「・・・んぁ?」
水を打ったような静けさの中で、青い芝生の匂いと少し甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。肌を撫でるのは春の陽気を感じさせる穏やかな風。まだ朦朧とする意識が惰眠を貪ろうとする欲に駆られたが、照りつける日差しを無理やり視界に刻みつけ、上条は目を覚ました
「えっと…ここは夢か?それともALOの中か?でもこんなマップ見覚えないしなぁ…」
上条は自分がこんなところで寝ていた理由を探し求め、自分の記憶を掘り起こしてたが、それらしき記憶は全く出てこなかった
「俺はたしか昨日、学究会で自分のレポートを発表して…その後帰って寝たのか?はたまたなんかで飲みすぎて記憶がない?」
上条は自分が夢の中にいるのか判別をつけるために、自分の右手で頬を思いっきり抓った。すると自分の神経系は痛烈なまでにその感覚を脳に伝えた
「痛って〜〜!?ってことは夢じゃない…ならALOか。とっととログアウトしちまおう」
そう思い立ち左手を振り下ろしたが、その左手は空気を漕いだだけで、その先に表示されるはずのメインメニューは一文字も現れることはなかった
「・・・おろ?メニューが出ない…ってそりゃそうか。ここがALOなら抓った頬がこんなに痛いはずがないもんな………っていや待て。そうなるとここは………」
現実世界。自分が本当の意味で生きる世界が上条の脳裏によぎった。そう考えてしまうのは当然だ。あまりにも鮮明に移る景色や、鼻に残る香り、風の音、どれを取っても現実の自分の五感に語りかけているようで、どうしてもそこが夢だとも、仮想世界だとも思えなかった
「いやいやいやいや…そんなわけあるか!?アレか?今流行りの異世界転生ってやつなんですか!?ってーとなんですか?上条さんは既に前世を終えたということですか!?」
上条は我ながらバカな発想だとは思ったが、それにツッコミを入れる者すら近くには見当たらない。こうなってくると、いよいよ疑問よりも虚しさが胸につっかえる感覚に囚われてきた
「って、流石にそりゃないか。別に死んだ覚えもないしな。とりあえず誰かに連絡入れてみっか。さてスマホは……あれ?服が………」
スマホを取り出そうとポケットに手をつっこもうとした時、上条はようやっと自分の身なりがおかしなことになっていることに気がついた。全体的に薄い青色で、胸元の生地はVの字に切り込まれ糸が通されている、木綿か麻でできた半袖のシャツ。同じ色と素材で出来ている長袖の肌着。そしてポケットのないクリーム色のズボンと、レザーのシューズ。どこをどう見てもファンタジー系のゲームの初期装備そのものだった
「なんだ…ってことはここは仮想世界じゃねぇか。知らねぇゲームでもインストールして寝落ちしたのか。まぁどっちにしたってメニューの開き方すら分からねぇなら直で呼びかけるしかねぇか。おーい!GMさーん!」
自分の格好でここは仮想世界だと結論づけた上条は、一先ずログアウトを試みようと、頭上に広がる蒼穹に向かって大声で叫んだ。しかし、しばらくしても彼の答えに応じるものは何もなく、沈黙とした時間と雲だけがゆっくりと流れて行った
「・・・応答なし。普通のVRMMOならこれで何かしらの返事かウィンドウが出るはずなんだが…サポート時間外か?参ったな」
上条が現状を理解しきれず後ろ頭を掻いていると、不意に空気を伝って甲高い音が聞こえた。金属のような細い音ではなく、太さと反響が残るような一風変わった音だった
「・・・?なんだ今の音?でも自然の音っぽくはないな…だとしたら誰かいるかもしれねぇな。まぁこのまま現状嘆いてても意味ねぇし、ちょっと行ってみるか」
未だ目の前に広がる景色が夢見のせいなのかハッキリしないまま、響いて来る音を頼りに上条は草木の生い茂る丘を登り始めた。丘の中層には鬱蒼とした林が広がっていたが、その林を抜けると丘の頂上と思しき少し拓けた場所に出た
「たしかこの辺から音がしてたハズなんだが…ってなんだこりゃ!?」
そこで上条を待ち受けていたのは、天に向かってそびえ立つ一本の巨大な樹木だった。地に張る根はまるで巨人の腕のように地面をガッシリと掴んでおり、その巨大さに上条は呆気にとられていた
「は〜〜〜……これはスゲェなぁ…屋久島の縄文杉みてぇだ…」
「・・・誰?」
「んぁ?」
上条は巨大な樹木にばかり意識を向けていたせいか、掛けられた声に気づくのに少しばかり時間がかかった。見上げていた視線をゆっくり下ろしていくと、緑がかった瞳と真っ直ぐに視線がぶつかった
「君は誰?どこから来たの?」
そう上条に問いかけた丁度同い年ぐらいの少年は、アッシュブラウンの髪をしていて、服装も今の上条とほとんど同じのどこか柔らかな雰囲気を醸し出していた。しかし、その右手には骨製とおぼしき白い斧が握られており、素手の上条は警戒の意識を持ちながら口を開いた
「えっと…俺の名前は…」
しかし、答えようとしたところで上条は口籠った。理由は単純に仮想と現実、どちらの名前を名乗ったらいいか分からなくなったからだ。沈黙は2秒にも満たなかったが、上条は自分なりに思考を巡らせ、一度咳払いして答えた
「『カミやん』だ。ちょっと道に迷っちまってな。変な音が聞こえてきたから試しにこっちに来てみたんだ」
(ま、この方がいいだろ。話してるのは日本語だけど、どう見てもコイツ日本人じゃなさそうだしな。ここが本当に仮想世界じゃないなら変な名前だとか言われるだろうし、そしたら訂正すればいいだけだ)
「道に迷った?えっと…君の来た方角だと…『ザッカリア』に住んでるの?」
「ざ、雑貨屋…?あ、あぁはいはい。街の名前か何かね。オーケーオーケー」
「?」
目の前の少年は、上条の言動の意味がよく分からないのか、眉を顰めながら首を傾げた。まず間違いなく今自分は怪しまれている。そう直感した上条は一先ず緊張を解こうと話を続けた
「あぁ、悪いな。えっと…お前の名前は?」
「僕かい?僕の名前は『ユージオ』」
「ユージオか…いい名前だな。よろしく」
そう言って上条は握手を求めて自分の右手を差し出した。するとユージオと名乗る少年はその仕草の意図を分かっていたようで、強張っていた口角を緩めると、上条の右手を握り返した
「ありがとう。こちらこそよろしく、カミやん」
(俺の右手に触れる…まぁ少なくとも異能の存在とかってことはなさそうだな。まぁここが現実ならの話だけど)
「んでその、変なこと言うようだけど…俺、自分がどっから来たのか分からないんだ。覚えてるのは名前だけで他のことは薄ぼんやりとしか……」
「えっ?自分がどこから来たか分からない?それは驚いたなぁ…『ベクタの迷子』かな。話には聞いていたけど、本当に見るのは初めてだよ」
「べ、べくたのまいご?とな?」
見たことはおろか聞いたことすらない単語を上条は復唱すると、ユージオは軽く頷いた
「うん。ある日突然いなくなったり、逆に森や野原に現れたりする人のことを、僕たちの村ではそう呼んでるんだ。闇の神ベクタが悪戯で人間を攫って、生まれの記憶ごと引っこ抜いてすごく遠い土地に放り出すんだ。僕の村でも、ずーっと昔、お婆さんが1人消えたんだって」
「へーっ……」
(ははぁん?少し読めてきたな。こりゃなんともありがちなRPGだな。記憶を失った主人公に成り切って、魔王を倒す旅に出るとかいう王道ファンタジー的なVRゲームと見て間違いなさそうだな。まぁしかし、これは上条さんのミスでしょうな。大方、現実でクラインと記憶失くすまで酒飲んでアイツに勧められたゲームソフトをロードして寝落ちした…ってとこかな。そうと決まれば…)
ユージオの話を聞いてようやく自分の中で確信を得た上条は、内心ニヤリと笑いながらユージオに話しかけた
「それで悪いんだが、どうにも困ってるから一旦ここを出たいんだ。だけどログアウトの方法が分からなくてな」
「えっ?ログアウト…ってなに?」
「・・・ほ?」
おかしい、と上条は反射的に思った。ここは仮想世界に間違いない。そう結論づけるならば、目の前にいるユージオはプレイヤーか、コンピュータの作り出したNPCでなければおかしい。そして双方どちらだとしても、ログアウトの言葉が通じないはずがない。しかし、目の前の少年はどうにも本当にログアウトの意味が分かっていないようだった
「え、あ、えーっとだな…じゃあ聞くが、ユージオはプレイヤーなのか?これはなんて名前のゲームなんだ?」
「・・・ぷ、プレイヤー?ゲーム?いったい何の話だい?」
「・・・マジで…?」
(これはアレか?最初に言ってた異世界転生が一番有力だったりするので?流行りに乗っかって上条さん自殺でもしたの?それともクラインと飲んで急性アル中でお亡くなりに?葬式どれくらい来てくれたのかなぁ…って違うな。今それどころじゃない)
上条はあまりの衝撃に思わず言葉を失って自意識の中で迷走していた。もはやこれはゲームではない、そう直感した。ユージオはプレイヤーにせよNPCにせよ完全にここの住人であって、『仮想世界』という概念を持ち合わせていない。上条の抱く疑問はますます深まるばかりだが、ともかくここで話を途切れさせるのはマズイと思い、必死に会話を繋げようと試みた
「わ、悪い。俺の記憶の中の言い回しなだけだから気にしないでくれ。ただその、なんだ…どこかの村か街で泊まれる場所を見つけたい。って意味なんだけど…」
「へぇ、変わった言葉遣いだね。初めて聞いたよ。その黒いツンツン頭もこの辺じゃ珍しいし…南の方の生まれなのかな?」
「ど、どうでせうか…」
あまりにも言い訳としては苦しすぎるか?と思い不安に駆られたが、どうやら要らない取り越し苦労だったようで、一先ず上条はホッと胸を撫で下ろした
「うーん、泊まれるところかぁ…僕の村はここから真っ直ぐ北だけど、旅人なんてまったく来ないから宿がないんだよ。でも、事情を話したら教会のシスター・アザリヤが助けてくれるかもしれない」
「宿なんて贅沢言わないさ。むしろそっちの方が助かる。なんせカミやんさんは今一銭も持ち合わせてないからな」
村がある、というユージオの発言は上条としては渡りに船だった。ここが仮想世界であるにしろそうでないにしろ、村などのターニングポイントなら少しは情報があるはずだ
「じゃあ俺はその村の教会に行ってみる。こっから北に真っ直ぐでいいのか?」
「あ、ちょっと待ってカミやん。村には衛士がいるんだ。いきなり君が入っていったら説明が色々大変かもしれない。僕が一緒に行って事情を説明するよ」
「え、衛士?そ、そんなのがいるほど立派な村なのか?」
「言うほど立派な村ではないと思うけどね。まぁそういう『天職』だから仕方がないよ」