冨岡義勇は空を見ていた。
陽光が家と家の間から差し込み、冨岡の顔を照らす。光が直接瞳の中に入ってきたため、冨岡は眩しさのあまりに目を細めた。だが、なんとか重いまぶたをこじ開け、上へと視線を向ける。空を彩るのは、先程までと同じ、夜の黒色ではなかった。既に天上は明るい青へと染まろうとし、中間の橙色になっている。ぼんやりとしながら色が混じった空を見つめた。
冨岡義勇は空が橙色に染まっていく姿を見るのが一等好きである。鬼殺隊にいる今、特にそれが顕著になった。朝の兆しの空を目にする瞬間こそが、鬼殺隊にとっては安堵の時間だからだ。
冨岡がスゥと息を吸うと、朝特有の冷たい空気が、口を通って肺に入ってくる。そして、肺の中に入っていた空気を出そうとして――――ゴボリと血を口から吐き出した。
「ああ、」
かすれた声が喉からこぼれ落ちた。視界を下げると、ぽっかりとした空洞が目に入る。そう、今の冨岡義勇の腹には穴が開いていた。あるべきものがなくなった腹からは血が吹き出し、それどころか、内臓まで飛び出している。医療に詳しくない冨岡でも、「自分はもうだめだ」と悟るほどの大怪我だった。
現在、冨岡は焼け落ちた民家の柱に寄りかかっている。だが、身動ぎすることもできず、悔しいことに意識を保つことさえままならなかった。なんとか全集中で命を繋いでいるが、果たして意味がある行為なのか。いや、意味があるからこそ、黄泉の世界に行く時間を少しでも己は延ばしているのだ。
ヒュゥと息を吸い、全集中を行う。血を操り、必死に止血していく。自分の師である鱗滝左近次の教えを思い出しながら、ひたすら命をつなげていく。その際に不意に頭によぎるのは、自分がこのような状態に陥ってしまった原因だった。
――――冨岡義勇は上弦の壱『黒死牟』と、上弦の弐『童磨』と遭遇した。
彼らと刀を一度交えただけで冨岡は気がついたものだ。俺一人だけではこの鬼達に絶対に勝てない。それどころか、後ろにいる炭治郎や他の部下達、民間人を守ることすらできない、と。柄にもなく手が震えるほどに冨岡は焦ったものだ。
絶望的な状況である。これが冨岡一人だけならば良かった。焦りはするが、手までは震えなかっただろう。何故なら、死ぬのは冨岡だけで済むからである。だが、この時、冨岡義勇は一人ではなかった。炭治郎や他の命まで背負わねばからなかったのだ。
何度、戦闘中、自身の弱さを呪ったことか。
何度、ここにいるのが錆兎であればと思ったか。
冨岡義勇という人間は、己が嫌いだった。肝心な時に役に立たず、いつだって誰かの影に隠れてばかり。姉が死んだときも、錆兎が死んだときも、彼は何もできずに終わった。
上弦二体との戦闘中も、そうだ。柱の地位を戴いておきながら、自分どころか大事な兄弟弟子まで殺されそうになっている。己の未熟さが、弱さが、吐き気がするくらいに嫌だった。どれだけ努力しようとも、研鑽を重ねようとも、冨岡義勇は変わらない。あの頃と同じ、弱くて、泣いてばかりで、生殺与奪の権を他人に握らせるような少年のままだった。
それでもできることを冨岡義勇はすべく、刀を振るった。
今回の冨岡に出来た最大の成果は上弦二体の腕をはね、羽織と共に草むらに投げ捨てたことくらいである。それができたのも、上弦達が明道ゆきの仔細を知りたがっていたからだ。明道のことを知る冨岡から情報を得るために、あの鬼達はこちらに対して致命傷を与えないよう、手加減をしていたのである。
お陰で、二体の腕を奪い合い、炭治郎達を川に突き落として逃すことには成功した。
――――だが、それだけだ。
上弦の登場が朝方だったから、彼らが油断していたから、明道ゆきの情報を知りたがっていたから、冨岡義勇はここまで戦えた。朝まで持ちこたえることができた。数多もの幸運が重なったことにより、ここに至ることができた――――ただ、それだけだったのだ。もしも一つでも欠けていれば、冨岡義勇は直ぐに死んでいた。それが分かっているからこそ、彼は己が未熟者だと思ったのだ。
確かに、他のものが結果のみ見れば冨岡を称賛することだろう。部下や一般人を守り切り、情報を持ち帰った猛者と言われるに違いない。だが、冨岡義勇は何一つ嬉しくはなかった。自分がもっと強ければ、ここにいるのが己ではなく錆兎ならば、こんなことにはならなかったと心底思っていたからである。
「俺は、柱に相応しくない」
冨岡は途切れ途切れになりながらも、ポツリと呟いた。苦い想いが胸を充満する。
自分はやはり何もできなかった。ここにいるのが自分ではなく、錆兎であれば、他の柱であれば、もっと良い成果をのこせていただろう。未熟者でしかない冨岡義勇の生に、一体何の意味があったのだ。手から大切なものばかり溢して、柱に相応しくない己に意味があったというのか。どれだけ意味を模索しても、見つけられなかった。死際ですらこのザマなのだから、思った通り、己はどうしようもないくらいの未熟者であると冨岡は実感した。
そう考えていた時、バサリと鳥の羽の音が聞こえてくる。――――鎹烏だ。
これでようやく敵の仔細を伝えて死ねると、安堵の息を吐く。鎹烏が己の下に到着したと同時に、鬼の情報を渡した。鎹烏が冨岡から飛びたったのを見送り、全集中を止めようとした時、とある声が耳に入ってくる。それを聞いて、冨岡は目を見開いた。これは、
「冨岡さん、冨岡さん!!」
――――竈門、炭治郎。
炭治郎は大粒の涙を止めどなく流しながら、おぼつかない足取りで走っていた。無理もない。先程の黒死牟と童磨の戦いで、炭治郎は大怪我を負わされていた。また、その戦いの前にも炭治郎には任務があり、骨を折っていたのである。加えて、先の上弦との交戦中、冨岡に川へ突き落とされたのだから、本来なら気絶していてもおかしくない。
炭治郎は息を切らして、血を吐きながらも、冨岡の傍に駆け寄った。そのまま彼は冨岡の手当てをしようとバッと傷を見る。だが、冨岡の考え通り、炭治郎はピタリと手を止めた。
恐らく、炭治郎は冨岡が助からないことを悟ったのだ。
何度か炭治郎は手を彷徨わせる。しかし、何をしても無駄だということに気がついたのだろう。炭治郎は体をブルブルと震わせた。同時に、絞り上げるような声色で言葉を発する。苦悩と後悔に満ちた声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、俺が、俺が! 弱いばかりに!」
違う。弱かったのは、俺だ。
冨岡義勇は炭治郎の言葉を内心で否定した。冨岡は分かっていたからだ。炭治郎は、確実に一歩一歩成長している。先程、多少なりとも炭治郎と共に戦い、冨岡義勇は実感していた。あの時、雪山で頭をさげ、奪われる瞬間を待つだけだった少年は、確かに『誰かを守りきる者』へと成長している。それを実感したからこそ、冨岡は炭治郎の言葉を否定した。寧ろ、何もできずに無様をさらしたのは、他でもない己であると、冨岡は感じていたのだ。だからこそ、冨岡は口を開いた。
「炭治郎、泣くな」
脳裏によぎるのは、雪山で泣いていた弱い少年だ。惨めったらしく頭を地面に擦り付け、懇願するだけしかできなかった少年。だが、彼は剣をとった。
「お前は決して弱くない」
目の前にいる、あの頃よりも成長した炭治郎を見据える。少年は青年へと少しずつ姿を変えていた。彼の手には剣ダコだけではなく、数多の傷があった。血の滲むような研鑽を積んだ末に現れる、努力した者の手だ。
「前を向け。妹を、禰豆子を、人に戻すんだろう。あの時の言葉は嘘だったのか」
竈門炭治郎は赤い瞳をまん丸くさせた。数秒の沈黙。少し炭治郎は固まったと思うと、グッと唇を噛み締める。苦しさを呑み込み、何かを決意したような、そんな動作だった。そして、炭治郎は吠えるように叫ぶ。
「嘘じゃ、嘘じゃありません! 俺は禰豆子を人に戻してみせます。
――――冨岡さんから繋いでもらったものを無駄にはしません。禰豆子は必ず人に戻します」
あの時と同じ瞳をして炭治郎はこちらを見ていた。燃えるような赤色が自分の目に痛い。その色を瞳に焼き付けて、冨岡は何も言えなくなる。驚くわけでも、喜ぶわけでもなく、ただただ炭治郎の目を見続けた。モヤがかかっていた己の頭がスゥと晴れていくような感覚がしたからだ。冨岡義勇は『繋ぐ』という言葉に引っ掛かりを覚えた。
いつ、俺はこの言葉を聞いたのだろう。
瞬間、思い出すのは頬の痛みと、錆兎の怒った顔だ。脳が痺れるほどの衝撃に冨岡は息を呑む。この時、この瞬間、『あの時』の記憶が冨岡の脳裏に映った。それこそ、まるで自分が『あの時』にいるかのような感覚に襲われたのだ。
あの時――――当時の冨岡は姉の死の動揺から抜けきれず、自分が死ねば良かったのにと、ボヤいたことがある。
その際、冨岡は錆兎にぶん殴られたのだ。殴られた音がパァンと森の中に響き渡るくらい強烈に、熱烈に、冨岡は殴り飛ばされた。ズサッと盛大に尻餅をついて、唖然と錆兎を見上げたことを今でも覚えている。冨岡は何がなんだか分からなかった。
何故、己は殴られたのだろう。
どうして、錆兎はここまで激怒しているのだろう。
混乱と痛みで頭を白黒させながら、幼い冨岡は錆兎の目に視線を向けた。錆兎は眉間にしわを寄せながら、驚くくらい真っ直ぐな瞳でこちらを見ている。どこまでも冨岡を見通し、どこまでも冨岡を心配し、親友と思ってくれていた兄弟弟子の錆兎。ありし日の錆兎のまま、彼らしいはっきりとした声色で冨岡に言葉を投げかけた。
――――繋ぐのだと。
姉が命をかけて繋いでくれた命を、託された未来をお前も繋ぐのだと、言ったのだ。
錆兎の言葉を聞いた、当時の幼い冨岡と現実の冨岡が重なる。錆兎に殴られた頬が痛かった。現実の冨岡の頬も何故だか分からないが熱を持つ。
(ああ、そうか)
冨岡は息を吐き出す。積年の想いを呼吸に乗せて、彼は息を吐いた。あの時の錆兎の顔が頭から離れない。己の心に深く刻まれた記憶だったのに、今の今までずっと忘れていた。錆兎の死の衝撃と、自身の未熟さを恨む想いにより、消えてしまった思い出。決して、忘れてはならない記憶だった。
俺はとんだ大馬鹿ものだ。
死に際にこんなことを思い出すなんて。
自分は意味ばかりを探していた。後悔ばかりをしていた。錆兎と姉が助けた男に意味はあるのかと。何故、彼らの代わりに己は死ななかったのかと、ずっとずっと問い続け、意味を探していた。生きる意味が、欲しかった。
違うのだ。
意味なんて、探す必要はなかった。
己が自分自身に、意味を見出さなければならなかったのだ。
意味を探したところで、見つかるはずもなかった。答えは直ぐ傍にあったのだ。もう既に、冨岡は知っていたのである。託されたものを次に託していくこと。それこそが、冨岡が本当にすべきことだった。冨岡義勇という一人の人間を、冨岡自身が大切にしてやらねばならなかったのだ。錆兎や姉の代わりになろうとするのではなく、二人からもらったものを次へと繋ぐために。そんな簡単なことを今の今まで冨岡は気がつかなかった。
死際にようやく見つけた答え。どこまでいっても冨岡義勇という人間は愚かだと、冨岡は思った。これを馬鹿だと言わずして、何というのだろう。
冨岡は再び炭治郎を見据える。煌々と輝く赫灼の子の瞳が冨岡を捕らえた。
――――炭治郎。竈門、炭治郎。
まさに名の通りの人間だと思った。炭というのは、派手な炎を出して燃えるものではない。一見、熱くなさそうにみえて、内では轟々と静かに燃えているのが炭である。きっと、炭治郎は傍から見れば、普通の少年だろう。だが、うちに秘めた炎は誰よりも輝いているように冨岡は思えた。
だからこそ、もう大丈夫だろうと冨岡は感じたのだ。今の炭治郎ならばきっと成してみせると確信したからである。冨岡は目を細め、静かに一言だけ口にした。
「ならば、やり遂げろ」
炭治郎はグッと涙を抑え、「はい」と返事をした。それを聞いた冨岡はゆっくりと目を閉じようとする。何も心配することはないと思ったからだ。
鎹烏には情報は伝えた。例のものは確保した。ならば、あとはお館様と明道がどうにかしてくれるに違いない。あの二人ならば、必ず己の死を無駄にはしないだろう。お館様と明道に直接言ったことはないが、冨岡は彼らを信頼している。特に鬼関連では、明道ゆきという人物を同僚の中で一番頼りにしていた。
――――明道ゆきは、不思議な隊士だった。
冨岡なんぞを芝居を見に行こうと誘ったり、文通しようと言ったりなどする人間だった。加えて、予知じみた戦略を練ることができるせいか、こちら側が考えていることを予測して対応してきていた。それを冨岡は不気味に感じることなく、寧ろ好ましいとさえ感じていたものだ。
異性に限定して、錆兎以外の親友と呼べる者は――――きっと、明道になるのだろう。
明道は常に冨岡を気にしてくれていた。柱合裁判で炭治郎のことを庇ってくれたのも、彼女もまた、冨岡のことを親友だと感じているからなのだろう。あの時は、直接お礼ができる雰囲気ではなかったため、唇をパクパクさせて「ありがとう」とだけ言ったが、明道は気がついてくれているようだった。
だからこそ、冨岡は安心して眠れるのだ。炭治郎を気遣う柱が一名でもいる事実が彼の気を楽にさせる。それに、明道以外にもお館様や鱗滝さん、真菰がいる。加えて、胡蝶も炭治郎のことを気にかけてくれていた。きっと、炭治郎は悪いようにはならないだろう。そこまで考えて、不意に冨岡は目を細めた。
(俺は、出来たのだろうか)
姉さん。錆兎。
俺は二人の想いを次に繋げることはできただろうか。肝心な時に役に立たず、二人の影に隠れるばかりだった自分だ。姉さんと錆兎の思い出すら、今の今まで忘れていて、死に際に気がつくような未熟者である。だが、それでも一つだけ、たった一つだけ二人に誇れることがあった。
――――今度こそ、俺は守れたのだ。
冨岡義勇はいつだって大事な時に力が足りなかった。姉が死んだのも、冨岡が幼く、無力だったからこそ、彼女は鬼に喰われたのだ。錆兎が死んだのだってそうである。冨岡が弱かったために、最終選別で怪我をして、鬼を狩りに行く錆兎を追いかけられなかったのだ。いつも、いつも、冨岡は守れなかった。動くべき時に、動けなかったのである。
だが、今回。
今回は――――動けた。
未熟な結果を晒しながらも、炭治郎と部下達だけは守れたのだ。本当に大事なものを今度こそ手からこぼさなかった。その事実が冨岡の胸を締め付け、全身を震わせる。不覚にも涙がでそうになるほど、『守れた』ということが冨岡義勇にとって嬉しかった。
錆兎や姉が冨岡に託したものを、己が次に託せたのかはわからない。いや、きっと何一つできていないだろう。それでも、炭治郎達を守れたことだけは誇っていいのではないかと、冨岡は思った。
そう考えていると、次第に眠気が増してくる。あまりに穏やかな夜が冨岡を飲み込み始めていた。冨岡はその夜の波に逆らうことなく身を委ねる。
スッと意識が落ちた時、不意に冨岡の耳に『音』が聞こえてきた。
――――おかえり、義勇。
ただいま、姉さん、錆兎。