「何でっ……何で猫じゃ駄目だったんだよ……。何でウサギじゃなきゃ駄目なんだ!」
チェシャ猫が俺の首を締め付ける力を強くする。
「ぁ……は……っ」
俺は、口の端から生暖かい液体が漏れ出るのを感じた。
途切れそうになる意識の中で、アリスの様子を伺う。
こんな時、アリスがいつも助けてくれた。アリス、アリス……!
アリスに助けを乞う。俺の目が必死にアリスを探すと、アリスはすぐ側にいた。
ただ、動こうとしない。
何やってんだよ、アリス!
俺もう死にそうだよ! こんな時はいつも助けてくれただろ!?
我ながら他力本願だと思う。
でもそんな事さえ、すぐそこまで見えてる死の前ではどうでもよくなった。
アリスは俺達二人の気配なんて感じてないと思わせるくらい、すぐ側で立ち尽くしていた。
彼女が見つめているのは、きのこの中に紛れたただ一つの墓石だ。
「初代アリス…」
彼女の口からポツリと、そんな言葉が出たのが聞こえた。
チェシャ猫の手は俺の首を締め付ける力を緩めない。
「ウサギはアリスを夢に誘う事しかできないウサギはアリスから逃げる事しか知らない、でも! 猫は君をもっと深くの夢まで墜としてあげられるんだ……!」
そう言うチェシャ猫の顔は、怒りの中にどこか恍惚とした表情を浮かべていた。
しっかりしろよ、俺……。
いつまでもアリスに助けて貰ってるばかりじゃ駄目だって、知ってるだろ!?
命なら、自分の手でしっかり持てよ!!
俺は、首を締め付ける猫の手を無我夢中で引き剥がした。
もっとも、そこにあるのは見えない手だが。
ガリッ……! 俺の爪が肉を微かに引き裂いた音がした。
少し離れた場所に立つチェシャ猫の手に、血が滲む。
「あっ……!? ハァ……ハァ……ハァ……」
そんなつもりはないのに、チェシャ猫を傷つけてしまった。
息が上がっているのは、興奮だけのせいではない。
チェシャ猫は手の甲の血をペロリと舐めると、俺を静かに睨んだ。
法廷で見た時の、あの目をしている。
全てを見下した、残忍な瞳。
今まで蚊帳の外にいたアリスが、俺達二人を振り向いた。
「猫……。これが初代アリスを封印した封印塚か」
チェシャ猫はその問いに嬉しそうに振り返ると、両手を広げてつかつかとアリスに――墓に歩み寄った。
「可哀相なアリス! この腐った国のバカ共にこの国を追われて、こんな処に閉じ込められて!」
猫は墓の前でしゃがみ込むと、がばっと墓石を抱いた。
「でも眠りの時間はこれで終わり! 俺が今、君を救ってあげる! 俺の手で、もっと深い夢の中へ誘ってあげる!」
チェシャ猫が鍵を取り出した。瞬間、アリスがそれを蹴り上げる。
「! 何をするんだ!」
小さな鍵は、きのこの群の中に音もなく落ちていった。
アリスが怒鳴る。
「初代アリスなんて物騒なモン、蘇らせてたまるか!」
物騒な人に物騒って言われたい人もいないと思うんだけどね。
猫は鍵の消えた辺りに体を沈めた。鍵を探している様だ。
俺が見ていると、アリスがまた怒鳴った。
「くぉらっ、馬鹿ウサギ! 猫に鍵見つけられちゃ意味ねぇんだよ! テメェ早く探せ!」
ビシ! とアリスはチェシャ猫が消えた辺りを指差した。
あ、そうだね。っていうか、そういうチームワークを期待してたの。
俺もきのこの群に潜る。
思わず息を目一杯吸って潜ってしまったが、別に水の中じゃないから呼吸に心配はいらない。
すぐに側でキラリと光った物を見つけて、手を伸ばす。
だけど猫の方が一瞬速かった。そればかりか鍵に手を伸ばした時、猫の鋭い爪がさっきのお返しと言わんばかりに俺の手の甲をガリッと引っ掻いた。
猫の手の甲のやつより長い、赤い線が俺の手の甲に引かれる。
「痛ぇ!!」
俺が声を上げると、猫は立ち上がって笑い、そして怒り狂った。
「痛い? 痛い? ふふ、あはは……痛い? 痛いか?痛いね、ごめん痛いだろうごめんなさいね……ふざけるなっ!! アリスはもっと痛かったさ! 夢の中でも痛かったその痛みが! 双子を作り出した分かるか! あの狂った子ども達はアリスの痛みだ!」
チェシャ猫の怒りに引き寄せられたかの様に、彼の背後に無数の双子達が現われた。
……嘘。
俺があとずさった瞬間、双子達は一斉に俺に牙を剥く。
「うわ……!」
一瞬で距離を詰められ、胸の時計に手を伸ばされた刹那。
――ゴォン……っ!
横から轟音と共に火の玉が双子目掛けて襲いかかり、吹っ飛ばされた双子がきのこの群に倒れた。
「馬鹿ウサギがっ! もうちょっと自分の身は自分で守りやがれ!」
駆け付けて俺の盾になる様にバズーカを構えるアリスに言われた言葉が、ちょっと胸に刺さった。
次々と双子が襲いかかって来る。
雪崩の様に押し寄せるそいつらを、アリスはバズーカで吹き飛ばしあるいは殴り、右ストレートや左ハイキックで確実に再起不能にしていった。
俺はといえば、やっぱり自分では何もできずにアリスの後ろに隠れている。
逃げないのは、アリスから離れた方が危険だと知っているからだ。
アリスはそんな俺もお見通しなのか、もしくは考えている暇がないのか、俺が何もしない事を咎めない。
そればかりか、双子の手が俺まで絶対伸びて来ないようにしっかり盾の役割を果たしている。
俺はいつでも、アリスに守られているんだ。
ふと、戦うアリスの肩口からチェシャ猫が見えた。
墓の前で彼が掲げているのは、
「鍵?」
俺が言ったのがアリスにも聞こえたのか、アリスは叫んだ。
「……っ、やめろ!」
アリスがその場で何もできずに叫んでいる。
彼女の性分から考えると、彼女は今、チェシャ猫を止めに駆け出したい筈だ。
それができないのは、俺がいるからに他ならない。
双子から俺を守ってくれているからに、他ならない。
「……アリス……俺……!!」
俺は駆け出そうと脚にぐっ、と力を入れた。
それを悟った様にアリスが双子を吹き飛ばして怒鳴った。
「馬鹿ウサギ! 無茶すんな!」
「!!」
俺は言われた一言にビクリとする。その瞬間思い出した。
彼女が俺を守るのに、この数の双子相手にどれだけ必死かを。
次の瞬間、チェシャ猫の高揚した声が響き渡った。
「さぁ、俺のアリス! また君の歌声を聞かせておくれ!」
鍵が発光を始めた。
「共に歌おう、滅びの歌を!」
鍵が爆発的に輝いて、俺とアリスの目を眩ませた。
それと同時に、周りを取り囲んでいた無数の双子が、溶ける様に何処かに消えた。
俺にしては珍しく、事態が瞬時に理解できた。
消えてしまったのだ。双子は。この世界から。
いや、彼女の夢の産物であるそれらは、最初から存在できないものだったに違いない。
それらが存在できたのは、彼女が眠りについていたからだ。
夢は、目覚めて終わる。
目覚めたんだ。初代アリスが。