斯くして、一色いろはの小悪魔生活は終わりを迎える。 作:蒼井夕日
放課後になると、部活へ行く者、帰る者、教室に残っておしゃべりをする者とで別れ、この一幕がここが高校であることを想起させる。何気ない放課後イベントでさえ、いつしか色濃い想い出になるのだろう。
まさしく俺もその一人で、帰り支度をささっとすませると椅子から立ち上がる。後ろをちらと見ると、由比ヶ浜はもうすでにいないようだった。
昨夜のこともあったし、顔を合わせづらいこともあるのだろう。雪ノ下陽乃によって、しばらく奉仕部に漂っていた違和感が表面化されたのだ。俺だってどういう顔して話したらいいのかわかっていない。
こういう時こそすぐに家に帰って、我が妹の小町と夜通しでお話したいという妹さえいればいい状態に陥っているのだが、今日も今日とて部活に行かなければならないから仕方ない。
そしていい加減、この関係にもケリをつけなければならない頃だ。そうするきっかけと理由はもうもらった。ならば、あとは話をつけるだけ。
そう決心して、俺は教室を出て特別棟を目指した。
部室前まで来ると、いつもは廊下まで漏れる由比ヶ浜の声が聞こえない。もしかしたら雪ノ下しか来ていないのだろうか。そう思うと、扉に伸ばしかけた手も億劫になる。
意を決して扉を開くと、むわっとした暖気が流れてくる。
そして部室には、雪ノ下と、由比ヶ浜がいた。一色はいないようだ。
雪ノ下はいつも通り文庫本を、由比ヶ浜はスマホをいじっている。
普段ならこの光景にさして違和感も抱かないが、いくらか浮ついた空気を感じた。きっと、いつも通りを装って、まるで何事もなかったかのように振舞おうとしているのだろう。その証拠か、いつもなら暖気と共に流れてくる紅茶の香りがしない。
「うす」
軽く挨拶をすると、雪ノ下と由比ヶ浜もいつも通りに返してくる。
それを聞いて、俺は指定席に座る。
いつもならば、ここで文庫本を取り出して部活が終了するまで読み耽るのだが、今日はそうもいかない。まずは落書きの件について話しておくべきだ。雪ノ下も由比ヶ浜もそのことは念頭にあるだろう。
「あー、依頼の件だが……」
そう切り出すと、雪ノ下も由比ヶ浜もめいめいに顔を上げる。
「……そうね。昨日のこともあるし、何か別の方法を……」
「いや、そうじゃなくてな。……もうやめようぜ、こういうの」
雪ノ下の言葉を遮って言うと、雪ノ下と由比ヶ浜は言葉を詰まらせ、目を瞠った。
何をとも言っていないのにも関わらず彼女たちが口を噤んだのは、きっと彼女たちも同様に、今の三人の関係に問題があることは認識しているのだろう。
部室内がピシピシと凍り付いていくような、静観とした空気が耳に痛い。
「こんなこと続けても、意味ないだろ」
目線は由比ヶ浜にも雪ノ下にも向けられず、机の網目をただ見つめていた。今の彼女たちの表情は見るに堪えないだろう。少しでも見てしまえば、その先の言葉が出てこない気がしたのだ。
「……。なんで、そんなこと言うの?」
なぜ今更、今までの私たちを否定するのかと。口にはしていないが、由比ヶ浜はそう言いたいのだ。この三人の関係をこれまで維持しようとしてくれていたのは由比ヶ浜だけだった。その負担を押し付けていたくせにどの口叩いてんだと、自分ですら思う。
だが、俺たちはこの関係を終わらせなければならない。由比ヶ浜に、これ以上の負担はさせない。
「この現状を巻き起こしたのは俺だ。だから、今日でちゃんと終わらせる」
「……?」
言って、俺は顔を上げて二人を見る。今にも泣きだしそうな由比ヶ浜の表情に、出かけた言葉が出なくなる。
でも、終わらせて、また始めなければならないから。閉じかけた口を、ゆっくりと開いた。
「自分で選択しなきゃならないんだよ。何が正解で、間違っていて、どうしたいのか、どうすべきなのか。その過程を放棄したから正解がでなかった。正解が出ないから不安で、不安だから誰かに託すんだ」
「…………それって、どういう……」
話の要領がつかめないのか、由比ヶ浜が意味を問おうと口を開くが、自分を抱くように腕を組んで目線を逸らす雪ノ下を見て閉口した。
雪ノ下には痛いほどに伝わるだろう。それもそうだ。
これは俺と雪ノ下が引き起こした問題なのだから。
今まで、二人で目を背けてきたことを指摘されようとしているのだ。
「でも、それは間違いだ」
だから、しっかりと口にする。
「誰かに託すことは楽なんだ。それで失敗したとしても、自分のせいにしなくて済むからな」
「……!」
言うと、雪ノ下はばっと顔を上げた。
その表情は悲痛で、俺の主張を否定せんと首をふるふると横に振った。
「ちがう!そんなつもりじゃ…………。私は…………私はただ、あなたがそうするならって、だから……」
「ゆきのん……」
声は震えていて、尻すぼみに小さくなる。
その雪ノ下の表情を見ているだけで、自分の胸がきゅっと詰まる感覚がした。
ああ、やはり間違っている。
雪ノ下雪乃が、自分の選択を誰かに託すなど。
ましてその相手が俺であるなど。
そうわかっていたはずなのに、俺がこれまで俎上にのせなかったのは、きっと浮かれていたからだ。
あの雪ノ下に頼られて、望まれて。それが正しい選択だと思い込んでいたのだ。
本当は、自分の選択を誰かに委ねて、自己防衛をしていたのは俺だった。
「ああ。……だから、そもそもを間違えてたんだ」
弱々しく瞳を潤ませる雪ノ下を見つめて、首を振る。
「雪ノ下。お前の依頼、覚えてるか」
「え?」
聞くと、雪ノ下はなんのことだと戸惑うが、少し考えると、はっとしたように目を開いた。
あの日、雪ノ下は希った。奉仕部を守ってほしいと。
その懇願に対して、俺は否定も肯定もせず、ただ黙っただけだった。
沈黙は肯定ともいうが、それは暗黙の了解に他ならない。
あの時、俺が首を縦に振らなかった時点で依頼は成立していない。だから、今ここで答える。
「お前の依頼は受けられない。俺は奉仕部を守れないし、それをするのは俺じゃない」
「…………」
「ただ、この部活の部長はお前だ。だから、お前がそれをするのなら、俺はお前をサポートする。お前がこの部活を維持したいと願うなら、俺もそれをサポートする」
だから自分で選択しろと、視線を向ける。
奉仕部が現状抱く問題は、雪ノ下自身にある。雪ノ下自身が決断することを恐れているから、以前のような関係を保てなかったのだ。
ならば、解決する方法は一つしかない。
雪ノ下自身に決断させる。
が、問いかけても、雪ノ下は視線を逸らして唇を噛んでいた。
「……」
ぱくぱくと口を開けては閉じてを繰り返す雪ノ下。
沈黙が十秒ほど続いた。
すると突然、その沈黙を破るように、ガラガラと部室のドアが開かれた。
「こんにちはでーっす!」
快活な声が響き渡る。やってきたのは一色だった。
一色は挨拶と共に敬礼ポーズをとって、顔にはにっこり笑顔を浮かべていた。
どんなタイミングで来てんだよ、と突っ込みたくもなるが、先ほどまでの部室の雰囲気からそんなことも言えるはずない。
「い、いろはちゃん、ごめんね。今はちょっと三人で話してて……」
と、由比ヶ浜が申し訳なさそうに言うが、一色は神妙な空気を漂わす三人を見ても気まずくなるどころか、むしろ全てを把握したかのように笑顔のままで、のっしのっしと松葉杖もつかずに入ってきた。
そして、雪ノ下の前で立ち止まると、雪ノ下の両頬を両手で挟んだ。
「い、一色さん?」
──ゴツンッ
と、鈍い音が響いた。
一色が雪ノ下に頭突きをしたのだ。
「っ……!?」
「ったぁ…………」
「い、いろはちゃん!?」
雪ノ下は頭突きで赤くなった額をさすりもせず、ただ驚きに目を見開いていた。
一色は自分で頭突きしておいてかなり痛そうにしている。何してんだこいつ。
「お、おい……」
俺も一色の行動の意味がわからずに戸惑うだけだったが、一色は俺の呼びかけを聞かず、雪ノ下の両頬を挟んだまま、雪ノ下を真正面から見つめた。
「なーに辛気臭い顔しちゃってんですか。それでもわたしの憧れた雪乃先輩ですか。くっだらないことに無駄に悩んでる暇があったら、まず先に行動したらどうですか」
一色はさっきの部室での話を聞いていたのだろう。
言い方はつっけんどんだが、その実、無情とはかけ離れていた。
これが一色なりの優しさで、精一杯の愛情表現だということはすぐにわかる。
「どうしたらいいのかわかんないから誰かに任せちゃうなんて、そんなの雪乃先輩らしくないです。てかそもそも、結衣先輩も先輩も、もちろんわたしも、雪乃先輩と同じように何もわかってないんですよ。だからわからなくてもいいんです。間違ってても、雪乃先輩を責める人なんてこの中にはいません。もしいたらわたしがぶっ飛ばしてやるってもんですよ」
相変わらずのぶっきらぼうな物言いに、雪ノ下の視線は戸惑うように揺れていた。が、次の瞬間、一色の声音が暖かくなる。
「誰かが決めなきゃなんです。まあ結衣先輩だとちょっと不安だし、先輩なんかもっと不安ですけど…………。なんで、相対的に言うと雪乃先輩が決めたことならわたしは安心できちゃいます」
一色は雪ノ下の頬から両手を離すと、そのまま後ろ手を組んで、困ったように笑ってみせた。
「わたしが雪乃先輩を見てます。カッコイイとこ見せてくださいよ。それだけじゃ、足りませんか?」
雪ノ下は、はじめは当惑した様子だったが、ふるふると顔を横に振ると、強い眼差しで一色を見つめた。
「…………そんなこと、ないわ。ありがとう、一色さん」
そして、視線を俺と由比ヶ浜に移した。
その顔には、少し前までの弱々しい雪ノ下などいない。
以前のように、いやむしろ以前よりも、確固とした意志を持った眼差しを俺と由比ヶ浜に向ける。
「ごめんなさい、みっともないところを見せてしまって」
「別にいいんじゃねえの。見せたくなくても常にみっともなくてろくでもない奴とかいるしな」
「それは自己紹介かしら」
俺の軽口に、雪ノ下はくすっと笑った。
「ゆきのん!!」
そんな雪ノ下の表情を見てか、がばっと由比ヶ浜が雪ノ下に抱き着いた。それに引きはがすでもなく、雪ノ下は諦めたようにため息をついて、困り笑いを浮かべる。
「いろはちゃん…………。ありがと。大好き」
「な、なんですか急に。そゆの直球で言われるとちょっとアレなんですけど……」
言いながらも、一色は若干顔を赤くして視線を逸らす。
一色は、雪ノ下に理由をあげたのだ。
雪ノ下が自分で決断してもいい理由を。
それは俺でも由比ヶ浜でもきっと出来ない役割だ。後輩の一色だったから、雪ノ下もそれを許容し、受け入れ、前へ進むことが出来るのだろう。
「ヒッキーも。…………ありがとね」
「いや、礼を言うのはこっちだ。……その、すまなかったな。色々大変だったろ」
「いや、それお礼言ってないし。完全に他人事だし」
「確かに…………。さんきゅな」
むすっとした由比ヶ浜だが、改めてお礼を言うとえへへーとまた雪ノ下に抱き着いた。
「近い……」
ああ、そういえば、こんなんだったっけか。
あまりにも久しくて、懐かしいから忘れていた。
「時間もないし、さっそく作戦会議を始めましょう。少し考えがあるの」
雪ノ下はそう言ってニコリと不敵に微笑むと、俺たち三人を見渡した。
差し込む陽だまりが、ぽかぽかと部室を温める。
きっとまた、すぐに、紅茶の湯気が立ちこめる日々が来るのだろう。