「おーうお前らー!上条さんと吹寄さんがやって来たぞー!」
ある日、上条と吹寄は自分たちに縁のある第七学区の病院が受け持つ小児科のふれあい広場を訪れていた。その広場には病気などで入院する子供たちが遊ぶための遊具が多く備えられており、上条と吹寄はこの病院にいるカエル顔の医者たっての願いもあり、時たまボランティアで子供たちの遊び相手になっていた
「あー!ウニ頭のにーちゃんとおっぱいのねーちゃんだー!」
「いや誰がウニ頭か!?」
「それよりもおっぱいのねーちゃんを否定しなさいこのバカ!」
「え、否定材料なくないですか?」
「やーね上条。殺されたいならもっと素直にそう言ってくれていいのよ?」
「め、滅相もございません!」
「おねーちゃん久しぶりー!」
「ええ、久しぶり。良い子にしてた?」
「うん!この前のおちゅーしゃも痛かったけど我慢できた!」
「そっかそっか、偉いわね」
「えへへー」
最初こそぎこちなかったが、時間が経つとともに上条と吹寄はすっかり子供たちに懐かれ、小児科医の医者でも信頼を置くほど子供たちの人気者になっていた。その日もいつものようにおままごとや遊具で遊んでいると、ある女の子が上条の元に一冊の本を持ってきた
「ねーねー、かみじょーのにーちゃん」
「お、どしたー?かみじょーのにーちゃんでございますよー?」
「この本読んで!」
「おう、上条さんに任せなさい!…って児童書にしては結構ぶ厚いなこの本…絵本じゃねぇのか?」
「それはねー、『アリス』ちゃんの本だよー」
「あ、アリスちゃん…?」
「あら懐かしい。『不思議の国のアリス』ね」
するとその様子を見ていた吹寄が、自分もまた他の子ども達と遊びながら、上条が女の子から手渡された少し厚めの装丁が施された本を見て言った
「なんだ、この本知ってるのか吹寄?」
「知ってるも何も有名な物語だもの。むしろ貴様が知らないことに驚きよ。まぁこの子達が読むにはちょっと早いかもしれないけど」
「そー、むつかしー文字があって読めないの。だから代わりにかみじょーのにーちゃんが読んでー」
「んー、そうしてやりたいのは山々なんだがなー…この本は上条さんが読むにはちょっと長いなー」
「まぁ無理もないわね、元々このお伽話の生まれは日本じゃないし、内容もこの子たちにはちょっと難しいかも」
「学園都市よりもお外ー?」
首を傾げながら聞いてくる女の子を見た吹寄は、上条に軽く目配せした。その目配せの意味を理解した上条は本を吹寄に手渡し、吹寄は手に取った本の表紙を女の子に見せながら話し始めた
「そーよ。この本の元々の題名…いわゆる原題は『Alice's Adventures Under Ground』…日本語にすると『地下の国のアリス』って言ってね。そのお話を少し変えて出来たのが、この不思議の国のアリスなのよ」
「・・・むつかしー」
「ふふっ、そうね。だからこの本はあなたがもっと大きくなって、今よりもっと言葉を覚えたら読んでみて。その方が私たちが読んであげるより、ずっと面白いと思うわ」
「わかった!」
吹寄の言葉に女の子が元気よく頷くと、その天真爛漫な様子に吹寄はクスリと笑って女の子の頭を優しく撫でる。それはさながら本物の親子のようで、その光景を見ていた上条の頬は自然と緩んでいた
「ところでその本、元は外国の本なのは分かったけど、一体どういう話なんだ?さっきも言ったけど俺はその話知らねーからさ」
「そうね、一言でまとめるなら…やっぱり題名そのままに不思議なお話だと思うわ」
「不思議…と言いますと?」
「この物語の主人公の女の子アリスはある日、人の言葉を喋るウサギと出会って、そのウサギを追って大きな穴に落ちるのよ。その先でアリスを待ってたのは、見たこともない不思議な人や動物が集まる不思議の国で、アリスはその世界を冒険していくの」
「なるほど、大きな穴に落っこちる…それで原題が地下の国のアリスってことか」
「そ。喋るウサギ、醜い公爵夫人、狂った帽子屋、チェシャ猫…ってな感じで個性豊かなキャラクターがたくさん出てきて、私も小学生くらいの時に読んだんだけど、読んでて心が踊ったわ」
「へぇ…吹寄にもそんな純真な子どもの時があったんだな」
「どういう意味かしら?」
「い、いえいえ!なんでもございません!そんな時期があったからこそ、現在のように見目麗しい吹寄様になられたのだと重々承知しております!はい!」
「ったく…調子いいんだから」
睨みを利かせて上条を黙らせた吹寄は手元の本をパラパラとめくりながら目を通すと、昔に読んだときのことを思い出したように笑顔を浮かべていた
「でも面白かったとはいえ、お世辞にもこの子みたいな女の子が喜ぶ可愛いキャラクターがいたとは言えないわね。牛だか豚の頭をした亀とかもいたりしてね、正直アレは薄気味悪かったわ」
「ぶ、豚の頭をした亀ぇ?それは流石に気色悪いな…」
「でも、かみじょーのにーちゃんも頭がウニだよー?」
「ほっとけ!」
「名前は確か…『ラース』とか言ったかしら?まぁその辺りの記憶は定かじゃないわね。なんせもう読んでから10年近く経つから」
「まぁそうだよな。桃太郎とか浦島太郎みたいにそんな短い話でもなさそうだしな」
「でも、結末はちゃんと覚えてるわよ。実はアリスがいた不思議の国は、全部アリスが見ていた夢だったのよ。まぁいわゆる夢オチってやつね」
「う〜ん夢オチかぁ…ありがちっちゃありがちだが、そりゃちょっと拍子抜けだな」
「あら、私はそうは思わないわ。むしろ夢で良かったんじゃないかしら。たとえお伽話だとしても、喋るウサギとか豚の亀が現実にいるかもー…なんて考えただけでも怖いしね」
「ま、そう言われればそうかもな」
「ねーねー、かみじょーのにーちゃん」
「お、どうしたー?」
「かみじょーのにーちゃんは、れーるがんのおねーちゃんと、おっぱいのねーちゃんどっちと結婚するのー?」
「」
「なっ…なっ…!?」
女の子の唐突極まりない質問に上条は言葉を失い、吹寄は紅潮させた顔を絵本で隠すばかりで何も言い返すことが出来なかった
「えーっと…そうだな…今は上条さんも誰と結婚しようとかは考えてないぞ」
「じゃあ、あたしと結婚しょー!」
「ちょっ!?」
「あのな吹寄…相手は子どもだろうが…なんでそんなムキになんだよ?」
「わ、分かってるわようるさいわね!」
「ねーいいでしょー?」
女の子の思いがけない提案に吹寄は歳上とは思えないほどに慌てふためいており、上条は軽くため息を吐きながらも、きちんと女の子に向き直った
「ははっ、いいぞー。結婚できる歳になっても上条さんのことを好きでいてくれたらな」
「約束だよー?」
「や、約束はちょっと…」
「え〜〜〜…」
「上条君、少しいいかね?」
なんとも返答に困るこの会話をどうしたものかと上条が後ろ頭を掻きながら考えていると、広場の前を通りかかったカエルによく似た医者、冥土帰しが上条に声をかけてきた
「あ、はい先生。悪い吹寄、ちょっと行ってくる」
「ええ、こっちは大丈夫だから」
上条は立ち上がってからそう言い残すと、広場を抜けて冥土帰しの元へ行き、そのまま自販機などが立ち並ぶロビー近くの休憩所へと移動した
「ブラックで良かったかな?」
「あ、わざわざすいません」
「いやいやとんでもない。こちらこそ子供たちと遊んでくれて感謝しているよ。小児科を請け負っている僕からすればね」
「逆に俺としては、先生がこの病院で担当してない科目が知りたいですけどね」
「それは僕も知りたいところだね」
短い挨拶を済ませると上条は冥土帰しから缶コーヒーを受け取り、プルタブで飲み口を開けコーヒーを喉へと流し込んだ。同じように冥土帰しも一口目のコーヒーを味わい終えたのを見ると、上条は冥土帰しに話を切り出した
「それで、まぁ呼び出された理由はなんとなく察してるんですけど…あの子達のその後の経過はどうなんです?もう大分長いこといる子もいるみたいですけど…」
「・・・あのねぇ君、僕を誰だと思っているんだい?」
「!!じゃあ…!」
「あぁ、たしかに僕は小児に割ける時間はあまりないが故に治療に時間はかかったけれど、来月には顔馴染みの子どもはほとんど退院している予定だよ」
その言葉を聞いた上条は、自然と頬が綻んでいた。そして安心したように大きく息を吸って吐くと、冥土帰しの方へと向き直った
「流石だぜ先生。まぁちょっと寂しいけど、こんなとこで過ごすよりは外に出た方がアイツらも幸せだろうからな」
「はは、その感情は人間としてはごく当たり前のものだし、僕だって距離が近かった患者ほど退院は寂しくなるものだよ。まぁ君のように近すぎると困るときもあるがね」
「め、面目次第もございません…」
「ところで、オーディナル・スケール事件のその後はどうなんだい?もうすっかり仮想世界に逆戻りかな?」
冥土帰しにそう問われた上条は、缶コーヒーを飲みながら軽く頷くと、空になった缶を両手で持ち直し、テーブルに体重を預けながら言った
「まぁ結果的に見ればそうなるんですかね。オーグマーそのものは結構役に立つんで使ってますけど、オーディナル・スケールのログイン時間よりも、アミュスフィアでVRワールドにダイブしてる時間の方が長い…と思います」
「それは僕としては朗報だね。なにせ仮想世界にはまだまだ無限の可能性がある。医学の道はもちろんだが、その他の道にもきっとまだまだ応用の余地がある。そういえば先日、吹寄君から仮想世界での魂がどうのという大変興味深い話を耳にしたのだが…ひょっとして君の入れ知恵かい?」
「ゔぇ!?い、いやぁその…なんというか学究会の間に合わせと言いますか…その下調べみたいなのを吹寄に頼んだだけで…だけどあんなのこじつけの思いつきですよ!そんな先生が間に受けるほどのモンじゃないですよ!はい!」
「・・・おや、そうかい。まぁ僕もそこまで詳しい話を聞いたわけではないがね」
住む世界は違うにしろ、半ば人から聞き出した理論をそのまま垂れ流しているだけなので、流石にこれ以上なにかとひけらかすのを避けたい上条は咄嗟に話題を差し替えた
「あ、そういえばその吹寄の方はどうなんです?なんかこの前バイトみたいな感覚でこの病院で働き始めたって…」
「まぁ普通は出来ないがね。けれど彼女の場合は過去の緊急時に病院を手伝ってもらった恩もあったから特例でね。バイトと称して少し雑用を手伝ってもらいながら、医学部で学ぶことよりも少し先の、医者としての基礎を教えているよ。子供たちの面倒を見てもらっているのも、その延長線上なわけだけどね」
「へ〜…吹寄も頑張ってんだなぁ…」
「彼女はきっと優秀な医者になるよ。なんと言ってもこの僕が教えているのだからね」
「ははっ、そりゃ違いねぇや。子ども大人も関係なく面倒見がいいから、患者からも好かれそうだし」
「その点から見ると、彼女は女医というよりもナースの方が天職かもしれないね。いやナース属性の僕としては是が非でもナースになってもらって、僕の介護をしてくれれば何も言うことは…」
「おい」
「はは、冗談だよ。ところで今日はどんな風に子どもたちの相手をしてくれたのかな?」
「まぁいつもと変わらず、子どもってのはやりたいことが次から次に出てくるんでそれに付き合ってる感じですかね。今日なんかは不思議の国のアリスの物語を話したりしましたよ。まぁ俺じゃなくて吹寄がですけど」
「・・・不思議の国…か。そんなユートピアが、本当にあればいいのだけれどね」
冥土帰しはどうにも意味深な口調でそう呟くと、その呟きごと飲み込むようにコーヒーを飲み干してゴミ箱に空き缶を放り込んだ。彼がそんな自嘲気味に物事を呟くのは珍しいと思った上条は、興味本位で少し食い気味に尋ねた
「意外ですね、先生でもそんな風に思うことがあるんでせう?」
「そりゃあ君、僕はどんな患者でも救ってみせるが、患者が出ないに越したことはないと思っているよ。君だって今でこそ仮想世界に入り浸っているわけだが、その発端になったSAO事件の『事件』の部分はなかった方が良かったと思うだろう?」
「そりゃあまぁ…そうですけど…」
「根本的にはそれと同じなのさ。人はいつしか痛みを忘れる。それどころか痛みを知らないものは、自ら痛みに飛び込むことだってある。さっき話していた不思議の国のアリスのようなお伽話だって、ユートピアものを書いていて、本当にユートピアだった話はないだろう?」
「・・・いやお言葉ですけど、それはそうしないと物語にならないからでしょう?誰もがずっと幸せな話を見たいってんなら、下手な少女マンガの方がまだマシですよ。まぁ、実際誰もが幸せかどうかは怪しいところですけど。三角関係とか」
「僕とてそれは重々承知の上だが、要はスペクタクルとリアルの境界線な訳だね。SAOというゲームの物語はスペクタクルだが、SAOで賭けるプレイヤーの命はリアルそのもの。言及するなればSAOはデスゲームでなくても、プレイヤーそれぞれのSAO足り得る物語やスペクタクルが体験できたのではないかな?それとも、プレイヤーが自らの命を賭けることこそがSAOの本質だとでも…」
「先生」
時に身振りや手振りを交えながら淡々と持論を語り続ける冥土帰しだったが、突然上条が低い声で冥土帰しの話に割り込んだ
「悪りぃけど、そっから先は流石に先生でも看過できそうにない」
「・・・流石に配慮が足りなさすぎだったね。心から謝罪しよう」
「いや、でも先生の言う通りなところもあると思う。SAO事件が解決した今でも、結局俺は仮想世界に入り浸りになってる。忘れてないつもりなだけで、あのゲームの痛みを忘れてるっちゃそうなのかもしれない」
「と、言うのは?」
「言われてみれば仮想世界に病気なんて概念はそもそもないし、怪我だってアイテム飲めば簡単に回復する。それが常識だったせいで医者なんてそもそもいなかった。そう考えるとSAO事件は現実の戦争や病気に比べりゃ、可愛い方なのかもしれない…かな」
「・・・まったく、口を滑らせすぎた僕も僕だが、その観点に自力で気づくとは…君にはいつも驚かされてばかりだね」
「え?その観点…?」
「失礼」
上条が病院内で行き交う人々を眺めながら、噛みしめるように己の考えを絞り出した。そんな彼の姿を見ながら、冥土帰しはポツリと何かを呟き、呆けている上条をよそに一言置くと、両手を白衣のポケットに入れて歩き出した
「あ、もう行くんですか?」
「『Artificial Labile Intelligent Cyberneted Existence』」
「・・・へ?今なんて?」
不意に立ち去ろうとした冥土帰しに上条が声をかけると、冥土帰しは振り返って流暢な発音で、まるで繋がっていない英単語をツラツラと発した。その言葉と行動の意味が分からず、上条はただ聞き直すことしか出来なかった
「『A.L.I.C.E』。この言葉を頭のどこか片隅にでも置いておくといい。いつかきっと、この子は仮想と現実を本当の意味で繋ぐ架け橋になる」
そう言い残すと、冥土帰しは今度こそ上条に背を向けて歩き出した。休憩所に残された上条は、急な出来事だったあまりその言葉の意味が頭に留まらず、かつて自分の命を何度も救った医者の後ろ姿だけを呆然と見つめていた