「それじゃあロニエさん、ティーゼさん。明日からキリトのことをお願いね」
アリスとキリト、そして上条が人界守備軍に馳せ参じてから四日目の夜。三人に与えられた天幕の中には、年若い二人の少女もいた。その少女たち、ティーゼ・シュトリーネンとロニエ・アラベルの顔を順に見つめながらアリスが言うと、二人はぴんと背筋を伸ばして頷いた
「はい!お任せ下さい、アリス様!」
「必ず、私たちがキリト先輩を守り抜きます!」
彼女達の瞳の中には、木製から鉄製に変わった車椅子に腰掛けるキリトの姿が映っていた。先ほど、その車椅子にキリトと夜空の剣、そして青薔薇の剣を乗せて進めるかどうかを試してみた所だった。その結果、二人で力を合わせれば即時撤退にも素早く応じれるほどの速度が出せることが分かり、アリスはホッと胸を撫で下ろしていた
「ありがとな、二人とも。だけどもしもここが危うくなったら、まずは自分の身を第一に考えてくれ」
そして少女騎士二人に対し、上条が諭すように言った。しかし、その言葉通りの事態に陥いれば、戦場に赴く自分たちや、守られるキリトはおろか、人界に住む人間には未来がないことは分かっていた。所詮この言葉も、気休めくらいにしかなっていない。そんな風に感じていた上条の心の内を知ってか知らずか、アリスが続いて付け足した
「そうよ。ここにいるツンツン頭の誰かさんみたいに、後先考えず自分を犠牲にするのだけはやめて頂戴ね」
「・・・ほぼ名指しに聞こえるのはカミやんさんの気の所為でしょうか?」
「そう思うのなら、少しは改善しようと努力したらどうです?単独行動の件、私は許した覚えはありませんからね!」
「お、お前な…それに関しちゃ、あの軍議から今日まで散々謝ってたじゃねぇか!それなのにずっと俺の顔見たら不貞腐れやがって!お前は反抗期の娘か何かなんですかぁ!?」
「む、娘ですって!?お互いそんな歳の子を持つほど生きてないというのに、なんですかその言い草は!?お前だって私が今日まで口を酸っぱくして、どれほど苦手でも剣の一本は帯びろと言っていたのに、訓練の時に誤魔化しで振っているだけで結局剣を帯びていないではありませんか!選り好みしてるお前の方がよっぽど子どもです!」
「へ〜?そう言いますか。じゃあカミやんさんも言わせてもらいますがね、お前夜な夜な寝言で『キリト…キリト…』って何回言ったか俺もう数え切れてないんですが!?床で寝てる俺にも聞こえてくるって、どんだけ寝言デカイんですか!?母親に甘える幼児なのか、ひたすら彼氏に甘えるクソリア充みたいな真似しやがって!こちとら気まずさ限界突破でロクに寝れてないわ!」
「なっ!?こ、このぉ〜っ…!」
「・・・仲よろしいんですね。お二人とも」
「ちょっ!?だ、誰がこんな男…!」
ティーゼの小さな呟きを聞き漏らすことなく、アリスは声を上げて否定しようとした。しかし、いざティーゼの方を向いてみると、彼女の奥で焦げ茶髪の少女騎士が、実に微妙な表情を浮かべながら俯いているのに気がついた
「・・・なるほど…そういうことでしたか。これは悪いことをしました…」
「あ?なんだよ、急にしおらしくなって。まぁその、なんだ。俺も少し言い過ぎ…」
「お前に言ったのではありません。というか悪いのはお前の方なんですから、今さら私が謝る理由がありません」
「な、なんですとぉ!?」
「それよりも、少しの間でいいので、この天幕から出てもらえませんか?」
「あ?なんだって急に…」
「四の五の言わず。彼女達と少しだけ、女性にしか出来ない話をしたいのです」
「・・・まぁ、そういうことなら」
「ついでに言っておくと、先ほど小父様が火酒を備蓄から持ち出しているのが見えました。今頃は夜風にでも当たりながら、それを飲んでいる頃合いでしょう。あまり飲みすぎないように、注意しておいて下さい」
「はいよ。じゃあ適当に時間が経ったら戻ってくる」
そう言うと上条はヒラヒラと手を振りながら、出入り口の垂れ幕を潜って外に出た。11月の夜だけあって少し肌寒さを覚えたが、両腕で体を覆いながら寒さを誤魔化しつつ野営地を適当に練り歩くと、野営地から少し離れた芝生に胡座をかいて座るベルクーリの背中を見つけた
「よう、ベルクーリのおっさん。あんま飲み過ぎるなってアリスが心配してたぞ」
「ん?あぁ、カミやんか。忠告はありがたく頂戴しておくが、俺は酒は飲んでも呑まれたことはねぇよ。試しにお前さんも一杯どうだ?中々お目にかかれん逸品だぞコイツは」
「・・・そうだな。俺もたまには酒でも飲むか」
「そうこなくっちゃあな。システム・コール。ジェネレート・クオーツ・エレメント。フォーム・エレメント。グラス・シェイプ」
幾多の星が輝く夜空の下で、ベルクーリは一升瓶とお猪口を手に、星々の中で一際強い光を放つ満月を見上げていた。そんな彼の左横に上条が座り込むと、ベルクーリは気の向くままに晶素を神聖術で生み出し、適当なグラスを作ると、そこに火酒を注いで上条に手渡した。そして上条はそれを右手で受け取ると、一口だけ火酒を含んだ
「おぉ、悪いな。それじゃ失礼…って不味っ!?なんだこれ!?」
「ははっ、お前さんの歳にはちと早すぎたか。もう少し歳を食えばこの辛味が病みつきになる。もっとも、俺は今自分が実際には何歳なのか分からん上に…次にいつコイツを口に出来る保証がないときた。しかしそんな気分で飲むってのが…中々どうして良い酒の肴になるとはな」
「・・・もう、明日なんだな」
「あぁ。願わくば、ちゃんと勝って生き残ったら、もう一度コイツを口にしてぇモンだ」
「じゃあ、勝利の祝杯の為にこの火酒は取っておかないとな」
「そりゃ違いない」
ベルクーリは上条の言葉にフッと笑うと、猪口に残っていた火酒を一息に仰いだ。そして懐から蓋を取り出すと、瓶に栓をして芝生の上に置いた。そして上条もとりあえず捨てるのも勿体ないと思い、襲って来るであろう辛味に身構えつつグラスに残った火酒を口にした…その時だった
「時にお前さんの恋人は、あのロニエって娘なのか?」
「ぶーーーーーっ!!!」
「うわっ!?汚ねぇ!」
「ゲホッ!オエッ!は、はぁ!?急に何言ってんだおっさん!?」
唐突な問いかけに、上条は思わず口に含んでいた火酒を吹き出した。そのせいで口どころか鼻の奥にまで広まった辛さにむせ返ると、涙目になりながらベルクーリに問い返した
「いやなに、お前さんあの娘と会った瞬間、もの凄い勢いで抱き合ってたじゃねぇか。側から見てた分には、まるで運命の再会でも果たしたようだったんでな。そうなると恋人って当たりをつけるのが相当だろう?」
「ち、違げぇよ。ロニエは俺が学院にいた頃の傍付きで、ただの後輩だよ」
「本当にそうかぁ?ただの後追いに、あんな熱い抱擁したことねぇぞ俺は」
「だから違うっつの。ロニエは…俺が覚えてる範疇で、初めてマトモに面倒見た後輩だから、少し思い入れがあるだけだ。まぁ後はそれと…」
「それと?」
「・・・俺は、一度アイツに助けられたんだ。だから、俺もアイツを守ってやらなきゃいけないって…そう思ってる」
そう言って、上条は星に覆われた夜空を見上げた。今一緒にいるロニエは、正確には自分が面倒を見たロニエではないことは分かっている。それでもその記憶を共有してくれているのなら、彼女は自分を助けてくれた、自分にとって守らなければならない大切な後輩であるということに変わりはなかった
「本当なら俺は、ティーゼにもロニエにも…なんだったらアリスにもキリトにも、ここにいて欲しくない。今の俺には…アイツらを絶対に守り切れるって自信がない」
「・・・言っとくが、そんな自信は俺にもねぇぞ。元より、ここにいる奴らだって、本音を言えばすぐさま元の居場所に帰るなりして、恋人や家族、自分にとって大切な人といたいって奴がほとんどだろう。だがみんなそれぞれ、それを割り切ってここにいる。他でもないその人間を、自分の力で守るためにここにいる騎士は…」
「分かってる。だけど、違うんだ。俺が言いたいのは…そういうことじゃない……」
「あん?」
自分のツンツン頭の髪を左手でくしゃりと握り潰しながら、上条は夜空を見上げるのを辞めて俯いた。そんな彼をベルクーリが訝しげに見つめていると、上条はやがてため息を吐いて呟き始めた
「・・・なに言ってるか分かんねぇだろうけど…この世界に来るまでの俺は、紆余曲折はあっても、何とか守りたいものを守れてきたんだ。その時までは敵だったヤツも、場合によっては味方になってくれたり、何とか元いるべき場所に返してやれてたんだ。まぁ例外もそりゃいたけどさ、それでも何とか必要以上に誰かを傷つけることなく、守って来れてたんだ」
「でもこの世界に来てからは、元いたの世界のアンタや、アドミニストレータみたいな敵どころか…味方だったやつも守れずに、死なせちまった。シャーロット…カーディナル…そして…」
「ユージオを、守れなかった…!」
悔しさを滲ませるように、上条は歯を軋ませながら今は亡き者たちの顔を、親友の最期を彷彿とさせた。彼を救うために世界の理へと立ち向かったにも関わらず、結局最後に救われたのは自分だった。自分だけが生き残ってしまった。そんなやり切れない後悔だけが、どうしても拭いきれなかった
「・・・泣き言が言いたいわけじゃない。ここに来た以上、戦う覚悟は出来てる。ただ、いざここに来て知ってる顔をいくつか見たら、どうしても不安になってきちまったんだ。思えばここに来るまでは戦いの連続で、いちいちそんな事を考えてる暇がなかったんだ」
「だけど残された青薔薇の剣からユージオの声が聞こえて、ふとここまで辿ってきた道を振り返ってみたら、とても手放しには喜べないことばかりだったんだって思い知った。だから俺はこのままじゃ、またこの戦いで大切な誰かを失うんじゃないかって…そんな考えばかりが浮かぶんだ」
「アドミニストレータを倒した時は、必死すぎてどうしようもなかったけど…本当はもっと別の道だってあったはずだ。あの場にいた誰もが笑っていられる、最高なハッピーエンドってやつを…あの時の俺は掴めなかった」
上条が言った刹那、神聖術で作られた透明なグラスは、彼の右手で緩く握られ跡形もなく崩れ落ちた。幻想殺しと呼ばれる、自分に宿るその右手は、厳密にはこの世界では自分の手にはない。グラスを打ち消したという事象は『自分の右手には幻想殺しがある』という、他でもない上条自身が生み出した幻想によるものでしかなかった
「これが多分…今までの俺と、今の俺の決定的な違いだ。大切な人を救える、誰もが望む幸せな結末を掴み取れるだけの『右手』が…今の俺にはない」
「きっと戦場に立つべきなのは…あの右手を持った、正真正銘の『上条当麻』なんだ。ここにいる俺じゃ…何も持たない『カミやん』は、たとえ戦場にいても意味がないんじゃないかって…そう思っちまうんだ」
右手を持っていた自分は、誰かを守れていた。誰かを守る時の自分は、右手を使っていた。右手があるから上条当麻なのか、自分が上条当麻だから右手があったのか。もうそれは、右手に視線を落とした上条当麻自身にも分かっていなかった
「・・・お前さんにどういう過去があったのかは分からんし、敢えて聞くつもりも俺にはない…が、この戦争で誰一人も死なないなんてのは不可能だ。こっちは五千、向こうは五万。その五万の敵は明確な敵意と殺意を持って襲い来る、文字通りの闇の軍勢だ。敵も味方も望む結末…なんてのは、それこそ幻想だ。思い描くだけ無駄な理想論に過ぎん。駄々をこねる子どもの無い物ねだりだ」
「・・・・・だよな」
そう言われた上条がふとベルクーリの方へ視線をやると、彼はいつの間にか一度蓋をしたはずの火酒の瓶をもう一度開け、猪口に注ぐことなくラッパ飲みにしていた。そんな行儀の悪い飲み方をしていたせいなのか、すっかり顔が火照っていたが、彼はそのまま続けた
「俺はお前さんという人間の在り方に、何か良い助言は出来ん。お前さんの思うところについちゃあ、そうさな…お互いに割り切れねぇから戦うんだ、複雑な事情は無理矢理にでも飲み込めとしか言いようがねえ。ただ、お前さんは自ら単独行動を買って出たんだ。だったらせめて、自分の手に届く範囲に守りたいと思ったやつがいるなら、例えそれが敵であろうと守ってやりゃあ…少しはお前さんの望みも叶うんじゃねぇのか?」
「・・・それがどんどん繋がっていけば、結果的にはたくさんの人を守れるって…そういうことか?」
「そうだ。お前さんの立場は単独行動だが、これはお前さん一人の戦いじゃない。自分だけで悩んで、自分だけでどうにかしようとするな。もっと周りのみ、んな…を………」
「・・・ベルクーリ?」
「んごぉ…ごっ…かぁ…」
話し相手の声が急に途切れると、上条は改めてベルクーリの方を見た。すると先ほどまで口にしていた火酒の瓶を地面に投げ出し、項垂れながらイビキをかいている、文字通りのおっさんがいた
「ね、寝てやがる…はぁ。しょうがねぇおっさんだな…酒は飲んでも呑まれたことねぇんじゃなかったのかよ…」
突如として眠りに入ったベルクーリに上条は呆れながらため息を吐くと、これ以上は何も話せまいと悟って、ゴロンと芝生に寝っ転がって一人夜空を見上げた
「・・・もっと周りの皆を…か…」
(『カミやんは、不思議だよね…人と人とを…繋げる力がある。君と関わった人、皆が笑顔になって…星と星が繋がるように…カミやんを中心にして…皆が強く、輝けるようになるんだ…』)
「・・・それを言ったお前がいてくれねぇと、実感が湧かねぇんだよ…」
上条の脳裏では、先のベルクーリが言いかけた言葉とどこか似ている、自分の腕の中で生き絶えゆく親友が残した言葉が蘇っていた。そんな記憶を呼び起こされ、上条は改めてユージオが隣にいないことに虚無感を覚えると、彼が名付けた剣の由来となった空を見上げて、ポツリと小さく呟いた
「・・・この星空の光の中には、お前もいてくれるのかよ…なぁ、ユージオ…」
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「ロニエさん。あなた…カミやんの事が好きなのね?」
一方、上条が出て行った天幕の中では、アリス、ロニエ、ティーゼがそれぞれ椅子に腰掛けていた。そして開口一番にアリスがロニエにそう訊ねると、黄金の騎士に問われた少女騎士はぎょっと目を丸くしたが、やがて神妙な面持ちで口を開いた
「・・・それが…自分にも、分からないんです」
「分からない…と言うのは?」
「私…好きだったんです。キリト先輩のこと…」
重ねてアリスに問われると、ロニエは天幕の奥に座るキリトを見つめながら、絞り出すような声で呟いた。目尻にほんの微かな涙を滲ませる彼女の姿に、アリスは僅かな驚愕を抱いた
「だけど…気づいたらキリト先輩じゃない、私が傍付きをしていたもう一人の…カミやん先輩の記憶と、その人が好きだっていう気持ちが一緒に流れ込んできて…心の中がっ…ぐちゃぐちゃに、なって……」
「・・・ごめんなさい。辛いことを話させてしまったわよね」
「いえ、いいんです。カミやん先輩は、もう好きな人がいるって言ってましたし…キリト先輩も、私のことはただの傍付きとしてしか…」
「そ、そんなことないわよ。きっと今の話をキリトが聞いていたら…」
「例え、そうだとしても…それでも私は、この気持ちを伝えるなんて、絶対に出来ません…」
「え?それは、あなたの記憶にカミやんとの思い出と感情が入り混ざって、一度に二人を好きになってしまった罪悪感があるから?それなら……」
「違うんです…ちが、うん…です……」
そこでロニエの嗚咽は途切れなくなり、横に座るティーゼが優しく支えた。そして彼女もまた、ロニエに感化されたように瞳の中に涙を滲ませると、震えた声で話し始めた
「アリス様は…キリト先輩とユージオ先輩が犯してしまった禁忌を、ご存知ですよね?」
「え、ええ…学院内での諍いにより、他の学生を殺めたと聞いたわ」
「では、先輩達が、なぜその禁忌を犯すに至ったかについては…?」
「いえ、そこに関しては概要くらいしか……」
「・・・ライオス・アンティノス修剣士と、ウンベール・ジーゼック修剣士は、私たちの友人であるフレニーカ・シェスキ初等練士に、屈辱的な命令を繰り返していました。そのことについて、私たちは両修剣士に抗議したのですが、憤りのあまり逸礼行為にあたる言葉を使ってしまったのです。そして、帝国基本法に基づく貴族賞罰権を適用され……」
そう話すティーゼは、俯きながら肩を震わせて頬に涙を伝わせた。それほどまで話すのが苦痛であるのなら、もうそれ以上は言わなくていい。そう思ったアリスは話を止めようとしたが、その時にはもうティーゼが口を開いていた
「堪え難い罰を与えられようとしていた私たちを救うため、キリト先輩とユージオ先輩は剣を振るいました。私たちがもう少しだけ賢かったら、あの事件は起きなかった。先輩達が、法を正すために教会と戦い、命を落とすこともなかったんです。私たちは…取り返しのつかない罪を犯してしまった。だから口が裂けても…先輩達に、好きだ…なんて……」
ついにティーゼも耐えきれなくなって、嗚咽を繰り返して泣き始めた。その重すぎる悔恨を含めた涙を流す少女たちに、アリスは奥歯を噛み締めた。教会こそが正しいと信じ、貴族による裁決を黙殺し続けていた自分を強く恥じた。だからこそアリスは、自分よりもよっぽど勇敢にこの世の理へ立ち向かった少女達に敬意を表すため、力を込めて言った
「いいえ、違うわ。あなた達に、罪なんかない」
「ッ…同情なんて…必要ありません。アリス様にはッ…!誉れ高き整合騎士のアリス様には解るはずありません!私たちの体はあの男達に弄ばれ、誇りは罪に汚されてしまったのです!」
アリスの言葉に顔を上げ、声を荒げたのはロニエだった。瞳に強い光を宿しながら叫ぶ彼女に、アリスは小さくかぶりを振った
「いいえ。心は体の入れ物に過ぎないわ。私たちにとっては、心…すなわち魂こそが、唯一確かに存在するものなのよ。そしてその魂の在り方を決めるのは、他でもない自分自身なの」
そう言うとアリスは、静かに目を閉じて意識を集中させた。するとその刹那、彼女の体の周りを暖かな光の粒子が包み込んだ。そのあまりの輝きにティーゼとロニエが目を閉じると、次に瞼を開いた先には、黄金の鎧や籠手が消滅し、澄んだ青色のスカートと生成りのエプロンを見に纏うアリスが立っていた
「・・・ほら、ね?体や外見は、心の従属物に過ぎないのよ」
呆然とした様子で目を合わせたティーゼとロニエに、アリスは微笑みながら言った。それは、在りし日の彼女の姿だった。ルーリッド村で幼馴染と元気に走り回っていた、11歳の少女の姿。その、アリス・ツーベルクという少女の人生に待っているはずだった、本来の姿の現し身であった
「心は、誰にも汚されない。辺境の村で生まれた私は、本当はこんな風に育つはずだったのよ。でも11歳の時に、罪人として央都に連れて行かれて、術式で記憶を消されて整合騎士になったの。そんな自分を取り巻く運命を、呪った時もあった」
「「・・・・・」」
「だけど、そんな私にもするべきことがある…そうキリトが教えてくれた。だから、私はもう迷わない。今の私が私であることを受け入れて、前に進むって決めたの。そしてそれは、あなた達にもきっとあるわ。あなた達にしか歩けない、広くて、長くて、真っ直ぐな道が」
二人の少女騎士が取り合う手に、小さな雫が何度も落ちた。虹色に輝くそれを懸命に掬いながら彼女達は、ただ力強く頷いた。それを何よりの返事として受け取ったアリスは、彼女達の為に一度天幕を出た。しかしその先には、まるで待ち構えていたようにエルドリエが駆け寄ってきて賛辞を述べ始めた
「おお、何と素晴らしい…!深い夜にも勝る光を凝縮したかのようなお姿…まさにこれこそが、我が師アリス様…!」
「・・・どうせ明日には土埃に塗れます」
先ほどのアリス・ツーベルクだった自分を思い描いた心意による変身現象はとうに去り、今のアリスは黄金の鎧と純白のスカートが露わにしていた。そんな教会で何度も見たであろう姿を今一度賛辞するエルドリエにアリスは軽くため息を吐きつつも、どこか嬉しそうに表情を緩めていた
「・・・ええと、アリス様?何か気に触れる事がございましたか?いつもであれば…」
「これまで、よく尽くしてくれましたね。エルドリエ」
「・・・は!?い、今なんと…!?」
アリスにかけられた言葉に、エルドリエは自分耳を疑った。アリスはそんな唖然として立ち尽くすエルドリエの左手に、そっと自分の右手を添えて微笑んだ
「そなたが私の傍らにいてくれたことは、私にとって救いでした。デュソルバード殿のような古参の男騎士ではなく、大した実績もない私の指導を欲したのは、そなたが私の身を案じてくれたからなのでしょう?」
「とっ、とんでもありません!そのような不遜なことは、断じて!私はただ、アリス様の剣技の見事さに心底敬服したが故に…!」
「良いのです、エルドリエ。例え理由が何であろうと、そなたが支えてくれたから、私は険しい道を今日まで歩き続けることが出来ました。ありがとう、エルドリエ」
「アリス、様…?なぜ、出来ました…などと…」
激しく首を横に振って否定しようとするエルドリエの手をもう一度強く握ったアリスは、飾らない感謝の言葉を最後に、するりと手を離した。その瞬間、藤色の騎士の瞳に、大きな雫が浮かんだ
「なぜ…なぜこの地で終わってしまうかのような言い方をなさるのです!?私は…私はまだまるで教わり足りませぬ!剣も、術も、まだまだあなたの足元にも達しておりませぬ!これからも、ずっと…ずっと私を鍛えて…導いていただかなければ…私は……!」
「整合騎士!エルドリエ・シンセシス・サーティワン!」
「は…はっ!」
エルドリエは震えた声で訴えながら、アリスに向けて右手を伸ばした。するとアリスは、その手が自分に触れる直前で、厳しい声色でエルドリエの名を叫んだ。その急な叫びにエルドリエは少し怯みつつも、伸ばしていた手を引っ込め敬礼の姿勢を取ると、アリスは彼の肩に手を置いて静かに言った
「・・・師として、最後の命令を伝えます。生き抜きなさい。生きて平和の訪れをその目で見届け、そして取り戻しなさい。そなたの真なる人生と、そなたが心の底から愛する者を」
「アリス、様…!」
それ以上アリスは、エルドリエに何も語ることなく、青のマントをはためかせながら身を翻した。そして、東の果てに集まった人界守備軍の誰もが、明日に幕開けを迎える戦にそれぞれの思いを馳せながら、夜明けを待った