「なんで・・・石上が、いるのよ」
扉が開かれるなり発せられた第一声に、石上は無言をもって答えた。目の前のミコに、一から事情を説明するのが面倒、というのが一つ。別段、説明の必要を感じないというのが、もう一つだ。
玄関のドアが半分ほど開き、ミコがこちらを覗いている。隙間から窺えるミコの姿は、普段のきっちりとした、いかにも風紀委員らしい格好からは程遠い。緩い寝間着は皺だらけで、今まで寝ていたことを窺わせる。いつもはきれいにまとめられている髪も、ところどころ跳ねていた。小さなミコの顔に比して大きなマスクから覗く朱の差した表情と、潤んだ瞳が、何よりもミコの現状を雄弁していた。
それがどうにもいたたまれず、故に石上は努めて普段通りに、溜め息など交えつつ、ビニール袋を掲げて答えた。
「
◇
時間は今日の朝まで遡る―――
朝礼ぎりぎりに登校してきた石上は、すぐに違和感とその正体に気づいた。
―――「おはよう」
―――「遅いわよ」
―――「もっと早く来なさい」
毎日のように前の席から飛んでくる小言が、どういう訳だか今日はない。それもそのはずだ。学校にはだれよりも早く登校して、朝礼まで自習や風紀委員、生徒会の活動に精を出しているミコの姿が、今朝に限ってはない。活動が長引いているのかとも思ったが、担任が教室に入ってきても、一向にミコは姿を現さなかった。
「ミコちゃんなら、風邪引いて休むって」
文化祭以来、ミコと親しくしている小野寺は、石上の質問にさらっと答えた。
石上にとっては青天の霹靂である。ミコからは何も聞かされていない。ぽつぽつとやり取りをするようになった二人だけのLINEグループも、今朝から動きはない。風邪の「か」の字すら、石上の耳には入っていなかった。
「・・・ミコちゃんらしいといえば、らしいかもね」
小野寺はそんなことをのたまう。
「彼氏に心配かけたくない、って気持ちは、わからなくもないけどね。ミコちゃんなら尚更でしょ」
小野寺の言葉を否定する要素はない。いかにも、あのミコが考えそうなことだ。
誰よりも頑張り屋なミコは、しかしいつも一人で抱え込む。頑張るのは自分なのだから、周りに強いたりはしない。見返りを求めない。それが、伊井野ミコの「正義」なのだと、いい加減石上も理解しているつもりだ。
だからだろうか、ミコは誰かを頼るのが苦手だ。何をやるのも一人だ。見兼ねた誰かが手を貸さない限り、ミコはどこまでも一人で頑張り続けてしまう。
それ自体は、とてもすごいことだと思う。誰も彼もができる訳ではない、稀有な才能なのだと思う。
だからこそ、無性に腹が立つことも、ある。
「・・・僕って、そんなに頼りにならないかな」
せめて彼氏くらい、頼ってもいいじゃないか。そんな不満を込めた呟きに、小野寺は呆れ気味な返事をした。
「そんなん、あたしに訊くなっつの」
終礼も終わり、下駄箱から靴を取り出す石上に、近づいてくる人影があった。小野寺だ。
「石上、ミコちゃんのお見舞いに行くでしょ?」
「ああ、うん。もちろん」
さすがに、風邪を引いていると聞いて放ってはおけない。今日配られたプリントもあずかっていることだし、ゼリーとか飲み物でも買ってから、顔を出しに行くつもりだった。
それに、個人的に気になることもある。
「それじゃ、これ。ミコちゃんに渡しといて」
小野寺は鞄の中から何かを取り出し、石上に差し出した。小さなビニール袋に入っていたのは桃の缶詰だ。どういう訳か、よく冷えている。
「お見舞い。休み時間中に買ってきた」
購買に缶詰は売っていない。つまり小野寺は、休み時間中に学校を抜け出して、缶詰を買ってきたことになる。
さらっと校則違反を告白した小野寺に、石上は苦笑するしかなかった。それこそ、普段だったら真っ先にミコが注意しそうなことだったからだ。
「わかった、渡しておく。―――小野寺さんも、見舞いに行く?」
「遠慮しとく。あたし、そこまで野暮じゃないから」
つま先を二、三と蹴って靴を履いた小野寺は、「お大事に、って言っといて」と残し、玄関から出ていった。
◇
石上がミコの家に入ったのは、最初にドアを開いてから十分が経過したときだった。
「は、入って」
「・・・お邪魔します」
赤ら顔でゆっくりドアを開いたミコに従い、石上はミコの家に足を踏み入れる。
石上を待たせている間、どうもミコは髪を整えていたらしかった。ところどころ跳ねていたミコの髪が、いくらかきれいにまとまっている。
リビングへと案内してくれるミコについて行きながら、石上は家の中を見回す。
案の定、というべきか。ミコの家は、どこかガランとして、妙に静かだった。それは、広いからとか、そんな理由ではないと、石上にはわかる。
ともかく人の気配が薄いのだ。住空間というものには付き物である、体温とか、匂いとか、そういうものが微塵も感じられない。おおよそ人が生活しているとは思えない。唯一感じられるのは、どこかで嗅いだことのある香りだけ。
石上が懸念していた通りだった。
ミコの両親は忙しい。家には滅多に帰ってこず、家族が揃うことも稀だという。家政婦さんはいるというが、それも毎日ではないらしい。
だから、風邪を引いたミコが、一日家で一人だったのではないか。それが石上の懸念だった。
「伊井野、今日は一人だったのか」
「・・・うん。家政婦さんも、今日は来れなくて」
答えるミコの声は、心なし普段より小さい。
―――・・・それは。
言葉にしづらい感情が、石上の中で沸き起こる。この感情に名前なんてない。ただ何か、とても単純な想いが、石上の心にわだかまる。
いつも頑張っている奴が、弱っている時に、たった一人という現状。それは何かが間違っていると、石上は感じていた。
だからこそ、石上はここにいる。ミコを一人にしないために、石上はここにいる。人を頼ることが、人に甘えることが苦手なミコには、多少なりとも強引なくらいが丁度いいのだと、いい加減気づいてきたところだ。
幸い、それを憚るような関係ではない。
「これ、今日のプリント。それから差し入れ。桃の缶詰は、小野寺さんからのお見舞いな」
リビングのテーブルに、カバンから取り出したプリント類と、差し入れの入ったビニール袋を置く。ビニール袋の中身は、小野寺から預かった缶詰と、スポーツドリンク四本にゼリー二つ。
プリントを確認し、袋の中を覗いたミコは、小さく頷いていた。
「・・・ありがと」
調子が狂うというのは、こういうことを言うのだろう。普段の、石上の知っている伊井野ミコの姿は、ここにはない。今石上の前にいるのは、風邪を引いて弱っている、背の低い少女だ。
「それで、体の具合はどうなんだ?熱は?」
「・・・朝よりは、大分下がった、と思う。体はまだだるい」
「そうか」
一先ず熱の具合を確かめようと、石上はミコの額に手を伸ばす。ひたり、触れたおでこは確かに熱い。同じようにした石上の額よりも、おそらく一度以上、体温が高いはずだ。
「・・・石上の手、冷たい」
平熱の石上の手を、冷たいと感じるのだから、まだまだミコの熱は高い。おでこから手を離すと、熱を帯びて蕩けているミコの目がこちらを向いていた。
「差し入れ、冷蔵庫に入れとくから。それとも今食べるか?」
「スポドリだけ、置いといて」
「わかった」
頷いて、石上はビニール袋を手に、キッチンへ向かう。ミコは椅子に座らせて、とりあえず熱を測るように促した。素直に頷いたミコは、すぐに体温計を手にして、スイッチを入れ、それを脇へ差し込む。
「・・・んっ」
体温計が冷たかったのか、ミコから熱っぽい声が漏れる。見てはいけないもののような気がして、石上は慌てて目を逸らした。
体温計を差し込むとき、ミコはあろうことか、寝間着の胸元から手を突っ込んだのだ。白い鎖骨と谷間が、当然のようにちらつく。
心頭滅却。無念無想。石上はそう念じながら、冷蔵庫を開いた。
冷蔵庫の中身はよく整理されていた。どこに何を置くべきなのか、初めて見た石上でも容易にわかる。整理の仕方に従って、持ってきた差し入れを冷蔵庫に仕舞っていった。
冷蔵庫を閉じて、石上はミコの方を振り向く。体温計はまだ鳴らないのか、背もたれに身を預けて、ミコはゆっくり息をしている。深い呼吸に合わせて、想像以上に大きな胸が上下していた。
やはり見てはいけないもののような気がして、石上は目を逸らす。
ミコの体温は三十八度一分だった。まだ随分高い。
「まだ結構熱あるな」
「・・・ん」
頷いたミコから、腹の虫が鳴く音がした。
リビングに一瞬の静寂が流れる。石上から目を逸らし気味に、ミコは小さな声で言い訳する。
「お昼、少ししか食べてなかった、から」
思わず吹き出しそうになってしまったが、それを寸でのところで堪えた。今笑ったら、大して痛くない本気のパンチを、ポカポカと喰らうことになる。
ともかく、食欲があるのは、いい兆候だ。
「キッチン、借りていいか?何か作る」
「石上、料理なんてできたの?」
「・・・いくら僕でも、おかゆくらいは作れる」
ミコの正面から立ち上がり、石上は再びキッチンへと向かった。冷蔵庫の中身は、さっき大体把握できている。今ある材料でも、おかゆとスープくらいは作れるだろう。
「伊井野、部屋で休んでろよ。できたら声かけるから」
ミコから返事はなかった。米の量を計りつつ振り返ると、ミコは机に寝そべって、じっとこちらを見ていた。
「・・・伊井野、」
「
ようやく答えたミコの目は、弱りながらも確かに据わっていた。こうなった時のミコが、死んでも譲らない性格であると、石上も把握している。
「
唐突な下の名前での呼びかけに、喉から出かけた言葉が詰まった。意図的かどうかは知らないが、こう二度も言われては、石上もそれ以上言葉を積めない。溜め息とともにいくらかの言葉を飲み込んで、石上はシンクに向き直った。
「僕が料理してるとこ見てたって、何も面白くないからな」
「・・・ううん。なんか、幸せ」
聞いてて恥ずかしくなるセリフに、今度こそ石上は閉口する。頬の熱さをごまかそうと、石上は目の前の調理に集中する。ただ、背後から見守るミコの視線だけは、ひしひしと感じずにはいられなかった。
♀♀♀
ミコの体は怠く、節々痛くて意識も曖昧だが、最低限現状を把握しているつもりであった。さすがに現実と夢の区別はつくし、今目の前の光景が現実であることも認識している。
ただふとした時に、これは夢なんじゃないかと思ったのは、事実だ。
ミコの家に人はいない。いるのは基本的にミコ一人で、家政婦さんも住み込みではないし、毎日来るわけでもない。忙しい両親とは、月に数回、顔を合わせられればいい方だ。それも、家族揃って食卓を囲むなど、年に一回あるかないかだ。それがミコにとっての当たり前だった。
故に、一人でいることに抵抗はなく、一人でいることを寂しいと思ったことはない。
強いて言えば、両親がこれほど忙しくしなければならないほど、悪意に満ちた世界が許せなかったことくらい。
だから、たとえ風邪を引いて、家に一人でも、いつもと変わらない―――はずだった。
―――咳をしても一人。
自室のベッドで寝転んでいる間、家の中に物音なんてしない。響くのは自分の咳と、寝返りを打つ音。間違っても、誰かが部屋のドアをノックして、中に入ってくることなんてない。
それが当然で、当たり前。寂しくなんてない。けれど・・・けれど、本当にほんとうに、ほんの少しだけ・・・心細かった。
でも、誰かを頼ることなんて、できなかった。
親には、風邪を引いたことを、連絡していない。余計な心配をかけたくはなかったし、たとえ連絡したって、すぐに帰ってきてくれるわけでもない。
ただもう一人、優にだけは連絡してもいいのではないかと、思った。自分の彼氏にくらい、風邪を引いたことを伝えても、いいのではないかと、何度も何度も考えた。
けれど結局、優にも連絡はできなかった。理由なんて同じだ。余計な心配をかけたくない。「彼氏だから」というだけで、優に頼ってはいけないと思った。
だからという訳ではないが、夕方に鳴ったインターホンに、そして玄関前に立っていた
―――「彼女が風邪引いたって聞いたら、見舞いに来るのが当然だろ」
まるで、それが当たり前だと言うような、そんな優の優しさが嬉しかった。
キッチンに立つ優を、ミコはぼんやりと見つめる。料理をしている優は、時折ミコの方を振り向いてきた。何かを問いかけることもなく、数秒こちらの様子を見て、再び料理に戻る。そんなことを繰り返していた。
本当に、何でもないことだ。けれどそれは、普段のミコには、決して起こりえなかったことでもある。
それゆえ、知らなかったのだ。誰かが、側にいて、見守っていてくれることが、こんなにも心地よいのだと。こんなにも心安らぐのだと。
「ねえ、石上」
「どうした?」
―――どうして、お見舞いに来てくれたの?
口から出そうになった質問を飲み込む。その質問に、意味なんてない。優の答えは、多分さっきと変わらない。
「・・・ううん、何でもない」
「・・・何だよ」
優もそれ以上追及してこず、再び調理に戻っている。スープを作っているのか、キッチンからは中華風の香りが漂ってきた。それがまた、ミコの空腹を刺激する。もう一度腹の虫が鳴りそうになるのを感じて、ミコは自分の腹を押さえた。
「伊井野」
特に前振りもなく、優がミコを呼んだ。寝そべったまま優を見つめ続けるミコ。優は振り向かずに、スープの味見をしながら、話し始める。
「僕に遠慮なんてするなよ。らしくない。風邪引いた時くらい、堂々と頼っていいんだ。僕は・・・
あまりに唐突だった下の名前呼びに、心臓が一段強く脈打った。風邪の熱なんてどこかへ吹き飛んでしまうぐらい、頬が熱い。こんなことで、こんなに胸を高鳴らせて、我ながら単純なものだと思う。
―――優の恋人で、よかった。
それはあまりにも恥ずかし過ぎて、口にはできなかった。
やがて、できたての料理を、石上がお盆で運んでくれる。並んでいたのは、シンプルな卵粥と、中華風のスープ。具材は刻んだネギだけと、決して多くはないが、怠さの残る体には優しい見た目だった。
「食べれるだけでいいから」
向かいに座った優は、そう言ってお粥を勧めてくれる。まともに物を入れていなかった胃が、早く食べたいと主張していた。だが、今のミコは―――
「・・・せて」
「・・・はい?」
「だ、だからっ。あーん、して」
スプーンを優に差し出す。別に、この行為に、意味なんてない。それは単に、恋人同士のじゃれ合いとか、いちゃついているだけだ。
でも、今回に限っては。これが、ミコの中での、折り合いのつけ方だ。頼り下手な自分が、甘え下手な自分が、今できる精一杯だ。
「いや、それは・・・」
「・・・病人。私、病人、だから」
全く理由になっていないミコの論理。だが、それ以外の理由が見つけられるほど頭が回らない。だから押し通すしかない。
「・・・わかったよ」
しぶしぶといった様子で、優はミコからスプーンを受け取った。
優がスプーンでお粥をすくう。できたてで、湯気の立ち上る米粒に、優は二、三と息を吹きかけて、冷ましていた。それからミコに、スプーンを差し出す。
「ほら、あーん」
「・・・いただき、ます」
差し出されたスプーンを口に含む。程よく冷めたお粥は、薄い塩味だった。米粒に絡まった玉子が、口の中でほろほろとしている。ゆっくりと咀嚼して、ミコは飲み込んだ。暖かいお粥が、ほのかな熱を体の内から広げていっく。
「・・・おいしい」
思えば、優はチャーハンを作るのがうまかった。普段からそれなりに、料理をするのかもしれない。
「そっか。よかった」
穏やかで、これ以上ないくらい優し気な笑みを浮かべた優は、目元と口の端を緩めて、二口目のお粥をすくっていた。
「・・・なあ、ほんとに、やらなきゃダメか」
ミコの自室に入った優は、心底嫌そうな顔で言った。そんな言い方はないだろうにと思うが、普段のミコの態度からすれば当然の反応かもしれない。
「優は、嫌、なの?」
「・・・お前な。その言い方は反則だろ」
その言葉とともに、優は諦めたような溜め息を吐いた。
「はい、これ。合鍵」
勉強机の引き出しから、合鍵を取り出して、優に差し出す。
ハートのキーホルダーがついた鍵を、優は胸ポケットに仕舞う。
「伊井野、こういうの、簡単に男に渡すなよ」
こんな時まで小言を言ってくる優に、ミコは頬を膨らませた。
「優は彼氏なんだから、いいでしょ」
「・・・まあ、そうだけど」
まだ何か言いたそうな優のことは気にせず、ミコは部屋の電気を落とした。オレンジ色の小さな光だけが、ミコの部屋を満たしている。それに満足して、ミコは布団に潜り込んだ。
夕方まで一人きりだった、自室の布団の中。今はすぐ側に、優がいてくれる。
「それで、僕は何すればいいわけ?子守歌でも歌えばいいの」
それはそれで聞いてみたい気もしたが、ミコは首を振る。今のミコが求めるのは、もっと簡単なことだ。
「手を、繋いで、ほしい」
優の存在を確かめていたい。優の温もりが側にあってほしい。そうすれば、ミコは安心して、眠ることができる。そんな確信があった。
「・・・それだけ?」
「添い寝でもしてくれる?」
「お前、ほんとは風邪治ってるだろ」
半分事実だ。ご飯を食べたからか、今の体調は日中よりもかなりマシになっている。だがそれも、優がいてくれたおかげだと、今のミコは言える。
「・・・名前で、呼んで」
「・・・はい?」
「二人きり、なんだから。下の名前で呼んでよ、
うっすらとした光の中で、ミコは石上の方を向く。
優は無言だった。何も言わず、ベッドの横に腰掛けて、ミコの顔を見つめていた。息すらも漏らさず、衣ずれの音すら響かず、ただじっと、こちらを見ていた。
数秒の後、小さな溜め息が優から漏れた。布団の中に優の手が入り、そっと、ミコの左手を握る。
「馬鹿なこと言ってないで、早く寝ろよ―――ミコ」
優の温もりが、繋いだ手から伝わってくる。それがどうしようもなく嬉しくて、けれど伝える言葉を知らないミコは、少しだけ手の力を強めることで応えた。
「うん、そうする―――優」
その名前を呼んだ時、穏やかな眠気がミコに訪れた。心の奥底を温める安心感に身を任せ、ミコは目を閉じる。
誰かの温もりを感じながら眠るのは、随分と、久しぶりのような気がした。
◇
ミコが学校へ登校してきたのは、石上が見舞いに行ってから二日後のことであった。
朝礼が始まる二分前。教室のドアを開いた石上は、自分の前の席に座るミコの姿を認める。いつも通りにきっちりと制服を着こなし、丁寧に整えた髪をしっかりまとめている。その姿が、何よりも、ミコが本調子に戻ったことを示していた。
「おはよう」
席についた石上を、ミコが振り返る。朝の挨拶が飛んでくるのも、いつもと変わらない。
ただ、その日は―――
「ああ、おはよう」
挨拶を返した石上に、ミコは花のような笑みを浮かべて、こくりと頷いた。あまりにらしくない、穏やかな所作に、こちらが面食らってしまう。
ふと、石上は思い直す。
文化祭の夜の笑顔を思い出す。忘れがちだが、きっと、あちらがミコの素なのだ。
風紀委員に生徒会役員という、学園内でも責任ある立場にあるミコは、普段あまり笑わない。けれど、石上とデートをしている時には、時折、今みたいな笑みを浮かべている。
ちゃんと見ていれば、わかることだ。
―――僕の彼女がこんなに可愛い。
まるでライトノベルの主人公のようなことを思う石上。そんな彼をよそに、教壇に立った担任は、相変わらずの調子で朝礼を始めるのだった。
♀♀♀
「隣、いいか」
昼休み。最近お気に入りの木陰に腰を落ち着け、弁当を広げていたミコの頭上から、よく知る声が降ってきた。唐揚げを口へ運びかけていた手を止め、ミコは声の方を仰ぎ見る。サンドイッチを携えた優が、そこには立っていた。
わざわざ尋ねる必要もないのに。そんなことを思いつつ、ミコは頷いて右隣りへ座ることを促した。
芝の上に腰を下ろした優は、コンビニで買ったらしいサンドイッチのビニールを剥がし始める。具はたまご、ハムとチーズ。
「石上、いっつもそればっかりじゃない」
「まあ、好きだし、サンドイッチ」
「栄養が偏ってる」
自分に無頓着過ぎる優に、溜め息が出る思いだ。人のことにはあれだけ首を突っ込んで、心配して、お節介をするのに、自分のことには無関心に近い。そんなところにヤキモキする。
とりあえず、野菜が足りていない彼氏の口に、ミコは自分の弁当のミニトマトを突っ込んだ。
もごもごと咀嚼をした優が、おもむろに口を開く。
「風邪、ちゃんと治ったんだな」
「・・・うん、おかげさまで」
家政婦さん自慢の唐揚げを噛み締めつつ、ミコは俯きがちに答えた。
優の声音は、本気でミコの体調を心配してくれているのがわかる。わかるからこそ、むず痒い。真っ直ぐすぎる優の優しさは、ミコにもったいないくらいの幸福をくれる。それが嬉しくて、気恥ずかしい。
たった一人、自室のベッドで咳をするしかなかったミコ。そんなミコが、眠りにつくまでずっと、側にいてくれた優。あの手の温もりは、今もまだ、この左手に残っている。
「ありがとう、石上」
「いいって。僕がお見舞いしたかったから、勝手に押しかけた訳だし」
「わかってる。でも、お礼は、ちゃんとしたい」
「・・・そうか」
付き合いだしてわかったことだが、優は他人に優しくするくせに、お礼を言われるのはどうも苦手らしい。照れているのか、小さく笑ってすぐに頬を掻く。似たような経験があるミコには、なんとなくその感覚がわかった。
別に、感謝されたいと、思っているわけじゃない。見返りを求めない優しさこそが、本当の正義だ。だからこそ、思いがけず届けられた感謝の言葉は、あまりに甘酸っぱくてこそばゆい。
優は、優自身の優しさに、見返りを求めない。もしかしたら、彼はそれを優しさだと、気づいてすらいないかもしれない。故に、だからこそ、当然の帰結として、ミコだけでも、「あなたは優しい人なのだ」と、伝えたい。優自身の優しさの、ほんの少しでも、彼に気づかせてあげたい。それは、優の恋人で、彼女で、一番側にいるミコにしか、できないことだから。
だからミコは、お礼をきちんと、伝えたい。
「ああ、そういえば」
サンドイッチを一つ食べ終えたところで、優が思い出したという風に胸ポケットに手を突っ込んだ。そこから出てきたのは、小さなハートのキーホルダーがついた、鍵。この前、ミコが優に渡したものだ。
「これ、返すよ」
チリリン。キーホルダーが鳴る。ミコの脳裏に、あの日の記憶が蘇る。
ミコと優が付き合い始めて、まだ数か月と経っていない。さすがに「恋のABC」のAはクリアしたが、その先はまだだ。だというのに、二日前のミコときたら、自宅の合鍵を、男子に―――それも付き合い始めたばかりの彼氏に渡したのだ。そんなものは、同棲と大差ない、実に意味深でスケベェな行為である。BとCをすっ飛ばしてDまで至ったようなものだ。
確かにあの日は、風邪で弱っていて、意識もはっきりとはせず、終始思考はまとまっていなかった。とはいえ、だ。合鍵の件も含め、その他諸々、あまりにもあんまりすぎる自分の行動に、この二日間、ミコは悶絶し続ける羽目になったわけである。
合鍵を渡したこと自体に、深い意味はない。何か
優だから渡した。優になら、渡してもいいと思えた。風邪を引いていようと、なかろうと、その結論だけは決して変わらないものに思える。
何より。ミコ自身の願いとして、優に側にいて欲しい、優の側にいたいという想いがある以上、その結論が変わることはなかった。
「・・・持ってて」
「・・・はい?」
「石上が、持ってて」
自分で言いだしておいてなんだが、ものすごく恥ずかしい。風邪で判断力が鈍っている中で、合鍵を渡し、今それを再び押し付けようとしている。自分のやっていることの意味を、どういう捉え方をされるかを、ミコも理解しているつもりだ。
合鍵を、付き合っている、大好きな彼氏に渡すことの意味。そんなものは、改めて確認するまでもない。
「いや、お前な・・・」
「・・・いいよ」
羞恥で頬が熱い。頬だけではない、まるで熱がぶり返したように、顔全体が熱い。背中には変な汗が伝う。握りしめた拳が震え、抱えるようにした膝にはほとんど力が入らない。それでも、なけなしの勇気と気力を振り絞り、ミコははっきりと口にする。
「・・・優なら、いいよ、私。・・・たまに、家とか、来てほしいし。おうちデートも、したいし」
「・・・」
ミコの言葉を受けても、優は無言だった。息の一つも漏れない、長い長い沈黙。ただ、いつもの思考力を取り戻したミコの頭脳だけが、ぐるぐると空転を続けている。
呆れられたかな。ドン引きされてないかな。えっちなやつだって、思われてないかな。
違う。違う。こんな気持ちになるのは、こんなことを言うのは、優にだけなのに。
今更ながら、後悔が襲ってくる。なまじ頭の回転が速い分、常人の何倍もの速度で思考が脳を駆け巡る。それがさらに、ミコのネガティブを加速させる。
ミコの思考を断ち切ったのは、十秒ほどがして発せられた、優の一言であった。
「・・・あーもう」
すぐ隣で何かを諦めるような声がした。ミコの視界に影が落ちる。ふと、ミコが俯いた顔を上げた時だ。
ふわり
何かがミコの頭を優しく抱きかかえる。どこかで感じたことのある温もりには、おひさまとみどりの香りが混じり、そしてやはり慣れ親しんだ匂いがした。安心する匂い、安堵する温もり。それから―――
ちゅっ
柔らかで優しい感触が、額に触れた。ほんの一瞬、感じるか感じないかの、小さな感触。
それがキスだと理解したとき、優はミコを解放した。すぐにそっぽを向いてしまった優の表情は、長い前髪で窺えない。しかし、彼の耳が先端まで真っ赤なことに、さすがのミコも気づいた。
「あんまり可愛いこと言うな・・・ばか」
そう言った優は、二つ目のサンドイッチにかじりついている。ハムとチーズしか挟まっていない、栄養の偏ったそれを、何かと一緒に飲み込むようにして、バクバクと食べていく。
その時、全身を駆け巡った衝動の名前を、ミコはまだ知らない。
気づけば体が動いていた。そっぽを向いている優に、組み敷かんばかりの勢いで飛びつくミコ。
木の葉と、自分の影の下。驚く優の表情にほくそ笑みながら、ミコはそっと、キスをした。
あれですね。合鍵の話は、某最近結婚した方の影響を受けました。
おまけも投稿します。