斯くして、一色いろはの小悪魔生活は終わりを迎える。 作:蒼井夕日
「これ苦いので、交換してくれませんか?」
────間接キス。
それはある人の唇が触れたものに別の人が唇を当てる行為を指す言葉だが、この言葉の捉え方は人によって大きく変わる。
古くは小学生まで遡り、その“現場”を目撃、若しくは“うわさ”として耳にしたことは誰しもあるだろう。それは…………。
──リコーダーであるッ!!
小学校の音楽ではソプラノリコーダーをつかう学校が大半を占め、使い終わったリコーダーは教室のロッカーに置いて行っても注意されないことが多い。
毎回持ち帰る生徒ももちろんいるのだが、中には所謂「置きリコーダー」をする女子も少なくない。そう──それは──つまるところ────。
────必ずと言っていいほど女子の置きリコーダーをぺロる
もちろん普通に考えれば即お縄レベルなのだが、小学生であるが故に許されてしまうケースが多い。好きな女の子の使用済みリコーダーでナニしたいという気持ちを「異常」の一言で一線を画すには
そして、比企谷八幡もそのレッテルを貼られた経験がある男の一人である。
もちろんこの男にそんなことをする度胸もあるわけがない。朝学校に行くと生徒たちの視線がなにやら冷たかったあの日、比企谷八幡が女子のリコーダーを…………ということになっていたのだ。
それからというもの、この男はそんなトラウマ故に、自分をぼっちの道へと追い込んだ「間接キス」というワードには敏感なのであるッッ!
世のペロ太郎の諸君、ダメ、ゼッタイ………………────。
──と、か〇や様風ナレーションが頭の片隅でタキオン級の速さで走る中、俺の視界に映るのは黒で染められた缶コーヒー。
単体では飲料であること以外の何の意味をもたないそれは、プルタブが開けられ、飲み口にはコーヒーのあとが残っていた。いくら恋愛経験が豊富な俺でも、唇経験ゼロのDt.であることには変わりなく動揺を隠せなかった。
間接キスを「皮膚と皮膚の接触」とするものもいれば、もちろん俺のようにそうでない人もいる。一色が俺をDt.だからとからかっているのは一目瞭然だ。であるならば。
大人をからかったら痛い目に遭うのだということを、この小娘に教えてやらねばならない。
俺はヤるときはヤる男だ。ここは毅然な態度で一色の缶を受け取って、マッ缶を渡せばいい。
一色の爆弾発言から刹那、0.1秒にも満たない思考の探検を終え、俺は意を決して口を開いた。
「ムリ」
はいヘタレ乙。
いやちっげえし。俺はただこの愛するマッ缶を手放したくなかっただけだから。この甘さをわかってやれるのは俺だけだから。誤解しないでよねっ!
そんな俺の内心を見透かしたのか、一色は「まあ冗談ですけど」と言って手をひっこめた。ほんといい性格してる、この
その後も我慢しながらちびちびと飲んでいたようだが、やはり苦いのかその量はほとんど減ってなさそうだった。かくいう俺も調子こいて長い方を買ってしまったので、まだ飲み終わるまで時間がかかりそうだ。
一色の愚痴を聞いてやろうという目的で小休止をとったのだが、今の一色を見ている限りではそこまで悩んでいる様子はなさそうだ。これでも、うちの妹さんのおかげで「女の子の愚痴へのベスト対応マニュアル」はしっかりと伝授されている。
たとえ女子が愚痴を言ってきたとしても、解決策は出してはいけない。求めているのは、聞いてくれる人がいることへの安心感と共有であり、正論で返すのは超NGだということをみっちり小町に教え込まれた。
お察しの通り、そんな機会は一度たりともなかったが。
先のやりとりから寸刻、一色が口を開いた。
「先輩ってヘタレですね」
「うっせ。草食系なだけだ」
「いやいや、先輩は肉食だと思いますよ?人の肉とか食べそうですし」
「物理的じゃねえか。完全にゾンビ扱いされてるんですけど、大丈夫ですかね」
カニバリズム、ここに極まれり…………。
にしても後輩からこんだけいじられても怒らない俺ってばやっさしー。完全に舐められてるだけですねはい。
「まあでも、奉仕部の方々と仲直りできたみたいでよかったです」
「……別に、お前が気にすることじゃないだろ」
「だって、雪ノ下先輩が怒ってるときって超怖いじゃないですか」
「それ、超わかりみ深いわー」
「うわぁ…………」
家での小町を真似て言うと、一色は背中に虫が走ったようにして拳一つ分距離をとった。いや、別にいいでしょ?うわさだと今どきの高校生はみんなこんな変な言葉使いするって八幡聞いてるよ?奉仕部でも由比ヶ浜とかめっちゃつかってるし。「それわかりみ!!」とか超いってるぞあいつ。
いやでも、戸塚が使ってるところはあまり見たくないな…………。
「げふん。まあ今回の件はいいんだよ。どっちかっつーと、今は奉仕部より妹の方が大変だ」
「もしかして、前言ってたコマチって子ですか?」
「ちょっとした兄妹喧嘩中なんだ。触れないでやってくれ」
およよと泣き崩れる素振りを見せると、横から「…………シスコン?」と心底引かれた声が聞こえてきたのは気のせいですかそうですか。
「でも、ちょっとだけ羨ましいです」
引き顔を引っ込め、微笑を浮かべる一色。兄妹喧嘩のどこに憧れポイントがあるのかと視線だけで問うと、
「だって兄妹同士の喧嘩って、確かにちょっとしたことで始まったりするかもですけど、心の内では自分が悪いんだっていうのがわかってる感じっていうか。兄妹だからこそお互い謝りにくくて、でも兄妹だからすぐ仲直りできて、またいつも通りみたいに話して────。なんというか、ああ、それが本物なのかなって、ふと思うんですよ」
一色はぽつぽつと言葉を紡ぐように、憧憬に焼かれるように沈む夕日を眺めていた。
「ま、全部妄想なんですけど」といつもの調子で言う一色。
兄妹の話をしているはずなのに、聞いていた俺が今想起していたのは、奉仕部だった。その理由に自分でも気づいてしまっていることが何よりも今の俺の弱点であるような気がして、思わず一色の方から視線をそらした。
「本物、ねぇ」
「…………なんか、ものすごい恥かしいことを口走っちゃった気がします」
両手で握った缶をにぎにぎしながら、口をとがらせる一色。そこには今までのようなあざとさではなく、恥ずかしさを隠すような素の仕草が伺えた。
「それもチラ見せ戦法ですかね」
「今のは素だったんですけど……」
ふむ、一色にも狙っていないあざとさもあると。
………………え、なにそれ一番
「お、一色ちゃんじゃ~ん?」
そろそろ冷めてきた缶を片手にくだらない会話をしていると、公園の入り口から総武高のブレザーを着た二人組の男子が手をぷらぷら振りながらこちらへ歩いてきた。一人は赤髪で、片耳ピアスとネックレスが、そのチャラさを助長していた。見た目と声の出し方から、クラスの中心的人物在だろうか。例えるなら劣化版葉山みたいな感じだ。いやー、まさに「校則守らない俺かっこよくね?」っていうオーラがプンプンする。
まあつまり、俺が嫌いなタイプだ。
「あーと……二宮先輩、どうもです」
「通るとき見つけてさ。てか、部活じゃないの?」
二宮、というのがこの男の名前だろう。
え、君たち知り合いなの?俺すんごい場違い感あるんですけど。てか絶対邪魔っすよねすんません帰ります。
突然の一色の知り合い登場に浮足立っていた俺は、なるべく存在を悟られないように「じゃ、俺はここで……」と自分ですら聞こえない声量でベンチから立ち上がろうとして────、
「…………ん?」
5センチほど腰を浮かしたところで、ブレザーをくいっと引っ張られた。強めに引き戻されたせいで、ドスンとベンチの背もたれに背中を打った。意外といてぇ。
なんだなんだと横をみると、ブレザーを引っ張ったのは一色だった。一色は二宮という男にいつもの営業スマイルを浮かべながら、ノールックで俺が逃げようとしていたことを看破したらしい。めんたま何個ついてんだよ……。
「ちょっと色々ありまして」
一色が答えると二宮は、「ふーん」と鼻をならしながら俺の方をちらと見た。もちろん「ダウジング・ボッチ」性能が備わってる俺は今のがどんな意味を孕んでいるのかは大方察知できた。
「ていうか、一色ちゃん最近大変みたいじゃん?噂できいたよ」
喋ったのは、二宮の隣にいたへらへらと笑みを浮かべている男だ。
「まあ、大変っちゃ大変ですかねー」
「だよね~。よかったら俺ら相談のるけど?どっか店でお茶でもしながらさ」
「お茶する」というワードをドラマとアニメ以外で初めて聞いたが、トップカーストの人たちはよく使うんですかね。君たちお茶よりお酒しそうですけどね。
それとこういう輩がいう「お茶する」っていう誘い文句の裏は「ホテル行かない?」か「路地裏いこうぜ」なので絶対についていってはならない(俺調べ)。
一色との付き合いは俺よりも前からありそうだし、一色はそっちにノるのかと思ったが予想は外れたみたいだ。
「いえ、悩んでるってほどでもないですし、大丈夫です」
「まあ直接だと言いにくいこともあるか。ラインでならいつでも話きいてあげるからさ、交換しない?」
「あ、俺もまだ一色ちゃんのラインもってなかったわ」
言いながら、各々ポケットからスマホを取り出す二人。しかし一色は、
「えとー……すいません、今日スマホ家に忘れちゃって…………」
「そうなの?じゃあまた今度ね」
「あはは、すいません」
「そんじゃ、俺ら帰るわ」
「じゃあまたこんどー」と言って、男二人は来た道を戻っていった。
完全に空気扱いされてたけど、変に絡まれなくて安心した。
それで…………。
「そろそろ離してほしいんですけど」
「え?あっ……」
言うまでブレザーをつかんだまま離さなかったので、「お前は逃がさんぞ」ということだと思ったのだが。
「すいません、ちょっとだけ、その……こわくて」
離した右手を見ると、確かに少しだけ震えていた気がしたが、一色はそれを見られまいと左手でぎゅっと抑えていた。察するに。
「苦手なのか、あいつら」
「……」
こくこくと頷いて答える一色の表情は俯いた髪で伺えないが、少なくともいつもの小悪魔のような余裕はどこにもなく、ただ縮こまっている小動物にしか見えなかった。
それならなぜあいつらと関わっているのか、なんて聞くのは野暮だろう。
悄然と俯いたままの一色になんと声をかければいいのかわからないまま、それでも一人にするのも違うだろうということだけはさすがの俺でもわかったので、冷めきったマッ缶で時間をつぶすことにした。こんな時にこそ相談に乗ってやれない自分を無力に感じながら空を見上げると、夕日は大分沈んでいて、本格的に暗くなっていた。帰りにコンビニケーキでも買って、いい加減小町と仲直りしないとなぁなんてことを考えていると、
「えいっ」
という声と共に。
俺のマッ缶を横から奪い取った一色は。
「ちょっ……」
ぐいっとビールでも飲むかのような勢いでもって残りを飲み干した。そして、
「なーんて、わたしが落ち込むとでも思いましたか?」
ぺろり、と唇についたコーヒーをなめて、いつもの数倍あざとい小悪魔が、赤い夕日が沈むと同時に誕生した。
街灯が灯らない公園に心なしか安心した俺は、目の前の後輩にチョップをかまして公園を出た。
* * *
一色を駅まで送り、帰宅してから3時間。
リビングのソファに座りながら今日も今日とてぐでっているかまくらをふぁっさふぁっさと弄びながら、テーブルの上に置いたコンビニ袋を眺めていた。
「…………」
愛しき自宅だというのに、いつになく緊張している理由はもちろん小町の帰りを待っているからだ。
受験が迫っている小町は第一志望の総武高に向けて夏から塾に通っているため、帰りは9時を過ぎることがほとんどだ。
受験を控えている小町に悪影響を与えないためにも、いち早く仲直りしておこうと決心したのだ。喧嘩したときは兄から謝る。このルールは比企谷家においては絶対不変のルールとなっているため、謝罪に関してはもう慣れたものだ。
────嘘であるッッ!!!
この男、家に着いた3時間前からソファから一ミリたりとも動いていないうえ、緊張故に先刻からプルプルと全身震えてるのであるッ!!
ルールとはいったが、謝っても無視されるなんてことは過去にいくらだってあったし、そのたびに比企谷八幡のメンタルはズタボロ!そして今回に関しては百パーセントこの男が原因で喧嘩が勃発している。妹の比企谷小町が許してくれる可能性は極めて低い。絶対絶命のこの状況に追い込まれてなお、かまくらをなでることで平常心を保たれていることは称賛に価するだろう。
時計の刻む音と心臓が脈打つ音だけが耳に響く中、ついに小町が帰宅した。
「こ、小町、おかえり」
「…………」
勇気を振り絞って声をかけたが、やはり無視。
しかし、ここまではまだ予想通りだ。傷付かなかったかと言われれば嘘になるが、兄貴としてもう一歩踏み出さなければ。
そのまま自室へ向かおうと再び扉のドアノブに手をかける小町。
思わずテーブル上のコンビニ袋を手に取って立ち上がった俺に、小町は少しだけ逡巡したように見えた。
「小町、その…………すまなかった」
「…………なにが?」
「あの時は、お前の気持ちも考えずに自分のことばっか考えてた、と思う」
「………………うん」
背中越しに聞いていた小町は、くるっと振り返って。
「小町も、ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げた。その声から、もう怒っていないというのが伝わってきて、俺はほっと胸をなでおろした。
あ、やばい緊張の糸切れて泣きそう。泣きそうなくらい嬉しいマジでよかったよおぉぉ!!!
「それで!!それだけじゃないでしょ?小町色々聞いてるんだから」
「まあ…………なに、これでも食べながら話聞いてくれ」
「ん、わかった。ショートケーキに免じて聞いたげる。ケーキに罪はないもんね~♪」
小町はショートケーキを、俺はショコラケーキを食べながら、事のいきさつを小町に話した。
赤坂アカ先生、大変申し訳ありませんでした((汗
小悪魔、爆誕しました。