あいも変わらず   作:真坂様

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この話を出すに当たって、短編集の題名を変更しました。


名前だけ

01

 

それはきっと、名前だけだ。

 

今までのような、諦めや言い訳とは違う。

俺は、心のそこからそう思っている。

かつて味わったことの無いような緊張の中で。

 

自分の身体は冷えきっている癖に、心臓はバクバクと鳴ってやかましくって仕方がない。

こんなんじゃ、できるもんもできやしない。

 

しかしそれは逆に考えれば、今の俺にとっては好都合なことかもしれなかった。

何せ俺は今から、これまで想像もしなかったような大立ち回りを演じるのだから。

 

絶対に、今までの俺じゃできないような、絶対絶命の修羅場。

できるもんができなくなるなら、できなかったもんができるようになっても、別に不思議じゃ無いはずだ。

 

しかし――そりゃ身体も凍るわ。

 

 

02

その時、俺は特大の衝撃と、それと矛盾するような「まぁ、そんな気はしたよ」という感情を抱いていた。

 

中3から付き合っていた彼女から、別れを切り出されたのだ。

 

初めは冗談だと思っていたが、そういえばこいつはそんな悪趣味な冗談を言う奴ではなかったと思いついた。

 

「なんだよ沙耶香、急に。」

 

そう聞き返すしか無かった俺に対して、あいつは申し訳なさそうにごめんと言った。

 

すると沙耶香は、バツが悪そうに、俺と合った視線を切って明後日の方向に駆け出していく。

 

「ちょっ…!」

 

追いかけようとして、中途半端な声を漏らして、寸でのところで思いとどまった。

 

「ここで追いかけても」という気持ちと

「後日の方がいいだろう、その方がお互い冷静だ」という2つの感情が、俺の口を塞いだのだった。

 

 

 

しかし、後日が来ると思っていた俺は、間違いなく愚か者であった。

 

次の日の昼休み。

いつもなら、食堂で昼ご飯を食べている時間だ。

 

あいつもきっと俺に会いたがっている。

そう高を括って、彼女の元に向かった。

なんだかんだ言って、あいつはまだ俺に未練タラタラなんだろうと、信じて疑わなかった。

 

しかしその日、彼女に会うことは1度としてなかった。

昼休みはもちろん、放課後でさえも。

クラスメイトに聞くと、誰よりも早く帰ったらしかった。

 

どうやら彼女は俺と別れたことを誰にも言わなかったらしく、そのクラスメイトからは「喧嘩でもしたの?」と問われた。

 

そんなところだ。

そう返した。

 

平日の学校がある日は、中々彼女に会えない。

昼休みに教室を抜け出したり、放課後誰よりも早く彼女に会いに行く毎日を続けた。

それでも、俺は彼女に会うことが出来なかった。

どんな場所、どんな時間を選んでも会えない。

ついには、彼女の顔さえ忘れてしまいそうになった。

 

そんな日々を1週間続けて、俺はついに諦めた。

 

どうやら、彼女の意思は硬いようだ。

それならこれ以上俺が迫ったところで、あいつを困らせることしかできないだろう。

俺も一応あいつの彼氏だった男だ。

2年間とちょっと、連れ添った関係は伊達ではない。

彼女が、これ以上追い掛けられるのを嫌がるのは想像にかたくない。

 

結局そういう結論をでっち上げて、俺はキッパリ彼女を諦めた。

仕方ない。

どうせ名前だけだ。

 

「辰巳、聞いたぞ。お前振られたんだってな。」

 

心底愉快そうな声がした。

そちらに視線を向けると、これまた愉悦を絵に書いたような表情で、1人の男がこちらを見ていた。

 

「奥田か…。」

 

「いや、奥寺だよ!何回間違えば気が済むんだ。」

 

「あぁ、悪い悪い。」

 

いつものしょうもないやり取りを、隠れ蓑にする。

 

「いやぁ、お前みたいな色男でも、振られることあんのな。」

 

無駄だったらしい。

 

「……そうだな。」

 

正直、触れられたくない話題であることは間違いなかった。

返答の仕方で、これまでの俺のキャラを壊しかねないからである。

 

「お?なんだ。お前も一丁前に傷心ってか。」

 

「そりゃ、振られて落ち込まない奴がいるかよ。」

 

「お前の場合は女取っかえ引っ変えだろうが。」

 

人聞きの悪い事を言うな。

 

「あいつが最初の彼女だ。そんなにモテた試しもない。」

 

「嘘だね。初心ぶって好感度上げようってか。」

 

奥田…もとい奥寺のハラハラするイジりはまだまだ加速する。

本人はケラケラ笑って愉快そうだが。

真に受ける奴がいたらどうするんだよ。

 

「そんなことないよ。小学校から同じ奴だっているんだし、聞いてみろよ。」

 

俺はあくまで努めて穏やかに言った。

 

「冗談だよ、ムキになんなって。」

 

「タチ悪いわ。」

 

奥田が軽快に笑うのに合わせて、俺も笑った。

 

03

 

「ねぇ、私のどこが好き?」

 

自分でもらしくない質問だと分かっていたのだろう。

彼女は伏し目がちに俺に問うた。

 

俺は、そんな彼女をなんとか和ませようと、奇を衒った答えを考えた。

 

「な、名前かな。『里見 沙耶香』なんて、如何にも可愛らしくて、君らしい名前だ。」

 

ちょっと臭いかな。

なんてちょっと照れていた時だった。

 

「名前…。」

 

彼女は、その答えに不思議そうな表情をし、すぐ次にはお決まりの思案顔になっていた。

 

「ねぇ優。」

 

と、俺の名を呼ぶ。

彼女がそういう風にいう時は決まって、何かを俺に問いかけるときだ。

そして同時に、俺に何かを諭させるときでもある。

 

「名前って、服と同じだと思うの。」

 

服?

俺は意味が分からなかった訳では無いが、そうやって頭に疑問符を乗っけた。

 

「そう、服。言い換えれば、外面。あなたと同じね。」

 

ドキッとした。

なにせ、そんなことを言われたのは初めてだった。

動揺した俺は、いつも通りとは違う「どうして?」を返すしかなかった。

 

「キザったいこと言おうとして失敗したあなたと同じって言ってるの。」

 

ハッとして彼女の方を見ると、まさにイタズラっ子のような笑みで俺を覗き込んでいた。

僕の顔は恥ずかしさで真っ赤になっていたことだろう。

 

「名前というレッテル。名前という商品番号――。」

 

名前という外面――。

 

「世の中、名前だけの人間なんて山ほど居るわ。」

 

だからあなたは、私の名前じゃなくって――。

 

私を愛して。

 

ここだけを、耳元で囁かれた。

顔を真っ赤にしながら口を恥ずかしそうに結ぶ彼女のいじらしい姿が、特別頭に焼き付いている。

 

04

 

何度も、呼び掛ける声が聞こえた。

俺は薄らとある意識でその声を聞いた。

 

沙耶香のような声ではなかった。

しかし、夢現のような状況では、精神状態によって聞き間違い起こるのもまた事実。

 

その懐かしい声を聞く度、心臓が詰まる。

 

しかし、確実に沙耶香の声ではないそれは、だんだんと荒々しさを増していく。

起きないから仕方ないとでも言うかのように。

 

ビクン!

と、身体が1回跳ねた。

 

「あ、起きた。ダメだよー寝ちゃ、君の慰め会なんだからさー。」

 

視線を上げると、女がいた。

その声は、さっきのと同じだ。

なんだ…。

すこし残念な気持ちを表に出さず、俺は一言

 

「悪い悪い。」

 

とだけ朗らかに言った。

 

「やっぱ傷心なのー?」

 

さっきの声は、相変わらず緩慢でさらに眠気を誘う気がした。

 

「いやぁ…。」

 

俺は、困ったように曖昧な返事をした。

 

「じゃあ仕方ない、そんな優くんの為にハードなロックをフォーユー!」

 

途端、お囃子1号から4号までが一気に歓声を上げる。

彼女が選んだ曲のイントロと合わさって、まるでライブ会場である。

ちょっと静かにしないと…と思って一瞬考えたが、ここはカラオケ屋だったことをおもいだした。

ここではいくら騒いでも関係ないのか。

しかも有難いことに、これではいくら疲れていても寝落ちできない。

 

彼女がさっき言った通り、ここにいる面々は俺の傷心旅行という形で来て貰っていたのだ。

それなのに、俺が真っ先に寝るなんて、なんて言われるか分からない。

 

「どうだ?いい子いたか?」

 

すると、小声で隣から声がした。

奥寺だ。

 

なにを隠そう、この企画を立案運営したのが彼である。

 

「なにが?」

 

「なにがじゃねーよ。わざわざお前の為に合コン開いてやってんだろ?」

 

「は?合コン?傷心会じゃねぇのかよ!?」

 

「しー!声がでかい…。」

 

「…悪い。――合コンってどういうことだよ、聞いてねぇぞ。」

 

「そりゃ、言ったらお前来ねぇだろ。硬派ぶって。」

 

硬派ぶってってお前。

いつの時代のヤンキーだよ。

 

まぁ、行かなかったけど。

 

「そうだけど――。」

 

「いいから、早く他の見つけて楽になれよ。」

 

グッ!

と親指を突き出して、俺から顔を離す。

 

まだ景気よくロックを歌っている彼女に鼻の下を伸ばしているその顔を見ると、自分の為に開いただろという気がしないでもなかった。

とことん勝手な奴だ。

 

激しいロックをBGMに考えることは、意外にも蓮のことだけだった。

 

だいたいあいつはなんで俺を振ったんだ?

他の奴と比べたら、上手な距離感だったはずなのに。

あいつも、望んでいた距離感だったのに。

今改めて考えてみても、その距離感に問題が合ったのではないことは明白だ。

あいつはそれまでと変わらない接し方を求めていたし、俺もその方がいいと思ったからだ。

変に意識することは無い。

お互いが、照れ隠しでそう言い合っていた。

 

どうせ名前だけ…か。

 

そう思い込んで、新しい恋を探す他ないのだろう。

そして俺はそうやって、無理やりにでも前に進もうとした。

 

人気者の「河上 優」は、暗い顔をしてはいけないのである。

 

05

 

「ちょっと暑いねー。」

 

パーカの襟を摘んでパタパタさせる彼女。

もう立秋とは言え、密室に人がこれだけいるとそれなりに暑いものだ。

 

「彩花さん、あんまりすると見えちゃうよ。」

 

「見ないでー。」

 

「思ってないでしょ。」

 

「……優くんになら、見せてもいいかも?…なーんて。」

 

穏やかな口調からは想像できないような妖艶な声では俺を挑発してくる。

 

「そんなこと言っても何もでないよ。」

 

できる限りさわやかに笑おうと心がけた。

自信はなかったけれど、存外上手くやれていたようだ。

 

「ところで優君て本当に振られたの?」

 

一転、無邪気な子供のように豹変した彼女。

「ホントホント!もー最悪だよ。」

 

「こんなにかっこいいのにー?私だったら手放さないけどなー。」

 

「だから褒めても何も出ないって。」

 

「本心だよー。…いっそ、2人だけで抜け出そうよ。」

 

「えー。…俺は君の歌もっと聞きたいなぁ。」

 

ここでは心底残念そうに。

…自分でもこの手の演技は上達したな、と関心してしまう。

ただそれがいいことかどうかはさておいて。

 

「ほんとー?じゃあもっと歌っちゃおうかなぁー。」

 

上機嫌になった彼女は、上体を起こしタブレットを手に取った。

 

06

 

翌日。

再び、衝撃的なニュースが俺を襲った。

 

俺はその日、近くの総合病院に急いで向かった。

 

はやる自分を押さえ付けるように、過剰にゆっくり歩いた。

浮く呼吸を腰に落とすイメージ。

俺が動揺していることなんて、絶対あいつには知られたくない。

 

その日だけは、一向に止まらないエレベーターに腹立たしさを感じていた。

 

病室の前に着く。

1呼吸置いて、柔らかく扉を開けた。

 

「来てくれたのか。」

 

部屋の奥から、穏やかな声が聞こえた。

とても、事故にあった後とは思えない声だ。

 

「おう。」

 

そう言って、俺はそいつから言葉を流して視線を花瓶に移す。

抱えてきた花束を空っぽの花瓶に差し込んだ。

 

「で?どうなんだ怪我の具合は。」

 

「命に別状はないそうだよ。」

 

「当たり前だ。」

 

こんなにピンピンしてるやつが瀕死だったら笑えない。

 

「ただ、肋と脚をやられててな。

全治4ヶ月だそうだよ。」

 

そうだよって、他人事みたいに。

 

「じゃあお前文化祭どうすんだよ。

生徒会長のお前が居ないんじゃ、最悪中止になるぞ。」

 

うちの高校の売りは、「生徒主体」である。

先生はこの手の行事には絶対に手を出したりしない。

なにより学校側は文化祭には反対で、1度はなしにしたものを生徒達の署名活動によってなんとか存続させている状態だ。

 

多分学校は、これ幸いと中止にするのだろうな。

 

「生徒会のほうは、代理を立てれば大丈夫だろう。」

 

「副会長か?」

 

「いや、副会長には別の仕事をまかせてあるんだ。とても並列して行えるものじゃないから、生徒会以外で代理を立てるのが効率的だな。」

 

「まじ?1日所長みたいなこと?」

 

「まぁ、そうなるな。」

 

と、苦笑した。

こいつのこの顔は、心底申し訳ないと思っている顔だ。

 

「そんな顔すんなよ。お前の所為じゃないだろ。」

 

「いや、俺の不注意が招いたことだ。」

 

そういう彼は、歯痒そうに俯いた。

 

そもそもこいつがこんな状態になっているのは、飲酒運転のトラックが下校中のこいつに突っ込んで来たからである。

万が一にもこいつが交通ルールを破るはずがないので、十中八九、その運転手に非がある。

 

しかし、こいつは冗談でもなんでもなく「俺の不注意」なんてことを言っているのだ。

ふざけているとしか思えない。

ふざけてないのだけど。

 

だから、つい殴りたくなった。

バカ真面目な優等生のこいつに、自身のバカさ加減を教えてやろうかと思った。

――本当は、そんな理由じゃないのに。

 

コンコン、とドアをノックする音でハッとした。

そういえば、入る時ノックするのを忘れていた。

 

「失礼します。」

 

俺はその瞬間、気色の悪い悪寒と共に身体の毛穴という毛穴からやけに冷たい汗を吹き出した。

まさに、身の毛もよだつ。

 

「おお沙耶香か。」

 

咄嗟に隠れようとしたが、目が合った。

身体が固まって身動きが取れない。

頭が働かないので、いつも通りの反応しか返せなかった。

 

「よう沙耶香、久しぶり。」

 

間違いなく、声は震えていた。

気さくに振り上げた手も、露骨に震えていただろう。

 

――彼女だ。

 

俺を振ったあいつだ。

 

理由も告げずに振ったあいつだ。

 

俺を避け続けたあいつだ。

 

俺を笑いものにしたあいつだ。

 

それなのに。

 

 

 

 

 

 

――こいつの隣で笑っていた、あいつだ。

 

 

 

 

 

彼女に再開した時の寒気よりも、もっと大きな何かが、俺を襲った。

 

気が付くと、俺は家の中にいた。

どうやら俺は逃げてきてしまったようだ。

「それじゃ、後は若い者同士」とかいう訳の分からないことを口走っていたことは薄らと覚えている。

 

記憶が薄ぼんやりと戻ってくると、膝から力がすっと抜けた。

今まで立っていられたのが不思議なくらいに。

足全体の細胞の呼吸がハッキリと自覚できる程である。

 

どうして……?

 

その時の俺は、自分自身の異変に初めて気がついた。

 

07

僕達3人ずっと仲良し。

大人になっても友達だ。

 

きっと誰かが結婚しても。

きっと誰かに子供が出来ても。

ずっとみんなで会おうじゃないか。

 

みんなで楽しく遊ぼうじゃないか。

 

でも、その時の俺達は幼かった。

俺達の3人うちのだれか、もしくは全員が結婚しても、家族が出来ても、例え死んでも一緒だと思っていた。

仲間内でカップルができるなんて、微塵も想定したなかったのだから、そんな約束守られる筈がないね。

欠陥品だ、しょうがない。

 

ただ、最低なのは、俺とあいつだ。

俺は彼を捨てて、彼女を選んだのだ。

彼女は彼を捨てて、俺を選んだのだ。

お互い、彼がどんな思いなのか、蔑ろにされた彼がどんなに苦しいのか、分かっていたはずなのに。

 

じゃあ、これはあいつなりの復讐だ。

俺を捨ててあいつに寝返った彼女は自己嫌悪に沈み。

裏切った末に裏切られた俺も、2重苦に苛まれる。

なかなか賢くて、陰湿で。

実にあいつらしくない仕返しだ。

そもそも、あいつが仕返しというのがらしくない。

 

――ならばあいつを変えたのは俺達だ。

――あいつを歪めたのは、俺達だった。

 

08

 

「あ、優くんじゃん。」

 

病院へのお見舞いの帰り。

聞き覚えのある声が、俺の名前を呼ぶ。

だがあくまで、聞き覚えがあるだけだ。

 

「あ―…!…えっと……。」

 

「彩花だよ!彩花!」

「冗談だよね!?」

 

「え、勿論冗談だよ。」

「ついこの前あったんだから。」

 

嘘だ。

忘れてたに決まってる。

生来、物覚えは悪い方で、特に人の名前はどうにも覚えられない。

病気なのかもしれない。

 

「ほんと…?」

「怪しいなぁ。……まぁ、いいけど。」

「それにしても偶然だね。こんな所であうなんて。」

 

案外サバサバした性格の様で、名前の事などすっかり忘れたかのように話を変えた。

 

「そうだね。」

「ここら辺に住んでるの?」

 

「うん、そうだよ。」

「なんかいい事が起こる気がしたから、散歩してたの。」

「……的中しちゃった。」

 

以前のカラオケの時と同じだ。

あの時のように、誘うような、意地の悪いからかい笑いを浮かべている。

 

「そうなんだ。」

「それは…良かったね。」

 

こんな返答自分らしくないとは思った。

しかし、会話の主導権を握られるとどうにも調子が出ない俺である。

ここは静かにするのが吉だろう。

 

「ん――?」

「なんでそんなよそよそしいんだよー。」

「一夜を共にした仲でしょ?」

 

「人聞きの悪いこと言うなよ。」

 

あくまで彼女とは、夜7時までカラオケを共にした仲と言うだけの関係である。

しかも男女三人ずつで、決して2人きりだったというわけでもない。

 

「釣れないなぁ。」

「女の子がこんなに押してるっていうのに。」

「そんなお堅い人じゃなかったでしょ。」

 

「別にお堅いって訳じゃ…。」

 

「私、結構君のこと気に入ってるんだよ。」

「そっちがその気になってくれれば事はトントン拍子――。」

「な、はずだけど?」

「それとも、私のこと嫌い?」

 

「いや、そういう訳じゃ。」

 

確かに嫌い、という訳では無い。

彼女の言っていることが本当なら、何も躊躇うことなく付き合ってもいいのだ。

俺の好みと照らし合わせても。

何せ今俺はフリーなんだから。

なにより、以前の俺だったらなんの躊躇いもなく付き合っていただろうに。(勿論フリーだという前提で、だが。)

 

「じゃ、まだ元カノさん引きづってるの?」

「それこそ、らしくないんじゃない?」

「というか、キャラじゃないんじゃ?」

 

まだ会って一日やそこらで一体何が分かるんだと思いもしたが、「キャラじゃない」と言われればそうかもしれないとも思った。

 

確かに、元カノを引きづるのはらしくない。

だって、女なんて誰でも一緒だ。

違うのは、自分との関係性だけ。

あるいは、それは名前だけとも言えるかもしれない。

 

「じゃあはい!」

 

ピョンと可愛らしく1歩近付いてきた彩花。

顔と顔との距離は、最早無いも同然である。

 

同時に彼女は、俺の放ってあった右手をひったくって、両手でしっかりと握った。

そのまま、俺の拳を優しく解くと、手の中に何かメモのような物を掴ませた。

 

「これ、私の電話番号。」

「いつでも電話してね。」

 

そういうと、彼女は殊更顔を近付けて念押しした。

 

「それじゃあ!」

 

近付いてきたときと同じように、ピョンと後ろに飛び退くと、それだけを行って駆けていった。

 

終始ペースを握られていた俺は、半ば放心状態だった。

我に返ったとき、終始挑発的な微笑みを絶やさない彼女に、なんとなくの対抗心が芽生えた。

 

09

 

何を錯乱したのか、俺は無意識に右手を上げていた。

朝のホームルームで、担任がただこう言っただけだったのに。

 

「平川武文君の代わりに生徒会長の仕事をしてくれる人は、生徒会室に行ってくれ。」

 

……なんにも、右手を挙げる必要はなかった。

そもそも、そんなものやる気もなかったし、やるようなキャラでもなかったのに。

 

そんな俺に、担任は驚いたように目を丸くした。

 

俺の方が驚いたわ。

 

その後、また茶化された。

 

俺は自分でも訳の分からないまま、「同じ弓道部だったよしみで頼まれたんだよ。」と、おちゃらけた様に返した。

皆、それで納得するのだから単純なものだ。

中には、「昔から仲良かったもんね」なんて言う奴もいた。

 

仲良かった。

 

その言葉が、妙に耳に刺さった。

どうして、病院のあの時断らなかったのか。

不意に、そんなことを思った。

これは後悔、と言って差し支えないものなのだろうか。

 

俺は反射的に、笑って返した。

 

皆の前で公言してしまった手前、今更冗談でしたと流せる状態でもない。

俺は仕方なく、生徒会室へ向かった。

無理やり無かったことにしようと思えば出来たのだけれど、その時の俺はそんな発想が微塵も思い付かなかった。

 

そこで迎えてくれたのは、恐らく後輩であろう副会長であった。

会ったのは初めてだけど、見た目が幼く、1目でそうじゃないかと思った。

案の定、2年生の名札を付けていた。

 

彼は、生徒会の仕事がいっぱいいっぱいであること。

手伝って貰うことに申し訳なさと有り難さを感じていること。

そして、俺があいつと「仲が良かった」ことを知ってか、見舞いに行けず申し訳ないという旨のことを何度か聞かされた。

 

1番大事な話を最後に持ってくるのは武文の十八番の話術なのだけど、この副会長も厄介なことに同じような話し方をする。

 

言いたい事を全部言い終わったのだろう。

彼は本題に移った。

 

俺に1つのメモを渡して来て、これを読んで明日に再集合とだけ言って返された。

 

あいつ直伝の陰湿な話術に、半ば腹を立てていた俺だったが、物分りよく分かったとだけいって生徒会室を後にした。

 

どうやら、貰ったメモはあいつお手製のお仕事一覧のようだ。

 

俺はその内容を一目見て確信した。

 

 

 

 

 

――あいつはバカだ!

 

010

 

「バカかお前は!」

 

病室ではお静かに。

 

なるほど直接聞くとこんなにも破壊力のある言葉なのか、と罪悪感を抱えながらあいつの前に仁王立ちする。

 

「なんだ、お前がやってくれるのか。」

 

それなら安心だ。

これを本気で言っているのだから手に負えない。

 

「こんなもん!誰がやっても失敗だ!」

 

と、こいつの毛布にさっきのメモを叩き付けた。

 

文化祭当日のキャンプファイヤーについて。

 

「なんだ、いいサプライズだろう?」

 

 

生徒に事前予告なしで打ち上げ花火を打ち上げる。

 

 

「ふざけんな!何がサプライズだ!」

 

 

生徒、及び教員は突然の花火に視線を奪われる。

 

 

「一生に一度だろう?」

 

 

その隙に、

 

 

「だからってこんな――。」

 

 

 

火矢を射って、キャンプファイヤー点火!

 

 

 

「こんなこと出来るわけねーーだろー!」

 

病院ではお静かに。

……今度は殴られてもおかしくなかった。

 

011

 

あいつ曰く。

予想外の轟音。

見上げれば美しい花火が。

そして鳴り響く弦音(※)。

振り返ると独りでに燃え上がるキャンプファイヤー。

 

な?幻想的だろ。

 

だそうだ。

 

 

※和弓で矢を放つ際に、弦と弓本体(関板)とがぶつかり、響く音。

古来より魔を払い清めるものとされており、射手の技量が高ければ高い程高く澄んだ音を奏でるという。

 

 

しかもあいつは俺にトドメを刺した。

 

「俺ならできるさ。」

 

「……確かに、全国個人3位のお前ならできるかもな。」

 

俺はいつも通りを装って、その場を後にした。

 

方や全国3位の歴代ナンバーワン部長。

方やなんの成績も役職も与えられなかった、言わば平社員。

雑用係。

 

「…………。」

 

……奥歯に染みた。

 

 

幸い病院から家は遠くない。

家から学校はもっと近い。

 

縋り付くように走った。

自分でも、みっともないと思った。

 

家に帰ると真っ先にカレンダーを見た。

文化祭の2日目を指差して、今日まで遡った。

 

――2週間。

バカだろ。

 

弽(※)袋をひったくって家を出た。

 

※弓を射る際、指を痛めないようにするため、弦を担当する方の手(右手)に着ける手袋状の物。

鹿革を用いるのが主流。

 

学校の道場に着くまで、自分が汗だくになっているのにすら気が付かなかった。

 

「道場破りだ。」

 

後輩が、目を丸くして駆け寄ってくる。

 

俺は、使ってない弓があるかだけを確認して、練習させてくれと一言だけ言って、制服を着替えた。

 

この部活にはコーチはいない。

顧問も滅多に練習に来ない。

弱小弓道部そのものだ。

 

だから俺が突然練習に来ても、大した騒ぎにはならないだろう。

ただ、受験生が息抜きしたがってるだけだしな。

 

案の定、先生は2週間の間1度も来なかった。

 

後輩達は腫れ物を触るように接していたが、気にする余裕はなかった。

引退した先輩が急に現れて練習に参加し始めたら、やっと自分らの天下だと息巻いてた後輩達には、邪魔でしかないのは分かっている。

 

だから俺は極力、彼らと接触しないよう心がけた。

練習の理由を聞かれても困るし。

 

上がる呼吸と体重を丹田に落とし込む。

足の裏は全体で地面に吸い付くように。

――弓身一体。

――現役の時に何度も反芻して、何度も目指したもの。

たった2週間で、辿り着ける筈がない。

 

012

 

思った通り、何の成果も得られないまま当日をむかえてしまった。

本来なら謳歌するはずの高校最後の文化祭を、死刑執行前日ような感覚で迎えることとなった。

 

文化祭は2日間実施され、幸い今日までは猶予期間だ。

明日のことは考えないようにして楽しもう。

 

暫くは、それでも良かった。

 

でも、「明日」が通り魔のように俺の脳天を殴って過ぎ去っていく。

その度に心臓は1回高鳴り、俺は忘れようとする。

 

そんなことを繰り返して、なんとか今日をやり過ごしたのだった。

クラスメイトにその事を毛取られることはなかったのが、唯一の救いだ。

 

辞めようとは、思わなかった。

 

「当日は、俺も参加させてもらうよ。」

 

あいつは俺の気持ちを見透かしているのか、そうやって笑ったからだ。

 

 

09

 

よくよく考えて見れば、これはどう足掻いても失敗出来ない。

その事に弓に矢を番えた時点で気がついた。

 

今のご時世、キャンプファイヤーでさえ規制されているのに。

人に矢が当たったら、取り返しがつかない。

 

もっと言うなら、道場外で弓を引くことすらご法度である。

絶対に俺が弓を放ったことを知られてはならないのだ。

 

なるほど、そのための竹矢か。

キャンプファイヤーと一緒に証拠隠滅という寸法なのだな。

 

と、理解った風に言うけれど内心全然納得していない。

もしこの矢がキャンプファイヤーに、ちゃんと点火できたとしても、矢が跳ね返って外に飛び出せば、大した一大事になるだろう。

 

そうならないためには、キャンプファイヤーの中の火種組みの隙間に丁度挟み込むような具合にしなければいけない。

 

一体こんなの誰ができんだよ。

 

……そうか、あいつならできたのか。

 

また、呼吸が上ずり始めた。

 

俺は必死に、呼吸を押さえ付ける。

 

沈め。

沈め。

埋まれ。

埋まれ。

 

そう思えば思うほど、身体が中に浮いていくように感じられた。

とても、成功できそうにない。

 

キャンプファイヤーに群がる人から離れて、暗闇の中に一人っきりの筈なのに、どうしても落ち着かなかった。

 

暗闇に包まれて、俺だけ彼らの喧騒から隔離されているかのようなのに。

どうしても、不安を拭いきれなかった。

 

いっそ神頼みでもしてみるか。

そんな戯言も思いついた。

 

 

――遠くから爆音が鳴り響いた。

 

 

俺が一方的に覗き込んでいた観衆たちが、いっせいに音の鳴るほうに視線を向けた。

 

一瞬、自分の心臓の音かと勘違いしてしまった。

 

俺は急いで矢の先に火をつけ、弓を開いた。

 

身体は炎で暑いのに、手先は震えてしかたがない!

 

とても、成功できそうにない!

 

なんでだ。

 

暗闇の外から、彼らの歓声が聞こえる。

 

あいつなら、きっと躊躇いなく放って、そして成功させるのだろう。

 

何が違うってんだよ。

あいつと俺と。

 

何が違うんだよ。

 

くそ。

違わねぇだろ。

 

違うのはきっと――名前だけだ。

 

013

 

「なぁ、もしお前の代理を買って出たのが弓道未経験者だったらどうしてたんだ?」

 

俺は素直な疑問を、そいつに投げかけた。

 

「別に。ただ普通に点火させるだけさ。聖火のイメージだな。」

 

「そっちの方が、俺としても楽だったんだが?」

 

余計な緊張を味合わなくて良かったのに。

と、付け加える。

 

「すまん。すまん。」

 

そういうこいつは、心底愉快そうだ。

他人事だと思いやがって。

 

いつもそうだ。

こいつはいつも底抜けにお人好しで、大変なことがあっても、こんな風に笑い飛ばしてしまう。

 

「――何か言いたい事があるなら言えよ。」

 

急だった。

俺は刺されたような衝撃を感じつつ、どうしてと取り繕って返した。

 

「そりゃ、そんな思い詰めた顔してればな。」

 

本当にこいつは、なんでもお見通しなのか。

俺は諦めて、白状した。

 

すると、面白いくらいに言葉が出てきた。

今まで自覚していながら言葉にできないでいた黒々とした気持ちが、すっかり形を帯びてきていた。

 

すまなかった。

 

お前は1人になって、きっと辛かったろう。

信じていたものに裏切られて、悔しくて仕方が無かっただろう。

 

すまなかった。

しきりにそんな話をしていたと思う。

 

しかしあいつは、眉をピクリともさせずに、その話を聞いていた。

あくまであいつは、穏やかだった。

 

そして、俺の言葉が切れた途端あいつは怒鳴った。

 

「バカバカしい。俺は、お前らに裏切られたなんて思ったことは1度もない。」

 

「でも…。」

 

「なら聞くが、お前らにとって、俺は邪魔者だったか?」

「一瞬でも、いなければ良かったのに思ったか?」

 

いなければ良かったのに。

その言葉に、心臓を動かされた。

 

あの時。

俺が振られた日。

二人で楽しそうに話し、歩いている二人を見て、俺はかつてない感情を覚えたことが、自然と頭に浮かんだ。

 

「ある…。」

 

「あるのか!?」

 

意外そうに叫ぶ。

今更隠しても仕方ない。

むしろぶちまけてしまえば楽になるかもしれないと、俺は武文に洗いざらい全てを話した。

 

俺が話し終わると、我慢の限界とばかりに、病室に笑い声がこだまする。

 

病室ではお静かに!

 

ざまぁみろ、とつい思った。

 

「お前はホントに馬鹿だな!」

 

潜めつつも、笑いの色が残る声で武文は言った。

 

「な、何が馬鹿なんだよ!」

 

同じく俺も声を潜めて言った。

 

「全部だよ全部。」

「お前が悩んでる全てを今解決してやろう。」

 

「そんな軽々しく……!」

 

「いいから。」

 

苛立つ俺の声を遮って、武文は言った。

 

「今から市立図書館に行ってな、沙耶香呼んでこい。」

 

「はぁ!?」

「そんなの無理に決まってる!」

 

「お前が行かないなら、俺が行くが?」

 

「…………。」

 

 

お前にそんなことを言われたら、俺は行くしかない。

何せコイツはホントに行くから。

 

ふざけやがって。

いや、ふざけてないのだけど。

 

014

 

図書館なんて、病院から大した距離はない。

ただ、俺の性格上合わないこともあって、滅多に訪れることがない施設なのは確かである。

俺がこんなにもソワソワしているのも、そういう理由もあっての事だが、当然それだけではない。

なんて声を掛ければいいのか、全く分からないのだ。

武文ならば、なんの気負いもなく話しかけるのだろう。

 

こんなことまでアイツに劣るのか――

 

「どうしたのこんな所で。」

 

「うわぁぁぁぁ!?」

 

拳骨が飛んできた。

 

「図書館では静かに!」

 

そう囁くように言って、口の前で人差し指を立てている女性こそ、俺の元カノ・沙耶香である。

 

「悪い…。」

 

ジンジンと脈打つおでこ辺りを擦りながら、沙耶香を見る。

 

「それにしても、優がこんなとこ来るなんて珍しいわね。」

「何か用事?」

 

なんの衒いも感じさせない彼女の喋り方に、なんだか拍子抜けというか、なんだか釈然としない気分になった。

 

「いや、あの…。」

「武文が呼んで来いって。」

 

「武文が?」

「何かしら。」

 

「さぁ、わかんないけど…。」

 

「まぁ、なんでもいいわ。」

「じゃあ、行きましょう?」

 

「え、あ、そんなにすんなり?」

 

「なにか変かしら?」

「丁度キリのいい所だったし、大した距離でも無いでしょ?」

 

「まぁ、そうだけど。」

 

「なんの心配してるか知らないけど、時間が惜しいの。早く行きましょう。」

 

「お、おう。」

 

拍子抜けだ。

ことごとく、俺の想定通りにいかない。

やっぱり、俺が主導権を握れない相手は調子が狂う。

 

015

 

「さて、お待ちかねの謎解きの時間だがね。優」

 

俺らが病室には戻るなり、武文はそう言った。

 

「何?何の話?」

 

わけが分からないというようにジェスチャーで訴える沙耶香。

 

「お前にも分かるように話を進めようか。」

「探偵役の通例として、冗長に、それでいてキャッチーに話すことになっている。」

「よって俺も、それに乗っ取ろうと思う。」

 

「どこのどんな通例だよ。」

 

聞いたことねぇよ。

 

「沙耶香、単刀直入に聞こう。」

 

「いいわよ。」

 

「沙耶香、お前は――。」

「優を愛しているか?」

 

――は?

 

「ちょっ……!」

「お前いきなり何を――」

 

「当然でしょ?」

「愛しているに決まってるわ。」

「彼氏なんだもの。」

 

「そうだぞ何言ってんだ武文!」

「彼氏なんだから愛してるに…。」

「…………。」

「え………。今なんて…?」

 

「だから、愛してるって言ったのよ。」

「恥ずかしいから何回も言わせないで。」

 

「―――は?」

「――んなわけねぇだろ!」

「だったらなんでお前は俺を振ったんだよ!」

 

「は?振った?」

「振ってないわよ。何時よそれ。」

 

「〇月〇日〇曜日!地球が5億回回った頃だ!」

 

「覚えがないんだけど…。」

 

そうやって、あくまで冷静にかんがえこむと、彼女は、ふと何かに気が付いたように顔を上げた。

 

「ん。確かにその日って。」

「暫く会わないようにしましょう。って言った日よね。」

 

「は?え?」

「『暫く会わないように』…?」

 

「そうだ、優。謎は全て解けた!」

「犯人は…お前だ!」

 

勢いよく人差し指を俺に向ける武文。

 

「俺が…犯人?」

 

「そうだ、優。」

「ちなみに沙耶香、その時言ったこと一語一句違わず覚えてるか?」

 

「あんたじゃないんだから覚えてるわけないでしょ。」

「まぁでも、大方なら覚えてるわよ。」

「『私達、今日から合わないことにしましょう。』」

 

「ほら!別れるって言ってるじゃん!」

 

合わないことにしましょうなんて、別れるって言ってるようなものじゃないか。

 

「はぁ!?」

「どこがよ!」

「私はただ、『今年も浪人なんて笑えないから、会う機会減らしましょう』って言っただけでしょ!?」

「あんたと一緒だと、勉強進まないのよ!」

 

「俺たちと同級生ってだけでもやばいのに、ましてや後輩になるなんて笑えないだろ、優。」

「ていうか、思い出しても見ろよ。」

「去年お前らずっとイチャコラしてたじゃないか。」

 

そら落ちるわ。

続けて、武文は呟いた。

 

「え、じゃあ……。」

「別れたと思ってたのは……。」

 

「優だけ。」

「あんたの勘違いよ。」

 

「ほんと…?」

 

目頭になにか、熱いものが込み上げてくるのを感じる。

その時は最早、キャラがどうとか、河上優らしいとか、そんなこと考える余裕なんてなかった。

 

「ほんとよ!」

「さっきも言ったでしょ?」

「愛しているって。」

 

「沙耶香ぁー…。」

 

呻き声のような声を絞り出した。

涙で喉がつっかえて上手く喋れないのだ。

 

「はいはい、よしよし。」

 

俺はその言葉に誘われるがまま、彼女の胸に飛び込んだ。

懐かしい、暖かい感触。

その柔らかい抱擁に、俺は顔を埋め、彼女の服が汚れてしまうことなど気にも出来ず、そのまま泣きじゃくっていた。

 

暫く沙耶香は、俺を包んだまま、頭を撫で続けてくれた。

照れくさがったが、幼い頃からの習慣――いや、ある意味では因縁かもしれない。

 

「落ち着いた?」

 

「うん。」

「武文も悪かったな。」

 

俺は顔を埋めたまま、くぐもった声でそう言った。

 

「ほんとだよ。」

「沙耶香も、ちゃんと子守りしてくれなきゃ困るぞ。」

 

「ちゃかすな。」

 

016

 

――甲高い音が鳴った。

それは弓鳴り。

かつて聞いたことの無い澄んだ嬌声に、ハッと息を呑む。

それは闇夜に吸い込まれ、人々の色めきに消える。

真っ白な一矢は暗闇に紛れ、たおやかに飛んでいく。

柔らかな放物線を描き、真っ直ぐにキャンプファイアーに吸い込まれていく。

矢に付けられた3枚の羽は力強く、また静かに回転する。

風の力が目に見えるようである。

 

そこにある、それが全く自然であった。

 

そこにあるはずのない異物のはずのそれは、闇の中に俺だけを置いて一人だけ遠くに飛んでいく。

 

次に視界に映ったのは、鮮やかに燃える業火。

人々は、悲鳴とも歓声とも分からない声を上げ、口々に話し始める。

 

へたりこんだ先は、冷えきった土の上。

火照ったからだの熱を奪ってくれる、心地よい虚脱感が俺を襲う。

 

名前だけだ。

 

アイツと俺は、なんにも変わらない。

 

久しぶりに俺は、あいつと正面から向き合えると気がした。

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