夢を嗅ぐ
人間は夢を見る。しかしそれは目で見ているのではない。
感じているのだ。私たちは何かを感じて生きていることの証明だ。
ならばどこで感じているのだろうか。目か?耳か?口か?鼻か?それとも、脳か?
心。感性。これに尽きる。
幻想は幻想であり、真実は真実である。しかし、夢の中では現実と幻想が混ざり合う。
秋風が吹く空に浮かぶ積乱雲や、桜に降り注ぐ淡い雪。それらは現実には有り得ない。秋に夏の雲は生じず、春に雪は降らない。
いや、本当にそうか?
私たちはいつから常識に騙されているのだろう
私たちはいつから決めつけた
私たちは
どうしてここまで堕ちたのか
人間の感性と心には限りがあるものか?
私たちがいつも持つ感情は誰かに、何かに制限されているのか?
そうだ、制限されている。
自分で自分を制限しているのだ。
そんな自分を見限れ。思いのままに表現するのがありのままの人間のはずだ。手に筆を持ち、心の内を書く。人は一人じゃ生きられないと偉人は言ったが、それは確かだ。しかし、心は人一人で表現できる。
例えそれが否定されようと、間違っていたとしても何が悪いのだろうか?
好きを好きと言えないその眼ほど価値のないものは無い。
月は月だろう?ならば好きは好きなのだ。
形、真、理の三つが人間の構成要素ならば、私たちは広く雄大な大地に立っている神の名に従う言の葉を奏でる機械人形にはなり得ない。
そのままでいることの大切さやそのままを大切にする心の強さを私たちは得るために、現実と幻想を行き来する。
ならば私たちは夢を見ると言うが、夢に行くのではないか?夢を感じるのではないか?夢を抱えているのであるからして、見ることに値しないのではないか?そんな問いを常に脳髄に刻み込む。
しかし私は夢を見てもいないし抱えてもいない。
私は夢を嗅ぐのだ。
臭いではなく、匂いなのだ。そこに甘さや苦さ、辛さは無くとも匂いはある。
夢の匂いとは、現実味を帯びた幻想を意味する。そこにでき上がる夢は作品として存在する。ゴッホが描いたものに似ているのかもしれない。
夕暮れのエマオの道で歩くその姿にかかる霧の匂いは赤の香り。
はて、この感覚は私だけのものかもしれないね
あなたが見守る文章の羅列でさえ私には嗅ぎつけることの出来る意味のあるものなのだから。
夢を嗅ぐ。その匂いに釣られた錦鯉とは私の事だ。新しさを求めた結果、火を見るように明らかな私の語彙力と想像が、マリア像の美しさのように。
浮き彫りになる。