

「いいのか?」

「ああ。何か、もういい――――。分かったよ」

 セイバーは、それから獅子劫の背中で丸くなった。彼女なりに、何か思うところがあったのであろう。

「コイツ、どうすんだ?」

 獅子劫が大聖杯を見上げて尋ねてきた。

「止めなければなるまい」

 四郎が倒れても、大聖杯は停止していない。確かな鼓動を刻み、膨大な魔力で世界中の人間を不老不死にするために動き出す。すでに、その活動は始まりつつあった。不幸中の幸いだったのは、ルーラーの攻撃によって大聖杯の八割が損壊していたことと、四郎が戦闘にいくらかの魔力を流用したことで、完全な起動に多少の時間を要するということであった。

「しかし、止めるといっても、どのようにして……?」

 大聖杯は魔術の塊なので、正規の手段で停止させようとするのならシステムに干渉する必要がある。しかし、神代の魔術に匹敵する高度な術式で組み上げられた大聖杯にさらに四郎が改良を施したこれは、現存する魔術師の手におえる代物ではない。

「私が残るしかあるまい」

「そんな、アーチャー!」

 フィオレが悲鳴にも似た声を上げた。

「この中でこの聖杯を術式ごと破壊できるのは私くらいのものだ。ライダーはフィオレたちの脱出に必要だし、セイバーは宝具の振り抜きができる身体ではないからな」

「ッ――――」

 フィオレは息を呑み、唇を噛み締めた。

 彼の言うとおりだ。

 フィオレとカウレス、そしてレティシアの三名がこの空中庭園から無事に脱出するにはライダーのヒポグリフに乗っていく必要がある。そして、“赤”のセイバーは限界に達して宝具が使えるような状態ではない。となれば、魔術を破戒する力のある短剣を有するアーチャーが、聖杯を根本から打ち壊すより他にない。

 選択の余地が、そもそもないのである。

「冬木の聖杯を破壊するのは、私の得意分野だ。ここはプロに任せて、君たちは早々に撤退するべきだな」

 相変わらずの皮肉気な笑みを浮かべて、アーチャーは言い切った。

「そんじゃ、俺たちはここで退散させてもらうぜ。じゃあな、フォルヴェッジ姉弟」

 獅子劫はセイバーを背負ったまま一目散に去っていった。“赤”のアサシンが滅びた以上、空中庭園の内部にあったトラップはすべて解除されている。空間拡張も消滅したために、脱出ルートは比較的短いはずであった。

 アーチャーは弓を取り出し、捻れた剣を番えた。

「『――――偽・螺旋剣(カラドボルグⅡ)』」

 ただの石材と化した空中庭園を、アーチャーの宝具が真っ直ぐに貫いていく。完成したのは、ヒポグリフ一頭が辛うじて通れる程度のトンネルであった。

「君たちも、早く行け。この空中庭園は、もう保たないだろう」

 地鳴りのような音が響き渡った。落ちる天井、裂ける床石。アーチャーがせっかく造ったトンネルも、下手をすればすぐに崩落するかもしれない。

「アーチャー。あなたは、……あなたは、これでよかったのですか?」

 フィオレはおずおずとアーチャーに尋ねた。

 正義の味方として名も知らぬ誰かのために戦った名もなき英雄。この戦いが終われば、きっとアーチャーは守護者の任に戻るであろう。

「気にすることはない、フィオレ。私は私で、天草四郎の望みに思うところはあったが、それは自分の望みと在り方を考える機会に恵まれたと捉えている。そして、私は自分なりに考えた上で剣を執った。故に、心残りは存在しない。後は、君たちが無事に帰還できればそれでいい」

 真摯な態度で、アーチャーはフィオレに言い聞かせるように言った。

 ライダーがヒポグリフに飛び乗り、カウレスがレティシアを抱えてそれに続いた。

「頼むぞ、ライダー」

「ああ。アーチャー、必ず送り届ける。任せとけ」

 ライダーが笑って言った。どこか、無理をしているようなそんな笑みであった。

 最後にフィオレがヒポグリフの背に乗った。明らかに定員はオーバーしている。ヒポグリフの負担を考えて、フィオレは、しかたなく自らの礼装をここに置いていくことにした。

「これからの君には、その礼装は必要ないからな」

 フィオレは魔術師を辞め、一般人として新たな世界で生きていく。血生臭い戦いの日々はここに終わり、彼女は太陽の下でその生を全うするだろう。

「これで、終わりなんですね」

 礼装を外して地面に落とす。身体にかかっていた重圧がなくなり、フィオレは纏わりついていた何かから解放されたかのような気持ちになった。家の歴史、魔術師としての未来、他者の期待、そういったしがらみをフィオレは脱ぎ捨てたのである。

「魔術師としてのフィオレはここで死んだ。もう二度と命を懸けるような事態にはならんだろう。――――だがな、フィオレ。君自身の戦いはここから始まるということを忘れないでほしい。君の未来に大いなる祝福があることを祈っている」

 胸が苦しく、張り裂けそうに痛い。

 ここで、ヒポグリフが走り出せば、もうアーチャーと言葉を交わす機会は二度とやってこないだろう。命を賭けて自分との約束を果たしてくれた戦友に、言葉をかけようとして何を言えばいいのか分からない。何か言わなければならないと思いながらも、ここに来てまったく言葉が出てこなかった。

「アーチャー。わたしからも、何か気の利いたことが言えればよかったのですが……すいません。本当に……」

 大事なところで泣いてしまって、フィオレは言葉を紡げない自分を恥ずかしく思った。視界は涙で一杯になり、アーチャーの顔をまともに見ることができない。

 そんなフィオレに、困ったように笑みを浮かべたアーチャーは、 

「そうだな――――それなら、私からの頼みを聞いてもらえないだろうか」

 と、フィオレに言った。

 

 

 アーチャーの願いを聞き届けたフィオレは、目尻に涙を溜めて頷いた。

 フィオレにできることであり、彼女にとっても必要なことであった。悲しいが、アーチャーとの約束を果たさなければ、フィオレは前に進んだことにはならない。

「準備オーケー。マスター振り落とされないように注意してね!」

 意識のないレティシアや両手が傷ついたカウレス、そして両足が不自由なフィオレと背中に乗せるには不安な面々が揃っている。ライダーは、彼らを紐で繋ぎ、ヒポグリフの背中で安定するように工夫したのである。

「令呪を以て告げる。ライダー、俺たちを連れて全力で離脱しろ」

 カウレスの令呪がライダーとヒポグリフの身体に纏わり付いた。

 ヒポグリフの怪我やライダーの状態を考えて、念のために補強する。高高度で力尽きられても困るから必要不可欠な補強であった。

「じゃあな、アーチャー。世界のどこかで、また会おう!」

 ライダーがアーチャーに別れを告げ、カウレスが軽く手を振った。ヒポグリフは一声大きく嘶いて、アーチャーが生み出したトンネルに勢いよく飛び込んでいく。

 最後にフィオレが振り返ると、アーチャーは大聖杯に向かって歩み始めていた。

 赤い背中が遠くなっていく。

 押し迫る悲しみにフィオレはカウレスの背中に顔を押し付けて小さく嗚咽を零した。 

 

 

 

 □

 

 

 

 帰り道は思いのほか楽だった。

 行きであれほど苦労したのが不思議なほどに道は短く、強化した足で駆け抜けること五分ほどで庭園の外に出ることができた。

 その途中で、何度か崩落した岩に潰されそうになるなどのアクシデントもあったが、上手く切り抜けた。ここまで来て死んで堪るかと身体に鞭打ったのである。

「よかったよかった。上手いこと生き残ってくれてたぜ」

 獅子劫が植木の陰から引っ張り出したのは、二人分のパラシュートであった。その近くには半壊した戦闘機が横たわっていて、セイバーの乱暴な着陸で使い物にならなくなってしまったことを如実に物語っていた。

「やっと、スカイダイビングか」

「おう、楽しみにしてただろ」

 座り込むセイバーに笑いかけた。

 獅子劫は生きて帰れないことも覚悟していたが、それでも幸運の女神に愛されて生き残れるかもしれない。そう考えて、パラシュートを用意していた。

 場合によっては聖杯大戦の決着が付かず、脱出という可能性もあったので、セイバーの分もあった。もちろん、セイバーはサーヴァントなので、霊体化すれば問題ないのだが、彼女が機会があればパラシュートを使ってみたいと駄駄を捏ねた結果であった。

「ところで、セイバー。お前、これの使い方知ってるか?」

「大丈夫だろ。『騎乗』スキルは人間が造ったものなら、すべての乗り物に対応するからな」

「そうか、なら大丈夫だな」

 深いことは考えず、セイバーの身体に獅子劫はパラシュートを装着する。

 自分一人ではパラシュートの着脱もできないのだから、仕方がない。

「準備できたな。んじゃ、さっさと飛ぶぞ。完全にこの庭園が崩落したら、こっちまで巻き込まれちまう」

「高度七五〇〇メートルからのスカイダイビング。おまけに頭上からは瓦礫の山か。ハハハ、スリルがあっていいじゃねえか、マスター」

 セイバーが笑い、マスターは冗談じゃないと顔を顰める。

 昔見たアニメ映画に似たようなシーンがあったが、瓦礫をばら撒く天空の城からの脱出は実際にやってみるとかなり危険な挑戦になるのだ。

「なるようにしかならねえか。行くぞ、セイバー」

「応」

 獅子劫はセイバーを突き飛ばし、自らも空に身を投げた。

 高度七五〇〇メートルからのダイブ。

 超低気圧に超低温、さらに酸素濃度が極めて薄いと人間がまともに生きていられる環境ではなく、スカイダイビングの経験のない獅子劫が挑戦するのは自殺行為ではあるが、そこは魔術師。肉体強化や気流操作はお手の物である。苛酷な環境は、獅子劫にとっては大きな問題ではなく、一番まずいのは空から落ちてくる瓦礫であるが、こればかりは運を天に任せるしかない。

 伏せの姿勢での落下速度は時速二〇〇キロメートルに相当し、パラシュートの操作を間違えばそのままミンチになって死ぬ。

 雲の海を突き抜けて、獅子劫は落ちる。

 比較対象がないために、落下しているという感じはなく、強風を受けて宙を泳いでいるかのようであった。

『どうだセイバー。初めてのスカイダイビングは?』

『悪くねえな。これで、日が出てれば文句なしだったんだけどな』

『そりゃ、仕方ねえ。日が出るまで待ってたら死んじまう』

 日の出まで、あと数十分といったところであろうか。

 アーチャーがどのタイミングで聖杯を破壊するか分からないが、庭園が崩壊するか聖杯が壊れるかするのは日の出までかからないだろう。

『悪かったな、セイバー』

『なんだ、いきなり』

『聖杯だよ。今回は獲れなかっただろ』

『なんでマスターが謝るんだよ。聖杯戦争はサーヴァントの戦いだろ。それで、勝てなかったんだから、オレの失態だ』

『んなわけねえだろ。お前でダメなら他のサーヴァントを当たってもダメだっただろう。お前に落ち度はねえ』

 獅子劫は本心からそう言った。

 彼女のスペック、宝具の威力、性格、すべてが獅子劫の理想に合致したサーヴァントであった。剣士としてもサーヴァントとしても高い実力を誇った彼女と共にあって失敗したのだから、マスターの采配ミスと言うほかない。

『なあ、マスター。あんたはどうなんだ。聖杯』

 セイバーに問われて、獅子劫は悩んだ。

 聖杯。聖杯は確かに欲しい。根源への欲求などフリーランスの獅子劫は持たないが、次の世代へ獅子劫家を繋げたい。先祖が日本で出会った悪魔と交わした契約の対価を何とかしてなかったことにしたかった。しかし、それも諦めた夢であり、やっぱりダメだったと言われても、そうだったかと納得できる程度でしかない。

『聖杯に関しちゃ、もういいかって感じだな。それより、お前のほうだ。一番上等な聖杯はダメだったが、世の中には亜種の聖杯戦争がごまんとある。どっかで適当な聖杯戦争に飛び入りして、聖杯分捕るって手もあるぞ』

 馬鹿な話だと、獅子劫自身も思う。

 聖杯の補助をなくしてサーヴァントを維持するなど、普通に考えれば不可能である。獅子劫は類希な魔術回路を持っているので、セイバーを現界させておくことも不可能ではないかもしれないが、成功したとしても魔力の大半をセイバーに供給しなければならず、魔術師としての活動はほぼできなくなる。おまけにセイバー自身も戦闘できるほどの魔力を得ることができない。

 しかし、今回の聖杯大戦で二種類の魔力分割方法を見ることができた。

 それを調整すれば、外部から魔力を補うことができるかもしれない。獅子劫の提案は、決して的を外したものではなかった。

『あー……それもいいかもしれねえけど。マスターは、もう聖杯、いいんだろ』

『ん、まあな』

 冬木の聖杯ほどの奇跡なら、諦めた夢を叶えられるかもしれないと思ったから参戦したが、もともと獅子劫は亜種聖杯戦争には興味がなかった。冬木の聖杯がダメなら、他の聖杯を探そうなどとは思わない。

 ただ、セイバーが惜しかった。

 彼女が、何も得ることなく消えていくのが堪らなく惜しい。 

 空中庭園からわざわざ二人で脱出したのも、偏にセイバーを存命させるためであった。

『マスターがいいんなら、オレもいいや』

 しかし、セイバーの言葉は意外なものであった。

『お前、王になるんじゃなかったのか?』

『そうだな。王にはなりたい。……けど、な、……なんていうのか、オレは結局父上が背負っているものを一緒に背負いたかったんだと思う。王を目指したのも、その延長だったんだろう。あの頂に至れば、きっと父上はオレを見てくれる。父上は、他の連中に見せない顔を見せてくれる。そんな気がしてたんだろう。王は孤高であるべきだが、決して孤独であるべきじゃない。――――オレは、完璧さを押し付けられたが故に孤独になっていったあの人の助けになりたかったんだと、そう思えたんだ』

 “黒”のアーチャーに手渡された選定の剣を持ったとき、こんなものかと肩透かしを食らった。もちろん、それが偽物で本物には遠く及ばない代物だと理解していたが、オリジナルと寸分違わぬレプリカである。それなのに、自分でも思っていたほどの感動がなかった。

 それもそのはずだ。

 “赤”のセイバーが求めていたものは、選定の剣ではなく王位でもなかった。最終的には王位であるが、それは騎士王にしっかりと認められることが前提であり、認められるということは、騎士王と公私に亘る関係を築けたということでもあった。

 どこかで、その気持ちを履き違えたのだろう。反逆という形でしか、自らの存在をアピールできなかった過去の自分を自嘲するしかない。歴史は覆らないし、覆そうとも思わない。それはそれで終わったことで、言い訳を並べても意味がない。

 騎士たちは騎士王に完璧さを強いながら、我欲のなさを恐れた。セイバーですら、騎士王には我欲はないと思っていた。内面では、そんな騎士王の「私」の部分にこそセイバーは触れたかった。孤高で孤独な騎士王の傍に歩み寄りたくて剣を磨いた日々だったし、血縁であると知ったときの喜びはまさしく、かの王に最も近い者であるという誇りに他ならなかったのだ。

 アーチャーは騎士王も悩み、苦しんだと言っていた。我欲がないと思っていた王が聖杯を求めてまで苦しみ抜いて、最後には満足するに足る答えを得たと言っていたのだ。

 あの王ですら時として道に迷う。

 大切なのは、迷い、悩んだ果てに自分なりの結論に至ることではないのか。

 今は、それでいい。

 歴史には反逆の騎士として未来永劫刻み込まれることなど、大した問題にはならないし、そんなことはどうでもよかった。

 自分なりに、納得のいく答えが見つかったのだから、満足だった。

『お前がそれでいいんなら、別にいいさ』

『おう……』

 そこそこの高さまで降りてきたので、獅子劫はパラシュートを開いた。

 視界の隅でセイバーもパラシュートを開いていた。

 『騎乗』スキルとは便利なものだと、獅子劫は改めて思う。パラシュートや戦闘機まで自由自在とは、傭兵業を生業とする獅子劫からすれば羨ましい限りである。

 パラシュートにぶら下がって地上にゆっくりと降下する。

 風に乗って空を漂う獅子劫とセイバーは、いつの間にか空中庭園からずいぶんと離れたところに流されていた。

 空中庭園の全貌が、すっかり視界に収まるくらいの場所までやってきたとき、セイバーが再び念話を寄越してきた。

『なあ、マスター』

『なんだ?』

『この前さ、宮廷魔術師がどうとかって言ってただろ』

『ああ、あったな。そんな会話』

 もうずいぶんと前の会話のように思う。

 獅子劫はセイバーとの会話の中で、自らを宮廷魔術師に例えた。無論、セイバーは大笑いしてありえないだの似合わないだのと言って獅子劫を憮然とさせた。

『それで、今更そんな話を持ち出してどうしたんだ?』

『あんたが宮廷魔術師に興味あんなら、オレが雇ってやってもいいぜ』

『何?』

 それこそ、意外な申し出に獅子劫は思わず問い返した。

『マスターの実力だと、円卓はまだ遠いけどよ、オレの直臣ってことで下積みさせてやるって言ってんの』

『そりゃあ――――』

 獅子劫はふと考える。

 どうしてセイバーはこんな提案をしてきたのだろうか。彼女にはマーリンというとんでもない怪物的実力の魔術師の知り合いがいる。獅子劫界離など彼の足元にも及ばず、獅子劫はマーリンとは比較対象にもならない小物ではないか。

 しかし、彼女が何かを企んでいる。

 王位の簒奪ではないが、宮廷の中での発言力の強化か、今度こそ騎士王に自分を見てもらうための何かをするのか。アウトロー出身の獅子劫をスカウトして、独自の勢力を築くのか。

『――――楽しそうだ』

 間違いなく断言できるのは、彼女と一緒であれば、宮廷だろうが戦場だろうが絶対に退屈はしないだろうということだ。

 もとより、あちらこちらに漂う根無し草だ。行き着く先が宮廷であっても構うものか。

 そのとき、空中庭園がついに崩壊した。

 内側から莫大な魔力を撒き散らし、圧倒的な威容を誇った大要塞が消し飛んだ。

 爆発で生じた風が獅子劫のパラシュートを襲い、激しく振り回す。

「ぐ、くおおおおおッ」

 必死になって魔術を行使し、風を受け流しパラシュートを強化する。下は海ではなく陸地である。どこの国かは分からないが、空中庭園は黒海の外縁部を飛んでいたのであろうか。それとも、“赤”のアサシンが死んだことでコントロールを失いあらぬ方向に流れたのか。

 ともあれ、まだ地上までは数百メートルはある。ここまで来て落下など笑えない。

『おい、セイバー。お前は大丈夫だったか?』

 獅子劫の魔術で乗り切れたのであれば、セイバーは余裕だろうと思いながら問う。

『セイバー?』

 てっきり、空中庭園の爆発に対して愚痴でも言ってくるのかと思っていたが、何の答えもなかった。奇妙に思い、さらに数回呼びかけたが、そもそも念話が通じていない。

 いつの間にか、獅子劫とセイバーとの間に繋がっていた魔力供給のラインが途絶えていた。

「たく、アイツは……」

 獅子劫は空を見上げた。

 暁の水平線が眩しい。空に高々と舞い上がった無人のパラシュートが、風に乗って何処かへと流れていく。何物にも縛られず、自由を謳歌する鳥のように、じゃじゃ馬で意地っ張りで騒がしい、剣士の魂は、誰の手も届かない場所へ旅立っていく。

 彼女らしい実にあっさりとした別れだった。

「あばよ、セイバー」

 内定取り消しだけは勘弁しろよ、と内心で呟いて獅子劫は新しい朝を迎えたのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 空中庭園に一人残った“黒”のアーチャーは、召喚されてから今までの日々を思い返していた。

 一つひとつの思い出が奇跡の産物であったと言えるだろう。

 冬木市での戦いは第三次聖杯戦争を境に途絶し、その影響で第四次聖杯戦争の悲劇は起こらなかった。この世界には、アーチャーの元となった人物は誕生し得ない。そもそも初めから存在しないが故に、アーチャーは誰に八つ当たりをするでもなくサーヴァントとしての務めに従事できた。

 そうして戦っているうちに、若かりしころの青臭い理想が蘇り、天草四郎との問答の中で自分の本質を再確認した。どこまでも救いのない、お人好し。自らの破滅を思いもせず、他者の未来に希望を描いた愚か者。

 唾棄すべきもののはずだが、今度ばかりはそれでよかった。

 少なくとも、この自分はフィオレの未来を繋ぐことができて満足だったからである。

 一族の宿命や魔術師の誇りという枷から自ら飛び立つことを決心したフィオレは、アーチャーが今までにあったことのない人種だったと言える。人間らしい魔術師には生前に散々世話になったが、人間そのものの魔術師は彼女が初めてだ。

 だからこそだろう。

 あまりにも普通の彼女が、背負ってきたものを捨てるのは、途方もない勇気のいる行為である。

 フィオレが、完全に魔術と袂を別つと決めたとき、その将来を台無しにするような真似は許さないと誓ったのは。

 彼女はいつか己の両足で大地を踏みしめ前に進んでいくだろう。

 その痛みは彼女が自分で受け止めなければならないものだ。

 命の尊さを知り、大きな決断をすることのできる彼女の未来を停滞させるわけにはいかなかったのである。

 不老不死。

 確かにすばらしい夢のような概念だ。聖杯を使えば、夢を現実にすることも可能だっただろう。

 だが、その世界にはフィオレの頑張りを評価する者がいなくなる。

 生きるということが、決して当たり前のことではないのだと気付き、失った命を胸に抱いて前へ進むフィオレのような人々を無碍にすることだけは、アーチャーにはできなかった。

 それが、四郎と敵対した最大の理由であった。

 大聖杯は輝きを強め、今まさにそのときを迎えようとしている。

 ライダーは安全圏に脱した。獅子劫界離とセイバーも空中庭園から離脱したらしい。

 戦いを終えて十五分が経とうとしていた。

 そろそろ、この世界と縁を切る頃合であろう。

 アーチャーが短剣を投影したとき、背後に気配を感じて振り返った。

「君は、確か“赤”のキャスターだったか」

 立っていたのは、“赤”のキャスターであった。

「ええ、如何にも。“赤”のキャスター。真名をシェイクスピアと申します。以後、といってももう時間ですが、お見知りおきください」

「シェイクスピアか。なるほど、確かに戦場で見なかったわけだ」

 作家系サーヴァントは当たり外れが大きく、よほどの計画性がなければ進んで召喚しようとは思わないだろう。結局、アーチャーがキャスターを見かけたのは、最後の戦いが繰り広げられているこの部屋の中だけであった。それも途中退席したようだったが。

「今、ここで決着でも付けるかね?」

「まさか。我輩の宝具はひっくり返ったところであなたには効果がありませんし、マスターを失った今、我輩にできることはありません。強いて言うのなら、物語の最後を締めくくらなければならないということでして」

 エミヤシロウという真名以外は分からないという隠匿性が、キャスターの宝具を不発にしていたという点が大きい。

 キャスターの宝具はキャスターが描く物語に相手を引き込む精神攻撃である以上、キャスター自身が相手のことをある程度知っている必要がある。

 大抵のサーヴァントであれば、真名を知った時点でその人物の人生を聖杯の知識から参照できるが、アーチャーだけは別である。

「では執筆に戻ったらどうかね。見ての通り、私は今忙しい」

「存じております。あなたは己の大義のために我らがマスターの大義と夢を打ち砕く。世界の平和を夢見た者同士の些細な方向性の違いが生んだ結末は実にドラマティックと言えましょう。この戦い、ルーラーとマスターを主軸にしておりましたが、あなたのようなエキストラが活躍されると軸がぶれて仕方がない」

「恨み言か?」

「いいえ」

 と、キャスターは首を振る。

「最後にあなたのことを一筆書き記したいと思いましてね。他の皆さんについては言及したのですが、あなたについては情報がなさ過ぎる。英雄たちの物語に正体不明がいるのは少々浮きすぎるのですよ」

「で、結局何が聞きたいんだね?」

 アーチャーは若干苛立ちながらもキャスターに尋ねた。

 キャスターの身体はすでに半透明になっている。

 彼が言うとおり、すでにキャスターは無害な作家である。

「時間もないので、一つだけ。一個人が名を残すことの難しいこの時代で、英雄に到達したアーチャー殿を突き動かした信念について、お教え願いたい」

 キャスターは、信念と言った。

 立場や血統ではなく信念こそが、この世界で名を残す重要条件だと理解してのことであった。

 兵器が発達し、英雄が誕生し得ない現代を駆け抜け、座に登録されるまでになったアーチャーが何を思って生涯を送ったのか。その根本に当たる部分を問いかけたのである。

「信念、か。そうだな、強いて言えば――――」

 思えば苦しいことばかりだった。

 けれど、そこに笑顔がある限り、エミヤシロウは戦えた。

 それこそは、自分が最も忌み嫌う存在であり、永劫エミヤシロウを放さない枷の名。そして、未だに捨てきれない(到達点)――――。

「簡単な話だ。私はただ、正義の味方になりたかったのだ」

 そう言って、アーチャーは短剣(ルールブレイカー)を大聖杯の基部に突き立てた。

 

 

 

 □

 

 

 

 “黒”のアーチャーが魔術殺しの短剣を振り下ろし、大聖杯は完全に崩壊した。

 魔力の制御は失われ、噴火を思わせる暴走と共に空中庭園の上半分を消し飛ばした。

「いやはや、まさか正義の味方とはッ! ははは、面白い! 実に面白い!」

 天井が吹き飛んで、激しい乱気流に見舞われる書斎にあって“赤”のキャスターは自らが書き上げた原稿の最後の一ページにペンを走らせる。 

「時代は違えど同じ国に生まれ、同じ名を名乗り、そして夢まで似通いながらも対立する二人の英雄。今回は二人の聖人の対立に主眼を置いたが、ううむ……惜しい。ああ、惜しい。物語は完結したが、しかしその内容は不完全! まるで、この世界そのものではないか! ままならぬものだ!」

 だが、それでいいとキャスターは思う。

 完璧な物語など反吐が出る。

 物事には空白が付き物だ。物語にあってもそれは同じ。読者がそれぞれの視点で穴を埋めることで、初めてその世界は完成する。

「しかし現実とは真に皮肉なものですな。大いなる夢の前に立ちはだかるのは、絶対的な現実ではなく同じ夢を見た者であったとは。人の夢を壊すのは人の夢。そして、人の夢を受け継ぐのもまた人の夢。――――ならば、いつの日かマスターの夢を継ぐ者が現れるのでしょうな!」

 そのときは、さぞ大きな祭になるのだろう。

 今回の物語は今までで一番面白かったと断言できる。古今東西の英雄たちが、互いに意地とプライドと夢を賭けて戦い抜いた。その一連の大騒動を記録できることが幸福だった。

 これから先、しばらくはこの規模の戦いは起きないだろう。

 けれど、人間とは業が深い存在だ。

 世界各国で亜種聖杯戦争が行われている。その中にもしも、再び天草四郎が呼び出されたら。あるいは、彼と同じ理想を掲げた誰かが聖杯に手を伸ばそうとすればどうなるか。

 必ず誰かが邪魔をする。

 今回のように。 

 そして、その戦いは世界を賭けた一大決戦となるに違いない。

 是非とも来るべき祭の折には、このシェイクスピアに声をかけてもらいたいものだ。

 そう心から願いながら、消えてなくなるそのときまで、偉大な作家は思いのままに筆を走らせ続けた。

 

 

 

 □

 

 

 聖杯大戦が終結してから二日が経とうとしている。

 サーヴァントたちの手で命を繋がれたホーエンハイムは、下宿先の教会の一室で眠れない夜を過ごしていた。

 前日にトゥリファスのホテルで“黒”の陣営の勝利が知らされた。

 教えてくれたのは、“黒”の陣営を率いていたフィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアである。そのときは、“黒”のライダーが生き残ったということも知らされた。

 聖杯戦争が最後の一人になるまで殺しあうデスゲームであれば、勝者はライダーということになるのだろう。今回の聖杯大戦も根底は同じだった。もしも、天草四郎が余計な事をしなければ、あるいはライダーが聖杯を手にしていたかもしれない。

 ベッドに寝転がりながら、考える。

 消えていったサーヴァントを思う。

 不老不死によって人類の平和を実現しようとした天草四郎のことを考える。

 そして、天草四郎を否定し、今までと同じ明日を紡ごうとした“黒”のサーヴァントたち……。

 何が正しくて、何が悪なのか、ホーエンハイムにはまったく分からなかった。

 “黒”のサーヴァントたちは間違っているはずがない。しかし、人類の平和を謳った天草四郎が間違っていたとも思えない。

 ライダーならば、何か答えがあるのだろうか。

 ライダーはどうしているのだろう。今、どこで何をしているのだろうか。

 そんな風に鬱々と考えていたときであった。

 コンコン、と窓がノックされたのだ。

 この部屋は教会に併設された住宅の二階である。とても人が窓をノックできるはずがない。人でないのなら――――ライダー以外にいないではないか。

 ホーエンハイムは飛び起きて、カーテンを開く。

 三日月をバックに“黒”のライダーが微笑んでいた。

「やあ、二日ぶり。ホーエンハイム」

 窓を開けると、すぐにライダーはぴょんと軽快なステップで部屋の中に飛び込んだ。

「霊体化できるだろうに、わざわざ妙なところから来るんだな」

「ハハハ、まあ、ほら深夜だし。というか、もうすぐ朝か。ごめんね。ほんとはすぐに顔を出すつもりだったんだけど、バタバタしちゃってさ」

 それから、ホーエンハイムはベッドに座り、ライダーは椅子を持ってきて、そこに腰を掛けた。

 戦いの顛末はライダーから詳しく聞くことができた。 

 “黒”のセイバーや“黒”のアーチャーの戦いとその終わり。“黒”のアサシンもどこかで果てたらしい。“赤”のセイバーは脱出したらしいが、その後は不明だ。獅子劫界離がユグドミレニアに連絡を寄越していないので、生死不明というのが正しいのだとか。

 面白おかしく、楽しそうにライダーは英雄たちの活躍を語った。

 敵も味方も、ライダーからすれば皆尊敬すべき人物である。決して他者を悪く言うことなく、誇り高い戦いぶりをホーエンハイムに語って聞かせた。

 話の内容はどれも信じられないものばかりで、神話か叙事詩を語っているのではないかとすら思ってしまう。そして、そんな戦いを繰り広げたサーヴァントたちに命を救われたという事実が、こそばゆく誇らしい。

 どれくらい話をしただろうか。

 ここまで会話を続けたことがなかったので、喉が疲れて声が枯れそうだ。

 時計に目を向けると、驚いたことに一時間半も経っているではないか。

「なあ、ライダー」

「なんだい?」

「天草四郎という英雄が成そうとしたことは悪だったのだろうか?」

 ホーエンハイムがずっと考えてきたことだった。

 聖杯の確保以上に、“黒”の陣営は天草四郎を止めることに力を注いでいるように見えたからである。

「天草四郎が悪だったか。それは難しい問いだ」

「難しいのか?」

「ああ。とっても難しい。僕らも、彼を悪だと決め付けて戦っていたわけじゃない。彼の理想そのものは間違いなんかじゃないから当然だよね」

「間違いじゃないのに、ライダーたちは止めようとしたのか」

「ああ」

 ホーエンハイムの疑問にライダーは頷いた。

 だが、それだとおかしい。

 それでは、ライダーたちが悪になってしまう。

 ホーエンハイムの混乱したというような表情を見て、ライダーは笑った。

「僕たちが悪か。もしかしたらそうかもしれない」

「そんなはずはない。ライダーもアーチャーもセイバーも、決して悪人ではないだろう」

「嬉しいこと言ってくれるね。うん、そうだよ、少なくとも僕はその意見には賛成だ。けどね」

 ライダーは言葉を切って、ホーエンハイムの目をしっかりと見つめた。

「善悪っていうのは、完璧に二つに分けられるものじゃないんだ。誰かのためにしたことが、誰かを傷つけることだってある。善にも悪にもきちんとした定義はないし、誰にも定めることなんてできないんだよ」

「定義がない?」

「ああ。僕は悪事を為したことはないと断言できる。けど、やっぱり別の視点から見れば、悪いことをしているっていう評価になったりもする。それが当然で、いろんな物の見方があるのが健全なんだ」

「いろんな物の見方か。……すまないが、俺にはよく分からない」

 ライダーが悪を為すということも悪であるという評価もピンと来ない。

「それは仕方がないよね。だって君はまだ生まれたばかりだ。知識のある赤ちゃんさ。赤ちゃんに善悪の区別なんてできやしない。だからさ、ホーエンハイム。君は、いろんな人と関わって、いろんな意見に耳を傾けるようにするといいよ。無責任な話だけどさ、僕たちサーヴァントはこの先を見ることはできないからね。――――僕らの代わりに、この世界の未来を見届けてほしい。そして、君なりの答えを見つけてほしいんだ」

 しっかりとした声で、ライダーはホーエンハイムに言った。

 ああ、理解した。

 ライダーは戦勝報告に来たのではない。

 残された時間を使って、自分に別れを告げに来たのだ。

「もう、逝ってしまうのか、ライダー……」

 当然であろう。

 聖杯大戦は終わったのだ。聖杯がなくなった以上、サーヴァントはあるべき場所に戻らねばならない。

 ただ、このライダーならばそんな不条理を覆して現世を闊歩するのではないか。そんな、淡い期待を抱いていたのである。

「そんな顔をしないでくれよ。ホーエンハイム。せっかくの君の門出だぜ」

「そんな顔と言われてもな……」

 自分がどんな顔をしているのか、知りたいとも思わなかった。知ってしまえば、何かが瓦解しそうになっているからだ。

「まあ、本当は僕も未練があるっちゃあるんだけどね。でもしかたない。僕たちみたいな過去の亡霊が無限の未来を持ってる君たちに過度に干渉するべきじゃないだろうってね。理性のある僕がそう結論付けたんだ。じゃあ、従うしかないだろう?」

 ライダーのマスターであるカウレスがその気になれば、ライダーをこの世に留め置くことは可能かもしれない。彼はフランケンシュタイン化した心臓を持ち、魔力量は事実上の無制限である。しかし、人間の肉体は、永久機関の負担に耐えられるようにはできていない。使いこなせるようになる前に無理をすると、身体が崩壊しかねない。そして、サーヴァントを維持するのに必要な魔力量は、永久機関を手に入れたカウレスをして膨大である。

 そんなわけで、ライダーはすでにカウレスとの契約を切っていて、今は『単独行動』のスキルによって現世に留まっているという状態だったのである。

「いろいろと世界を見てみたかったけど、それはもうダメみたいだ。だから、君に任せる。君は自由だ。時間もたくさんある。様々な価値観に触れて大いに悩み、そして大いに生を謳歌してくれ。それが、未来ある人間の生き方だからさ!」

 悩むことを知らなかったホムンクルスにとって、それそのものが新たな価値観だった。

 悩んでもよかったのだ。答えを出せず懊悩することは、決して無駄ではなく未来へ歩むために必要な過程だったのだと、このとき初めてホーエンハイムは理解した。

「分かった」

 と、ホーエンハイムは言う。

「君と、そしてセイバーやアーチャーに貰った命を、俺は絶対に無駄にしない。君たちが紡いだ未来の姿を、俺はできる限りこの目に焼き付ける。君の分までしっかりとだ」

「うん――――よろしく頼むよ、ホーエンハイム」

 ホーエンハイムの答えを聞いて、ライダーは心底安心したように穏やかな笑みを浮かべた。

 あれほど鮮烈だったライダーの存在感が、徐々に薄らいでいるのが分かる。遂に、別れのときが来たのであろう。

 ホーエンハイムは握り拳をライダーの前に突き出した。

 ライダーは驚いて、ホーエンハイムの拳を見つめる。それから相好を崩した。

「まったく、どこで覚えたんだよ、それ」

「見聞を広めろと言ったのは君だろ」

「ファーストステップはもう踏み出してたか。よかったよかった。僕が心配するまでもなかったね」

 笑いながら、ライダーは拳を握り締め、ホーエンハイムの握り拳に軽くぶつけたのであった。

 

 

 

 扉がノックされたので返事をする。

 ゆっくりと扉が開いて、中に入ってきたのはアルマであった。

 ホーエンハイムが下宿する、この教会に二十年勤めるシスターである。

「朝早くにごめんなさい、ホーエンハイム君。人の話し声が聞こえたものだから。――――誰か、ここに来ていましたか?」

 問われて、ホーエンハイムは答えに窮した。

 サーヴァントのことをアルマに話すわけにはいかない。しかし、こんな明け方に誰かが部屋を訪ねてくるなど、不自然以外の何物でもない。

 それでも、ライダーを存在しなかったかのように扱うことだけは、ホーエンハイムにはできなかった。

「少し、友人と話をしていた」

「あら、そう。それで、その方は今どちらに」

 アルマは視線を室内に走らせた。

 おかしなところは何もない。強いて言うならば、ベッドに腰掛けたホーエンハイムと向かい合うようにして置かれた一脚の椅子があるくらいだ。

「彼なら、もう帰った」

 言葉にするのが辛くて、目頭が熱くなった。

 胸が痛くて、涙が溢れ出てくる。こんな異常は初めてだった。もう二度と、あの笑顔を見ることができないと思うと、身体中に痛みが走る。

 しかし、それと同時に偉大な英雄たちに未来を預けられたという誇りが、胸いっぱいに満ち満ちている。

 この気持ちを悲しいと言うべきか、嬉しいと言うべきか分からなかった。

 

 ――――ああ、また分からないことが一つ増えたぞ、ライダー。

 

 そのとき、一陣の風が室内に吹き込んできた。

 カーテンが大きく広がり、開け放たれた窓から朝の日差しが差し込んだ。

「今日は、風が強い日になりそうですね」

 ホーエンハイムの変化にアルマはあえて気付かぬふりをしたのか、そ知らぬ顔で窓を閉め、鍵をかけた。

 それから、アルマは部屋を出て行こうと扉に手をかけて、振り返る。

「ホーエンハイム君。さっきまで、この部屋にいたという友人ですけど、その方はあなたにとっていい友人ですか?」

 何を言っているのだろうか。

 考えるまでもない。

 答えはたったの一つしかありはしないのだから。

「とてもいい友人だ。かけがえのない、――――大切な存在だ」

 アルマはそうですか、と言ったきり何も言わず、満足げに微笑んで部屋を出ていった。

 彼女の問いの真意は聞けなかった。

 その必要もなかった。

 日常を生きるだけで、分からないことや答えの見つからないことはたくさんある。生きるとは考えることだと、教えてもらった。安易に答えを出してはならず、いろんな考え方をしなければならないと。それはきっと正しいアドバイスなのだろう。

 しかし、ライダーがよき友人であること。

 これだけは、誰が何と言おうと考えるまでもなく断言できた。

 そして、よき友人と恩人たちから受けた恩を無駄にしないために、生きていくことをホーエンハイムは胸に誓ったのであった。




次回、エピローグ予定

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