「悪い、随分と迷惑掛けたみたいだな。カミやん」
そう言ったキリトの左手には、半ばから刀身を失っているものの、どこか優しい霜を振りまく青薔薇の剣。そして失われていたはずの右手は完全に実体を取り戻し、彼らしい黒一色の剣、夜空の剣が握られていた。曰く、『二刀流』。微風に揺れる、少し長めの前髪。穏やかな笑みを浮かべる唇。同じ高さから見詰め返してくる、二つの黒い瞳を見て、上条は胸の奥から込み上げてくる熱い感情をごまかすように、微笑を浮かべて返した
「本当に大変だったんだからな。こんなキリト達の世界の米軍やらが関与した事件に巻き込まれる日が来るとは、カミやんさんはどんだけ不幸なんだって感じだよ」
「そりゃ元々俺の話を勝手に自分の世界に持ち出したカミやんのせいだろうが」
「ご、ごもっともで……」
「ふふっ、あははははっ!」
上条のショボくれた反応がおかしかったのか、キリトは心を失っていた先刻からは想像できないほど元気そうに笑った。それから彼は一頻り笑い終えると、自分の咳払いでその笑い声を打ち消してから言った
「でも、結果的にはそれも良かったのかもしれないな。カミやん達が来てくれたからこそ、助かった部分もあった。改めて、カミやん、ミコト、それにみんな。世界を超えて俺たちを、アリスを、アンダーワールドの皆を助けに来てくれて、本当にありがとう」
「気にすんな。アイツらに助けられたのは、俺だって同じだよ」
「私の方こそ。ユウキの時はキリトさん達に色々とお世話してもらったから、困ってたらいつでも助けに行くわよ」
穏やかな口調で礼を言って、キリトは夜空の剣を持ったまま右手の拳を上条に向けると、上条もすぐさま右手の拳をキリトのソレにぶつけ合った。次にキリトは左隣の美琴にも青薔薇の剣を握った拳を向けると、彼女もその仕草に快く応えてくれた。そしてキリトは、ようやく後方に振り向いて、いつも傍にいてくれた少女の名前を呼んだ
「ただいま、アスナ」
両眼から涙が次々に零れ、喉から細く高い音が漏れるのを、アスナは止めることができなかった。胸の前で両手を握り締め、彼女は懸命に、溢れ出そうとする気持ちを声にした
「・・・おかえり、キリトくん」
「キリト……」
「キリト先輩……」
アスナに続いて、ソルティリーナとロニエも同時にキリトを呼んだ。微笑みながら二人にも深く頷きかけると、キリトは視線をもう一度真正面に戻した。その表情に、戦う覚悟が宿った瞬間、一番目の前にある氷の彫像がバガァンッ!という音ともに砕け散った
「ははははははははっ!待ちくたびれたぜ…さあ、俺と踊ろうじゃないか!キリト!!」
白い霜と氷の蔓を粉々に割り砕き、激しく一歩踏み出した悪魔は、裾を翼のようにはためかせながら、割れ鐘のような声で叫んだ。アスナの知る限り、SAO時代を通して初めてその名を呼んだPoHは、友切包丁を振りかざしながら続けてキリトに言った
「しかし、ようやくお目覚めだな。こんな風に顔を見て話すのはいつ以来かな……」
「さあ、忘れたな。でも確かなのは、これが最後だってことだ」
錆びた金属を擦るような悪魔の声に、キリトはアインクラッド時代を彷彿とさせる、飄然とした中に冷たい鋭さを秘めた声で応じた。しかしそのアインクラッド時代の彼を彷彿とさせる物言いは、返ってPoHの昂る感情の引き金にもなり、彼はピュウッと楽しげに口笛を吹いて笑った
「いいね…まったくオマエは最高だよ、キリト。さあ、続きをやろうじゃないか。アインクラッドで中断されちまったショウタイムの続きを」
「・・・悪い、カミやん。ここまで付き合わせた上で申し訳ないけど、ここは俺一人に任せてくれないか?」
友切包丁を構えたPoHを鋭い視線で一瞥したキリトは、そのままの視線で上条の方を見ることなく訊ねた。上条はその言葉に対し軽く鼻で笑って、彼の傍から後ろに下がりつつ答えた
「申し訳ないも何もねぇよ。コイツとの戦いはキリト達のSAOの遺恨なんだろ?だったらお前がケリをつけて然るべきだよ」
「ま、そういうことだ。理解が良くて助かるよ」
彼らのやり取りを聞いたのか、途端にPoHの真上に渦巻く黒雲がひときわ激しく蠢き、邪悪な心意が具現化した彼の周囲に佇む深い黒霧と、分厚い鉄塊に赤黒いスパークが這い回った。そして対峙するキリトも、右手の黒い長剣をまっすぐに振りかぶった
「死にやがれぇぇぇぇぇ!!!!!」
長身をゆらりと前傾させるや、瓦礫だらけの地面を滑走するかの如く、十メートルの距離を瞬時に詰め、分厚い大鉈を重さを感じさせない動きでぬるりと振り下ろす。キリトはその一撃をステップ回避ではなく、右手の剣で迎え撃とうとした
「キリトくんっ!!」
しかし、キリトの右腕から繰り出された斬撃は、アスナの眼から見てもかつての鋭さが失われていた。大鉈と衝突した長剣は、弾き飛ばされることだけは辛くも免れたが、五分の鍔迫り合いには持ち込めず、真上から押し込まれる形になった。キリトの膝が折れ、背中が弓なりに反り上がるや、地面を踏み締めるブーツが、ずずっと後ろに滑った
「・・・おいおい、がっかりさせないでくれよ黒の剣士。俺はこの日を、二年近くも待ち続けたんだぜ…?」
哄笑を堪えた声で囁くと、黒ポンチョの死神は友切包丁の柄に左手も乗せた。ギギッと接触点が軋み、キリトの膝がさらに沈む。PoHと同じように両手持ちに移行すれば…とアスナ思ったが、キリトの左手には白い剣が握られている。しかも真っ二つに折れているので、それで攻撃することもできない。少しずつ、しかし着実に下降していく大鉈の刃が、キリトの首筋に迫っていった
「キリト……!!」
掠れ声で囁いたソルティリーナが、長剣を手に立ち上がろうとした。しかし、人界の剣術学校でキリトの指導役だったという女性衛士長の左肩を抑え、同じく自身の恐れを抑え込みながら囁いていたのは、アスナだった
「大丈夫よ、リーナさん。キリト君はあんな奴には負けない。絶対に…!」
「はい。キリト先輩は、絶対に負けません」
逆にキリトが指導役をしていたというロニエも、両眼に涙を溜めながらアスナの言葉に頷いた。キリトの勝利を何一つ疑っていない彼女達の口許に浮かぶ微かな笑みを見たソルティリーナは、やがて肩に置かれたままのアスナの手を強く握って答えた
「・・・そうだな」
しかし、その直後。三人の祈りにも似た確信を嘲笑うかのように、PoHがまたも友切包丁を大きく押し込んだ。心意によって加速する彼の腕力に、たまらずキリトは地面に左膝を突き、黒い剣を支える右腕はぶるぶると震え、限界が近いことを予感させる。歯を食い縛って耐えるキリトの顔に、PoHは自分の顔を近づけて再び嗤った
「くくっ。いい加減にそのクズ剣を捨てて、左手を使えよ。オマエが凍らせてる中国と韓国の奴らは、オマエの仲間をいっぱいブッ殺したんだぜ?そんな連中が殺し合おうと、知ったことじゃないだろ?」
「・・・お前の遣り口はよく知ってるよ。人を争わせ、憎しみの種を蒔いて、次の争いを引き起こす。SAO時代はその手で散々引っかき回されたけど、このアンダーワールドじゃ、お前の好きにはさせない。絶対に」
「ほう…ならどうする?あの連中は、氷が溶けたら日本人の生き残りと、オマエの大事なアンダーワールド人どもを皆殺しにするぜ? それを防ぐには奴らを殺すしかない。凍ってるうちに片っ端からブチ割ってな。お前のお仲間ならできるはずだ。さあ、命令しろよ。中韓の奴らをブッ殺せ…ってな」
毒を垂らすような悪魔の指嗾に、キリトは答えなかった。彼の邪な企みは、アスナ達にもありありと察知できた。氷の蔓に巻かれて凍り付く中韓のプレイヤーたちは、現状では痛みを感じていないようだが、それを割り砕くとなれば、その苦痛もまた精神を割るようなものだろう。痛みは怒りを呼び、彼らの日本人プレイヤーに対する敵意を決定的なものになる
「まあ、意地を張って死にたいならそれもいいさ」
同時にPoHは、中韓プレイヤーの死によって空間に放出される大量の神聖力を友切包丁で吸うことができる。キリトとの戦いに勝利し、なおも残る日本人プレイヤーとアンダーワールド人を一人で全滅させるに足るほどの力を蓄えられる。それを理解しているはずのキリトが、PoHの煽動に乗るわけがない
「安心しな。オマエを殺した後に、閃光も含めた他の連中も一人残らず棺桶にブチ込んでやるよ」
しかし決定的破局を避けるためには青薔薇の剣による武装完全支配術を維持し続けるしかなく、それが宿敵との戦いをより困難なものにしている。大鉈を受け止めるキリトの右手が震えるたび、接触点から火花が散る。大鉈の刃は着実に下降し続け、キリトの左肩まではもう拳二つ分ほどしかない中で、PoHは暗いフードの奥でニタニタと笑いながら続けた
「さあ…お前の血と命、魂を、俺に味わわせてくれ。キリト」
爬虫類のように尖った舌でちろりと唇を舐め、PoHは友切包丁を握る両手にいっそうの力を込めた。キリト黒い剣がギギっと悲鳴を上げ、致死の刃は一秒に一センチずつ確実に近づいていく。すると、不意にアスナのすぐ後ろで、微かな祈りの声が響いた
「お願い、ユージオ先輩…!キリト先輩を、助けてあげて下さい!」
小さな声に振り返った三人の少女が見たのは、両手を胸の前で握り合わせた赤毛の少女、ティーゼだった。瞬間、アスナは確かに感じた。ティーゼの髪がふわりと広がり、そよ風にも似た波動が放たれるのを。再び前を向くと、悪魔の包丁がキリトの左肩に触れていた。それだけで、黒いシャツの布地が弾けるように引き裂かれた。続いてキリトの血が迸る光景を予感し、アスナは息を詰めた
「あ……!」
しかし、そこで、友切包丁の降下は停止した。それどころか、じりじりと少しずつだが確実に押し返されていく。瘦せ細り、疲れ果てたキリトの右腕のどこにそんな力が…あるのかと、密やかな驚きを漏らしたのはロニエか、ソルティリーナか。同時にアスナもそれを見た。黒い剣の柄を、金色に透き通るもう一本の腕がしっかりと握っている
「行け!キリト!!ユージオ!!!」
叫んだのは上条だった。例え世界を超えたとしても、色褪せることのない親友の勇姿と、キリトの剣を支える腕が、彼の中で重なって見えた。やや遅れて、キリトもその腕に気付いたようだった。両眼を見開き、次いでくしゃりと顔を歪める。目尻に涙が滲み、光の粒となって舞い散る。その直後のことだ
「おお…うおおおおおおおおっっっ!!!」
キリトの喉から裂帛の気合いが迸り、友切包丁を激しく弾き返した。両腕を跳ね上げられたPoHが、罵り声を漏らしながら後ろによろめいた。すかさずキリトは、片膝立ちの体勢からすっくと立ち上がると、左手に握る折れた青薔薇の剣を高々と掲げて叫んだ
「リリース・リコレクション!!」
途轍もなく眩い閃光が炸裂し、世界を純白に染め上げた。光を嫌がるかのように、PoHが片手を顔の前にかざしながらさらに後退る。眼を細めながらも、アスナは見た。半ばから無残に折れていた白い剣の刀身が、光そのものが凝集、結晶化するかの如く再生していく。わずか数秒で本来の姿を取り戻した剣そのものが強烈に輝き、シュバッ!!という鋭い音ともに、その閃光が拡散した
「す、すごい!!」
一瞬の静寂を経て、戦場全体に幾千、幾万もの鈴が震えるような、清らかかつ壮大な音が鳴り響いた。視線を動かしたアスナたちは、呆然と眼を見開いた。白く凍り付いていた中国、韓国のプレイヤーたちの体に無数の青い薔薇が咲いていく。咲き誇る大輪の薔薇たちは、その花心から銀色の粒子を放ち始めた。それが純粋な空間神聖力、即ちプレイヤーたちの天命であることをアスナは直感した
「な、なんだあっ…!?」
笑いばかりを発していたPoHの口から、驚嘆の声が上がった。ほんの十数分前までは憤怒を滾らせ、互いに殺し合おうとしていたプレイヤーたちが、眠るように瞼を閉じたまま一人、また一人と光の柱に包まれて消滅していく。それは痛みも苦しみもない、考え得るかぎり最も静穏な強制ログアウトだった
「テメェ、ふざけた真似をっ……!」
目論見を破られた死神が罵声を発しかけたが、すぐに不敵な笑みを取り戻し、右手の大鉈を掲げた。今この戦場には、無数の青薔薇が放出する中国・韓国プレイヤー達の神聖力が濃密に漂っている。それを、リソース吸収能力を持つ友切包丁で全て自分のものにしようとしている。しかし、空中で寄り集まり、幾筋ものリボンとなってたゆたう銀色の光たちは、PoHの友切包丁を完全に無視していた
「・・・・・あ?」
それを疑問に思った悪魔がどれほど魔剣を突き上げても、青薔薇から漂う空間神聖力は近づく気配すらなかった。そしてキリトが、完全に再生した白い剣はそのままに、右手の黒い剣も真っ直ぐに空へとかざした。PoH自身の心意が呼び寄せた渦巻く黒雲が、逆回転しながら拡散していく。中央に少しだけ覗いた青空から、金色の陽光が一筋降り注ぎ、夜空の剣の刀身を黒水晶のように照らした
「リリース・リコレクション」
キリトは先程と同じコマンドを、今度は嚙み締めるように唱えた。するとその瞬間、戦場の空をゆっくりと流れていた無数の銀色のリボンが、互いに縒り合わさりながら黒い剣へと吸い込まれ始めた
「
英語で罵り声を上げたPoHが、対抗するように友切包丁を振り回す。しかし銀色に光るリボン達は自らの意志があるかのように魔剣を避け、次々に黒い剣と融合していった
「・・・ユージオ先輩が言ってました。キリト先輩の黒い剣は、もともとは人界の北の果てに生えてた、大きな黒い杉の木だったんだ、って」
「そうか…だから、神聖力を吸い込む力を……!」
アスナの後ろで、ティーゼが震える声で言った。すぐに、ソルティリーナが得心したように呟く。キリトの黒い剣が空間神聖力を吸収する能力を持っているのだとしても、同じ力を持っているはずのPoHの友切包丁が、青薔薇によって放出された空間神聖力をまったく吸収できないのは何故か。それは包丁の力が、本当は『命を吸うもの』ではなく『死を吸うもの』に他ならないからだ
「ったく、ユージオのやつ…相変わらずの天然人たらしだな」
呆れたように、しかし嬉しそうに上条は呟いた。左手の白い剣は、広範囲の対象を凍結し、その命を空中に解き放つ。右手の黒い剣は、周囲の空間から生命力を吸収し、エネルギーに変える。とてつもなくシンプルで、それゆえに強力無比な相乗効果だ。完璧なる一対。さればこそ、ユージオは上条だけでなく、キリトにとっても、文字通り最高の『相棒』だった
「ありがとう、ユージオ」
キリトが相棒の剣を一瞥しながら言うと、膨大な量のリボンを吸い込むにつれ、黒い剣の中心部が金色に輝き、空間神聖力が剣の柄を通して彼の腕にも流れ込んだ。棒のように瘦せ衰えていた体が、急激に本来の逞しさを取り戻していく。復活現象は肉体だけにとどまらず、激戦の中であちこち破れていた黒シャツが瞬時に再生し、手には指貫きグローブ、足にもリベットつきのブーツが現れた
「キリト、くん……!」
さらに、肩口から両腕、そして背中へと光のラインが下りていき、少し遅れて黒光りする革が実体化する。出現したのは、キリトがSAOで『黒の剣士』と呼ばれるに由来したトレードマークだったロングコート。その大きく翻る裾が落ち着くと、離れた場所に落ちていた二本の鞘が飛来し、彼の背中に交差する形で装着された。懐かしく、誰よりも優しいその後ろ姿を、アスナは溢れる涙越しに見た
「これが、二刀流……」
自分達のSAOでは終ぞ見ることのなかった、二刀を掲げるユニークスキル。あまりにも神々しく、雄々しいキリトの姿を見た美琴は、図らずも感嘆の声を口にした。数秒後、命のリボンを全て吸収し、『黒の剣士』として完全復活を終えたキリトが、ゆっくりと左右の剣を下ろして言った
「待たせたな」
戦場を埋め尽くしていた中国、韓国のプレイヤーたちは、大半がログアウトしていた。不毛の荒野は、これまでの死闘に次ぐ死闘が噓だったかのような静けさに包まれた。聞こえるのは乾いた風籟と、きん、きん、という高温の金属が軋むような音だけ。その源は、膨大なエネルギーを蓄え、黄金のオーラを纏う夜空の剣にある。それを見てようやく空間神聖力の吸収を諦めたPoHが、ため息を一つ吐きつつ友切包丁を下ろして言った
「やっぱりオマエは最高だよ、キリト。自分の意思でこんなにも殺したいと思えるのは、後にも先にもお前だけだ。終わりにしちまうのは惜しいが、これ以上の舞台は二度とないだろうからな。さぁ…最後まで楽しもうぜ、黒の剣士」
暗い闇を秘めたフードの奥で、片端に歪んだ笑みを刻む唇が微かに動く。右手の大鉈をぬるりと構え、左手を前に突き出す。手の甲に彫られた『笑う棺桶』のタトゥーを見せつけるように、細長い指で手招きするPoHに、キリトはたった一言で応じた
「あぁ、終わりにしよう」
キリトは両足を開いて腰を落とすと、白い剣を前に、黒い剣を後ろに構えた。対峙する両者の闘気が急激に膨れ上がり、中間地点で激しく心意の刃がぶつかり合って火花を散らした。再び乾いた風が吹き、止まったその瞬間、二人はは同時に動いた。PoHが振りかぶった友切包丁を、赤黒い粘液質の光が包む。直後、恐ろしいほどのスピードで走る死神の体が、三つに分裂した
「「「オラァァァァァーーーッ!!!」」」
黒衣の悪魔が放ったのは、その場にいる誰も知り得ないソードスキルだった。対するキリトは、右手の剣は下げたまま、左手の白い剣に真紅の輝きを宿らせた。片手直剣用ソードスキル『デッドリー・シンズ』。前と左右から次々に放たれるPoHの斬撃をキリトの連続技が迎撃していき、三人のPoHが二回ずつ、計六回攻撃したところで、彼の分身は消えた。残った本体が、分厚い刃を上段から猛然と斬り下ろす
「くっ…!?」
それをキリトの左斜め斬りが受け止め、鮮烈な火花と衝撃波が爆ぜた。デッドリー・シンズは七連撃技。もしPoHのソードスキルにもう一閃があれば、直撃は免れない。上段斬りを跳ね返された反動で死神のフードがめくれ上がり、内部の素顔がSAO時代以来初めて露わになった。どこか日本人離れした、彫りの深い顔に凄絶な笑みを浮かべたPoHは、赤黒いオーラを纏ったままの包丁を、再びキリトの肩口に叩き付けようとした。それが八撃目
「うっ…おおおおおおおおおお!!!!!」
しかし、刹那。キリトの右手に握られた夜空の剣が、真紅の閃光を迸らせた。深く、熱い、炎の赤。本来であれば一秒以上続くはずの硬直時間をキャンセルして、黒い剣が神速の突き技を発動させる。片手用ソードスキルを左右の手で連続使用するという、キリトにしか使えない絶技『スキルコネクト』。金属質の轟音とともに放たれた単発重攻撃『ヴォーパル・ストライク』が、PoHの分身八連撃技のラスト・アタックと空中で激突した
「・・・楽しいねぇ。お前もそう思わないか、キリトよ」
膨大な爆風の中で睨み合う両雄は、黒い剣と赤い大鉈の切っ先同士を接触させたまま静止していた。まだ戦いは終わっていない。二人とも、極小の接触点に極大のエネルギーを集中させ、相手の攻撃を押し返そうと全力で鬩ぎ合っている。互いに痛みを分け合うそれすらも娯楽としたかのように、PoHは呟いた。しかし直後、かすかな、そして決定的な音が響いた
ーーーーーーーーーピキンッ!!
PoHの魔剣、人が人を殺すために生まれた凶器『友切包丁』の切っ先から根元にまで、赤く輝くひび割れが稲妻のように走った。直後、大鉈は無数の破片となって四散し…キリトのヴォーパル・ストライクが包丁を握っていたPoHの右腕までをも粉々に吹き飛ばして、そのまま五メートル以上も伸長した
「いいや。俺は命を賭けた戦いが楽しいと思ったことなんて、ただの一度もない」
キリトがPoHの問いかけに答えた瞬間、再び爆風が押し寄せ、二人の戦いを見守っていた全員が視界を奪われた。上条や美琴、アスナを始め、傍らのロニエ達、後方のクラインやリズベット達日本人プレイヤーも最期の時を垣間見ようと、爆風が巻き上げた土煙が晴れるのを待った
「・・・あっそぉ。くくくっ……」
やがて土煙が薄れ、密着する元SAOプレイヤー達の姿を露わにした。武器を失い、だらりと両腕を垂らすPoHの胸に、キリトの黒い剣が深々と突き刺さっている。だがそこには先刻、美琴のマザーズロザリオの空けた大穴が広がっており、新たな肉体的ダメージはない様子だった。友切包丁による天命の供給が絶たれたせいか、大穴と口から鮮血を零しながらも、PoHはなおも不敵に笑ってみせた
「だが、これで終わりじゃないぜ。この世界からはログアウトしても、俺は何度だってお前の前に現れる。お前と閃光の喉を搔き切り、心臓を抉り出すまで、何度でもな…」
「・・・いや、これで終わりだ。お前は、このアンダーワールドから永遠にログアウトすることはない」
呪いめいた悪魔の宣告に、キリトは殆ど感情を窺わせない、静かな声で応じた。直後、夜空の剣が一瞬の閃光を放つ。次第に光が収まると、キリトは黒い剣をPoHの胸の穴からゆっくりと引き抜き、数歩後退した。その支えがなくなっても、PoHは倒れなかった。凄惨なニヤニヤ笑いを浮かべたまま、さらに何かを言おうとする。しかし、開いた彼の口は、ミシッ!という音と共に硬直した
「ごおっ…!?あ゛、がぼっ……!?!?」
それは手足も同じだ。不自然な体勢のまま停止する四肢が、ミシミシと軋みながら質感を変えていく。艶やかな黒革は、細かくひび割れた繊維質に。金属のリベットは、盛り上がった瘤に。異様な変身を遂げようとしている悪魔に、キリトが再び口を開いた
「この剣は元々、ルーリッドの村で『悪魔の大杉』と呼ばれていた大きな樹だった。村人が二百年も斧を振っても伐り倒せなかった…その『剣の記憶』を、お前の体に流し込んだんだ」
PoHの返答はなかった。というより、返答のしようがなかった。キリトの言葉通り、PoHの体の表面は半ば以上、炭のような黒い樹皮に変わりつつあった。両脚は一本に融合し、地面に根を張り始めている。両手は奇妙に拗くれた枝に。髪は鋭く尖る葉に。そして両眼と口は、三つ並んだ木の洞に変化した
「中韓プレイヤーのログアウトを確認したら、お前の仲間は時間加速を再開するだろうぜ。STLから出して貰えるまでに何年、何十年経つのかは解らないが、なるべく短くなるように祈るんだな。いつかこの辺に開拓者の村ができたら、斧を持った子供たちがお前を伐り倒してくれるかもしれないぜ」
その言葉がPoHの意識に届いているのかどうかは、もう解らなかった。キリトの前に存在するのはもう人間ではなく、高さ二メートルほどの不格好な杉の木だったからだ。こうして、二年越しになるデスゲームで宿敵同士だった二人の対決は幕を閉じた