斯くして、一色いろはの小悪魔生活は終わりを迎える。 作:蒼井夕日
そろそろ帰ろうかという雰囲気が流れていた時に視界に映ったのは、同級生の倉敷ほのかだった。
わたしは、彼女を見た瞬間に体が硬直してしまった。なんとか笑顔をつくれたのは、いつも男子に愛想を振りまいていた賜物だ。まさかこんな形で役に立つとは思っていなかったけど、これで彼女の怒りが収まってくれるならいい。
でも、わたしの希望は薄く、彼女の目には未だ憎しみのような感情が宿っていた。ああ、どうしよう。こんなところで暴れないでほしい。せっかく先輩たちと楽しくお話ししていたのに。
「あんたが、あんたさえいなければ………」
震えた声で口をひらく彼女に、わたしは少しだけ視線が下がる。
──また、それか。
わたしが葉山先輩にくっついていることをよく思わない女子がいるのは知っている。会えば普通に話すような人にも、陰でこそこそと言われているのだって気づいていた。わたしが女子に嫌われるような女子だってことは、わたしが一番わかっている。
──でも、それがなんだ。男子に好かれたいなんて当たり前だ。一番人気のある人に好かれたいなんて当たり前だ。ちやほやされることでしか自分を確立できないことの何が悪い。
…………なんて、今までのわたしならそう返していたかもしれない。
でも最近のわたしはちょっとだけ変だ。
先輩と、先輩たちと出会ってから、わたしの中の何かが少しずつ変化していた。過去のわたしを振り返る度に、誰かが囁いてくる。
──違う。違う。間違ってる。
うるさいうるさい。そんなのわかってる。
本当は、本音でぶつかりあう奉仕部の先輩たちを羨ましいと思う自分がいる。今からでも、わたしもこんなふうになれるかなとか思ってしまう時がある。
結衣先輩がいて、雪乃先輩がいて、そして先輩がいる。その輪の中に、わたしなんかが入っていける余地なんてないんだろうけれど、いつかわたしも〝それ〟を手に入れることができる日があれば──。
ぐんぐんぐんぐんと沈んでいく思考を起こしたのは、強い振動だった。
ぱっと現実世界に引き戻されて、我に返る。そうだ、わたしは、…………あれ?
ぎゅっと、体を抱きしめられる感覚。
視界がまっくらだけど、暖かい。
え、死んだ?
…………いや、大丈夫だ。ちょっとだけ右腕がひりひりしているから痛覚はある。
「大丈夫か?」
先輩の声が体に響いた。
そして、少しずつ体の拘束が解かれていく。隙間から光が漏れていて、そこを覗くと倉敷さんがグラスを逆さにした状態で睨んでいた。それを見て、わたしは状況を察した。
わたしの頬がちょっとだけ濡れてるのはそういうことか。
先輩が庇ってくれたんだ。
わたしをかばって自分が浴びたくせに、「大丈夫か」って、大丈夫じゃないのは先輩の方じゃないですか。まあそういうところも先輩らしいけど。
「あ、ありがとうございます……」
先輩の胸のなかでごにょごにょと聞き取れるかあやしい声で言うと、先輩はほっと安心したように息を吐いた。しかし、先輩の攻撃はまだ終わりじゃなかった。
「あー、ちょっと濡れたな。すまん」
先輩は申し訳なさそうに眉を下げて、少し濡れたわたしの頬をブレザーの袖で拭いた。
あ、だめだコレ。今脳内で顔が「ボンッ」と破裂する音が聞こえた。顔が熱い。息がかかるほどに顔が近い。本当に破裂するんじゃないかなこれ。さすがにこの流れでその行動は色々とアレなんじゃないんですか先輩?もう動揺しすぎて指示語が多くなっちゃったよ……。ていうか、なんで先輩はそんな平然としてるんですかね。いつもはちょっと近づくだけで頬を赤らめてキョドるくせに。
いや、これは違う。だって普通の女の子ならこんなことされたら誰が相手だとしてもキュンとするだろう。それが今回はたまたま先輩だっただけのことだ。何も動揺することない。だから今のドキドキはノーカン。問題なし!のーぷろのーぷろ!!
そんな思考を頭の中で繰り広げていると、先輩はすっと背中に回していた手をどけた。ちょっとだけ名残惜しさを感じるけど、今はそんな余韻に浸ってる場合じゃないだろう。現に、向かいに座る結衣先輩は顔に怒りをたっぷりためてだんと立ち上がった。
「ちょっと!!」
結衣先輩が叫んでも、倉敷さんはそちらを向こうとはしない。倉敷さんの視線の先にあるのは、わたしと、わたしをかばった先輩だった。
「っは、目きも。あんたら付き合ってたんじゃん。しかも二人して生徒会?生徒会室でナニするつもりなんですかぁ?むしろそれが目的?うっわキッモ。まあでもキモイ同士いいじゃんお似合いでさ。私応援してるよ。だから葉山君に手出すのやめてその男と子作りでも頑張って────」
「黙りなさい」
たかが外れたように罵倒を口にし続ける倉敷さんを止めたのは雪乃先輩だった。
雪乃先輩の静謐ながらも鋭い声に、倉敷さんはくっと押し黙る。
「もう気は済んだでしょう。それとも、まだ騒ぎを起こすつもり?」
言って、ちらとまわりに視線を向ける雪乃先輩。
気づけば、店内の客は皆こちらのテーブルを伺っていた。客だけじゃなく、店員さんもこちらへ駆けつけているところだったらしい。それを見て、さすがの倉敷さんもこれ以上大事にする気はないのか、こちらを一度睨んで店を出ていった。
数秒だけテーブルに沈黙が訪れた後、結衣先輩があわあわしながら口を開いた。
「ヒッキーといろはちゃん大丈夫!?」
「わたしは大丈夫です。先輩が庇ってくれたので…………」
「ああ、軽めのスプラッシュマウンテンに乗ってたと思えば大丈夫だ」
「それ大丈夫じゃなくない!?ヒッキーはそこに立って後ろむく!」
いそいそと可愛らしいピンクのハンカチをとりだして、結衣先輩は人差し指でぴっと先輩を差す。
「い、いや、せめて自分で拭くから」
「いいから!」
「…………はい」
むっと眉間にしわをつくった結衣先輩に、先輩はしぶしぶ背中を拭かれていた。普段部室では結衣先輩を子供のように扱っているけど、先輩は意外と結衣先輩に弱いところがある。今の先輩はまるでお母さんに叱られる子供のようで、完全に立場が逆転していた。
結衣先輩は心配そうに先輩を見ていた。そうだ。彼女は先輩のことが好きなのだ。本人からは聞いてないけど、聞かなくたって態度でまるわかりだ。そして傍からみればだけど、先輩だって満更じゃないと思う。数分前の、パフェを食べる結衣先輩を見守る先輩の優しい眼差しには思わずわたしもニヤニヤしてしまった。一生その目で生きていけばいいと思う。
わたしは二人を横目にしつつ、正面の雪乃先輩に向き直った。
「雪乃先輩、ありがとうございました。わたし、もう少しでぶん殴っちゃうとこだったので」
わたしだけを罵るのなら別に構わない。けれど倉敷さんはわたしだけじゃなく、先輩のこともバカにした。それがとても悔しくて苛立って、危なく停学処分レベルの行動をとるところだった。いや、ぶん殴るとは言ったけどせいぜいビンタくらいですよ?後ろ手に包丁隠し持ってたりはしないからね?
「いえ、気にしなくていいわ。私も似たような経験があるから」
雪乃先輩は何も気にしていないような素振りだけど、たぶんわたしなんかよりもたくさんひどい扱いをされてきたのだと思う。それがどの程度のものだったかは想像するのも怖いけれど、だからこそ彼女は、わたしの気持ちを一番わかってくれているんじゃないかと思う。
「ああいった人を排除しようとすることしか出来ない人間は一定数いるもの。何か困ったことがあればいつでも奉仕部へ来なさい」
「雪乃先輩…………」
一見したら木で鼻をくくったような態度に見えるけれど、その実わたしへの配慮を欠かさずいつでも受け入れてくれるという雪乃先輩。そんな彼女の言葉に、わたしは思わず涙ぐんでしまった。さっきは先輩や結衣先輩、雪乃先輩が守ってくれていたから心を保てたけど、倉敷さんが去って安心したと同時に恐怖や罪悪感が一気にこみあげてきた。
「みなさん、本当にありがとう、ございました。それと、こんなことになってしまって、すいません」
喉が苦しくて、途切れ途切れになってしまう。三人の顔を見るのがなんだか怖くなって、視線も落ちていた。
「全然!!いろはちゃんが謝ることじゃないでしょ!ていうか、マジで超むかつくんだけどアレ!!」
「ぶっちゃけここまで面倒くさい奴だったとは思ってなかったな。女子高生の闇ってあんな深いの?完全に侮ってたわ……」
「まあ、人は色恋沙汰になると客観性を失うし、邪魔な存在は淘汰しようとするのでしょう。恋ほど面倒なものはないわね。比企谷君とは無縁の話かもしれないけれど」
「お前に言われたくねえよ……。むしろ俺は恋愛経験豊富なんだよ。顔も成績もそこそこいいし、彼女だって作ろうと思えばいつだって作れるんだよ俺は」
「あなたはそれ以外の能力が致命的に欠落してるでしょう……」
「ヒッキーの彼女とか、ウケる」
「いや、ウケねえから……」
わたしが押し黙っている間にも、三人のやりとりは繰り広げられていた。
相変わらず先輩をいじり倒すことを軸にした会話に、わたしは思わずくすっとしてしまう。
すると、そんなに大きく笑ったつもりはなかったのに、三人が一斉にちらっとわたしを見た。
ああ、そっか。みんな気を使ってくれてたんだ。わたしを元気づけるために、あえていつものようにくだらない会話をしてくれたんだ。
心がぽっと、温かくなる。心臓の中でろうそくを灯したように、胸が熱くなる。
本当に、居心地がいいなぁ、ここは。
「確かに、先輩ってわたしにもたくさんフられてますもんねー」
いつまでも先輩たちに気を遣わせるわけにもいかないので、わたしもいつものようにあざとい後輩を演じることにした。
「お前に告った覚えなんてねえよ……。いつも勝手に振ってるだけだろうが」
「もうしつこくてしつこくて嫌になっちゃいますもん」
「ねえ聞こえてる?俺の声聞こえてる?」
じと目で抗議してくる先輩の前で、結衣先輩がむーっと頬を膨らませて先輩を睨んでいた。だからそれ、もはや「嫉妬してます」って言ってるようなもんですよ?結衣先輩。
「……ヒッキー?」
「ストーカーはやめなさい、比企谷君」
「だからしてねっつの……。この地獄いつまで続くの?永遠ループしてない?」
はあっとため息をつく先輩。
相変わらず雪乃先輩の言葉は毒舌だなー。整った表情と射るような眼差しによって鋭さが増している。わたしは、そんな雪乃先輩の耳元に顔を近づけて小声で耳打ちをした。
「というか雪乃先輩、先輩の顔がいいことは認めてるんですね」
「なっ……」
言うと、雪のように白い肌はぶわっと一気に朱に染まった。ビンゴだったみたいだ。みんな気づいてなかったみたいだけど、わたしは聞き逃さなかったんですよ?
「よかったですね、気づかれなくて」
いつも先輩に向けるような意地悪な微笑みを浮かべ、雪乃先輩にくっと詰め寄った。
「大丈夫です。内緒にしてあげますので」
「な、なんのことかしら……」
普段の雪乃先輩からは想像できない動揺した顔で、ふっと目を逸らした。
こういうところもあるんだなー。可愛いなー。先輩だけど。ていうか、雪乃先輩のコレも結衣先輩と同じものと判断していいよね?本人は気づいていないだろうけど。
「てかヒッキー、このブレザー明日着れなくない?結構匂いついちゃってるよ」
結衣先輩が先輩のブレザーを犬のようにくんくんすると、雪乃先輩も気を取り直すようにそちらを見た。たぶんわたしから逃げるためだろうけど。
「比企谷君、よければブレザーはうちで洗濯するわ。洗濯方法を間違えば解れたりもするから。私の家はそこまで遠くないし」
「さすがにそこまでしてもらわなくていい。リセッシュかけときゃ大丈夫だろ」
「かけられたのは炭酸でしょう?それだけでは落ちないわ。比企谷君と同じで頑固な汚れは洗うのに手間がかかるから」
「お前はいちいち一言多いんだよ……。つってもな、着替えがな……今日体育なかったからジャージもないし」
「あ、よければわたしのジャージ貸しますよ?ちょうど今持ってるので」
小さく手を挙げて言うと、先輩は少し顔をひきつらせた。ほかの二人も一瞬動揺するように、ピクリと眉を上げた。
「いや、それはさすがに」
「そ、そうね。そもそもサイズが合わないのでは?」
「わたしはちょっとぶかぶかに着るために大きめのサイズなので、たぶん先輩でも着れると思います」
「そういう問題じゃないんですけど……」
さすがに今のは結衣先輩と雪乃先輩の前で攻めすぎたかな?
二人とは今後も仲良くしていきたいので、嫉妬されて嫌われるのは避けたいところだ。まあ、二人に限ってそんな小さい器じゃないとは思うけど。
結衣先輩はジャージを持ってないことが悔しいのか、うぅーっと唸っている。
「まあ、しょうがないよね。よし、んじゃゆきのんちにいこー!」
「おー!」
「親御さんが心配するでしょうから、連絡はしておきなさい」
「はーい」
「了解ですっ!」
「…………俺の発言権はないんですかね」
そそくさとテーブルを後にするわたしたちに、先輩は死んだ声で悪態付く。
あ、なんか緊張してきた。
* * *
雪乃先輩の部屋は、一人暮らしとは思えないほどに広かった。
ルーム内にはオレンジ色の控えめな照明が満たされていて、隅には観葉植物が置かれている。ここが15階ということもあって、大窓から見渡せる夜景はかなりロマンチックだ。
部屋の中央にはŁ字型のソファとテーブル、向かいには70インチくらいありそうなテレビが壁にはめ込まれているように掛けられている。
なにこの部屋すっごい住みたいんですけど……。ダメ?ダメか。
おずおずと部屋を見渡すわたしとは違って、先輩と結衣先輩は落ち着いていた。もしかしたら来たことがあるのかもしれない。
ファミレスの席配置と同じように、エル字の片方にわたしと先輩が、もう片方に結衣先輩と雪乃先輩が座る形になっていた。
「それじゃあ比企谷君、ブレザーを脱いでちょうだい」
「………………え、ここで?」
「なっ……そ、そんなわけないでしょう。馬鹿なの?露出魔?変質者?それとも八幡?」
「八幡は悪口じゃねえよ。罵倒に使うならヒッキーの方にしてくれ。親が泣くだろうが」
「ヒッキーも悪口じゃないからねっ!?あだ名だし!ジャーキーみたいで可愛いじゃんヒッキー」
「そもそもジャーキーは可愛くねえだろ……」
三人がわいやわいやとしている間に、わたしはジャージを取り出す。
それを見た先輩が居心地悪そうに頬をかいていた。
「…………ほんとに借りていいんだな?」
「は、はい……」
わたしもどこかむず痒く、視線を逸らしながらジャージを渡す。あ、汗とか大丈夫だよね……?今日はそんなに動いてないし汗はかいてないけど……。わたしの匂い好きじゃないとか言われたらさすがに傷つく。
「脱いだブレザーは洗濯かごにいれておいて。あとで洗濯するから」
「はいよ」
先輩が着替えに別室へ行くと、三人の間に沈黙が生まれる。
これヤバい。超気まずい。2人とも先輩のことが気になってるだけあって、気まずさ5割増しくらい。
「な、何か飲み物を淹れてくるわ。紅茶でいいかしら?」
「あ、ありがとうございます」
気まずさに耐えかねたのか、雪乃先輩がこの沈黙レースからいちはやく離脱。残ったのがわたしたち二人だけになったところで、結衣先輩は伺うように体をよせて耳元で聞いてきた。
「い、いろはちゃんってさ、その…………ヒッキーのこと、す……どう思ってるの?」
自分の口に手を当てて小さい声で言う結衣先輩に、わたしは目を見開いた。
わたしが先輩をどう思ってるかなんて、正直自分でもわからなかったからだ。
ぶっきらぼうで捻くれてて、わたしの仕草に全然ときめかないくせに、たまにわたしをドキドキさせてくる。実際わたしの好みとはまったく正反対で、普通なら話す機会すらないような人だ。出会った当初は少し変で挙動がキモイくらいにしか思っていなかったけれど、最近はどうだろう。家で一人でいる時も何回か考えたことはあるけど、その答えは未だ見つかっていない。気になっていないと言えば嘘になるかもしれない。結衣先輩にそのことを正直に伝えるべきかは迷ったけれど、今一番しっくりくる言葉で答えることにした。
「まぁ正直、なくはない、ですかねー」
好きかと言われれば頷きがたい。でも、気にはなる、その程度だ。
しかしそれを聞いた結衣先輩は、
「そ、そそそそそうなんだ!さ、最近仲いいもんねーあはは……」
めっちゃ動揺してた。もう目泳ぎまくってる。なんならうっすら涙すら浮かべてる気がする。結衣先輩、めっちゃ乙女で可愛いやん……。
「でも先輩はきっと、わたしに脈ナシですよ。全然響かないですし」
励ますつもりではないけれど、実際結衣先輩や雪乃先輩の方が先輩はお似合いな気がする。それに、先輩はきっと、わたしを好きになることはないと思う。あの人、年上とか大人っぽい人が好きそうだし。
せっかく聞かれたので、結衣先輩にも聞いてみることにした。
「結衣先輩は好きですよね先輩のこと」
「ええええっぇ?な、なにが!?なんのこと!?」
「その感じでよくバレずにやってこれましたよね……」
ほんとうにこの人は嘘をつくのが下手だ。
手をばたばたして誤魔化そうとする結衣先輩に、わたしはにまにまとした表情を向けた。
「…………や、やっぱわかる?」
「超わかります」
「あ、あはは……。い、言わないでね?」
「もちろんです。二人の秘密です」
お互い見つめあって小指を交わすと、ほっと胸をなでおろす結衣先輩。
ああ、恋バナ楽しい……。女友達が少ないから、こういう話するのすごい久しぶりだ。
いつか雪乃先輩ともできたらいいなー。
「これからは恋のライバルとして頑張りましょう♪」
「なんか全然信用できなくなってきた……。こうなったらあたしも負けないからね!」
「お前らはこそこそ何を話してんだ」
「っうぇぁああっ!?ひ、ヒッキー!?いるなら言ってよ!!」
「いや、いるだろ、そりゃ」
「………………き、聞いてた?」
「いやなにも。そもそも聞こえなかったし」
「そ、そっか……」
相変わらず感情の緩急が激しい人だ。ちなみにわたしは気づいてた。
先輩はすでに着替えが終わったようで、わたしの貸したジャージを着ていた。サイズ的には問題なさそうだけれど……。
「一色、これありがとな」
「いえ。…………あの、先輩。大丈夫ですか?」
「なにが?」
別に聞かなくてもいいことなのに、気になって口が開いてしまった。
先輩は気にしてないような顔をしているけど、わたしはおそるおそる口を開いた。
「その、汗の匂い、とか…………」
「汗?別に一色の匂いしかしないが……。むしろ好きだぞ」
「なっ……!」
あ、ダメだ。また顔が熱くなった。先輩は今日確実にわたしを殺しに来てる。なんならもう2、3回死んでるんですけど。なんか最近先輩ぐいぐいな気がするんだけど。これが無自覚たらしってやつ?
匂いが嫌だとか言われるより全然恥ずかしい。あと隣の結衣先輩がめっちゃ引いてた。
「え、ヒッキーマジでキモイ」
「その発言、セクハラと受け取られても仕方ないわよ。次は気をつけなさい」
「気をつけなさいとか言いながら携帯取り出してんじゃねえよ……。別にそういうつもりじゃなかったんだよ、すまん一色」
結衣先輩と、いつのまにか人数分の紅茶を入れて戻ってきた雪乃先輩に罵られて自分の発言を顧みたのか、先輩はばつがわるそうに肩を落とす。
「い、いえ、わたしは気にしてないですから……」
本当に今日は調子を狂わされてばかりだ。
それに、「お前の匂いがする」とか言われたら普通寒気しかないけど、先輩に言われても全然嫌じゃなかった。いつものわたしなら身を引いてムリムリアピールをするのに。
たぶん、さっき結衣先輩と話したから意識しちゃってるだけだ。ファミレスでの一件もあったし……。
「せっかくなら結衣先輩と雪乃先輩の匂いも嗅いだらどうです?」
「ちょっ、いろはちゃん!?」
「い、一色さん、一体なにをいってるのかしら?」
「まあまあいいじゃないですか。ね、先輩」
「いや良くないでしょ。頭大丈夫?」
「えー」
とはいいつつ、さりげなく自分の服をすんすんする結衣先輩と雪乃先輩。
大丈夫です。二人ともすごくいい匂いなので。
「きっと先輩デレますよ?見たくないですか?」
こそっと先輩二人に言うと、「ま、まぁ……」と満更じゃないみたいだ。よし、主導権はもらった!
わたしは二人の恋を応援してるのでこれくらいのおせっかいはさせて欲しい。
「女の子は自分の匂いが男子からどう思われてるのか気になるものなんですよ、先輩」
「まあ確かに、それは男でも気にすることあるけど……」
「はい、じゃあ結衣先輩から」
企画立案のわたしが指揮をとって、『女子の匂いを嗅ぐ大会』は始まった。
「は、はい、ヒッキー……」
結衣先輩は真っ赤にして両手を広げた。結衣先輩、それはハグするときのポーズですから……。
「なんでこんなことになった……な、なあ、せめて後ろからでいい?正面はさすがに」
「しょうがないですね」
ぶつくさ文句をいいながらも、先輩は背後に回って、座る結衣先輩の首辺りに顔を近づけた。
「ん……」
「…………」
「……っ」
な、なんだろう。この背徳感は。見てるだけなのにこっちまで緊張する。ていうか、なんか…………すごいやらしいんですけど……。結衣先輩も匂い嗅がれてるだけですよね?何で身を捩ってるの!?
「……もういいか」
「う、うん…………どうだった?」
「いや、うん。全然良かったと思うけど」
「そ、そっか」
「…………」
二人とも顔を真っ赤に染めて、それっきり黙り込んでしまった。
いや、この空気は変な声を出す結衣先輩が悪いんですからね。
「で、では次、雪乃先輩!」
「なあ雪ノ下、無理して参加しなくていいんだぞこれ」
「別に無理なんてしてないわ。早く終わらせなさい」
つっけんどんな言い方の割に、さっき二人の様子をちらちら見てたのはわかってるんですよ?
雪乃先輩はツンなイメージしか今まではなかったけど、よく観察したら結構天邪鬼なだけだったりするのだ。
先輩はさっきと同じように雪乃先輩の首に顔を近づける。
「っ……」
「…………」
「ちょ……ん、ぁ…………」
………………ねえこれいいの?未成年のわたしたちがやっていいゲームじゃないよこれ。これ企画したの誰ですかー?
「まあ、いいんじゃないの」
「……それだけ?」
「余計なこと言ってセクハラ扱いされたくねえんだよ……」
「別に私は、気にしないけれど……」
こちらも顔を真っ赤にする二人。
雪乃先輩に至っては耳まで真っ赤にしていた。
もともと先輩をデレさせるためにやったこのゲームだったけど、一番デレてたのは結衣先輩と雪乃先輩だったなー。…………うん、しばらくこういうおせっかいはやめておこう。
* * * * *
一色企画の意味不明な大会でしばらく変な空気が流れたリビング。
ぶっちゃけ恥ずかしすぎてもう匂いとか覚えてないけど、たぶん二人が気にするようなことはないと思う。…………嘘ですめっちゃいい匂いでしたはい。でも一色のジャージのやりとりもあった手前素直に言うのも憚られたのだ。
てかなんでこんなことなったんだよ。そもそもブレザー洗濯しにきただけなんですけど?
おい一色、お前がなんか喋れよ。この空気の原因はお前だろうが。
俺は一色にじと目を向けつつ、こほんと一度咳払いをした。
「雪ノ下、ブレザーなんだが……」
「え?あ、ああ、そうね。乾燥もしておくから、たぶん明日までには間に合うと思うわ。明日の朝渡すということでいいかしら?」
「ああ、助かる。悪いな」
「いえ、そもそも私が止められればこんなことにはならなかったのだし、あなた一人責任を感じる必要ないわ。むしろ、あそこで行動できるのは本当にすごいことだと思う」
「うんうん、ヒッキーかっこよかったよ。いろはちゃんをぎゅって守ってて!」
「いやまあ、咄嗟だったから……。そういや一色、あん時けっこう腕強く握っちゃったけど、大丈夫だったか?」
褒められるのがむず痒く、話題を逸らそうと一色の方を向いた。
「あ、はい。全然大丈夫です。改めて、あの時はありがとうございました」
「ん」
くそう、人に感謝されるのって嬉しいけどこんなに恥ずかしいものなんだね。僕、久しぶりに人の心に触れた気がする……。
「そんじゃ、帰るわ」
「そだね。もう遅いし」
「紅茶ごちそうさまでしたー!」
帰り支度をして玄関へ向かう。
「それじゃ、気を付けて」
さっきの雪ノ下を思い出してしまって思わず目を逸らす。俺は顔を合わせず雪ノ下に会釈して、マンションを後にした。
* * *
「ヒッキー、いろはちゃん、ばいばい!また明日―!」
「結衣先輩、また明日ですー」
「気つけて帰れよー」
先に降りた由比ヶ浜と別れ、電車で揺られるのは俺と一色。
まさかこいつと降りる駅が一緒とはなんたる災難……と気を落としつつ、そういえば前も駅前のモールで鉢合わせたことを思い出す。あの日俺は、あのモールには二度といかないと強く決意を固めた……。
「今日は色々ありましたね」
隣に座る一色が、ぐっと伸びをしながら言った。
「ほんとなぁ。最近の俺多忙すぎるんだよなぁ……」
「何言ってるんですか。会長になったらもっと忙しくなりますよ」
「それなぁ……」
「部活にも出るんですよね?」
「まぁなぁ……」
「もー!さっきからわたしへの対応が適当過ぎませんかね!わたしと話すのそんな嫌ですか!」
「まぁなぁ……って痛い痛い。腕つねんな」
「つーん。もう先輩なんて知りません」
疲労により適当に受け流していると、一色はふいっとそっぽを向いた。
……まあ、確かに今日は一色の方がメンタル的にもつらいことがあっただろう。表に出さないだけで、こいつはストレスとか溜め込みそうな気がする。
そう思うと少し申し訳なくなって、機嫌を取りなそうと仕方なく話しかけることにした。
「……ジャージ借りちゃってるけど、明日とか大丈夫か?」
「明日も体育ありますけど、二着もってるので大丈夫ですよ。なんですか?ほしいんですか?それ」
「いや、いらんけど」
「むー」
適当に手でぱっぱとあしらうと、一色はむっとふくれっ面をする。一色に対するこの扱いはもはや癖になってる。仕方ないね。だってこいつあざといんだもん。あざかわなんだもんっ!
「もしかして、わたしの首の匂いだけ嗅げなくて怒ってるんですか?」
「むしろあの企画を提案したことに怒ってるんですけど」
「でも先輩、二人の匂い嗅いだ後めっちゃ顔赤くしてましたよ」
「それは…………誰でもなるでしょ、あんなの」
「へー、どっちのが好きでした?」
「…………」
「それとも、二人よりもわたしの方が好きだったり」
言って、唇に指を添えて悪戯っぽく笑う一色。
だめだ、こいつ止まらねえぞ……。
完全に俺をいじることで面白がってやがる。
果たしてこの地獄がいつまで続くのだろう。と、次の停車駅をちらと確認すると、俺が降りる駅まで5分ほどかかるくらいだった。
結構かかるなぁと思っていると、一色はぽつり、と呟いた。
「わたしは…………」
真っ赤にした顔を俺の首元に近づけて、一色はすんすんと鼻をならす。
その瞬間匂いを嗅がれたのだと気づいて、俺はぱっとそちらを振り返ってしまった。振り返った先の一色の顔が近い。熱でもあるのではないかと思うほど首元にかかる息は熱かった。拳一個分くらいの距離にある一色の前髪が揺れ、ふわりと甘い匂いが脳を刺激する。一瞬、意識がくらりとしたが、一色はその瞬間を見逃さないようにか、上目遣いで俺を見上げた。そして、
「先輩の匂い、好きですよ」
な、なんか八幡の主人公補正がすごい件……。これもいろは視点ということで多めに見てやってください。
そして、この『斯くして~』ですが、実は選挙後からがメインのつもりで書き始めたんですよ……。あ、あれ?まだ10話……?
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