時刻は午後3時を回った頃。人界の北端に位置するルーリッド村から飛んだアリスは、人界を囲む巨大な壁に設けられた東西南北の四つの門の内、東の大門を見下ろしていた。その手前、北と南を果ての山脈の峡谷に挟まれた野原にテントなどを立てた野営地が設置されていた
「雨縁、ここで降りてください」
野営地は中央の野原を広く開けてあり、そこから隣接していた天幕の並ぶ飛竜の発着場に、アリスはゆっくりと雨縁を降下させた。飛龍の四肢がやがて重低音を伴って地に着き、主人のために首を下ろすと、アリスがキリトを抱えて雨縁から飛び降りたのとほとんど同時に、まるで突進してくるように一人の青年が走り寄ってきた
「師よ!我が師アリス様!信じておりましたぞ!」
そう叫びながら、いの一番に駆けつけた藤色の髪をした整合騎士、エルドリエの変わりようのない様子に、アリスはため息を吐いて肩を落としそうになった。しかしすんでのところで思い直して肩にかかった長髪を背中に流すと、青のマントをはためかせながら身を翻し、自分を師と慕う騎士と顔を合わせた
「元気そうですね、エルドリエ。野営にしては甲冑にも髪にも汚れが目立たないところがむしろ其方らしい」
「・・・えぇ、そのお褒めの言葉をお預かりする前に、どうかお一つ訊ねさせていただきたいことがございます。我が師アリス様」
アリスの皮肉に、彼らしからぬ険しい表情でエルドリエは言った。そして彼はアリスが左腕で支えている痩せ細った黒髪の少年を鋭い視線で一瞥すると、低く強張った声で訊ねた
「その若者を、この戦場に連れてきたのですか…?一体なぜです?」
「当然です。守ると誓ったのですから」
強張った声のエルドリエとは裏腹に、アリスはよく澄んだ穏やかな声で言った。そしてエルドリエの目からキリトを遠ざけるように身を引くと、アリスに次ぐナンバリングの騎士はアリスの言動を疑うような震えた声で言った
「で、ですが、いざ開戦となれば我ら整合騎士は、常に最前線に立たねばならぬ身です。敵兵共と剣を交える間、その少年はどうするのです?まさかアリス様に限って、その少年を背負って戦うなどという世迷言を仰られるとは夢にも思いませんが……」
「必要であればそうします」
なおもキリトを支える姿勢を崩さぬまま、アリスは答えた。するとこの騒ぎに気づいたのか、彼らの周囲には休憩中の兵士達や下位の整合騎士達までもが集まっており、寄り添って立つ二人に少なくとも好意的ではない視線を向けていた。するとそれに乗じるように、エルドリエは声に勢いを乗せて叫んだ
「なりませぬ!我が師よ!僭越ながらも言わせていただきますが、そのような無用の重荷を抱えて戦えば、剣力が半減するどころかアリス様自らの御身を危険に晒すことになりましょう!」
「・・・承知しています。全て覚悟の上です」
「いいえ!分かっておりませぬ!アリス様は来たるべき戦いに於いて、彼らを率いて戦うという責務があるのです!その貴方が、持てるお力の全てを発揮せずしてどうするのですか!?」
エルドリエは周囲に集まっている兵士達に掌を差し向けながら、切羽詰まった表情でアリスに迫った。アリスはそんな彼の必死な顔と周囲の兵士達の視線を見渡すと、変わらぬ静かな声でエルドリエに言った
「えぇ。ですから、私の持てる力の全てをここに率いてきました」
「・・・は?」
「よっ!いしょっと……」
エルドリエが呆けた声を出していると、兵士たちの視線がアリスの連れてきた雨縁の方へ一斉に向けられた。それに釣られるようにエルドリエも視線を移すと、そこには老人のような掛け声とともに飛竜の背中から地に降りた、ツンツン頭の少年が立っていた
「なっ!?な、なぜ貴様がここに…!?」
「ははっ。俺を見てそういう反応をしてくれてるってことは、自己紹介は必要なさそうだな。えっと確かお前は…『エスカルゴ・シンセサイザー・サーティワン・アイスクリーム』…だっけ?」
「「「・・・・・・・・・・・・・・」」」
「「「・・・はぁ?」」」
上条の姿を視認するなり、目に見えて狼狽するエルドリエに、上条が少しの笑いを含めながら言った。しかし、彼の言葉にエルドリエを始めその場にいる兵士全員の顔が凍りつき、素っ頓狂な声を上げた。アリスは上条が生み出したその空気に眉間に手を当てながら頭を抱えると、これでもかと言うほど巨大なため息を吐いた
「はぁ…カミやん、あなたひょっとしなくても、わざとエルドリエの名前間違えてませんか?冗談でこの場を和ませようとか思ってます?」
「・・・えーっと…ダメだった?見た感じなんか一触即発って感じだったし…」
「そんなので収まる空気に見えたんですか?そもそもボケが伝わってません。お前の世界の方の言葉なのかは知りませんが、そんなので冗談言われても困るだけでしょう。なんだったら、最後のアイなんたらとかいう一節なんて完全に蛇足です」
「て、手厳しいな…こんなシャレでも無理にでも笑ってくれてたロニエがまだ良心的だったと思えてくるぜ…」
重ねてため息を吐いたアリスは、針山に裁縫針を何本も突き刺すような勢いで、上条のボケに容赦なくツッコミを入れた。そんな夫婦漫才じみた光景にエルドリエは混乱しながらも、震える声でなんとかアリスに再び話しかけた
「あ、あの…アリス様?どうしてこの者がこの場にいるのですか?私としては目の前の光景にかなり戸惑っていまして、私の記憶が確かならばこの男は……」
「ええ、もちろん分かっていますよ。あなたの記憶は正しいですし、自分の記憶を信用しても何の問題もありません。その説明は然るべき時、然るべき場所でします。とにかく今は、キリトとカミやんのことを共に戦う仲間だと認識してくれればよいのです」
「なっ!?正気ですかアリス様!?」
「えぇ、私はいつだって正気ですし、本気ですよ。私は冗談が嫌いですから」
「・・・それ暗に先ほどのカミやんさんにも言ってませんかねアリスさんや?」
「殴りますよ?」
「ふ、不幸だ…もとい横暴だ……」
何とか真面目な話に戻そうと、アリスとエルドリエが張り詰めた空気を醸し出し始めたところに上条がまたしても水を差した。アリスもいい加減それが頭にきたのか、蘇った右目の眼光と抑揚のない脅しで今度こそ上条を黙らせたのを見ると、エルドリエが怒気を垣間見させる口調で言った
「アリス様!昨夜私がお住まいの小屋をお尋ねしてから、どのような事情があったのかは存じませぬが、そんな素性もよく知れぬ輩など到底信用できますまい!そちらの無用の重荷をお抱えになるだけでも信じられぬと申しておりますのに…!」
「まぁまぁ、そうカッカすんなよエルドリエ。いくら嬢ちゃんに惚れ込んでるからって、他を突っぱねてたら逆に見っともねぇってモンだぞ?」
「べ、ベルクーリ騎士長…!?」
「小父様…!」
「よう、嬢ちゃん。半年振りだな。思ったより元気そうで安心したぜ」
突然周囲の人垣の一箇所が割れ、一本の道が出来たかと思うと、その奥から薄青色の着物を着た偉丈夫が現れた。腰あたりの低い位置で帯を結び、その左腰に無造作に巨大な神器の剣を突っ込んだ整合騎士、ベルクーリ・シンセシス・ワンはニヤリと笑いかけながらアリスに言うと、次いで上条に視線を向けた
「そっちのトンガリ頭の坊やも久しぶりだな。久しぶり…っていうと少しニュアンスが違うかもしれんが」
「いや、まぁ久しぶりでいいんだろ。だけどおっさんは驚かねぇのか?俺がここにいることに」
「まぁ目の前の人間に一度殺された記憶があるってのは何とも不思議な感覚だが、自分で腹を括って死んだ以上、存外悪いもんじゃねぇさ。それにこの記憶が今の俺の頭にあるってこたぁ、お前さんがどっかにいるんだろうって予感はしてたからな。別に大して驚くことでもねぇよ」
流石は世界最古にして最強の騎士だと、上条は彼から漂ってくるオーラに舌を巻いた。常人であれば記憶の混濁に取り乱すことが当然だろうが、そうならないこのベルクーリという男の肝の据わり具合は相当なものだと、上条はかつて殴り合った男を前にして改めて実感していた
「それにエルドリエ。聞いた話じゃお前さん、こっちのトンガリ頭の坊やと闘った時は見事なまでに完敗だったらしいじゃねぇか。整合騎士たる者、一度手合わせした相手の実力は正当に評価すべきものだと思うぜ?」
「ぐっ!?し、しかしあの時は私にも至らなかったところが…!」
「まぁそれも勿論あるかもな。だがこのカミやんの凄さは、何も強さだけじゃねぇ。この坊やは俺を含めたここにいる誰よりも、己の心が強え。あろうことかコイツは、捕まった親友を助ける為だけに、たった一人でカセドラルに反逆したんだ。もし仮に同じ状況になったとして、カミやんと同じ真似がお前にできるか?エルドリエ」
「そ、それは…」
「まぁ、出来っこねぇよな。というか下手な話、俺も多分出来ねぇよ。そう思い立つだけでもスゲエってのに、それに留まらず最後にはそれ以上の結果をカミやんは掴み取りやがった。それを鑑みても、俺たち整合騎士のような一騎当千どころか万夫不当…下手すりゃそれ以上の強さを誇るかもしれんヤツを、人手があってもあっても足りねぇこの状況で摘まみ出すってのは、全ての民にとっての損失なんじゃねぇか?」
そう言ってニヤリと口角を上げてベルクーリがエルドリエに言うと、エルドリエは上条の顔をしばらく見て何かを考え込むと、それをそっと飲み込むように一息ついてから口を開いた
「・・・分かりました。ベルクーリ閣下がそう言うのでしたら、私ももう止めますまい。ですが!百歩譲ってこのカミやんという少年は良しとしても!そちらの少年は訳が違います!」
エルドリエがベルクーリに向き直ると、上条の参加には渋々折れて頷いた。しかしその直後に、鋭い視線と右手人差し指の先をキリトに向けると、アリスと上条の顔が険しくなったのにも構わず強い口調で続けた
「あのキリトという罪人は!今や万夫不当、一騎当千はおろか、わずかな戦力どころか補給隊員にもなり得ません!村や街の凡夫一人でも呼んだ方がまだ力になるというもの!例え過去には我ら整合騎士団をもう一人の罪人と共に退け、最高司祭様の首にまで手を掛けたとは言えど、このような状態では木偶の坊とも呼べますまい!」
「・・・そうかい。そこまで言うんなら、一つ試してみようか」
エルドリエのキリトに対する誹りを静かに聞いていたベルクーリは、低い渋みのある声でそう言うと、アリスの傍にいるキリトに視線を向け、目に見えぬ力である剣気を練り始めた。ベルクーリは整合騎士に伝わる心意技、心の力で物体を動かす『心意の腕』を超える秘術『心意の太刀』を放とうとしている。そう察知したアリスは腰に据えた金木犀の剣に触れようとした。しかし………
(大丈夫さ、嬢ちゃん)
「ーーーッ!?」
剣の柄に触れるほんの直前で、ベルクーリの思念にも似た声がアリスの耳に届いた。その声にアリスが動きを止めた瞬間、実体のない不可視の刃が振り下ろされた。ベルクーリは微動だにせず両目で凄まじい光を放った瞬間、ベルクーリとキリトの間でギィンッ!という金属音が響いて火花が散った
「・・・え?い、今の火花は……」
「おう嬢ちゃん、今のが見えたかい?」
「は、はい。本当に一瞬でしたが、たしかに剣戟の音と光が……」
「おうとも。俺はそこの若者に向けて、『心意の太刀』ならぬ『小太刀』を放った。当たっていれば頬の皮くらいは切れていたさ」
「当たって…いれば?ということは、わざと外したのですか?」
「そんなことしねぇさ。受けたんだよ。この若者が、己の心意でな」
「・・・え?」
ベルクーリが言うと、アリスは驚愕に目を見開くと同時に、左腕で支えるキリトの顔を覗き込んだ。しかし、依然として彼の目は虚空を見つめているばかりで、体には少しの力みも感じなかった
「見た目じゃ分かんねぇよ、アリス」
「カミやん…?」
淡い期待を寄せてキリトの顔を覗き込むも、変わらぬ現実に落胆して表情を曇らせていたアリスの右肩に、上条がそっと手を置いた。そして彼女の奥に見える少年へ視線をやりながら、少しの微笑みを見せながら言った
「だけど、さっき小さくだけどキリトの体は僅かに震えてた。確かにキリトの心はここにはないかもしれない。だけど決して死んじまってるわけじゃねぇよ。今の心意の小太刀だって、ベルクーリのおっさんはキリトじゃなくてお前を狙ってたんだぜ?」
「・・・えっ!?」
「なんだ小僧、最初から分かってやがったのか」
「分かってなかったら殴ってでも止めてる」
上条が不敵な笑みを浮かべてベルクーリに言うと、最強の剣士はそんな彼の器量に太く笑った。それからベルクーリは、アリスとキリトを見て小さく頷いてから言った
「そういうことだ、嬢ちゃん。さっきその坊やは、自分じゃなくお前さんを守ろうとしたんだ。そんだけの気前がありゃ十分さ。いつかきっと、若者の心は戻ってくる。俺はそう思うぜ。多分、嬢ちゃんが本当にソイツを必要とした…その時にな」
「・・・キリト…」
感情が抑え切れなくなったアリスは、必死に自分を守ろうとしてくれたキリトの体を両腕で強く抱きしめた。それを見てフッと口元を綻ばせたベルクーリは、エルドリエの方に振り返りながら言った
「まぁそんなわけだからよ、エルドリエ。そう細かいこと言わずに面倒見てやろうや。若者の一人や二人くらい、そう大差ねぇだろ」
「わ、若者の一人や二人とは申されましても…両足で地に立つ者と、支えがなくては立てもしない者では雲泥の差が…」
「おいおい、忘れたのかエルドリエ。その坊やの相棒は、この俺に勝ったんだぜ。整合騎士長ベルクーリ・シンセシス・ワンによ」
その言葉に、エルドリエはおろか上条やアリス、その場に集まっていた兵士全員が静まり返った。そしてベルクーリはその時を思い出したようにため息を吐くと、呟くように言った
「ユージオって名のあの坊や…強かったぜ、途轍もなくな。俺は時穿剣の武装完全支配術まで使って、その上で負けたんだ。お前さんや、デュソルバード、ファナティオがそうだったようにな」
「・・・承知しました。騎士長閣下やアリス様がそこまで申されるのでしたら、私も折れましょう。この若者2人を共に戦う仲間と認め、両者のために剣を取り、戦う誓いをここに」
エルドリエは目を閉じてすーっと長く、かつ細く息を吐いた。そして何かを決心したようにカッと瞼を上げると、左手でマントの端を掴んで広げながら右手を胸に当てると、静かにベルクーリとアリス達に向けて頭を下げた
「エルドリエ…!すみません、恩に着ます」
「こちらこそ、今までの非礼を詫びさせて下さい我が師よ。私はアリス様がこの戦場に馳せ参じて下さったことが、この上なく嬉しかったのと同時に、師の御命を何としてでも守らねばならぬという使命感に駆られ、周りが見えなくなっていたのかもしれませぬ」
「いいえ、良いのです。私もそなたと同じく、その気持ちが何よりもありがたく感じています。これで私はそなたに背中を預け、何一つ危惧することなく戦うことができます。ありがとう、エルドリエ」
「お、おお…!アリス様が私めに背中を預けて下さると、そのようなお言葉を頂けるとは…!このエルドリエ、未だかつてない歓喜に満ちております!我が師より頂いた此度のご期待、この命に代えても答えてご覧にいれます!」
「ふふっ…まったく、そなたはいつも大袈裟すぎですよ」
エルドリエはアリスの前に跪いて彼女の右手を取ると、先ほどの怒りを露わにした強い口調ではなく、騎士として仕える信念を感じさせる芯のある声で言った。その光景に上条は表情を綻ばせていると、正面にベルクーリがやって来て右手を差し出した
「悪いな。色々とモメたが、改めて歓迎するぜ。俺たち『人界守備軍』にな」
「あぁ。こっちこそ、よろしく頼む」