整合騎士レンリが率いる人界軍、追うアメリカ人VRMMOプレイヤー。彼らの遥か北では、アスナが生成した峡谷の南岸で、イスカーンと拳闘士団、そして整合騎士シェータが、いまだ一万以上も残る赤い軍勢を相手に苦戦を強いられている
その戦場から、また更に遥か北の地のことだ。激戦の痕跡が生々しく残る東の大門を望む荒野に、一人の亜人がたたずんでいた。ずんぐりした体を包む鋼鉄の鎧。風になびく革マント。丸い頭の両脇に薄く広い耳が垂れ、扁平な鼻がまっすぐ前に突き出ているオークの彼は、その名を『リルピリン』というオークの族長だ
生き残ったわずか三千のオークの兵たちを後方に待機させ、彼はその身一つで、東の大門がよく見える場所まで歩いた。一人の護衛もつけなかったのは、地面を這い回る自分の姿を見せたくなかったからに他ならない。何時間も砂利をかき分け続け、リルピリンはようやく自身が求めていた物を見つけ出した。それは素朴な彫刻を施した、銀のイヤリングだった
「・・・レンジュ……」
そっと拾い上げ彼が掌に載せたそれは、皇帝の命令によって、暗黒術の人柱となったオーク族の姫騎士レンジュの耳にいつも輝いていた装飾品。彼女の遺品は、それ一つだけだった。荒野には、彼女と共に死んだ三千のオーク兵の骸どころか、鎧の欠片さえも残っていなかった。暗黒術師のおぞましい邪術が、オークたちの肉体どころか装備までをも暗黒力に変換し、余さず喰らい尽くしてのだ
その残酷極まる術式を行使した女術師ディー・アイ・エルも、それを命じた皇帝ベクタも、もうこの地には残っていない。暗黒術師ギルドの総長ディーは、突然に振り注いだ凄まじいまでの雷撃に巻き込まれて死に、皇帝は巫女を追って南に飛び去ってしまった。オークに下された待機命令を解除することもないままだ
そうなればもう、リルピリンに出来ることなど、何一つも残らなかった。後方に待機させられた三千のオーク兵だけでは、とても東の大門を守る人界軍と整合騎士に勝つことはできない。暗黒界五族の悲願である人界征服の夢が潰えたであろうことは、考えるまでもないことだった
「だとすれば…おでは一体、何のために……」
疑問だけが、オーク族長の感情を蝕んでいた。リルピリンの幼馴染であるレンジュと、生贄にされた三千人、そして大門での初戦に出陣した二千人のオーク兵は死ななければならなかったのか。彼らの死が、暗黒界に何をもたらしたというのか。答えは至極単純…『無』だ。ただ人族より醜いという理由だけで、五千もの同族が空しく死んだのだ
リルピリンは、小さなイヤリングを両手で胸に抱き、がくりと地面に膝を落とした。怒り、やるせなさ、そして圧倒的な哀しみが胸に突き上げ、それらが涙と嗚咽に変わろうとした…その寸前。彼の背後で、どすん!と軽い音がした
「あたっ!?」
続いたのは間の抜けた声。振り向いたリルピリンが見たのは、地面に尻餅をついて顔をしかめた若い人族の女だった。鮮やかな金色の髪、抜けるように白い肌、若草色の装束と煌びやかな鎧。見るからに、人界の民だ
「あ、あぁ…おあああ!?」
リルピリンが真っ先に感じたのは、唐突な出現に対する驚きでも、人族への怒りでもなく、自分を見ないでくれという、羞恥にも似た感情だった。なぜなら、突如として現れた娘が、あまりにも美しすぎたからだ。リルピリンは、この小さくてひ弱な生き物を、震えるほどに美しいと思ってしまう自分の感覚を呪った。そして同時に、自分を娘の瞳に嫌悪の色が満ちるのを深く恐れた
「み、見るなッ!おでを見るなああッ!?」
リルピリンは喚き散らしながら必死に左手で顔を覆い、右手で腰に帯びた剣の柄を握った。そして、己の衝動が赴くままに剣を抜こうとした瞬間、左手に握り込んだままのイヤリングがちくりと掌を刺した気がした。あたかもレンジュに引き留められたかのような感覚に打たれ、動きを止めたリルピリンの耳に、思いがけない言葉が届いた
「・・・えと、あの…こんにちは。それともおはよう…かな?」
身軽な動作で立ち上がり、裾の広がった短かめの緑のズボンをぱたぱた叩きながら、娘はにこりと笑って言った。顔を隠す拳の陰から、啞然と小さな娘を見下ろし、リルピリンは何度も瞬きを繰り返した
「な、なぜ…?」
少女の瞳には、自分に対する嫌悪も、侮蔑も、それどころか恐怖すらも浮かんでいないように見えた。白イウムの子供にとってダークテリトリーのオークは、人食いの悪鬼でしかないはずなのに、目の前の少女はただ優しい表情でリルピリンの言葉を待っていた
「どうして、逃げない?どうして…悲鳴を上げない?人族のハズなのに…なぜ?」
口から漏れ出たその言葉は、仮にも暗黒界十候の一人に数えられる長たる者には、まるで似つかわしくない、途方にくれたような声だった。すると今度は緑の少女が、驚いたような、困ったような表情で言った
「なぜ…って言われても。そう言うあなただって人間でしょう?」
何気ない口調で、彼女は言った。その瞬間、なぜか背筋に深い震えが走った。大剣の柄を強く握り締めたまま、喘ぐように亜人の長は悲鳴にも似た声を上げた
「に、人間だと?おでが?な、何を馬鹿なことを…!見ればわがるだろうが!おではオークだ!おまえらイウムが人豚と罵るオークなんだぞッ!?」
「でも、人間でしょ?だって、こうして話ができてるじゃない。人だって判断するのに、それ以外に何が必要なの?あたしだって動物は好きだけど、流石に会話とか意思疎通までは出来ないもの」
「何が必要、って……」
華奢な両腰に手をあて、娘はまるで親が子供に言い含めるような調子で繰り返した。どう反論していいのか、リルピリンには解らなかった。緑色の瞳の少女が自信たっぷりに口にした言葉は、これまで人族に対する劣等感と怨嗟に塗れて生きてきたオークの長にはあまりにも異質すぎた
「そんなことより…ここ、どこなの?あなたのお名前は?」
「お、おでは…リルピリンだ」
反射的に名乗ってから、彼は敵である人界人に、あっさりと名を明かしてしまったことを後悔した。しかし娘は、またしてもにこりと無邪気な微笑みを浮かべ、澄んだ声でオーク長の名を繰り返した
「リルピリン…素敵な名前ね。あたしは『リーファ』。よろしく」
その名を『リーファ』と名乗った少女は、本来のログイン座標から大きくずれた場所に出現してしまったらしいと推測し、恨みがましく赤い空を見上げた。元々指定した座標は、先行しているアスナの現在位置に設定されていたはずなので、周囲に彼女たちの姿がないからにはやはり何らかのトラブルが起きたのだろう
しかし荒涼とした原野はまったくの無人というわけではなく、目の前には丸っこい体と、豚によく似た顔を持つ、ファンタジー系のRPGではよく知られる種族…つまり『オーク』のリルピリンが一人立っていた。取り敢えずは彼に頼らないことには行動しようがないと、互いに名乗った彼に握手を求めて右手を差し出した
「・・・は?」
リルピリンは驚愕して、素っ頓狂な声を漏らした。もちろん握手という挨拶は知っているし、オーク同士でも日常的に行われる。しかしこれまで、人族とオークが握手した話など、ただの一度も聞いたことがない。それを目の前の少女は、なんの気なしに求めてきたのだ
(い、いったい何なんだ、この人族の娘は?何かの罠か、それども術師の仕業なのか?いつの間にか、おでは幻惑術にでも掛けられてしまったとでも…?)
差し出された小さな手を凝視し、唸ることしかできないリルピリンを娘はたっぷり十秒近くも見詰めていたが、やがて少しだけがっかりしたように手を下ろした
「そ、そんなに疑わなくても…まぁ、しょうがないかぁ…」
その様子に、なぜかリルピリンの胸の奥がちくりと痛んだ。これ以上、この娘と話をしていたら…いや見ているだけでも頭がどうにかなってしまいそうだった。彼は、もうリーファを叩き斬る気にはなれなかったが、それ以外で最も頭を使わずに済む解決法にすがるべく、剥き出しの牙を、更に口から剥き出しながら喚いた
「お前…人界軍の衛士、いや騎士だな!?なら、お前を捕虜にする!皇帝のどころに連れでいぐぞ!」
リーファの装備する緑の鎧や、左腰に装備された長刀は、どう見ても一介の兵士に与えられるものではないのは明らかだ。精緻な細工が放つ煌びやかな輝きは、リルピリンの装備よりもずっと上等なように思える。そう勘付いた彼の声にも、リーファはまるで怯える様子も見せずに何かを考えているようだったが、やがて小さく肩をすくめて言った
「・・・あなたの言う皇帝、っていうのは…暗黒神ベクタのことよね?」
「そ、そうだ!」
「わかった。なら、あたしを皇帝の所まで連れていって」
「・・・はぁ?」
リーファは頷き、握った両手を揃えてずいっと前に突き出した。リルピリンは再び途惑ってから、それが握手ではなく捕縛を促す動作であることを悟ると、またしても素っ頓狂な声を上げた
(・・・本当に、まっだく何を考えでいるのか…)
そう首を傾げつつリルピリンは、腰帯から飾り紐を外してリーファの両腕を手荒に、けれど少しだけ緩めに縛った。その時になってから彼は自分の発言を思い返すと、皇帝がもう暗黒界軍の本陣にはいないことを思い出した。しかし皇帝がいなくとも、副官である軽薄な物腰の黒騎士か、商人ギルドの長レンギルあたりが処置を決めてくれるだろう。ぐるりと身を翻し、やや控えめに紐を引っ張りながら歩き始めた、ほんの数秒後のことだった
「・・・なんだ?」
リルピリンとリーファの周囲に、いきなり黒い靄のようなものが色濃く立ちこめた。嫌な匂いがつんと鼻を刺す。たちまち視界が失われ、リルピリンは周囲のあちこちを見回した
「あっ!?」
短い驚きの声は、まちがいなくリーファと名乗った娘のものだった。さっと後ろに振り返ったリルピリンが見たのは、濃密な靄の奥からぬっと突き出した一本の腕がリーファの束ねられた髪を摑んで、乱暴に引っ張り上げている光景だった
「お、おまえは…!?」
「あらぁ、綺麗で真っ白な肌ねぇ。いくら人界人だとはいえ、少し妬けちゃうわ」
直後、腕の先にいる誰かが靄の中からその姿を現した。そこには、死んだはずの女。暗黒術師ギルド総長ディー・アイ・エルが、冷酷な笑みを青い唇に浮かべて立っていた