氷川日菜と知り合ったのは、友希那よりもっと前、まだ小学生だった頃。
彼女とは出会いのきっかけなんてもう覚えちゃいない。ふと気付いたら日菜は俺の隣にいて、ふと気付いたら完全に打ち解けてしまっていた。日菜自身が、そんな魔力を持ったような人間だった。
〇
「今年の梅雨入りは大幅に遅れていて──」
テレビから聞こえるニュースキャスターの声と、けたたましく響く蝉の鳴き声をBGMに朝食をとる。
もう両親はともに仕事に出かけていて、テーブルの上には朝早くに作られて数時間放置された、腐りかけのご飯だけが無造作に置かれていた。
窓から昼空を眺めてみると、そこには確かに梅雨を感じさせない群青が無限に広がっていて。逃げるように俺はスマホを開き、日菜からの連絡をただ待った。
高校生活初めての夏休みにしては、いささか最低過ぎるスタートだった。
そういえば今頃、友希那は何をしているのだろうか。
また一人でスタジオにでも行って歌の練習か。それとも猫カフェで遊びに興じているのか。
いや。もしかしたら、もしかしたらだ。俺が知らないだけで、彼女には実は恋人がいたのかもしれない。そうじゃないと、断る筈が無いじゃないか。
あれだけ共に時間を過ごして、笑顔を見せ合った仲だろう?
……いや、それならその恋人は誰なんだ。お互いを知り尽くして信頼を得た上で告白しても、断ってしまう程の大切なその恋人は、一体誰だ。
君には俺が、
──ああ、情けない。
勢いのまま妄想を連ねて、いざ現実に引き戻されたとき俺に残っていたのは、両手では抱えきれない程の虚無感だった。
溢れそうになる涙を抑えようと友希那とのチャットを開いても、そこにあるのは既読の文字と返信の無い画面。
ちょうど、告白する数分前のチャットだった。
告白に選んだ場所は、友希那といつも一緒に行っていた公園だった。
寒いね、と冷たさからなのか相手がいるからなのかわからない赤く染まった頬を見て、手袋越しに手を繋いだ記憶が一分前のように甦る。
出来るだけその淡い思い出を焼き付けようと、必死に友希那とのチャット画面をスクロールした。
たまに絵文字を使って可愛らしさを見せてくる彼女が愛おしかった。猫のスタンプをプレゼントした時の喜びようは、画面の向こうからでもいつも使わない感嘆符を多用していることから手に取るようにわかった。
何か言葉を発することすら出来ず、腑抜けた顔をして坦々と画面を眺めている時。それを上書きするかのように日菜からの着信が入った。
「もしもし、起きてる?」
「たった今起きたよ。ずっと落ち込んでた」
「あは。たしかにきつそうな声だね」
「……余計なお世話だって」
憎まれ口を叩いてはいるものの、この苦しみを分かち合える存在がいることに救われている。今から俺は、日菜に自分の辛さを全て打ち明けて思い切り慰めてもらおうとするのだろう。
──そんな自分の姿を想像すると、吐き出しそうになった。
「……じゃあ、一時に来てね」
「わかった。今日は遅れないでくれよ」
日菜がその問いに答えることは無く、電話越しに無機質な非連続音が聞こえてからやっと、彼女から電話を切られたことがわかった。ふと時計を見てみれば、針は一秒のずれも無く正午を指していた。
もう一度窓から外の情景を眺める。さっきと変わらない、地面をただ照らしつけ燦々と光る太陽だけが存在感を持っていて、数少ない雲たちは散り散りになっていた。
梅雨の兆しは、やはり僅かにも見えない。
〇
いつもの場所──今はもう廃校となってしまった、俺と日菜が通っていた小学校の屋上。まだ俺たちが小学生だった時からここは二人の溜まり場で、日々の生活で積もり積もった愚痴を語り合った回数は優に百を超えていた。
「時間通りに来たんだ。真面目ちゃんだね」
時刻は丁度一時半。日菜は
「……で、振られちゃったんでしょ?」
鋭い針で傷口を抉るように、目に暗い影を落として日菜が尋ねる。
「そう」
「そっか」
屋上には避雷針も兼ねた何かを観測するような建物があって、そこの日陰に入っていれば地上よりかなり涼める空間が作られる。
だだっ広いその日陰の中、俺と日菜は冷え切ったスポーツドリンクを片手に、二人座って揺れ動く空を眺めた。
無言の間が流れる。けれど、居心地は悪くなかった。あまり多くない雲の流れだけが、時間が進んでいるのを教えてくれた。
「けっこう、あたしも協力してあげたんだけどな」
「……ああ、全くその通りだよ。ごめん」
横から香る日菜の匂いに、何の抵抗も出来ず癒されてしまう。彼女から貰ってばかりで何も果たせなかった俺には、力無く答えること以外に選択肢が無かった。
「思ったよりショック受けてんだね」
そう言うと日菜は冷たい空気に大きく伸びをして、そのまま俺の膝を枕にするように寝転んだ。彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。そしてそれは、いつも以上に落ち着いていた。
「あんなに三年間仲良くしてたんだけどな」
「杠くんがそう思ってただけじゃない?」
「かもな」
未練がましく何かを言って変えられない過去をいくら悔やんでも、眼前の現実に光が灯らないことはわかっていた。
やけに甘く感じるスポーツドリンクが失恋の辛さを溶かしてくれそうで、本来溢れ出る涙のように勢いのまま飲み干した。
「いったん友希那ちゃんのことは忘れてさ、新しい恋でも始めたらどう?」
「……他に誰かいるのかよ」
「いやいや。こんな可愛いJKアイドルがお膝元にいるのにそれは無いでしょうよ」
「冗談は頭だけにしてくれ」
「ええ、酷いなあ」
そう言って日菜はフッと笑うと、頭を膝から外しゆっくりと立ち上がった。
横目に見える、ぴんと伸びた背筋が眩しい。彼女はいつも自信を持っていて、常に前だけ見て進めているから。アイドルに選ばれたと伝えられた時も、不思議と意外には思わなかった。彼女のようになれたなら、友希那と付き合うことも出来たのだろうか。
そんな思考に浸っていた時、ふっと建物の隙間から強風が吹いた。
空のペットボトルが倒れ、カランコロンという音だけが寂しく周囲に響く。日菜の方にちらりと目をやると、彼女の下腹部から色付いた下着が露わになっていた。
「……水色?」
「エッチだねえ」
「少しは恥じらいを持ってくれよ」
「てへ。友希那ちゃんは何色なの?」
「知らねえ」
「多分黒だよ。猫柄の」
「……かもな」
「あれっ、大きくなってる」
「なんで服の上から気付くんだよ」
「さっき場所確認しちゃったから」
「サラっとえぐいことするのやめてくれ」
俺の言葉を受けて、日菜は笑顔でその場にまた座った。
身体を魂ごと吹き飛ばしてしまいそうだった風は、いつの間にか心地良く緩やかになっていて、自然と俺の顔も綻びが起きているのを感じた。
「うん、進也くんはやっぱり笑ってるのが良いよ」
こちらのさらに奥を見つめるように目を開いて、どこか儚げに日菜は呟く。
少しだけその悲しそうな表情の理由が気になった。姉のことだろうか、それとも──いや、ここから先は恋人たちの領分だろう。
気持ちに区切りをつけて、無理に日菜から目を逸らす。目の前に来た彼女の手の甲の震えに、心の引っ掛かりと後悔を感じた。
その、次の瞬間。首筋に冷たい感触が走った。驚いて横を見ると、いつの間にか笑顔になった日菜がドリンクを押し当てていた。
「もうちょっと良い反応してよね」
「大分外に置いてたからな。そんなに冷たくなかった」
「汗かなりかいてるよ。飲む?」
「……そうさせてもらおうかな」
「──ああ、間接キス」
「今まで何回してきたと思ってんだよ」
「……ふ。はは。あたしたち、ずいぶんと仲良くなっちゃったんだね」
涙目になるほどに笑いながら、真っ青の空を見上げて日菜は言った。
──俺にはその笑いを、これ以上無視することは出来そうにも無かった。
「……なあ、日菜。前から思ってた」
「どうしたの?」
「なんで、俺とこんな関係でいてくれるんだ?」
「なんでって、なんで?」
また、強く風が吹いた。今度はそれが日菜に当たることは無く、ただ俺にその先を言ってはいけないと警告しているようで。
「──だってお前、
数瞬の間、風が止んだ。
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