「匂う、匂うわぁ…!なんて甘い天命の香りなのかしら……!?」
「は、離してっ!このっ…!」
「あ、あぁ…!リーファ!?」
リーファの髪を摑み、その体ごと吊り上げたディー・アイ・エルの唇から、薄気味悪い声が這い出た。どれほど憎んでも憎み足りないはずの暗黒術師の姿を、リルピリンはただ呆然と眺めることしかできなかった
先刻から彼らの周りを覆っている靄の源は、ディーの腰にぶら下がる小さな革袋だった。彼女の傷だらけの身にまとわりつく黒い靄が、たちまち傷口に集まり、嫌な臭いを放って止血していく
そして時折、奇怪な虫めいた生物が顔を出して、盛んに黒い靄を吐き出している。それは、天命の減少を抑えるための暗黒術だった。いたずらに鼻を突く異臭と、その見た目の嫌悪感のあまり、眉間に皺を寄せているリルピリンをちらりと見て、ディーは再び唇の両端を吊り上げた
「素晴らしい獲物を捕まえたわね。いい働きよ、豚。ご褒美に、楽しいものを見せてあげるわ」
ディーは、宙吊りにされて苦しげに顔をしかめるリーファの襟首に、鉤爪のような右手の指を食い込ませた。銀色の鎧と、その下の若草色の上着までもが一瞬で引き剝がされ、地面に落ちると、眩しいほどに白い肌が露わになり、リーファはいっそう顔を歪めた。その様子に、ディーは嗜虐的な笑みを浮かべた
「どう、人族の女の体を見るのは初めてでしょう?豚には目の毒かしらね?でも、本当に面白いのはこれからよっ!!」
ディーの右手の五指が、突然、骨をなくしたかのようにうねうねと蠢いた。いつのまにか、それは指ではなく、細長い虫のような姿へと変わっていた。先端では細かい歯が丸く並ぶ口が開き、厭らしい蠕動を繰り返す
「 い た だ き ま す 」
ディーは囁くと、指から化けた五匹の長虫は何十倍にも伸び、娘の上半身を巻き取った。動きを封じるや、先端が鎌首をもたげ、肌のあちこちに、頭を突き刺さんとするが如く噛み付いた
「ひぎっ…!?」
大量の鮮血が飛び散り、リーファは緑色の瞳を見開いてか細い悲鳴を上げた。長虫を剝ぎ取ろうと手を動かすが、上半身をぐるぐる巻きにされているうえに、手首をリルピリンの飾り紐に拘束されているので抵抗もままならなかった
「あ゛っ!ああああああっっっ!?」
五つの傷口からの出血は、一瞬で収まったかのように見えた。しかし実際はそうではなく、ディーの右手に繫がる長虫が血を飲んでいる。そして暗黒術師は喉を反り上げ、甲高い声で術式を口にした
「システム・コール!トランスファー・ヒューマンユニット・デュラビリティ!ライト・トゥ・セルフ!!」
ぽっ、と青い輝きがリーファの傷口に生まれた。それは血液の流れと同調するように長虫を伝い、ディーの腕に吸い込まれていく。娘の苦悶はいっそう激しくなり、華奢な身体が折れんばかりに仰け反らせた
「あはっ!凄い…凄いなんてモンじゃないわ!なんて濃くて甘い天命なのかしら!」
きんきん響く金切り声が、リルピリンの耳を貫いた。その耳を貫くような痛みで我に返ったオークの長は、必死の形相で暗黒術師に向かって叫んだ
「なっ、何をする!?その娘は、おでの捕虜だ!おでが皇帝のもどへ連れでいく!!」
「黙れッ!汚らわしい豚めがッ!私が皇帝に作戦指揮の全権を委任されていることを忘れたかッ!?私の意志は皇帝の意志!私の命令は皇帝の命令なのよッッ!!!」
「う、ぐっ……」
リルピリンは声を詰まらせた。その作戦はとうの昔に失敗に終わっているではないか、という反論が喉元まで込み上げる。しかし、皇帝は新たな命令を一切残さずに戦場から消えてしまったのだ。ならば、全ての命令はそのまま維持されているというディーの主張を覆すに足る根拠はなにもない
「やめ、て……」
動きたくとも動けないリルピリンの目の前で、か細い悲鳴を上げ続けるリーファの動きが段々と弱々しいものなっていく。一方で暗黒術師長の肌に刻まれた無数の傷は、片端から癒着し、瞬く間に塞がっていった
「ぐ……グゥ……!」
食い縛ったオーク特有の牙の隙間から、潰れた呻き声が漏れた。いつしかリルピリンの視界では、天命を吸われるリーファの姿が、生贄となり息絶えたレンジュの姿と重なっていた。そしてついに、リーファの瞳から、光が薄れ始めた。肌の色はすでに白を通り越して青ざめ、両腕はだらりと力なくぶら下がるのみ。しかし、ディーの右手の長虫は尚も飽き足らぬように蠢き、一滴も残さずに血を吸い取り続けていた
(死ぬ…また、死んでしまう……)
せっかくの捕虜が。いや、自分を見ても恐れも蔑みもしなかった、初めての人間が。その慈しみにも似た感情が彼の胸を満たした瞬間、驚愕すべき現象が発生し、リルピリンは両眼を見開いた
「な、なんだこれは!?」
地面が、炭殻のように黒く不毛なダークテリトリーの大地が、吊り上げられた娘の足許で、緑色に輝いた。ダークテリトリーでは限られた地域でしか見られないはずの、柔らかそうな若草がいっせいに芽吹き、色とりどりの小さな小さな花が無数に咲いた。清涼な芳しさが漂い、血の色の陽光すら穏やかな乳白色に変化した。小さな草地から立ち上る濃密な天命が、渦巻きながらリーファの体へと溶け込んだ
「天命が、蘇っでいる……?」
青白かった肌にたちまち血の色が戻り、瞳にも輝きが甦る。地面の緑色が消え去り、太陽の色が元に戻ると同時に、娘の天命が全回復したことをリルピリンは直感的に悟った。感じるはずのない安堵のような感覚が、胸の奥に満ちた。しかし、それは即座に甲高い叫びによって葬られた
「嘘でしょう!?なんてことなの!?湧いてきた…また溢れてきたわぁぁぁ!!!」
既に負っていた傷はほとんど全快しているはずのディーが、耳障りな金切り声で喚いた。リーファの髪を摑んでいた左手を離し、そちらの指をも醜悪な長虫へと変化させる。鈍く湿った音を立て、新たな五本の触手がリーファの肌に突き立てられた
「っ…!あああああっ!?!?!」
「アハハハハ!アーッハハハハハハ!!私のよ…これは全部!この娘の全部が私の物よおおおお!!!」
(が…我慢、しなくちゃ…!)
目のくらみそうな激痛に苛まれながら、リーファはただそれだけを念じた。スーパーアカウント03『地神テラリア』に付与された能力はダイブ前に説明されている。『無制限自動回復』。周囲の広範な空間から自動的にエネルギーを吸収し、自分や他の動的・静的オブジェクトの耐久度を回復させる固有能力
その能力があるこそリーファは、捕虜となる危険を冒してでも敵軍の大将である暗黒神ベクタとの遭遇を優先し、戦いを挑もうと思い、またアンダーワールド人に対しては絶対に剣を抜くまいと決めていた
しかし、もはや上半身の衣服をほとんど剝ぎ取られた羞恥さえも感じる余裕がないくらい、天命を吸い取られる痛みは圧倒的だった。これは本当に、現実の肉体とは切り離された仮想の感覚なのだろうかと、リーファの意識が朦朧とし始めていた、その時
「・・・やめろ」
小さな声は、確かにそこにあった。それが自分の口から発せられた言葉なのだと、リルピリンはすぐには気付かなかった。しかしすぐに、今度は明らかに口が動き、喉が震動した
「やめろと言っでいるんだ!!」
その叫び声に、針穴のように瞳孔が縮んだディーの眼が、ギロリとリルピリンを睨みつけた。その視線に見え隠れする底知れぬ殺意に、湧き上がるような寒気を覚えてなお、オークの長は更に言った
「もうあんだの天命は、完全に回復しだではないか!?これ以上そのイウムから天命を吸い取る必要はないはずだ!」
「・・・へぇ?なぁに、それ。豚が私に命令してるって言うのぉ〜?」
奇妙な抑揚をつけて、ディーは囁いた。その間にも十本の触手は激しく蠢き、娘の肌を締め上げて血を貪り続ける。それどころか、その体に収まり切らない天命が青い光の粒となって空中に放散されている
「最初に言ったでしょ、豚。この捕虜はもう私のよ。私がどれだけ天命を吸おうと、豚の目の前で辱めようと、あるいはこの場で殺そうと、お前には関係のないことでしょ?」
だというのに、ディーは自身よりずっと小柄なリーファを邪術で拘束し、虐げるのをやめようとしなかった。次いでくつくつと、喉の奥から女性とは思えない、下卑た笑い声が漏れ出した
「ん〜。でも、そうね。見つけたのはお前なんだし、少しくらいは譲歩すべきかしらね? なら、今そこで、裸になってみせなさい」
「な、何を…言っでいる……?」
「私ねえ…初めて見た時から、お前みたいな豚のなり損ないがその大仰な鎧とマントを着てると吐き気がするのよ。まるで人の真似事みたいじゃなぁい?だからそこで素っ裸になって、四つん這いで本物の豚みたいにフガフガ鳴いてみせたら、もしかしたらこの娘を返してあげるかもよ?」
「ッーーー!!!」
ズキン!と。なんの前触れもなく突然に、リルピリンの視界の右半分に赤い光がちらついた。同時に、右眼から鉄針を深々と差し込まれるような痛みが頭を貫いた
[ーーー豚の癖に。人みたい]
[ーーー人間でしょ?それ以外に、何が必要なの?]
リルピリンの脳裏で、ディーの言葉と、リーファの言葉が重なった。そしてリルピリンの右手が、革マントの留め金を摑んだ。ぶちっ、と一気に引き千切る。マントが地面に落ちると、リルピリンは続けて鎧の革帯に手をかけた
(この娘を、ディーに殺させてはいけない。いや、殺させたくない。そのためなら…そのためならば……)
「・・・ダメ、よ。リル…ピリン………」
今まさに裸になり、本物の豚を演じようとしていたリルピリンの耳に、不意に微かな声が届いた。その声に彼がはっと顔を上げると、自分をまっすぐ見ているリーファと眼が合った。痛みに涙ぐむ彼女の瞳が、ゆっくり左右に振られた
「あたしは…大丈夫。だから、やめて…そんなこと、しなくて…いいんだよ……」
「!!!!!」
「・・・あのねぇ、それ以上つまんないこと言ったら、その可愛い顔を食い破るわよ。せっかく面白い見世物なのに。ほら、さっさと脱ぎなさいよ豚。それとも人族の裸に興奮しちゃったのかしら?」
ぎゃはははははは!と、汚らわしい笑い声が続いた。その声に、リルピリンの鎧の革帯を握る手が、ぶるぶると震え始めていた。眼の痛みはいっこうに収まる気配もない。しかし、もはやその痛みは彼にとって、胸中に渦巻く怒りと屈辱に比べれば、どうということはなかった
「おでは……!」
刹那。両眼から溢れ、頰を伝って滴るものがあった。顔の左に垂れる雫は透明なのに、右のそれは深紅に染まっていた。右手が、革帯から離れ、左腰の剣へと伸びた
「おでは、人間ダァっ!!」
リルピリンが叫ぶと同時に、最大の激痛を伴い、グシャア!という水気を含んだ音を奏でて、彼の右目の眼球が内側から破裂した。半減した視界の端に、リルピリンはしっかりとディーの姿を捉え続けていた。女術師の嗜虐的な笑い声が途切れ、口がぽかんと開いた。ディーの無防備な両足めがけて、リルピリンは全力を込めた抜き打ちを放ったのだ
「なにっ!?」
しかしその剣先は、ディーの右足の脛を掠めただけで届くには至らず、リルピリンはそのまま姿勢を崩して、左肩から地面に倒れ込んだ。そして彼が片目で見上げた先で、凶悪な形相へと変じたディー・アイ・エルが、唇を歪めて吐き捨てた
「薄汚い、臭い豚がぁ…!よくもこの私に傷を付けてくれたなぁっ!粉々になるまで切り刻んで、藁と混ぜた後でイノシシの餌にしてくれるッ!!」
禍々しい指で拘束していたリーファを後方に投げ捨て、ディーは両手を高く掲げた。十本の触手がギィン!と硬い音を放ち、一瞬で黒く輝く十本の刃となった。左右に大きく広げられた刃が、振り下ろされるのをオークの長はただ待った。しかし
ーーーとっ。
ーーーとんっ。
二つの小さな音が、ほぼ同時に鳴り終わった。その瞬間には、ディーの動きが止まり、術師の両腕が肩のすぐ下で体から分離し、鈍い音を立てて地面に転がっていた。その様子を、理解の追いつかないままリルピリンは呆然と眺めた
「ぎぃやあああああああああああ!?!?」
驚愕の表情を浮かべたのは、ディー当人も同様だった。左右の肩から滝の如く鮮血を振り撒きながら、長身の術師はゆっくりと体の向きを変えた
「人族が、豚を助けて…人を斬るだとぉぉぉ!?そんなの、あり得ぬ…あり得ないだろうがあああああああああああ!?!?!」
断末魔の先で。白く輝くリーファの姿が、リルピリンの視界に入った。そして、リーファは滑らかな動作で長刀を上段に構えると、両の肩口から血を巻きしらして首を左右に振り続ける暗黒術師をしかと見据えて、言った
「違うわ。人を助けるために、悪を切るのよ」
ズバンッ!両手の指から両足の爪先に至るまで、無駄な力がまったく入っていないのに、空恐ろしいほどの速さ。研ぎ澄まされた極限の技。感動の涙にぼやけたリルピリンの視界で、最強の暗黒術師であり十侯最大の実力者、ディー・アイ・エルの肢体が脳天から垂直に裂けた