「こんにちは、バルボッサさん」
セルカと別れた後、キリトと昼食を済ませたアリスはもう一度小屋を出た。そしてキリトと二本の剣を載せた車椅子を押して、村の南にある開墾地にたどり着いた。そしてそこにいる太鼓腹の男『ナイグル・バルボッサ』にアリスは声をかけた
「おお!おお!アリスさんや!よく来てくれたのう!」
太鼓腹を揺らしながら、ナイグルは陽気にアリスに走り寄った。彼がいたそこは、ユージオとキリトが切り倒したギガスシダーの切り株から南に少し離れており、周りの森林を切り開きながら黒土が掘り起こされていた
「ええ。何か御用と聞きましたので」
そこでアリスは、自分の視界の隅に15、6歳ほどのバルボッサ一族の三人の若者を見た。三人は金髪にスカーフを巻いたアリスを無遠慮に眺め回してから車椅子のキリトに目を向けると、小声で何かを言い合って低い笑い声を漏らしていた
「ほれ、見えるじゃろう。昨日の朝からあの忌々しい白金樫にかかりっきりなんじゃ。大の男が十人がかりで斧を振ってもちっとも刻めやしないんじゃ」
しかしナイグルはそんなことを気にも留めず、開墾地の奥に居座る一本の樫の木を指差した。地にどっしりと根を構えた木は、幹が差し渡し1メル半はありそうだった。その周りでは十人ほどの男が斧を杖にして、一人残らず滝のような汗を流していた
「ご覧の有り様じゃ。このままじゃあの木一本にあと何日かかるか分かったもんじゃない。ウチがここで手間取っている内に、向こうのリダックの連中は20メル四方も土地を広げよった!」
ナイグルは農地拓きを争い合っているリダックという農家の名前を、恨めしそうに口にした。キリトとユージオが周辺の地のテラリアの恩恵を吸っていたギガスシダーを切り倒してからは、毎日のようにナイグルとリダックは少しでも自分が多くの農地を得ようと必死に森を切り拓いていた
「そんな訳でな、月に一度という取り決めではあるが、今回だけ特別に力を貸してもらえんかな、アリスや。アンタは覚えとらんじゃろうがワシはアンタが小さい頃、何度かお菓子をくれてやっ…いや、あげてたんじゃよ。昔のアンタはそりゃ可愛い娘っ子でなぁ…あぁいや、もちろん今も……」
必死に機嫌を取ろうとするナイグルに、アリスは心の中でため息を吐いた。今回の白金樫のような、開墾に邪魔な木や岩を取り除くのが今のアリスの稼ぎ口だ。村の外れに住んで1ヶ月ほど経ったある日、放牧地に繋がる道を塞いでいた大岩をアリスが一人で退かしたという噂が広がってから、いつしかこんな手伝いを頼まれるようになった
「えぇ、分かりましたバルボッサさん。今回だけということでしたら」
村の外れでキリトと暮らしていくためにも多少の現金は必要だったので、こうした仕事があるのはアリスにとってもありがたかった。しかし、言われるままに全てアリスが引き受けてしまっては男たちが際限なく頼んでくるだろうと危惧したセルカが、手伝うのは一軒の農家につき一度という取り決めを立てたのだった
「それじゃあ、ちょっと待っててね」
返事のないキリトに声をかけてからアリスは白金樫に近寄ると、周りにいた男たちはあからさまにニヤニヤと笑みを浮かべたり、舌打ちをしたりしながら樹を離れた。彼らと入れ替わりに大木の前に立ったアリスは、白金樫のステイシアの窓を開いて天命値を確認した
「・・・なるほど。これは確かに仕方がなさそうね」
ステイシアの窓に示された数値はかなりの量で、十人がかりでも倒れないのにアリスも納得した。それからアリスは小走りで車椅子の元へ戻ると、腰を屈めてキリトの膝に置かれた剣に手を添えて囁いた
「ごめんなさい、キリト。少しだけあなたの剣を貸してほしいの」
「・・・あー…」
アリスがキリトの虚ろな瞳を辛抱強く覗いていると、やがて彼の腕から力が抜けて掠れた声が漏れた。明確なイエスとも分からない応答にアリスは頷くと、キリトの腕の中からそっと黒い剣を持ち上げた
「ありがとう。すぐに済むわ」
それからアリスは足早に白金樫の前に戻ると、左目で木と自分の適切な間合いを測りながら夜空の剣を腰高に据えると、やがて右脚を前に出し、左脚を引いて剣の柄を握った
「おいおい!そんな細っこい剣で白金樫を切り倒すつもりかい?」
「あ〜、アリスや。出来れば一時間くらいで何とかしてほしいんだがのう」
周りの若い農夫達が飛ばす野次を心配して、ナイグルがアリスに声をかけた。やれ剣が折れるだの、その前に日が暮れちまうだのという野次が飛び交うが、アリスはそんなものは気にせず少しだけ振り返って太鼓腹の男に言った
「いえ、そんなにはかかりません。一瞬で終わらせます」
いつもであればアリスは彼らから斧を借りて大木の相手をしている。それでは自分の力が相まって斧を壊すおそれもあるので、力をセーブしてある程度時間をかけて大木を刻んでいる。しかし、キリトの夜空の剣は彼らの斧とは比べ物にならない優先度を誇るため、一切の手加減はいらなかった
「・・・ハアッ!!」
短い気合が走った。直後にアリスは夜空の剣を左水平に振り終わり、振り切った姿勢から立ち上がった。しかし男たちには斬撃そのものが見えていなかったらしく、怪訝そうに眉を潜めて様子を伺っていた
「ははっ、なんだよハズレかぁ?」
男の一人が漏らすと、それに釣られて周囲も笑い始めた。確かに白金樫の樹皮には、農夫達がつけた薄い刻み後しか残っていないように見えていた。アリスはそんな彼らの笑いの中で剣を鞘に納めると、左目を閉じながら彼らに言った
「そちらに倒れますよ」
「・・・はぁ?何言って…どわあああああ!?」
言いかけた男の目が、一気に見開かれた。白金樫が根元からゆっくりと倒れていくと、彼の叫びと共に周囲の男達も散開した。彼らが5メルほど離れたところで白金樫は地響きを伴って横たわり、アリスは土埃を左手で払った。するとそこに、ナイグルがどすどすと駆け寄ってきて身を引いた
「あ、アリスッ!アリスや!」
アリスの眼前まできてバルボッサは両手を大きく広げたので、抱きつかれるのを恐れたアリスは威嚇の意味を込めてシャン!という鋭い鍔鳴りと共に剣を持ち上げた。それを見てナイグルは広げていた両手を胸の前ですり合わせたが、浮かべていた満面の笑みまでは消えなかった
「すっ!素晴らしい!なんという腕なんじゃ!衛士長のジンクなんぞ全く問題にならん!まさに神業じゃ!ど、どうじゃアリス!礼金を倍にするから月に一度と言わず、週に一度…いや、一日に一度手伝ってもらえんか!?」
セルカの設けたの取り決めの意味を、アリスはまざまざと見せつけられている気がした。たった一度例外に従っただけでこれだ。これから毎日付き合えば終いには何を言われるか分かったものではなかった
「いえ、今いただいている金額で充分ですから」
「うむむむむ…!」
小さく被りを振るアリスに、ナイグルは惜しいとばかりに大きく唸った。アリスはそんな彼の様子に苦笑いを浮かべながら左手の平を差し向けると、ナイグルが我に帰ったように懐を弄って100シア銀貨を一枚取り出した
「お、おっとそうじゃったな。これが今回の礼じゃ。ところでどうかの、今銀貨をもう一枚支払うから今月のリダックの連中の手伝いは断るというのは……」
なおも未練がましく頼むナイグルにアリスが再び断りの言葉を入れようとしたその時、ガタン!という音が響いた。アリスがハッとして視線を向けると、そこには横倒しになった車椅子と地面に倒れるキリトの姿があった
「き、キリトッ!?」
アリスはナイグルの横をすり抜けて走ると、俯せに倒れたキリトが必死に左手を伸ばしているのが目に入った。その先には、白革の鞘に納められて長剣を、二人がかりで何とか地面に立てている若者がいた
「うおっ!?なんじゃこりゃ、めちゃめちゃに重いぞ!?」
「だからあんな女でも白金樫を一発で切り倒せんだろうが!」
「いいからちゃんと抑えてろよ!」
口々に喚く男達の中で、三人目の男が青薔薇の剣を抜こうと両手で柄を取った。アリスがキリトを背にしてその男達の前に立つと、奥歯を嚙み鳴らして鋭い声とともに睨みつけた
「貴方たち…!その剣はキリトとその親友のものです。早く返しなさい」
爆発しそうになる感情をなんとか抑えこんで、アリスは倒れたキリトを助け起こして再び車椅子に座らせながら命じた。すると三人の男は反抗的な表情を見せ、青薔薇の剣を抜こうとしていた大柄な若者がキリトを指差して言った
「ん?だから俺たちはちゃんとそいつに言ったぜ?剣を貸してくれってな」
「そうそう。そしたらソイツ、気前よく貸してくれたんだよ。アー、アーって言ってな」
「何をっ…!」
鞘を握る男もそれに続いた。キリトはなおも車椅子の上で、左手を懸命に伸ばして男の言うようにか細い声を漏らして何かを訴えている。アリスは右手でキリトの車椅子の取っ手を握っていなければ、すぐにでも男に切りかかりそうなほど怒り狂っていた
「わ、わかったよ…そんな怖え顔しやがって」
気づけばアリスは、全身から溢れ出さんばかりの殺気を放っていた。それに怖じ気付いたのか若者達は一斉に手を離すと、青薔薇の剣はズシリと地面に横たわった。アリスは無言のまま歩み寄り、敢えて指3本だけで剣を持ち上げると、キリトの元へと戻り彼の膝の上に青薔薇の剣を戻した
「それでは、失礼しました」
騒ぎを気にもしていないナイグルの背に一礼すると、アリスはそのまま剣を大事そうに抱えるキリトの座る車椅子を押して開墾地を後にした。久方ぶりに感じた熱い憤怒の感情は、時間が経つにつれて、冷たい無力感に変わっていた