“黒”の紅茶《完結》   作:山中 一

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エピローグ

 聖杯大戦という激烈な日々を過ごしたのは、もう二年も前のことになる。

 二年前、日本の東京、新宿にて生け贄にされそうになっていたところを“黒”のアサシンに救われた。

 異常と言えば異常だろう。

 それまでは一般の世界で生きていながら、その日を境に命を奪う側へと回ったのだから。

 しかも、自分の心は命を奪うことにそれほど葛藤することがなかった。道理とか人道とか、理解してはいたけれど、命の恩人で、我が子も同然のアサシンが生きるにはそれ以外に方法はなかった。

 六導玲霞は、あの戦いの後で日本に帰国した。

 身寄りはないし、頼れる友人もいなかった。

 玲霞はルーマニアで、命よりも大切なものを失った。ぽっかりと開いた胸の穴は時間と共に広がっていくような気がして、何もできない日々が続いた。

 失ったものはあまりにも大きく、取り戻せるものではない。

 亜種聖杯戦争で、ジャック・ザ・リッパーを呼び出せても、そこに現れるのは“黒”のアサシンとは別の個体であるという。

 魔術師ではないから、玲霞に参加資格はそもそもないが、あったとしても参加しないだろう。

 ほかのサーヴァントと契約するなどまっぴらだ。

「はいはい、みんな静かに」

 玲霞はピアノの前に座って声をかける。

 ピアノの回りには、小さな子どもたちがいる。

 アサシンよりもさらに幼い子どもたちが目を輝かせて玲霞を見ている。

「せんせい、次なに?」

「知ってる曲がいい。ジューレンジャー」

「それピアノの曲じゃないー」

 騒がしいけれども、思いのほか楽しい。

 こんな楽しみに気付かせてくれたのもアサシンだったのだ。

 アサシンの人生は、夢で何度も見ていた。

 その度に、無責任に子どもの命を絶つ母親に言い知れぬ気持ちを覚えたのである。それが、憤りなのだと気付いたのは、日本に戻ってからのことであったが、この日本にすら、恵まれない子どもがいる。

 第二第三のアサシンが生まれないとも限らない。

 それは、きっと子どもたちにとっての不幸以外の何物でもなく、アサシンとの出会いで何かが変わっていた玲霞は、奮起した。

 幸いにして貯蓄はあったし、時間もあった。問題は年齢だが、まだ二十代の前半だ。やり直しは十分可能であった。

 道を見つけて一年半。

 今はまだ教育実習生という肩書きだが、次の春には保育士の採用試験を受けるつもりでいた。自分のような堕落した人生を歩んできた女がなれるかどうかは分からないが、ダメでも子どもと関わる仕事を選んで働き口を探そうと思っていた。

「じゃあ、先生の好きな曲を弾くわね。終わるまでに、次の曲を考えてね」

 玲霞の指が、白と黒の鍵盤の上で踊りだす。滑らかに、滑るように。

 「これ、何て曲?」と子どもの一人が尋ねてきた。

「『トロイメライ』。先生の、思い出の曲なの」

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 戦いに参加したのは、十六人の英雄たち。 

 聞いたことのある名前もあれば、そのときに初めて知った名前もあったが、全員が掛け値なしの偉人だった。すべての英雄たちがそれぞれの信念を持っていて、決して折れることなく最後まで貫いた。その在り方はまさしく英雄と呼ぶに相応しく、人間を超越した偉大な魂の持ち主であるということが否応なく理解できた。

 そんな彼らでも人類の救済という命題に直面しては、頭を悩ませるしかなかったというのが少し意外だった。あの聖女(ジャンヌ・ダルク)ですら、懊悩を抱えていた。結局、自分は何も彼らにしてあげることができなかった。それを悔しく思い、そしてただの人間に過ぎない自分が彼らと共に僅かにでも歩めたことを誇りに思う。

 瞼を閉じれば、今でもあの濃厚な日々を思い起こすことができる。

 出会いは奇跡というほかなく、しかしなるべくしてなったのだろうとも思った。偶然ではなく、必然。レティシアが聖女を受け入れ、あの場に立ったことにはきっと何か大切な意味があったに違いない。

 それが何か分からないけれど、今はただ真っ直ぐにできることを積み上げていこうと思う。

 

 

 学校を無事卒業したレティシアは、他の学生たちと同じく進学の道を選択した。

 進路はずいぶんと悩んだ。

 特に学科を選ぶのに一ヶ月近くも悩み、先生を困らせてしまったのが申し訳ない。

 神学、史学、文学、この三つの学科でレティシアは悩みに悩み、最終的に文学を専攻することにした。今では、パリの大学でマイペースな学生生活を送っている。

 大学図書館を出たレティシアは、抜けるような快晴の空を見上げた。手提げバッグに詰め込んだ書物の重みで肩が痛い。

「おーい、レティシア」

「はい?」

 背後から声をかけられて振り返ると、三人の友人たちがそこにいた。

 可愛らしい顔立ちで煌びやかに着飾った今時の若者。高等学校時代からの友人だ。何の縛りもない大学生活を送りながら、彼女たちのような明るい生活に溶け込めない自分はやはり田舎者なのだろうと、出会う度に感じる。

「ねえ、これから暇?」

「え……?」

「これから、サークルの仲間で集まって昼食にするんだけど、来る? あんたに興味あるって男の子も結構いてさ、紹介しろってうるさいの」

 目を白黒させたレティシアであったが、

「いえ、わたしはそういうのは。それに、今日は先約がありますので」

 と、レティシアは丁寧な断りを入れる。

 真面目だと昔から言われてきたが、もはや習性に近いことで自分ではどうにもならない。顔も知らない人と酒を飲み共に食事をするのは苦手なのだ。それに、先約があるというのも本当である。それがなければ、断るのを躊躇したかもしれない。

「また教会?」

「あんたも変わらんね。信心深いっていうか、びっくりですわ」

「そんなんだと、男もできんぞー」

 友人たちは気分を害したわけでもなく、呆れたような表情を浮かべて口々に言った。

 そんなことを言われても、とレティシアは困り顔を浮かべる。

 信心深かったり教会に通ったりするのと異性と交際するのは別の問題な気もする。しかし、やはり色々と遊び慣れている彼女たちと自分とでは物事の捉え方が異なる上に、そういった分野では一枚も二枚も上手だ。もしかしたら、最近の男性は信心深い女性を敬遠するのかもしれない。

 しかし、そうは言っても今の生活のペースを変えるつもりはない。

 聖女と同じように、とはいかないが、その背中に近づけるように日々を過ごしたいからである。

 友人たちは未練があるのか、さらにレティシアを誘うそぶりを見せたが、レティシアの傍に現れた人物を見て停止した。

「レティシア、ここにいたのか。待ち合わせの場所にいないから探したぞ」

「え、もうそんな時間でしたか。すみません、ヴァン君」

 やってきたのは白銀の青年だった。

 透き通った白い肌は女性のレティシアからしても羨ましくなるほどで、銀色の髪が陽光を受けて煌いている。

 ヴァン・ホーエンハイム。

 レティシアと共にあの聖杯大戦に関わり、生き残ったホムンクルス(一般人)。死すべき運命を、英雄たちによって覆された奇跡の人。そして、今は薬学の道を志す将来有望な学生でもあった。

「あの、わたしはこれで。また、誘ってください」

 レティシアが友人たちにそう言うと固まっていた時が動き出したかのような驚愕の絶叫が上がった。ホーエンハイムは訳が分からないというような目で三人を眺め、レティシアは悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべたのであった。

「さっきのは何だったんだ? 非常に奇妙な言動だった。友人だというのなら精神科医を紹介してあげたほうがいいんじゃないか?」

 ハンドルを握るホーエンハイムが、本気で心配した口調でレティシアに言った。

「大丈夫ですよ。彼女たちは、少し驚いただけですから」

「俺が何かしたんだろうか……?」

 ホーエンハイムは首を捻った。

 二年経ち、ホーエンハイムも人の世界に馴染みつつあるが、時折見せる天然さは相変わらずのようだ。

 彼は、カウレスとアルマの支援の下に戸籍を獲得し、有能な学生として今に至る。魔術の世界とはレティシアが知る限り関わりを持っていない。

 これから二人で向かうのは、ドンレミ・ラ・ピュセル。パリから離れた地方の街で、ジャンヌ・ダルクの生家が保存されている場所だ。

 レティシアとホーエンハイムが共に世話になった人物の故郷を、身辺が落ち着き、学校が長期休業に入ったところで訪ねてみようという話になったのである。

「また、ずいぶんと本を借りてきたようだな。課題でも出ているのか?」

 ちらり、とホーエンハイムが後部座席に目を向ける。そこには、レティシアが借りてきた本を詰め込んだバッグが置いてある。

「いいえ。でも、これを研究するために今の学科に入ったので、時間を見ては関連書籍に目を通したいんです」

 フランスを代表する偉大なる騎士たちの物語と聖女を題材にした文学作品。絶望と祝福に彩られた彼らの生涯を学ぶことを、レティシアは選んだ。

「『狂えるオルランド』はあるか?」

「考察書であれば、今ありますよ」

「そうか、よければ、後で貸してもらえないだろうか」

「もちろん」

 実のところ、彼が読みたがるだろうと思って借りてきたのだ。

 『ローランの歌』『狂えるオルランド』『恋するオルランド』などなど、ホーエンハイムにとって、忘れられない人物が活躍する物語である。特に『狂えるオルランド』では英雄アストルフォがヒポグリフに乗ったり月へ旅行したりする。ホーエンハイムが知るライダーに近い描かれ方で、彼のお気に入りの書物の一つであった。

「お身体の具合はどうですか?」

「健康体だ。何も問題ない」

「本当ですか? どこかで倒れられたら困ります」

「君が困るのか?」

「む、……それはそうです。心配しているんですから」

「なるほど。だが、大丈夫だ。俺はどうやら本当に彼らに生かされたらしい」

 口元に、笑みが浮かぶ。

 安静にして余命二、三年という見立ては大きく狂った。本来であれば、彼は車を運転することはおろかベッドの上から出ることすらも許されないほどに衰弱しているはずであったし、彼自身、それを自覚していたはずだったのだが、蓋を開けてみればこうして普通に暮らすことができている。

「奇跡の七日間、ですね」

 ポツリ、とレティシアは呟いた。

 あの戦いの直後、およそ一週間に亘って世界を覆った小さな奇跡たち。詳しいことは魔術を知らないレティシアには分からないが、ホーエンハイムの見立てでは、遙か上空で炸裂した大聖杯の魔力が、その周辺各国に降り注いだことが原因ではないかとのことであった。

 その魔力は無色ではなく、天草四郎の願いに染まっていた。

 人類の不老不死は叶わなかったが、その魔力を浴びた者たちは小さな奇跡を経験したのである。

 癒えぬはずの病が癒えた。助かる見込みのない怪我人が一命を取り留めた。終わらぬはずの戦争が終息に向かった。

 ある一日を境に、世界はほんの少し平和を知った。

 そして、余人の知らぬことではあるが、短命に終わるはずのホーエンハイムは、人並みに健康な身体を手に入れた。

 他はどうか知らない。

 しかし、ホーエンハイムが生き永らえたことは、彼にとってもレティシアにとっても奇跡と呼ぶに相応しいものであった。

「この前、ヴォルムスに行ってきた」

「ヴォルムス――――“黒”のセイバー(ジークフリート)終焉の地、ですね」

「ああ」

 日々勉学に励む彼は、中々時間と資金の捻出ができないと楽しそうに嘆いていたのは二ヶ月前。それでも、何とか都合をつけてドイツへ旅行に行ったのだという。

 ライダーとの約束を果たすために、まずは恩人たちを偲ぶことから始めようと、時間をかけてでも彼らの物語を追いかけている。

 半年ほど前にはアストルフォが最期を迎えたロンスヴォー峠の戦いの舞台となった地を訪れている。

「ヴォルムス、どうでしたか?」

「いいところだった。それに、ジークフリートはやはり大英雄なのだと再認識した」

 聞けば、ヴォルムスを中心にニーベルンゲン街道やジークフリート街道が走り、観光地となっているらしい。『ニーベルンゲンの歌』が成立して八〇〇年。ジークフリートは未だにヴォルムスの人々の心の中に生きている。

「あとは、“黒”のアーチャー(エミヤシロウ)の冬木だな」

 “黒”のアーチャーは特殊な英雄だ。並行世界かつ未来の英雄のため、彼の人生を記した書物は存在せず、彼自身がこの世界で誕生するのかどうかも分からない。

 その源流が冬木の聖杯である以上、それがなくなったこの世界で英霊エミヤは誕生しないのだろうというのがマスターであったフィオレの見立てであった。

「冬木と言えば、フィオレさん。移住するらしいですよ」

「冬木にか?」

「はい。今は留学生として、そして行く行くはあちらに根を下ろしたいとのことでした」

 それから少しの間、二人は静かに流れていく景色を眺めた。

 都市から農村地へ。ドンレミ村にパリから公共交通機関で行こうとすれば、およそ五時間弱かかる道のりだ。車でもそれなりの時間を必要とする。

 会話が途切れてから、レティシアはかねてから聞いてみたかったことを尋ねてみることにした。口にするのは恥ずかしくて、また非常に覚悟のいることだったが、大戦から二年経ち、偶然にも大学で知り合った彼と過ごすうちにどうしても気にかかってしまうのである。

「あの、ヴァン君」

「どうした?」

 少しだけ、言いよどんでからレティシアは、

「ヴァン君は、やっぱりライダーさんのような女性が好みなんですか?」 

 おずおずと、問いかけた。

 乙女としての決死の覚悟で問うたのだが、問われたほうは、はて、と首を傾げた。

「女性……? ライダーは男だぞ」

「え……?」

 レティシアは固まった。

「アストルフォは男だろう。彼は、れっきとした男性だ」

 今更何を言っているのだろう、とでも言うような口振りでホーエンハイムは言い切った。

「うえええええええええええええええッ!?」

 恐らくは人生で一番大きな声を上げたのではないだろうか。

 ルーラーの『真名看破』ですら見破れなかった“黒”のライダーの性別は、その外見と服装もあっててっきり女性だとばかり思っていた。まさか、ただの女装だったとは、思いもよらなかった。

 レティシアが知らなかったということはルーラーも知りえなかったということである。

 “赤”のセイバーが女性だったこともあって、“黒”のライダーも同じく伝承と異なる性別なのだと思っていた。

 “黒”のライダーの二年越しの悪戯にまんまと引っかかったレティシアを乗せて、ホーエンハイムが運転する車はドンレミ村に入っていった。

 

 

 

 □

 

 

 

 カウレスにとっては、聖杯大戦が終結してからが本番だった。

 戦争というのは、戦っているときよりもその後の処理が面倒だったりする。今回はそもそも魔術協会にユグドミレニアが喧嘩を売ったところから始まっており、聖杯大戦そのものに勝利したとしても、それは魔術協会と立場が対等になったということではない。

 ユグドミレニアはほぼ壊滅、魔術協会は追手が潰されただけで損害らしい損害は被っていない。

 ユグドミレニアは大戦には勝ったものの、勝負には負けたのである。

 しかし、幸運の女神は見放していなかった。

 これは、“赤”のランサーと“黒”のセイバーに感謝しなければならないことであるが、彼らが確保した“赤”の陣営の魔術師たちの中に時計塔の次期エースと見なされていた一流の魔術師がいて、その家の発言力が比較的大きかったことも手伝って、聖杯大戦そのものがなかったことにされたのである。

 戦わずして敗北したなど一族の恥。戦いをなかったことにしてほしいとのことであった。もちろん、そんな虫のいい話は通じないのが魔術の世界だが、カウレスはこれまでダーニックが積み上げてきた資産や特許を賠償として交渉し、粛清だけは何とか逃れることに成功した。

 聖杯大戦は存在せず、ユグドミレニアは解散して歴史の闇の奥深くに埋没する。フォルヴェッジ家もムジーク家も負け犬のまま静かに消えていくがいい、というのが魔術協会の最終的な決定であった。

 カウレスは人質もどきとして時計塔に渡り、ゴルドはムジーク家の当主として衰退する一族と共に汗を流す。

 魔術師として生き残った二人の道はそこで分かれ、再び交わることはないだろう。

 

 中世と現代が入り混じる大都市ロンドン。

 その一画には、百を越える学術棟と四十以上にもなる学生寮を有する魔術師の総本山が鎮座している。

 カウレスがやってきたのは、時計塔と称される区画の僅かに外側、それでいてれっきとした時計塔の一学部を構成する場所――――現代魔術科が管理する区画であった。

 この日、カウレスは現代魔術科の学術棟を一ヶ月ぶりに訪れていた。

 魔術師が管理するビルではあるが、エレベーターが普通に機能しているという少し奇妙な建物である。これも現代に即した魔術を研究するという一環なのだろうか。

「点検かよ……」 

 だが、無情にもこの日、エレベーターは定期点検の日を迎えていたらしい。運が悪い。カウレスは頭を掻いて、階段を早足で駆け上がる。

 目的の階までやってくると、廊下側から走ってきた小柄な人物とぶつかりそうになった。

「おっと」

「あ、すいません」

 少女の顔を見て、カウレスは一瞬だけ心臓が止まりそうになった。“赤”のセイバーかと思ったのである。だが、違う。彼女はただ似ているだけの別人だ。

「カウレスさん、どうもお久しぶりです」

「ああ、久しぶり。グレイさん」

 グレイ。灰色。くすんだ金色の髪を持つ、“赤”のセイバーにそっくりな外見の少女は、この現代魔術科を統べるロード・エルメロイ二世の弟子である。

「あの、さっそくですけど、拙のためを思って嘘をお願いします」

 そう言って、彼女は一足飛びで屋上を目指して階段を駆け上がっていった。

 そこに、

「グレイたーーーーーーーーーーーーーーーーん!!」

 騒がしい、金髪カールの少年が飛び込んできたのである。カウレスは少年が現れると同時にさっと身を躱す。ここにいるのがグレイとでも思ったのか、少年はそのまま階段に激突した。

「愛が重いよ、グレイたん」

「誰がグレイだ……」

「む、その声はカウレス。まあ、いいか。ここにマイフェアレディベスト可愛いガールのグレイたんが来たはずなんだが、知らないかな?」

 なんだその適当な語を継ぎ接ぎしたような形容詞は、とカウレスは心底呆れながら階下を指差す。

「下に逃げたよ。多分、もう外に出たんじゃないかな」

「グレイたーーーーーーーーーーーーーーーーん、今行くよーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 少年は、カウレスの嘘を信じて全力で階段を駆け下りていった。

 ため息をつく。

 魔術協会は変人の魔窟だ。もっとも、変人の中に天才が混じっているのは、魔術だろうと科学だろうと変わらない真理かもしれないが。

「どうもありがとうございます。カウレスさん」

「あんたも大変だな。追い回されて」

「正直、大変です」

 表情を変えずに、グレイは言った。

 隠蔽系の魔術まで使って身を隠す徹底振りである。彼女が身の危険すら感じている証であった。

「師匠が報告を待っていますよ」

「分かってる。今、行くとこだよ」

 

 

 応接間で待っていたのは、長い髪の男性魔術師であった。

「お久しぶりです。エルメロイ教授」

「二世だ、カウレス。二世を付けたまえ」

 ここ最近、忙しかったのだろう。

 エルメロイの目の下には、薄らと隈ができている。

「何かあったのか?」

「いつものことです」

「ああ……」

 小声でグレイに尋ねると、あっさりとした答えが帰ってくる。それだけで、また問題児が騒ぎを起こしたのだと悟れてしまった。

「教授、報告書です」

 二世をつけるのが面倒なので、役職で呼び、カウレスはカバンから紙の束を提出した。

 昨年から取り掛かっている、「奇跡の七日間」についての調査報告書であった。

 大聖杯の炸裂は、聖杯の術式そのものを完全にこの世から失わせる惨事ではあったが、その影響を受けた者が世界中にいるという点でサンプルは多い。

 大聖杯の完全複製を目指す時計塔としてはこの現象を調査し、後の研究に活かそうとするのは当然であったが、同時に学部間のいざこざなどもあって中々調査に力を注げないという問題があった。

 そんなときに目を付けられたのが、新設ゆえにしがらみの少ない現代魔術科であった。ロード・エルメロイ二世が、亜種聖杯戦争を生き残ったマスターであったという経歴もあって、彼にとっては甚だ迷惑ながら大聖杯がもたらした影響を調査する責任者にされてしまったのであった。

「確かに受け取った。精査に時間がかかるが、また近く外に出てもらうかもしれん。心の準備だけはしておくように」

「……はい、了解です」

 人使いの荒い教授だとカウレスは内心で呟く。

 しかし、これもエルメロイからの気遣いである。ユグドミレニア出身のカウレスが魔術協会に従順であると示すためには、魔術協会にとって利になる結果を出すのが手っ取り早い。

 エルメロイの狙いは、聖杯大戦の元凶の一人でもあるカウレスに責任を取らせることで、カウレスの身の回りを落ち着かせようというものである。おかげで、ずいぶんと現代魔術科は過ごしやすい。カウレスが二年前に獲得した電気エネルギーを魔術に応用する特性も、この学科と親和性が高く、エルメロイが彼に便宜を図るのも将来性に期待してのことであった。

 カウレスの肉体は、下手をすれば封印指定にされかねない希少性を持っている。

 魔術協会の中での居場所は一応作れたが、命の危機が完全に去ったわけではなく、次世代にどうにかして受け継がせられるように研究を進めなければ、十年後にはホルマリン漬けという最悪の事態もありえる。

「よお、ロード。頼まれた品、持って来たぜ」

 と、そこに乱暴に扉を開いて入ってきたのは、革ジャンの男であった。

「ん、フォルヴェッジ弟じゃねえか。元気してたか」

「獅子劫界離。なんで、あんたがここに?」

 現れたのは、“赤”のセイバーのマスターであった獅子劫だった。

 フリーランスで活動していた獅子劫も、最近は魔術協会に出入りする機会を増やしていると聞いている。ニアミスを繰り返したために、顔を合わせるのは空中庭園以来のことであった。

「俺は、教授に頼まれごとさ。ほれ、取ってきたぜ」

 ガタガタと動く木箱をエルメロイに渡した獅子劫に、エルメロイは小切手を渡す。あの木箱の中身はおそらく知らないほうがいいのだろう。

 我が物顔でソファに座った獅子劫は、まったく似合わないケーキの箱を机の上においた。

「灰色ちゃん、土産だ。ロード、一応あんたのもあるぜ」

「灰色って言わないでください。でも、貰えるものは貰います」

 グレイは獅子劫の土産をいそいそと開封して、中からショートケーキを取り出し、小皿に移して、さっそく食べ始めた。

 エルメロイはそんな弟子を見てため息をつく。

「まったく、そんな暇があれば自分の子に買っていけばいいだろう」

「うちのは、まだケーキ食える歳じゃねえっての」

「おっさん、子どもできたのか?」

 子どもとかそんな柄ではないと思っていた獅子劫が、いつの間にか後継者を作っていたことに驚く。

「今、半年だ。すげえだろ。めっちゃ可愛いぜ。ちなみに女の子だが、てめえにゃやらん」

「典型的な親バカじゃねえか……」

 カウレスは呆れてものが言えない。この風貌で親バカというのは何かの冗談としか思えなかった。

「カウレス。そこの男も奇跡の七日間の影響を受けた男だ」

「そうなのか?」

「ああ、まあな」

 獅子劫は頷いた。

 そして、彼の一族が抱えた問題を知る。

 子を成すことができない呪い。

 衰退しつつあった獅子劫家が起死回生を期して日本で出会った悪魔のような何かと結んだ契約の影響が彼の代で発現した。結果、獅子劫の魔術刻印は獅子劫以外の肉体に絶対に適合しないようになってしまったのだという。子はできず、養子に刻印を移植することもできない。魔術師としては完全に終わった。それが、大聖杯の魔力を受けたことで、どういうわけか解呪された。今では新たに妻を迎えて後継者まで誕生した。

「いいことだ。いっそ、このまま隠棲してはどうかね」

「いやいや、まだ働き盛りだっての。むしろここからだろ。変な人生歩んで、内定消されても困るからな」

「内定?」

「おう。セイバーが雇ってくれるって話だったんでな」

 カウレスは意味を理解できていなかったが、エルメロイは感じ入るものがあったらしい。小さく笑みを漏らした。

「さて、奇しくもこの場にマスターの経験を持つ者が集ったわけだが、いつまでも思い出話をしているわけにもいかん。獅子劫にはロッコ翁がお呼びをかけているし、カウレスは遅らせていた課題があるだろう。グレイ、お前も礼装の手入れが行き届いていない。やり直しだ」

 エルメロイに言われて、獅子劫は明らかに嫌そうな顔をし、カウレスも忘れようとしていた課題を思い出させられて内心でため息をつく。

 仕事終わりに課題をしなければならないとは負担が大きい。

 だがこの道に進むと決めたのはほかでもないカウレスだ。魔術の研鑽は好きだったし、落ちるはずの首はこうして無事に繋がった。

 未来のことは分からないけれど、修羅場を潜り抜けて腹が据わったのか、悪いようにはならないだろうと楽観的に考えることにした。

 

 

 

 □

 

 

 

 

 やっぱりまだ見慣れない。

 杖を突いてゆっくりと歩くフィオレは、興味深そうに街並を見回す。

 石造りの世界しか知らなかったフィオレにとっては、極東の木造建築はそれだけで珍しい。日本で暮らして一年になるが、大きく変わった景色に戸惑うことはまだ多い。

 冬木に足を向けるのは、これが始めて。

 なかなか心の準備ができなかったのが原因だが、“黒”のアーチャーとの最期の約束を果たすために、遂にフィオレはこの街にやってきた。

「どうして、こう。この街は坂が多いのでしょう」

 息を荒げて冬木の住宅街を歩く。

 フィオレの足が動かなかったのは、変性した魔術回路の影響であった。魔術師を辞めたことで、その魔術回路も必要なくなり、結果としてフィオレは自由に動く足を手に入れた。

 何年も動くことのなかった足は筋肉が衰え、すぐには身体を支えられなかった。しかし、本来は五、六年はかかるであろうという見通しだったものがたった二年で歩けるまでになったのは、やはり大聖杯の魔力の影響であろう。

 ――――何人も血を流さぬ世であれ。

 小英雄の願いは、もしかしたら全人類の魂に焼き付けられたのかもしれない。

 ただの方向性。

 殺し合いを忌諱する本能という形で人類種の魂に変革をもたらした――――のかもしれない。

 こればかりは、検証のしようがない。

 カウレスたち時計塔の研究者が何十年もかけて調査する必要のある難問だ。

 もっとも天草四郎の願いの対象が「全人類」だったことを考えれば、すべての人間にささやかながら影響を与えていてもおかしくはない。大聖杯が崩壊した時点で、あの魔力には天草四郎の思念が溶け込んでいたはずだからである。

 フィオレはゆっくりと目的地に向かって足を進めた。

 しっかりと、一歩ずつ踏みしめるように。

 辿り着いたのは、一軒の洋館であった。強力な結界が張られている。冬木市を管理する遠坂家の屋敷であった。

 深呼吸して、呼び鈴を鳴らす。

 答えはなく、もう一度鳴らしても結果は同じであった。

「どうしましょう……」

 ここまで来て引き返すのも面倒だ。

 できるだけ歩くことを心がけているために、バスを使わずここまで来たが、その苦労を台無しにするのは嫌だった。

 ならば、ここで待つか。

 平日の夕方。

 遠坂家の令嬢は、部活動をしていないはずだからいるものと思っていた。

 十分ほど、経っただろうか。

「どなたですか」

 と、黒髪の少女がフィオレに話しかけてきた。

 不審げな顔をしている。それも当然だろう。西洋人が、そもそもこの国では目立つ。

 フィオレは、彼女の顔を見て、すぐに目的の人物であると判断できた。

「遠坂凛さん、であっていますか?」

「はい、……そうですけど」

 よかった、とフィオレは胸を撫で下ろした。

 遠坂凛。

 遠坂家の現当主で、宝石魔術の使い手。五大元素を操る天才児で、高校卒業に合わせて渡英し、時計塔に留学する予定であるとカウレスが情報を送ってくれた。

 彼女が渡英したら、目的を果たすのが難しくなる。フィオレが決心した理由であった。

「初めまして。わたし、フィオレと申します」

「フィオレ、さん?」

「はい。今日は、あなたにお渡ししたいものがあって参りました」

 そう言って、フィオレは肩にかけてたカバンから手の平大の包みを取り出した。

「確認していただけますか?」

 見知らぬ外国人からなにやら訳の分からない包みを貰う。

 凛にしてみれば、警戒感を出さないわけにはいかないだろう。彼女が解析の魔術を使ったのが分かる。そして、顔色を変えた。

 包みを開けた凛は、中から真っ赤なルビーのペンダントを取り出した。

 それは、アーチャーを召喚したときに図らずも触媒となったペンダントであった。

「あの、……これ、は?」

 凛は動揺を隠し切れず、震えた声でフィオレに尋ねた。

「わたしの恩人に頼まれて、お届けしました。もともとは遠坂家に伝わるペンダントだったようでして、その方に是非、遠坂家に返してほしいと頼まれたのです」

「これが、うちに……?」

 凛はペンダントに見覚えがなかったらしい。

 流出したのは、ずいぶんと昔のことのようだったので、凛が知らないのも当然だろう。

「これ、でも。こんな……」

「驚かせてしまって申し訳ありません。それが不要なら、廃棄していただいても構いません。わたしは、ただ恩人の言葉を守りたかっただけですので」

 凛は、少し悩んだ後でペンダントを包みに入れなおし、フィオレに頭を下げて礼を言った。

「フィオレさん、ありがとうございます。遠坂の者として、お礼を言わせてください」

「わたしのほうこそ、突然変なことを言ってすみませんでした。――――これで、やっと肩の荷が下りました」

 くすり、とフィオレは笑った。

 それから、フィオレは遠坂家の門前を辞した。

 凛はアーチャーの夢の中で何度か見たことがあったが、そのときの印象のままに、この世界でも生きていた。 

 彼女に渡した大粒のルビーのペンダントに思い入れがあるのはフィオレだけだ。凛にそのつもりがないのだから、もしかしたら売られるかもしれないし、宝石魔術の触媒にされるかもしれない。

 しかし、それはフィオレにとっては重要ではなかった。

 あのペンダントを渡し、アーチャーとの約束を果たしたということが重要だった。

 フィオレが所有する物の中で、唯一聖杯大戦を偲ばせる物品だったのである。それを、手放すということは即ち、この日を以て完全に過去と決別することを意味していた。

 重い足取りで坂道を下る。

 今後、この街で生きていくことになる。地理にはまだ疎いがゆっくりと覚えていけばいい。

 ふと、気が付けば高校の傍に行き着いた。

 夕日に照らされたグラウンドを生徒たちが駆けている。

 あんな風に走れるようになるには、あとどれくらいの時間がかかるのだろうか。少しだけ、憂鬱になりかけたとき、グラウンドの隅で高飛びをしている少年を見つけた。

「あ……」

 思わず、声が漏れた。

 夕焼けに照らされた明るい髪色の少年は、失敗にもめげずに何度も何度も挑戦を繰り返している。部活動の何気ない一風景だと、無視することができずにフィオレはしばらくその姿を目で追ってしまった。

 もう止めればいいのに、少年は諦めることを知らないかのように挑戦し、そして日が暮れる直前になってようやく成功させた。

 フィオレが見つける前から繰り返していたのだろうから、いったい何回の試行錯誤を行ったのだろうか。

 成功に至る道のりは険しく、乗り越えられる保証もなく、そして身体には痛みと疲労が蓄積していたはずである。それを、「彼」は乗り越えた。その姿に、励まされたような気持ちになって、フィオレはまた一歩足を踏み出した。

 きっと明日には筋肉痛になっているだろう。

 足は疲れるし、身体も痛くなる。けれど、それは生きているからこそ得られる痛みであった。自分の足で歩いている証拠なのである。

 未来は見えず、先行きは不安ばかりだ。

 けれど、――――。

“大丈夫。わたしは、ちゃんと歩いていけますよ。アーチャー”

 冬木の街を風が吹き抜け、フィオレの背中を柔らかく押した。

 約束を守れた喜びを噛み締め、足の裏で地面を感じて身体を進ませた。

 魔術師でもマスターでもなく、何も持たない平凡な人間として、フィオレ・フォルヴェッジは新しい日々を歩いてく――――。




“黒”の紅茶。これにて完結となります。
途中かなり無茶があったかとは思いますが、とりあえず辻褄は合わせられたかなと思っています。

例の如くプロットも設定も作ってないものだから当たり前ではあるのですが、書いていて咄嗟に路線が変わることが何度かありました。
直前まで退場させる予定だったキャラが生き残ってしまったりとか――――太陽英雄、お前だよ。

全体のおよそ半分を一ヶ月ほどでやるとか意味の分からないことをしてんなと振り返って思います。

ともあれ、無事終わりました。少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

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