総勢五万を誇るダークテリトリー侵略軍に、コソギという一匹のゴブリンがいた。新たな山ゴブリンの長となった彼は、皇帝ベクタの進軍の合図で山ゴブリンの一団を率いて突撃した後に、部隊の後方に下がってひっそりと戦況を伺っていた
「・・・バカなヤツらだ」
開戦から既にかなりの時が経った今だからこそ、コソギは再認識の機会を得た。つまるところ、平地ゴブリンの長シボリも、ジャイアント族の長シグロシグも整合騎士の実力を過小評価していたのだ。コソギは彼らが文字通り身を削って戦うサマを見て、それを実感しながら一人呟いていた
「テメエらとは違って、こっちはそれなりに下準備もしてんだよ。バカめ」
曰く、数日前に果ての山脈を掘り返してルーリッド村を襲撃したゴブリンはその殆どが山ゴブリンの一派だった。そこに駆けつけた整合騎士アリスの実力を目の当たりにして逃げ帰ってきた者の話を聞いたコソギは、前線に部下を最低限だけ配置し、戦っているという体裁だけを整え、虎視眈々と機を伺っていた
「よし、投げろ」
奇妙な合図が、コソギの口から配下の山ゴブリンに伝えられた。整合騎士の脅威を誰よりも早く実感したコソギは、元より整合騎士と剣を交えるつもりは毛頭なかった。ゴブリンにしては頭の冴える彼は、整合騎士によって落とされた中央に配置されたジャイアント族の長シグロシグと、そう間も無くして落とされるであろう右翼側の平地ゴブリンの長シボリを内心で卑下していた
「「「キイイイッッッ!!!」」」
コソギの指示が伝播した後、人界守備軍第一部隊左翼側と衝突した山ゴブリン達は、小さな掌で灰色の球を潰しながら放り投げた。小さな火の粉が尾を引きつつ投げられた小球は、まるで強力なスモーク・グレネードのように着地した途端白い濃霧を吐き散らした
「テメェら!走れぇぇぇ!!!」
白い濃霧の中で、コソギは蛮刀を背中の鞘に戻しながら叫んだ。元々矮躯なゴブリンは、屈めば人間の膝下ほどの身長しかない。そのため、立ち込める濃霧の中では、どれだけ視力の良い人間でも正確に彼らの姿を捉えることは出来ない。だからこそコソギは前もってこの煙玉を部下に拵えさせ、いずれ後方から降り注ぐであろう暗黒術師とオーガ弓兵部隊による一斉攻撃は回避しようと目論んでいた
「目標は人界守備軍後方!補給部隊の連中だ!前線の野郎どもには一切構うな!」
そして、其れこそが彼の真の狙い。皇帝ベクタは突撃せよという命令を下したが、どこの誰をとは命じなかった。だからこそ、コソギと山ゴブリン達は、強力な整合騎士を煙でやり過ごし、戦力も薄いであろう後方の補給部隊を襲う作戦を立て、この瞬間に実行した。こうして人界守備軍左翼側では、しばし血が流れることなく時が流れ、水面下で戦況が蠢いていた
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「・・・始まった…」
整合騎士レンリ・シンセシス・トゥエニセブンは、微かに耳に聞こえてくる爆発音を聞きながらポツリと呟いた。彼は、人界守備軍の任を自ら志願した七人の上位騎士の一人であり、第二部隊左翼側の最前列を任されていた。しかし彼は、配置された戦場の列ではなく、薄暗い物資備蓄用天幕の片隅で膝を抱えて蹲っていた
「ごめん、みんな。だけど僕には…僕には無理だよ…だって僕はただの『失敗作』なんだ…!」
頭を抱えながら、怯える子どものようにレンリは懺悔を漏らした。失敗作。それがアドミニストレータが彼に下した判断だった。レンリは神器を持つ上位騎士でも、その神器に纏わる武装完全支配術を発動できないが故に、粗悪品という烙印を押された。それから五年間、整合騎士としてさしたる働きをするわけでもなく凍結されたまま時を過ごし、その汚名を返上するためにこの戦場に身を投じたにも関わらず、最後の最後で恐怖に負け、開戦直前の慌しさに乗じてこの天幕に逃げ隠れ、一切の音を立てず、外から聞こえる音に耳を澄ませていた
「ティーゼ、ここはどう?」
「ッ!?」
突如として聞こえてきた声に、レンリは素早く物資の詰められた箱の影へと身を隠した。まさか自分を探しに来たのか、と彼は騎士らしくもなく竦み上がったが、すぐにもう一つ別の声が聞こえてきた。どちらも若い女性の声だった
「うん。この天幕なら大丈夫そうだね。ロニエ、キリト先輩を奥に隠して。その後で私たちは入り口を守りましょう」
うら若き少女の声に連れられるようにして天幕を潜ってきたのは、金属製の車椅子に腰かけた、右腕を失った上に恐ろしく痩せこけている少年だった。常人であればその痛ましい姿と、絶えず中空を見続けるその虚ろな瞳から彼の容態を気にかけるだろうが、整合騎士であるレンリはそうではなかった
(・・・あの男が左腕で抱えている二本の長剣…アレは一体なんだ?鞘に納まっていても伝わってくるあの圧倒的な存在感と神聖力…ことによると、最高司祭様から授けられた僕の神器よりも……)
ふと気づけばレンリの視線は、キリトが抱えている黒と白の長剣に釘付けになっていた。そして場合によっては自分の帯びる神器よりも上位の優先度を誇るのではないかという勘繰りから、ついつい身を乗り出したその時、身を隠していた箱とレンリの鎧がぶつかり、大きくも小さくもないが、決して誤魔化しが効かない程度の物音がした
「誰っ!?」
叫んだのは赤毛の少女だった。その少女は物音のした方へ即座に振り向くと、もう一人の焦げ茶の髪の少女も同じ方向へ体を向け、二人の少女は腰に据えた剣の柄に手をかけた。その気配にレンリは観念したように息を吐くと、両手を上げながら身を隠していた物陰から立ち上がりながら掠れた声で言った
「敵じゃないよ。驚かせてしまってすまない。両手は上げたままにしておくよ」
そう言ってレンリは天幕に灯されたランプの光に目を細めながら、二人の少女の前へと歩み寄った。そして二人の少女は、決して剣の柄から手を離すことなく身構えていると、ランプの光に照らされたレンリが纏っている最高級の鎧と両腰に下げた神器を見るなり、慌てて敬礼の姿勢をとった
「き、騎士様でいらっしゃいましたか!失礼致しました!」
「いや、脅かした僕が悪い。それに僕は、もう整合騎士なんかじゃないよ」
見事な赤毛とは対照的に真っ青な表情で謝罪を口にしようとする少女に、レンリは小さく首を振りながら力無い声で言った。すると少女たちは、レンリのその様子にキョトンとした顔で首を傾げていたので、彼は右手で鎧に刻まれた整合騎士の十字に円を組み合わせた紋章を隠しながら続けた
「さっき僕は、自分の持ち場を放り出して逃げてきたんだ。もう最前線ではとっくに戦闘が開始されている。今頃、僕が指揮するはずだった部隊は大騒ぎだろう。死者だって出てるはずだ。なのにここから動けない僕が、栄えある整合騎士の一員であるものか」
自分を虐げるように言って、レンリは唇の端を噛んだ。そして、こんな自分を年若い二人の少女がどのように見ているのかと、恐れながらもゆっくりと視線を上げた。すると赤毛の少女の瞳には、なんとも酷い顔をした自分の顔が映っているのと同時に、そんな自分を不思議そうに見つめている少女と視線が重なった
「・・・えっと、何か?」
「あっ!す、すみません。なんでも、ありません…」
レンリが訝しげに眉を寄せて訊ねると、赤毛の少女は小さく被りを振って眼を伏せた。本当はこんな風に畏まられる義理も今の自分にはないのに、いざ目の前の少女にそうさせてしまったことに居た堪れなさを感じていると、今まで黙っていた焦げ茶の髪をした少女が灰色の制服の胸に手を置きながら言った
「申し遅れました。私たちは補給部隊所属のロニエ・アラベル初等練士と、同じくティーゼ・シュトリーネン初等練士であります。そしてこちらが、キリト上級修剣士殿です」
「・・・キリト」
レンリはその名前に聞き覚えがあった。半年前に、カセドラルに侵入し最高司祭を討ち取ったその当人。その名を聞いた途端、レンリは虚ろな表情で黙りこくった少年にどうしようもなく気圧されるものを感じで、半歩後ずさっていた。しかしロニエという少女は特にその様子に気づく事なく、懸命な口調でレンリに言った
「あの…私は騎士様の御事情については何を申し上げる事も出来ません。私たちだって、人界守備軍の一員であると名乗っておきながら前線で戦うことなく、こうして後方に下がっているのですから。でも今はそれが、私たちの任務なのです。騎士アリス様から託された、この方を守り抜くことが、私たちに課せられた絶対の試練なのです」
「あ、アリス様に…?」
その名前をして、レンリは知らないはずがなかった。自分よりも若い番号でありながら、あらゆる面で自分とは正反対な若き天才騎士。今この瞬間も、軍議で決められた秘策の大規模術式のために上空にて単騎で備えているはずだ。そんな彼女と今の自分を無意識に比べて、一層の矮小感に苛まれるレンリの心情を知らずしてロニエは続けた
「騎士様。勝手なことを申すようですが、どうか私たちに手を貸して下さいませんか?正直、私たち二人ではたった一匹のゴブリンの相手すらも覚束ないのです。ですが、私たちはなんとしても、なんとしてもキリト先輩をお守りしなくてはならないのです!」
ロニエの言葉と瞳に宿った強い決意に、レンリはたまらず一度視線を逸らした。初等練士と名乗っていたのを考えるに、この二人の少女はまだ学生の身分だというのに、この戦いに掛ける思いが既に自分とは比べ物になっていなかった。そんな現実にレンリは、二人の少女にカラカラに乾いた喉で声をかけることしか出来なかった
「・・・うん。ここにいれば大丈夫…だと思うよ。守備軍第二部隊を指揮するのは騎士長ベルクーリ閣下だし、あの人の守りが抜かれるようなことがあれば、それはもう人界の終わりに等しい。どこへ逃げようと、結末は一緒だ。僕は戦いが終わるまでここに座っているつもりだし、君たちが近くにいるなら、その邪魔はしないよ」
そう言い残すと、レンリはその後のティーゼとロニエの顔を見ることなく天幕の奥へと戻り、ドサリと腰を下ろした。しかしその時、守備軍の最前線左翼側でゴブリンが炸裂させた煙に乗じて、深い濃霧と人垣の中を大量の緑の異形たちが潜り抜け始め、人界守備軍最後方の補給部隊の殲滅に向けて動き出していることなど、彼らは知る由もなかった
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「・・・焦げ臭い?」
その異変に、上条当麻だけが気づいた。ジャイアント族の長シグロシグを、整合騎士のファナティオや四旋剣達と討ち取った後も、第一部隊中央の最前線で敵を押し返し続けていた彼は、突如として鼻を突いてきた墓場に漂うような線香の匂いを感じ取った
「デュソルバードのおっさん…じゃない…?」
戦場では、今も絶えず鬨の声が上がっている。それは紅の整合騎士デュソルバードが受け持つ右翼側も同様だった。上条の目に映る右翼側では、絶えず猛炎が上がっており、それが彼の熾焔弓によるものであることは想像に難くなかったが、そちらから漂ってくるどこか死臭の混ざった焦げ臭さとは、今自分の鼻を刺している焦げ臭さは違うと感じていた
「てか…今の風向き……ッ!?」
そこでようやく、上条は初めてこの戦場に出てから左翼側に目をやった。するとそこには、まるで燻製でも焼いているかのような濃霧が立ち込めている光景が視界に入り、驚愕に打ちのめされた
「なんでこんな急に…!しかも左翼側だけ!?」
左翼側を受け持つのはエルドリエだ。あまりにも濃い霧で見えないが、彼は今あの霧の中でどうしているのだろう。そう考えるのと同時に、彼は言い表しようよない嫌悪感を覚えた
「おいおい、待てよ…!まさかあの煙って…!?」
濃霧が立ち込める左翼側のその光景は、依然として変化する様子はない。上条にとって、その予感はただの気の迷いかもしれないとは思えた。しかし、それを気の迷いと捨て置けるほどには、このアンダーワールドに於けるフラクトライト達の頭脳を侮れないこともまた、上条は理解していた
「ファナティオ!」
「ッ!何ですっ!?」
迫り来るジャイアントの脳髄を完全支配術で貫きながら、ファナティオは上条の呼びかけに応えた。その声は女性らしさを取り戻した彼女からは想像もつかないような荒々しいもので、既に返り血で汚れた顔と紫紺の髪から今は自分の戦いで精一杯であることが聞かずとも伝わってきたが、上条はそれに構わず叫んでいた
「悪い!俺は少しこの場から離れる!辛いところ申し訳ねぇけど…!」
「私が辛いと一言でも漏らしましたか!?そのような心配は無用の長物です!左翼側の異変は既に私も感知しているところです!行くのなら早く行きなさい!元より貴方は単独行動が可能な唯一の人材でしょう!」
「わ、分かった!無事でいろよ!」
「振り返る暇があったら走れバカ者っ!!」
「ッ!!」
ファナティオの言葉を頷きながら受け取ると、上条は左腕に構えていた純白の盾を背中に戻し、左翼側を目指して戦場を駆け抜け始めた。そんな彼の行く先で無残に転がる人の死体が、あからさまに彼の不安を煽っているようで、上条は思わず舌を打った