斯くして、一色いろはの小悪魔生活は終わりを迎える。 作:蒼井夕日
夕日に消えていく先輩を見送って、わたしは改札へ向かおうと踵を返す。
危なかった。もう少し先輩が帰るのが遅れていたら、泣いてしまってたかもしれない。涙で化粧がぐちゃぐちゃになった顔なんて、女子的に超アウト。ヘタしたら寝起きよりも見せられるものじゃない。
それに、もし泣き顔をみせたら、先輩に罪悪感を抱かせるかもしれない。お人好しの先輩なら帰るに帰れず、渋々わたしに付き添ってくれただろう。でもそれじゃあ、今まで繕ってきた自分が台無しになってしまうから。
だからわたしは、先輩がいなくなった今でも涙をこらえていた。
これから一人で家に帰らなければならないと思うと、一気に寂寥感に襲われる。
ダメ。泣いちゃダメだ。
目の下にぐっと力を込めて、歩き出した。
──寂しい。寂しい。
そんな情けない弱音を押し殺して、前へ進んだ。
──助けて。助けて。
そんな望みのない懇願が、哀願が、切願が、体の中から弾けてしまいそうに苦しい。どくん、どくんと、心臓が五月蠅い。
自分の心臓の音だけが耳に届いて、この世界にわたし一人しかいないような錯覚に陥る。
しかし、雑踏も喧噪も何も聞こえない世界に、新しい音が生まれた。
──コツコツコツコツ。
後ろから、誰かが走ってくる音が聞こえた。
その音は次第に近づいて、やがて荒い息遣いが鼓膜に届いた。
わたしは、振り向かない。
今振り向いてしまえば、嬉しさのあまりに抱き着いてしまいそうだったから。
それは、過去のわたしを殺すことに等しい。弱い自分を認めて、わたしを助けてくれる「その人」に縋ってしまう。
そんなのダメ。
ダメ、なのに。
「一色」
その低くてぶっきらぼうな声で名前を呼ばれて、わたしは思わず振り返った。
目の前に、「その人」が映る。肩で息をして、心配そうに微笑を浮かべる彼を見て。
わたしはついに、堰を切ったように泣いてしまった。溜め込んだ涙が、あふれ出した。
「えぇ……人の顔見てそんな泣く?さすがにひどくない?」
「ひっぐ……ぜんばぁい……ぜんばぁい!!」
酷い有様だ。醜いったらない。
こんな雑踏の中で、涙も鼻水もだらだら流して、女子失格だ。
ほら、先輩だって戸惑ってる。急に抱き着いたりなんかしたから、手のやり場に困ってる。
それでも、見上げた先に映る先輩の柔和な微笑みが、わたしの感情を大きく揺さぶる。
「ちょっと……人見てるんですけど。せめて人気のないところで……」
「なんですかぁ……ひっぐ。弱った女の子をそんなとこに連れ込んで……ひっぐ。何をするつもりですかぁ……。っひ、んぐ……口説くんだったらもっとちゃんと、口説いてくださいよぉ」
あぁ、本当にひどい。まるで酔っ払いだ。こんな姿見せたら、先輩に引かれてしまうではないか。
──でも、それでもいい。
頭にのっかる先輩の手が、意外に大きくて暖かいから。
しばらくはこの暖かさに、甘えていたい。だから。
「もう……わたしを口説いていいの、今日だけなんですからね……」
* * *
「……………………」
じりじりじりとうるさい目覚まし音が頭に響く。
徐々に覚醒する意識とともにゆっくり目を開け、見上げた先にあるのは見慣れた天井。
まだ朦朧とした意識の中、上半身を起こす。
「…………え」
まだ覚醒しきっていなかったはずの脳にフラッシュバックするのは。
泣きじゃくったわたしと──。
「……………………ゆ、め?」
しかしその先を思い出しかけて、瞬時にそれをシャットアウト。
思考停止を試みるも、記憶というのはそう簡単に操作できるものではなくて、思い出したくないことも勝手に思い出してしまう。次の瞬間。わたしはとんでもない夢を見たことに気づいて、一気に顔が熱くなった。
「あ、あ、あ……あわわ…………」
わなわなと唇が震える。いや、手も震えてた。ていうか全身震えてた。
思い出さないようにしていた夢の内容は見事余すところなく、最初から最後までを思い出してしまった。人間の記憶ってすごいね。有能。マジ便利。
「じゃないよぉおおおお!!!何あの夢!!あの人だれ!?わたし!?あの痛すぎる女がわたしなの!?」
枕に顔を埋めて、夢へのありったけの感想と愚痴を叫ぶ。
未だ目覚ましが鳴っていたけど、そんなの気にしてられない。
「しかも……」
しかしどれだけ叫べど、夢の記憶は次々と掘り起こされる。
『わたしを口説いていいの、今日だけなんですからね……』
「うわあああああああああああああ!!!!」
最低。最悪。死にたい。
あ、やっぱ死にたい……。
叫んだのが原因とは思えない疲労に、枕を顔に埋めたままばたりとうつ伏せになる。
いや、確かにいつもあんなあざといセリフを言ったりする。けど夢の中でのわたしはそれとは違った。完全に『ガチ』の人だった。男子を手玉にとるためではなく、自分が甘えるためだけの言葉と涙。
しかも、その相手があの先輩だ。
「はぁ……こんな最悪の目覚めないよ……」
ため息とともにひとりごちて、仕方なく切り替えて目覚ましを止める。
そろそろ準備しなきゃ学校に遅刻しちゃう…………──
「ってやば!」
やっと寝坊したことに気づいて、枕を投げ捨ててベッドを飛び出した。
* * * * *
うつらうつらしながら朝のホームルームを終えると、眠気に耐えかねてさっそく机に突っ伏した。月曜の朝ということもあるのだが、理由はそれだけじゃない。
土曜日は不幸にも一色に捕獲され、休日とはいえない休日を過ごした。おまけに迷子といい一色の色々といい、俺のキャパを圧倒的に超過するトラブル続きによって体力がもたなかった。
そんな疲弊した体のままの日曜日も、選挙当日にしなければならない演説の原稿を叩いていたために今日の寝不足に至るのだ。
二日続けて休日出勤とか、俺はどこの社畜ですか……。ブラックにもほどがあるんじゃないですかね。
しかし演説の原稿考えるのがあんなに面倒だとは思ってなかった……。完全に舐めプだった。いやだってね、普段から捻くれたこと考えてるせいでまともな演説とかわかんねぇんだよ……。あたりさわりのないように、かつ生徒会長たりえる威厳を示す原稿を作るのには思いの外骨が折れた。そう愚痴を零すものの、こと今回に限っては自主的に会長になると決めたために自業自得である。勝手に仕事を増やしたのも俺だし、残業する羽目になったのも俺が悪い。
自営業者は休む時間を自分で作らなくてはならないのだ。よしっ、頑張って休むぞい!
──と気合を入れて数分。気づけば帰りのホームルームを迎えていた。うん、どう考えてもタイムリープ。これは時を超える車に乗っていたに違いない。時をかける少女、比企谷八幡っ!
確認せずとも性別は変わっていない。だってほら、こちらに手を振る戸塚にこんなにも胸がドキドキするんだもの。男が女に惹かれるのは自然の摂理。故に戸塚は女子。Q.E.D……。
戸塚に手を振り返して、未だ茫然とする意識をなんとか引っ張り起こし、左斜め後方窓際の席を見やる。そこにはいつものメンバー、葉山をはじめとし三浦や海老名、三バカが談笑している。しかしそこに由比ヶ浜の姿はない。おそらくすでに部室へ行ったのだろう。
由比ヶ浜とは修学旅行の一件から会話の数は減った。朝玄関で会えば挨拶は交わすものの世間話は一切せず、各々教室に向かうという日々がここ数日だ。
ぶっちゃけ超気まずい……。
しかも、喧嘩で仲が悪くなったというわけではないからなお質が悪い。
そもそも仲が良かったのかと言われたら、「ぼ、僕なんかがそんな……」と両手人差し指を合わせてもじもじするのが八幡クオリティである。
そんなヘタレ谷を心の内に抑え込み、俺もスクールバッグとマフラーを片手に抱えて教室を出た。なにを隠そう、俺はそんな由比ヶ浜がいるだろう奉仕部部室へとはせ参じなければならない。
結局最後に部室に行ってから、一色の依頼を対処する方法を伝えていないのだ。
別に彼女らと別行動をとっているわけでもないし、「任せておけ」と啖呵を切ったからにはその内容を共有する必要があるだろう。
だからこうして重たい足を必死こいて前へ運んではいるのだが……。
嫌だなぁ……。気まずいなぁ……。行きたくねぇなぁ……。
しかしそんな心の声も空しく、気づけば部室前である。
すっげぇデジャブなんだが……。
一色が後ろからひょいっと出てくる可能性を恐れ、くるっと後ろを見渡す。よし、誰もいない。知り合いも……いないな。安否確認完了。なんだろう、このツタヤの暖簾くぐるような気分は。い、いや、ないよ?僕17ちゃいだからまだくぐったことないよ?ほら、今の時代なんでもスマホで済ませられるしね。DMMの有用性マジ神(紙だけに)。
咳払いで気を取り直して、スライド式のドアを開ける。
──と同時、部室から食い気味で明るい声がかけられた。
「あ、ゆきのん!やっは……ろ……」
「……」
部室にいるのは雪ノ下と由比ヶ浜…………ではなく、由比ヶ浜だけだった。
これはさすがに予想外だった。っべー、これまじ、っべー……。
しかもそう露骨に気まずそうな感じ出すなよ……。こっちだって雪ノ下がいるもんだと思ってたんだよ……。
「……おう」
残念ながら俺はゆきのんではないので、少し間を開けて会釈する。ここで「教室間違えたおっ☆ごめんちょ!」という言い訳は通用しないよなぁ……。
「ひ、ヒッキー、やっはろー……」
この状況でもその挨拶するんですね。そのやっはろー精神、素晴らしいと思います。
「一人か?」
言って、俺は廊下側の少し離れた席に腰かける。いつもの席だ。
「うん、ゆきのんはちょっと遅れてくるって。…………いろはちゃんの依頼はどう?」
「それなんだが、雪ノ下が来てからでいいか?」
「あ、うん……」
小さく返事をして、俯く由比ヶ浜。
っべー……。普段沈黙を気にしないのになにこの気まずさ……。
元はと言えば、この気まずさの原因は俺にあるのだ。経緯はどうあれ、その責は負わねばならないだろう。
何か気が利いた事を言えたらいいのだが、それも思いつかずにちらちら由比ヶ浜の方をうかがう。
すると、由比ヶ浜はこの沈黙を破るように口を開いた。
「……なんか最近ヒッキー頑張ってるよね。目の下クマできてるし」
俺の目の下を指でさして、困ったように笑う由比ヶ浜。
「別になんもしてないけどな」
実際、昨日徹夜した以外は本当になにもしていないので、いたたまれなくて視線を逸らす。
「ううん、してるよ。ヒッキーはいつも一人で頑張ってる」
何かを思い出すように焦がれた表情で俯く由比ヶ浜の声音には、言葉とは裏腹にどこか寂しさを滲ませていた。それを見て、俺は思わず閉口してしまう。
「なんかさ…………。あたし、ちょっと怖かったんだ。……ううん、今も怖い」
机の下で組んだ手を見つめながら、由比ヶ浜は紡ぐように声を絞り出した。
差し込む夕日に照らされた表情にどこか懐かしさのようなものを覚えて、俺は口を噤んで続きをまった。
「ほら、ヒッキーっていつも見えないところで頑張るでしょ?だからまたあたしたちの知らないところで無理してるんじゃないかなーとか、また一人で解決しちゃうんじゃないかなーとか考えてさ。……今回もそう。何してるのかはわからないけど、また一人でやろうとしてる。…………それでまた、傷つくの」
消え入りそうな声音で話す由比ヶ浜に、俺の視線は落ちていた。
言い訳の余地もなく、自覚していたことだったからだ。わからないふりをして、見て見ぬふりをして、その甘えが俺ではない誰かを傷つけることになった。もはや俺一人の行動は俺だけの問題ではなくなっていたということは文化祭や修学旅行の件で十分に思い知らされた。
しかし今もなお、俺の言葉や行動で由比ヶ浜や雪ノ下を傷つけるというのは傲慢な独りよがりで、ただのエゴイズムなのだと俯瞰する自分がいるのも事実だった。
今はそんな自分を許せる気もしない。今日奉仕部へきたのも、理由過程をすっ飛ばせば同じことだ。俺はこれから二人に、自分が生徒会長になるということを言わなければならない。
困ったような微笑みを
「今回は…………大丈夫、だと思う。たぶん」
「……そっか」
情けなくそんなことしか言えない俺に、由比ヶ浜は柔和な眼差しを向けてくる。
それがどこかむず痒く、視線をそらす。
ていうか、そもそも何しにここに来たんだっけ……。
一色の依頼についての話と……ああそうそう、ガ浜さんへの謝罪でしたね。
小町にもしっかりしなさいと言われたしな。
「…………その、すまんかった」
突然の謝罪に、ぽかーんと口を開ける由比ヶ浜。
なんのことやらと言いたげな顔をする由比ヶ浜に、俺は続けた。
「次は上手くやる。ぶっちゃけ言うと自信はないが、確信はあるつもりだ。今までとは違う。だから……」
由比ヶ浜にはそれを見ていてほしい、と言いかけて、やめた。今それを言うのは卑怯な気がした。俺が今言おうとしたことは、ただの手のひら返しに過ぎない。今まで築いてきた関係に亀裂が生じたことを恐れたが故の欺瞞だ。俺は由比ヶ浜結衣という女の子に嫌われないために、嫌われたくないがために自分に逃げ道を作ろうとしたのだ。
そのことに思い至って、開けたままだった口をそっと閉じる。
由比ヶ浜もそれに気づき視線で問うてくるが、俺はそれ以上口を開くことはできなかった。
──と、再び部室内に沈黙が走ったところで、がらがらと音を立てて扉が開かれた。
そちらへ振り返ると、雪ノ下が驚いたように目を瞠って俺を見ていた。
「……こんにちは」
しかしすっといつものすまし顔に戻し、会釈した。俺も「うす」と頭を軽く下げる。
「ゆきのん、やっはろー!…………あれ、いろはちゃん?」
先程の緊張した空気は消え去り、由比ヶ浜は元気よくいつもの挨拶をすると、雪ノ下の背後を見てこてっと首をかしげる。
見ると、一色が手をひらひらと振りながら、雪ノ下に続いて部室へ入ってきた。
「結衣先輩、こんにちはー。…………うげっ」
こちらに気づいた一色が、めっちゃ嫌そうな顔で半歩下がる。
いや、そこまで嫌がらなくてもよくない?俺何かした?心当たりありすぎてわかんねぇ……。
「なんで生きてるんですか?」
「なんでいるんですかの間違いだよなそうだよな。てかなんでいるんですかもおかしいだろ。一応俺、部員なんだけど……」
一色はじとっと俺を睨みつけて罵倒を浴びせてくる。
しかし俺の反論に答えたのは一色ではなく、その前を歩く雪ノ下だった。
「部員……?部費の間違いでは?」
「ちょっと?歩く財布扱いしないでもらえる?中学時代のトラウマ思い出して笑えねえよ……」
忘れない、中二の夏休み明け。
夏休み中、ばあちゃんの畑の手伝いで稼いだ金をとなりのクラスの連中に巻き上げられたおもひで……。
「俺たち友達だろ?」という一言で、浮かれきった俺は喜んで財布を差し出したのだった……。あとになって友達じゃなかったと知って、おもひでじゃなくて涙をぽろぽろしたのはかけがえのないメモリーだ。絶対許さねえぞあいつら……。
「あら、ごめんなさい。でもその方がモテると思うわよ」
「だとしたら、モテてるの俺じゃなくて諭吉なんだよなぁ……」
いつにも増して切れ味鋭くないですかこの子たち……。
とくに一色さん?なんでそんなに睨んでくるの?僕の肩に虫でもついてるのかな?
ちょっと心配になって自分の体を見渡してみるも、どうやら虫はいないようで安心する。
雪ノ下も一色も席につくと、由比ヶ浜が雪ノ下に寄って話しかける。雪ノ下は「近い……」と居心地悪そうにするが、頬を紅潮させて満更でもなさそうだ。なんなら百合が始まるまである。僕は気にしないからどうぞごゆるりとゆりゆりしてくださいご褒美です!
ちらちら二人のいちゃいちゃを横目で眺めていると、一色が入りづらそうに身を捩っていた。そういえば、なぜこいつがいるんだ……。
一色の方に若干体を傾けて、小声で問う。
「ていうか、なんでお前いるの?」
「……は?なんですか耳元で囁いて口説こうとしてるんですか二人がいる前でとか最悪だし今日はちょっと朝から機嫌悪いので死んでくださいごめんなさい」
「えぇ……。いくらなんでも理不尽すぎないですかね」
なにやら今日は一色の機嫌が優れないらしい。いつもの早口論破も、増して切れ味がすごい。
朝からなにがあったのかは考えたところで仕方ない。俺がなにか怒らせるようなことをしたなら、思い当るのは一つしかない。このままずっと睨まれるのもなんだと思って、おそるおそる聞いてみる。
「……昨日大丈夫だったか?あの後」
「え?」
問うと、意外だったのか一色はぽかんと口を開けたあと、顎に人差し指をあてて少し考えるポーズをした。この後輩、いちいちあざとい。かわいい。略してあざかわっ!
そんなくだらないことに考えを巡らせていると、一色はくすっと笑った。
「せんぱい、心配してくれてたんですか?」
「…………してねえよ」
悪戯に微笑む一色に、俺は視線をそらす。いや心配とかしてないんだからねっ。超心配してたんだからねっ!
くそっ、一色のからかうような視線が痛い。見るな。そんな目でこっちを見るな。
「こんだけ機嫌悪かったら心当たり探るでしょ。直近に思い当るのがあっただけだよ」
「……ふーん、ま、そういうことにしといてあげます」
咄嗟に思いついた言い訳に不満そうにしながらも、一色は姿勢を正した。俺も襟を正して座りなおした。
何やら左側から視線を感じるなと思ってそちらをみると、雪ノ下と由比ヶ浜がしらーっとした眼差しをこちらへ向けていた。
「さっきからこそこそと、何を話しているのかしら」
「なーんか怪しい!」
「別に、なんでもねえよ」
痛くもない腹を探られ、ばつの悪さにごほごほとわざとらしい咳払いをする。
三方向からの視線に居心地の悪さを覚えるが、話すタイミングとしては、期せず注目を浴びた今しかないだろう。
俺は浅い深呼吸をして、一度三人の顔を見渡す。その態度を見て首を傾げる三人に、重々しく口を開いた。
「今日来たのは一色の依頼について話すためだ。一色のイメージが損なわれず生徒会長にさせない。かといって雪ノ下に立候補させるわけにもいかない。ぶっちゃけ、一色を説得しようかとも思ったんだが……」
雪ノ下は真っすぐにこちらを見据え、由比ヶ浜は心配そうに愁眉を浮かべていた。
一方の一色は、これから俺が話すことを把握しているからか、瞠目して聞いていた。
「……一色と直接対決をして俺が生徒会長になる。二つの条件を考慮に入れながら、奉仕部を維持する。誰も困らず穏便に済む方法だ」
人差し指を立てて言うと、二人は驚きを表情に浮かべた。そして三人の真ん中にいる雪ノ下が次の瞬間、キッとこちらを睨む。わかっている。また自分を犠牲にしたやり方をするのだと思われることはわかっていた。
「あなたはまたそうやって……!」
「ゆきのん、待って」
苛立ちを吐きだそうとする雪ノ下を、横にいる由比ヶ浜が制止する。由比ヶ浜は戸惑いながらも確信を宿した目でこちらに向き直る。雪ノ下はそれを受け、続きを促すようにこちらを見据えた。俺はそれに軽く頷いて徐に口を開いた。
「勝算もちゃんとある。応援演説を葉山に頼んだ。立候補者が俺とはいえ、もし投票しなければ葉山を裏切っているのと同じだ。だから一色のイメージが崩れることはない。一色は俺じゃなくて葉山に負ける」
「…………一色さんにどう勝つかは分かったわ。でも、部活はどうするの?あなたが生徒会長をやるというのなら私が立候補すればよかったし、その方が確実だった。何も…………何も変わらないじゃない」
雪ノ下は俯きながら、その声は段々と弱くなっていた。
そうだ。雪ノ下の言う通り、俺が生徒会長になるくらなら雪ノ下がやった方が確実だ。生徒会長になった後も確実に正確に、仕事を遂行するだろう。しかし、だからこそ────。
「だからこそ、雪ノ下にやらせるわけにはいかない」
自分が思っていたよりも語気が強くなっていたことに驚く。それは雪ノ下たちも同じだったようで、下がっていた顔をぱっと上げた。
「お前が生徒会に入れば奉仕部はなくなる。それは雪ノ下だけじゃなくて、たぶん由比ヶ浜でも同じだ」
「なら、あなたも同じじゃない。いつも一人で解決して、勝手に終わらせた気になって……今回もそう。何も変わってない。あなたが会長をやっても、きっと奉仕部はなくなる。私たちは…………またあなたに頼りっきりになる」
「…………だから」
雪ノ下も由比ヶ浜も、勝手に俺を美化しすぎだと思う。
俺は確かに今まで一人でやった気でいた。今までそうしてきたように、自分でやってしまえばいいとそう思っていた。しかし違う。俺は一人でなんでもできるほど優れてはいない。そんなに優れていれば、長年ぼっちなんてやってない。俺が奉仕部という部活で上手くやってこれたのは紛れもなく二人のおかげだ。だから俺は今まで通りにするだけだ。例えそれが、共依存だと言われたとしても。
「だから、もし部活に来れないほど生徒会が忙しい時は依頼として手伝ってほしい。勝手なのはわかってる。本来俺がやるべき仕事で、誰かに頼っていいものじゃない。それでも、頼みたい」
絞り出すように言って、軽く頭を下げた。視線は落ちていて、目の前に映るのは年季の入った茶色の机だけ。彼女たちがどういう表情をしているのかはわからない。怖くて想像を拒否してるだけなのかもしれないが、衣擦れの音や軽い吐息だけが耳に届いた。
「あたしは、手伝いたい」
緊張した空気を最初に切り裂いたのは由比ヶ浜だった。雪ノ下が最初に答えを出すのだろうと思っていたものだから正直意外だった。
「ヒッキーだけじゃない。ここであたしたちが応えなきゃ、あたしたちだって今までと変わらないもん」
「……助かる」
言うと由比ヶ浜は優しく破顔し、うん、と頷いた。由比ヶ浜はそのまま雪ノ下の方へ顔を向けて、膝上で握られた雪ノ下の手の上に自分のを重ねた。雪ノ下は未だ俯いたままだったが、きゅっと引き結ばれた唇だけが伺える。やがて顔を上げると、俺の胸のあたりに視線を置いて口を開いた。
「…………それが、あなたの答えなのね」
雪ノ下の言った〝答え〟。それはきっと、あの日の昼休みだろう。
一色とベストプレイスで昼食をとったあとに雪ノ下から頼まれたのだ。奉仕部を守ってほしいと。
俺がそんな大役を任されるなんて過大評価にもほどがあるが、あの冷酷だった雪ノ下からそこまで期待されてしまえば応える他ない。その結果俺がとった方法が正しいのか正しくないのかはさておき、少なくとも尽くせる限りは尽くしたつもりだ。
「ああ、そのつもりだ」
「……そう」
雪ノ下は短く答えて少し考えた後、こちらへ向き直った。
「あなたの依頼、受けるわ」
「…………助かる」
雪ノ下のその一言で、強張っていた身体が解けていった。
ずっとだんまりをきめこんでいた一色も同じなのか、「ほっ」と愁眉を開く。
「まあ、全ては受かってからの話だけれど」
「この状況でそれ言うのかよ……。ほんと空気読めねえな……」
「空気本人に言われるとは心外ね」
「誰が空気だ誰が」
軽口をたたいて、部室内が段々と弛緩していく。
由比ヶ浜はそっと胸に手をおいて「よ、よかったぁ……」と漏らす一方、一色は呆れたような困り顔でぶつぶつ何か言っていた。
「この人たち、もっと上手くできないんですかねー……。空気に圧し潰されて死ぬかと思いましたよ」
「っはん。甘いな一色。呼ばれていないお誕生日会に行って『え、なんでこいついるの?』と無言の圧力をかけられたことがないからそんなこと言えるんだよ」
「普通に生きてればそんなことはありませんから……」
は?こいつ何言ってるんだよ。そんなイベント誰にでもあるだろうが。チュートリアルレベルだぞこんなの。インストールからやり直せ。
「あー、確かに……。全然話したことないのに誕プレ渡されても反応困るんだよね……」
「え、あ、いや、すいません……。でもこっちだって一生懸命考えて選んだプレゼントなんですよ?」
「まさかの経験あった!?ち、ちがくてっ!嬉しんだけどさ、ほらなんというか、貰っちゃうと返さなきゃいけない感じあるんじゃん?だからぶっちゃけめんどいっていうか……」
「結衣先輩、全然フォローになってないですよ……」
あたふたと手をパタパタさせる由比ヶ浜に、一色はため息をついた。
「誕プレなんてもらったことないから、そんな苦労があるとは知らなかったんだよ……」
「ちなみにわたしは4月16日ですよー、先輩」
「聞いてねえよ……」
ナチュラルに自分の誕生日教えてくるなこいつ。俺に祝われなくても祝ってくれる男子なんて大勢いるだろうに。
にしても4月16日か。チャップリンと同じ誕生日と覚えておこう。
「比企谷君に誕生日がない話はさておき」
「さておいていい話なの?それ」
あるわ誕生日。8月8日生まれだから八幡。なんて安直なんだようちの親。でも覚えやすいよね!家族以外に覚えられた試しがないんだけどね!そもそも名前を覚えられないからね!
「そろそろ下校時刻だし、今日は終わりましょうか」
「わ、ほんとだもうこんな時間!」
雪ノ下の合図で部活を終えると、各々マフラーを巻くなり帰り支度を始めた。
由比ヶ浜がいそいそと、バスケットに残ったお菓子を口の中に詰め込んでいた。お菓子で膨らんだ頬がちょっとリスっぽい。
部室を出て、雪ノ下が鍵を閉める。
「それじゃ、私は鍵を職員室へ戻しに行くから」
「あたしもいくー!じゃ、ヒッキーといろはちゃん、またね」
ばいばいと手を振って去っていく由比ヶ浜たちを見送って、隣の一色に目を向けた。
「お前ほんと何しに来たんだよ……」
「えー先輩、そんなわたしに興味あるんですか?」
「ない」
「即答……。まあちょっと雪ノ下先輩と依頼について話して、ついでにって感じです」
「そうか」
本棟へと繋がる階段を降って、生徒玄関へ向かう。
下校時刻が過ぎて暖房が切られてるのか、巻いたマフラーの隙間から冷たいすきま風が入り込む。
「でも、良かったですね、言えて」
「ん、まあな」
どうやら心配してくれていたらしい。
当事者と言うこともあって責任を感じてるのだろうか。だとしたらそれは杞憂だ。
「ありがとな色々と」
「なんですか急に気持ち悪い」
「ひでえな……。いやなに、色々巻き込んじゃっただろ、奉仕部のこととか」
「ああ、それですか。別に気にしてないです」
俺だったら絶対面倒で関わりたくないのに、一色はこう見えて寛容だな、しみじみ……と感心したのも束の間。一色は顎に手をやって少し考えた後、わざとらしい演技で、
「あ、やっぱ気にしてます。大変なことに巻き込まれて疲れちゃいました。いやー、誰のせいなのかなこれーチラッ。本当に申し訳ないと思ってるなら今日の帰りごはんでもおごってくれるんだろうなぁ……チラ。ね、先輩」
「………………わかったよ」
小悪魔の背中を睨みつけながら、学校を後にしたのだった。
難所は超えました。この9話、マジで長く感じた……。
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