不吉な色の朝焼けと、氷のように冷えた空気が、薄暗い天幕の中にも忍び込もうとする中、ベルクーリは一晩の眠りから覚めた。午前四時二十分と、ベルクーリは感じ取った。かつては大時計の針であった神器の時穿剣と精神を同調させているベルクーリには、現在時刻を正確に察知するという特技がある。そんな彼は太い両腕を頭の後ろに回すと、眠りの際で脳裏によぎった夢を遡り始めた
『死を予感したことはある?』
いつの日だったかそう訊ねた声は、彼の唯一の上位者、最高司祭アドミニストレータのものだったろう。それが正確な記憶なのかは、ベルクーリにとって定かではない。百年前か、百五十年前か。魂の崩壊を防ぐために、不要な情報を消去する処置を施されてきた彼からすれば、遠い記憶は時系列どおりに整理できるものではなくなっている
『死の予感、ですか?』
無限に繰り返される日々…それは自ら望んだものであるはずなのだが、その日々の流れに少々倦むこともあったのか、アドミニストレータは、たまに自身に次ぐ長命者であるベルクーリを最上階に呼び出し、酒の相手をさせることがままあった
『さて…まだヒヨッコだった頃、先代だか先々代の暗黒将軍に軽く捻られた時は、流石に危ないかと思いましたが』
故にベルクーリは支配者の気まぐれにも慣れていたので、ご機嫌を伺うこともなく、その時は思いついたことをそのまま口にした。すると最高司祭はくすっと笑い、長椅子に体を横たえたまま、上等な赤ワインが注がれた水晶の杯を軽く持ち上げてみせた
『でもそいつの首は随分前に取ってきたじゃない。それ以降はもうないの?』
『ふむ…ちょいと思い出せませんな。なにせ猊下ほどではないとは言え、俺も顔に皺が入るほどには長生きしたワケですから。しかしなぜ急にそんなことを?猊下にとっては無縁の感覚でしょうに』
ベルクーリがアドミニストレータに問い返すと、いつからか永き停滞を迎えた世界で、悠久の時を生き続けている女神は、長い脚を組み替えながら再び微笑んだ
『ふふふ、解ってないわねベルクーリ…毎日よ。私は毎日、死を感じてる。朝、目を醒ますたびに…ううん、夢の中ですらも。なぜなら私は、まだ全てを支配していないから。まだこの世界に生きている敵がいるから。そして、未来のいずれかの時点に於いて、新たな敵が発生する可能性が常にあるから』
それは上条当麻のいた世界なのか、キリトのいた世界での話なのかは不明だが、どちらにしても自分が支配した世界が、どちらにしても等しく終わりを告げるのであろうことを、彼女は頭の隅では予感していたのかもしれない。しかしそんなことは夢にも思わぬベルクーリは、フッと静かに笑いながら言った
『それはそれは…最高司祭というのも、なかなか大変な仕事なようですな』
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(・・・あぁ…最高司祭アドミニストレータ。今ようやく俺にも、アンタの言葉の意味が少し分かった気がするよ)
その会話から百数十年後、人界を遥かに離れたダークテリトリーの森の片隅で、ベルクーリはにやりと不敵に笑った。つまり死を予感することとは、自ら死の可能性を追い求めることの裏返しだ…と、ベルクーリは長年越しの理解を、目覚めに飲んだ一杯の水と共に腹の底へと飲み下した
(・・・納得のいく終着点、自分に相応しい死に様、全力で足搔いても抗えない強力な敵を…結局は、アンタも探し求めていたのかもな。さながら…今の俺のように。こうしている間にも、間近に迫ってきているであろう死を、まざまざと予感している、この俺のようにな…)
アドミニストレータ亡きいま、世界で最長命の人間となった騎士長ベルクーリは、あくびを一つ起き上がると、腰回りの帯を締め、履き物を突っかけ、左腰に愛剣を差した。そして出入り口の垂れ布を持ち上げて早朝の冷気の中に踏み出すと、全軍起床の指示を伝えるべく、伝令兵の天幕を目指して歩き始めた
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「おっさん!!」
敵襲を告げる角笛の切迫した旋律が野営地に響き渡ったのは、起床を告げる角笛が響いてからほとんど間もない時のことだった。結局天幕に入ることもなく、燃え尽きた焚き火のそばで寝落ちした上条は、その音色を聞くなり真っ先に野営地の北を目指し、黒い森が拓けた時には、すでに帯剣したベルクーリの姿を見つけていた
「おお、カミやんか。いやはや恐れ入った…敵側のリアルワールド人のやり口は、相当なモンだな。皇帝ベクタが、思い切った手に出たようだ」
偵察兵から報告を受けていたベルクーリは、駆けつけた上条の姿を見るなり、厳しい表情で唸った。その言葉を聞いた上条は、彼に倣って見よう見まねで簡易望遠鏡を神聖術で作り出すと、騎士長が眉をひそめながら見やる方向を見渡した
「なっ…!?」
そして、絶句した。敵軍は、幅百メルに渡ってアスナが拓いた峡谷の岸から岸へと渡した十本の荒縄を橋代わりに、峡谷の横断を強行している。心もとない縄から落下すれば、もちろん命はない。強靱な体力と精神力がなければ、とてもできない芸当だ。そのような作戦を兵に強いていることに、上条は怒りを露わにした
「ふ、ふざけんなよ…!いくら部下だとは言え、仲間の命をなんだと思ってんだ!?」
とは言え、仮に三分の一が谷底に落ちたとしても、敵の主力はまだ七千近くも残る計算だ。一千の人界軍で正面から当たっても勝ち目はないことは、上条にも理解が及ぶことだった。だからこそ、この事態を喜ぶべきか悔やむべきか、なんとも奇妙で複雑に混じり合った感情の起伏に、彼は下唇を噛んだ
「カミやん、コイツは戦争だ」
「・・・分かってる」
沸点に達しかけていた上条の感情の昂りに冷や水を差したのは、彼の心の内を察したベルクーリの短い言葉だった。ぼそりとそう言い放った彼は、薄青い両眼を閉じながらため息を吐くと、続けて言った
「異世界人のお前さんらはともかく、俺たちは暗黒界軍に情けをかけてる場合じゃねえ。この機は、活かさねばならん」
「機を活かす…ってのは?」
「今に分かる。レンリはいるか?」
鸚鵡返しに訊ねた上条に、ベルクーリは鋭い眼光で応じた。そして後ろを振り向くと、上条も気づかぬ間に集合していた、美琴にアスナ、アリスを始めとした整合騎士の中から、名前を呼ばれた若き騎士が背筋を伸ばした
「は、はいっ!ここに!」
「お前さんの神器、『雙翼刃』の最大射程はどれくらいだ?」
「はい、通常時30メル、武装完全支配術を使えば70…いえ、100メルは超えてくれるかと」
「よし。なら、これから俺たち整合騎士四人で、渡溝中の敵を攻撃する。俺とアリス嬢ちゃん、シェータはレンリの護衛に専念。その間にレンリは神器で敵軍の張った綱を片っ端から切れ」
「ッ!?」
上条は鋭く息を飲んだ。敵も横断用の綱は必死で守るだろうが、仮にその根元に人垣を築かれたとしても、レンリの飛翔する投刃ならば、敵頭上を超えて綱への直接攻撃が可能である。言葉どおりに、容赦の欠片もない対応策。しかし、弱冠十五歳の少年騎士は、その幼い顔に固い決意を漲らせ、右拳を左胸に当てて応えた
「りょ、了解しました!」
「大丈夫。私が、守る」
レンリの隣で、無音の騎士シェータも低く呟いた。そして、ベルクーリの指示には含まれていなかった上条と美琴、加えてアスナまでもが一歩前に出た
「俺も行く。縄を切る剣はねえけど、足止めくらいなら出来るはずだ」
「もちろん、私も行くわよ」
「護衛は多い方がいいでしょう?」
自ら名乗りを上げた二人の後ろから、最後に身を乗り出したのはアリスだった。既に大規模術式で1万人以上の敵兵を屠ってみせた彼女は、その場にいる六人全員の顔を見やると、ゆっくりと頷きながら言った
「急ぎましょう。この機を逃す手はありません」
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「うっ!?うわああああーーーーー!!」
谷間に反響する、吼えるような叫び声を、イスカーンはただ聞いている事しか出来なかった。広大な峡谷に張り渡された十本の荒縄を、拳闘士と暗黒騎士たちが五本ずつ分け合って渡り始めている。両手両脚を綱に絡め、ぶら下がって進もうとするのだが、綱渡りの訓練などしたことのない兵たちの動きは散漫だ。そこに遮蔽物もなち谷間特有の一際強い風が吹けば、あっさりと谷底に振るい落とされるのは当然のことだった
「急げ…!急いでくれ…!」
両の拳を握り締め、拳闘士団長イスカーンは胸の裡で繰り返しそう叫んだ。彼が歯嚙みをしつつ見守る視線の先で、最も進みの早い部下がようやく綱の中ほどにまで達した。赤銅色の肌は早朝の冷気に晒されて湯気を上げ、滴る汗の輝きがこの距離からでも見て取れる。やはり相当の荒行であることを悟った、その時のことだった
「あっ!?」
「うおおおおおあああああ!?!?」
落ちた。彼の部下であり、拳を鍛え合った仲間でもある拳闘士が、汗で濡れた掌を綱から滑らせた。突風の一吹きで、十名を超える拳闘士と暗黒騎士が、底無しの暗闇へと落下していった。無情なる突風は、断続的に吹き荒れ続け、その度に命が失われていく。その光景を指を咥えて見ている事しか出来ないイスカーンの握り拳からは、いつしか炎にも似た赤い光が零れつつあった
「犬死にだ…!いや、もうそれ以下だ…!」
この無益な殺生の理由が、し暗黒界五族の悲願である人界侵攻ではなく、光の巫女などという代物を皇帝が欲しがっているからとなれば、故郷に残る部族の者たちにどう詫びていいのかも解らない。そんなぶつけようのない怒りに、イスカーンはただ多くの命が無事で峡谷を渡りきることを祈るしかなかった
(・・・頼む…!これ以上の邪魔が入る前に全員渡り終えてくれ!)
若き族長の願いが伝わったのか、あるいは綱渡りに慣れたせいか。速度を上げた先頭の兵らがようやく向こう岸に到着した。五秒ほど遅れて、次の者も大地に足を下ろしていく。これでたどり着いたのは五人ほどか、しかしこの調子では、十本の綱を一万の兵が渡り終えるのに、一時間以上は楽に掛かる計算になる。そんな長時間、敵がこの作戦に気付かないなどということが有り得るとは思えない
しかし、今だけはその万に一つの幸運を祈るしかなかった。未明から行われた綱渡りも、気づけば東から太陽が昇り始めるまで続いたというのに、綱を渡り終える兵たちの数は、背中が痒くなるほどゆっくりとしか増えていかない。多くの落下者を出しながら、五十が百となり、二百となり、ようやく三百を超えた時。谷の向こう岸、黒々と連なる丘の稜線に、七頭の騎馬が姿を現した
(敵か!?・・・いや、たったの7…偵察兵ってとこか。なら敵が態勢を整えるまでに、まだ少しの猶予はあるハズ……)
イスカーンの超視力を以てしても、その背に乗る敵兵の姿までは識別できなかった。しかしてその判断、希望は一瞬で打ち砕かれた。わずか七人の敵騎は、峡谷目掛けて一直線に丘を駆け下り始めた。風に揺られ翻るマント、煌めく甲冑、そして何よりも、全員から陽炎のように立ち上る強烈な剣気。それを否応なく感じてしまったイスカーンは、たまらず叫んでしまった
「せ、整合騎士だと!?敵襲だ!守れ!何としてでも綱を死守しろぉーーーっ!!」
向こう岸に届くかどうかは、イスカーンの理解が及ぶところではない。しかし彼の叫びが聞こえていようがそうでなかろうが、すでに渡溝を終えた三百強の兵たちの半数は、迎え撃つしかない。綱を留める丸太杭の根元で円陣を組み、残りはその前に並んで臨戦態勢を取る。やがて、丘から峡谷までの千メルを駆け抜けた騎士たちは、同時に馬から飛び降りると一丸となって右端の綱へと突進した
「散開っ!!」
先陣を切ったのは、異国の衣装をまとう偉丈夫だった。その右には黄金の鎧を輝かせる女騎士。左には、昨夜イスカーンと戦ったシェータという名の女騎士の姿。そして三人に囲まれて小柄な騎士が一人と、さらにその後ろにもう三人いるようだが、余りにも距離があるためにその姿の詳細は確認できなかった
「ウラアアアアアーーーッ!!」
上半身から汗の珠を飛び散らせながら、数十人の拳闘士たちが五人の騎士を包み込むように突進した。猛々しい喊声とともに、鍛え抜かれた拳が、足が、騎士らに向けられる。その内一人の拳闘士は、左手に盾一枚という騎士らしからぬ装いの少年へと立ち向かった
「うおおおおおおっっっ!!」
壮絶なクロスカウンター、かに思えた。しかし拳闘士の拳は、少年が体の正面に掲げた純白の盾に阻まれ、ゴオンッ!という頑強な金属同士がぶつかり合うような音が響いた
「オラァッ!!」
その少年、上条当麻は拳闘士が盾に拳を押し込んでくるのを見逃さなかった。徐々に膝を折り畳みながら拳の勢いを殺していき、相手の腕力が、フッと抜けた瞬間に相手の右拳ごと盾を相手の体に押し込み、堪らず体勢を崩してよろめいた敵の腹目掛けて、右脚の裏を押し付けるようにして蹴りを見舞った
「うわあああああああーーーっ!?」
「・・・ッ…」
それだけ。たったそれだけで、一つの命が暗い谷底へ吸い込まれていった。その後は想像に難くない。実に簡単で、スマートな方法だった。それが最善手だと分かった上で、それを躊躇うことなく出来てしまった自分に、上条当麻は軽く舌を打った。そんな戦場に持ち込むには不釣り合いな感情と、敵を落とした右手と足に残された生ぬるい感触を払拭するように、彼は次の敵の元へと走った
「や、やめろ……」
騎士達の剣が閃く度に、大量の鮮血が、逆向きの滝となって空へと次々に噴き上がる。向こう岸に辿り着いたハズの者でさえ、容赦なく谷底へ突き飛ばされていく。闘士たちの命が無残にも散っていく光景を目の当たりにしたイスカーンは、悲痛な声を漏らしていた。そして、新たなる悪夢が産声を上げた
「ーーー翔けよっ!雙翼!!」
騎士達の背後から、銀色の輝きが、光の帯を引きながら高々と舞い上がる鳥のような何かがあった。ソレは朝焼けの中、弧を描きながら拳闘士たちの頭を飛び越え、今も大量の兵たちがしがみ付いている右端の縄へと、吸い寄せられていくように………
「やめろぉぉぉーーーーーっ!!?!?!」
イスカーンの鋭く尖った耳は、自身の絶叫に掻き消されることなく、ブツンッ!という荒縄の断末魔を聞き分けた。中央で切断されたその縄は、張力の反動で大蛇のように宙をうねった。やがて始まる重力と引力による落下に、呆気なく振り落とされ、谷底へと落ちていく数十人の闘士たち。その光景を、見開いた両眼に焼き付けながら、イスカーンは爪の食い込んだ拳に血を滲ませながら口走った
「これが、これが戦かよっ…!こんなものが戦いと呼べるのかよっ!?」
「・・・チャンピオン…」
「あいつらは断じて…こんな死に方をするために、辛い修練に耐えてきたんじゃねぇんだぞ!!」
イスカーンの背後に付き従う副官ダンパも、今ばかりは掛ける言葉がなかった。未だ大口を覗かせる谷底の闇と、向こう岸で待っている悪夢を前にして立ち尽くすイスカーンの耳には、闘士たちの無念の絶叫が呪詛のように張り付いていた
「・・・すまねぇっ…!必ず仇は取る…だから、許せ…許してくれ…!」
ひたすらに、己の心意を絞るようにイスカーンは念じたものの、しかし何者を仇と定めればいいのか、イスカーンには即座に判断できなかった。十倍もの軍勢を前に、敵の整合騎士たちも必死なのは考えるまでもない。こちらの兵が全員無事に谷を渡り、整列し終えるまで待っていてくれ、などと頼む方が間違いだ。むしろ、時宜を逃さず対応するために、少数精鋭で斬り込んできたその胆力は見事と言う他ない
「ちくしょうっ…ちくしょぉぉぉっ…!」
では、一体誰が?何者が、闘士たちの犬死にの責を負うべきなのか?こうしてただ、阿呆のように両手を握って立っていることしかできない彼らの長か。それとも………
(暗黒神…ベクタ……!!!)
不意に、右眼の奥に鋭い痛みを感じ、イスカーンは息を詰めた。視界に血の色の光が繰り返し脈打つ、その向こうで。峡谷に細い橋を架けていた二本目の綱が、空を舞う二枚の小太刀に切断され、怪物のような大口の中へと堕ちた