勝っても負けても   作:冠龍

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 ようやく見つけた。

 今度こそ殺す。

 殺意のままに彼は走った。







エピローグ 〜因果〜

 

 《勝者》

 

 

 (どうして…)

 

メスコウモリは力尽きて倒れたまま、思考だけをぼんやりと行っていた。既に手足は棒のようだ。出血も酷くじきに身動きが取れなくなるだろう。どんなに考えても現状は打破できそうにない。

どこで戦略を誤ったのだろうか?

思えば彼と出会い、交わったのが過ちだったのかもしれない。そうして意識が混濁した彼女の思考は、全ての発端である数時間前へと遡った。

 

サイレンが鳴り響いたとき彼女は既に脱出の策を練っていた。初めから獄死する気など更々ない。しかし有象無象の跋扈する監獄から自力のみで脱出するのはいささか無理がある。そこで仲間を作る必要があったが、かといって仲間を増やしすぎれば集団の意には逆らえなくなるし、下手を打てば下っ端として使い潰されかねない。コウモリの習性は同族である彼女自身が最もよく分かっていた。非常に利己的で冷酷なのだ。少しでも仲間が弱いと見限れば、その瞬間にその個体は仲間から道具へと格下げされる。なんのことはない。至ってシンプルな『適者生存』の法則が重くのしかかる。

 

どうしようもないジレンマを抱えた彼女は、偶然にも運命の出会いを果たした。

通路の奥に健康そうなオスがいる。しかも単独で。通常であればコウモリ達は群れで行動している。そして決して他者と馴れ合ったりはしない。だが彼は違った。単独でいたばかりか、メスに気づくや否や積極的にアプローチしてきたのだ。

 

この千載一遇の出会いにメスは惹かれた。

 

(この珍しいオスであれば、上手く利用して生き残れるかもしれない。しかも単独でいるということは集団を必ずしも求めていないという事だから、私の性にも合っている…)

 

そこからの彼女は早かった。何段階かあるプロポーズを全てYESで答え、関係を確実なものとするために我が身を対価とした。これで準備は整った。あとは彼と協力して思い描く計略のままに周囲の邪魔者を排除するのみ。その後は無限に広がる外界へ繰り出して一生を宴会に費やすのだ。

 

こうしてカップルはメスの計略に従いつつ ――正確にはメスが半ばオスを利用するかたちで―― 野望実現のため動き出した。

まずは二手に分かれる。この間に手分けしてライバルのスペックを探るのが目的だ。情報さえ揃えば、後は嬲るも暗殺するも自由。片手間で手頃な獲物がいれば何体か始末する事も視野に入れつつ、メスは戦略の概要をオスに伝えた。もちろんオスは了承した。これこそ頭脳明晰なコウモリ達にしか出来ない芸当だった。

 

ところが、ここで明暗が分かたれた。

 

彼女にとって最大の誤算は、『オスがあまりにもメス想いという事だった。』オスはメスと別れた後に、将来的に我が子を宿すであろうメスを想い、まずは主食である人間を確保しようと動いた。そして狩り自体は問題なく成功した。

だが、その後のスミロドンの乱入を予知できなかったのが致命的だった。オスは何も出来ずに食い殺された。

 

当然メスが知る由もない。

 

一方でメスは単身で天井を伝いながら情報収集に勤しんでいた。彼女の存在も知らずに地を這う輩を片っ端からソナーで診断し、それぞれの弱点や特性を見抜いていく。

 

その途中で彼女は2つ目の出会いをした。

 

響いた銃声を頼りに現場へ向かうと、そこには手首から血を流したオスが人間を一人仕留めているところに出くわした。この時点でメスにとって新たなオスは捨て駒としてしか認識されていなかった。たかだか銃撃ごときで負傷するぐらいでは、このオスの実力はたかが知れている。今はオスの背後を取っている状態だ。この際一気に襲いかかって難敵たる同族を即刻始末すべきか…とも考えたが、ここは敢えて生かすことにした。獲物の首を撥ねたオスに近寄り、品定めを装って体格や負傷具合を探る。基本的には五体満足。そして身体能力はやや自分に劣っているらしい。これなら使い捨ての駒として使えそうだ。

 

今回も彼女は即決した。

 

いわば偽装結婚である。都合の良いことに今回のオスは直ぐに交尾を求めてはこなかった。この時の選択についてオスが単に間抜けなだけだったのか、それともメスを思い遣ってのことなのか。…そのどちらなのかは永遠に分からない。どちらにせよメスコウモリにとっては好都合だった。

 

そこから先は偽装相手と共に邪魔者を片っ端から潰していった。

 

(本命のオスは今頃情報収集を行っているのだから戦場に顔を出すわけがない。これは好機だ。)

 

と判断したメスは、手頃な兵器(スクトサウルスの子供)も手に入れたことで勢いづき、暫くは一方的な蹂躪と殲滅が続けていった。やや実力は劣るらしいはいえ、オスの動きも中々だった。偽装結婚の仲とは露ほども思わせない阿吽の呼吸でライバル次々とを切り刻んでいく。生き残りを狙ったポイントにまで追い込んだまでは万事順調だった。

 

だがしかし、問題は決戦の地である。収容部屋に辿り着いた時に発覚した。

 

…流石に遅すぎる。本命の夫であるオスの姿が見えない。これほどの騒ぎがあればちょっと勘を働かせて様子を探りに来るのが定石なのに、待てど暮らせどオスは来ない。本来ならば偽彼とはここで縁を切って即座に殺すつもりだったが、こうなったらもうしばらく偽装を続けるしかない。念の為彼があとから来るかもしれないと期待し、安全圏の天井でオスと一緒に潜み続けた。これは形勢上軽々しく足元の戦場へ介入できないためでもあったが、やはり本命のオスが来ないのが最大の理由だった。偽彼はそれに何の疑念も持たずに付き合ってしまった。

 

そして事件は起こった。

 

微かだが本命のオスの匂いがした。慌てて眼下を探ってみると、匂いの根源はスミロドンの血塗られた顎にあった。彼女は再開を約した伴侶の末路を理解してしまった。思わず全身の血が沸騰し、本能と激上のままに仇討ちに飛び出してしまう。スミロドンを今すぐにでも殺すつもりだったが、これが決定的な過ちだった。

 

(そうか、あの時から…)

 

 

 

ようやくメスが失策に気づく。 

 

片腕が骨ごと砕かれた。物凄い痛みに襲われ、メスは一瞬だけ正気に戻ったが、…時既に遅し。片腕は二度と使い物にならなくなっていた。それでも瞬時に怒りが再沸騰する。第ニ第三回の突撃を行うも、何度仕掛けようが格闘戦に長けたスミロドンを打ち破ることはできなかった。最終的には他コウモリの賭けに乗じたオスの働きによって戦況での優位を取り戻したメスだったが、この時点で彼女は戦略を変えるべきだった。

 

そして運命が決まる瞬間が訪れた。

 

偽彼がスミロドンに引導を渡してやろうと支柱から飛び掛かった。斜め上からの突撃でスミロドンを捕獲しようとする。

 

…はずだった。

 

彼女の最後にして最悪の失敗は、オスの跳躍を妨害したことだった。そしてこれがサソリとコウモリとスミロドンによる不自然な死の芸術を生み出す元凶だった。

 

彼女はオスとスミロドンが激突した瞬間を狙って襲いかかっていた。当然2頭は逃げられない。片腕でクリーンヒットを決め、縺れ合う両者を明後日の方向へと叩き飛ばす。つまりメスはこの時点ですら、残っていた一頭きりの仲間を駒として扱っていたのだ。その殺意の高さが仇となるとも知らずに。おそらくオスには何が起こったのか理解出来なかったはずだ。不意討ちを食らった2頭が飛ばされる先には運命の悪戯か、戦闘不能に陥ったはずのサソリが横たわっていた。まずスミロドンがサソリと衝突する。衝撃に反応したサソリは無意識に前方の物体を捕脚で挟み潰した。棘だらけの捕脚が肋骨と脊髄を割って内蔵破裂までを起こす。これによりスミロドンの死が確定したが、今度はオスコウモリがスミロドンに激突する番となった。勢いで上擦ったスミロドンの胸元へオスが飛び込む。すると致命傷の激痛に耐えかねたスミロドンは反射的に目の前の敵へと噛みつき返していた。これにオスも超常的な反射神経で反撃を行った。鋭く突き出した腕をスミロドンの喉を目掛けて放つ。しかしなおも衝撃で揺れ動いた3体は微妙にバランスを崩してしまった。これにより本来ならばスミロドンに当たるはずの反撃は、下敷きとなっていたサソリへと着弾点がズレた。かたやスミロドンの噛みつきはオスの喉を貫いた。

 

こうなると3体揃って為す術もない。コウモリは重傷を、スミロドンは致命傷を負っているし、サソリも動けない状態で数百キロの肉塊に潰されている。

 

途中は運によるところも大きかったが、これにてメスコウモリの勝利が確定した。彼女は最後には用済みとオスを見限って、意識朦朧となってもメスを信頼して助けを求めたオスへ、憂さ晴らしも兼ねて一息にトドメを刺した。スミロドンのサーベル歯によって食い破られかけていた首は、これにより完全に刎ね飛ばされた。

 

これにより脱出の芽は完全に潰えた。

 

片腕を失ったメスは脱出する際に絶対に他者の助けが必要だった。そして彼女は愚かにもこの事を失念していた。

 

もしかするとコンクリートを穿ってトンネルを掘り、金網すら容易に食い破るアースロプレウラならば、その扁平な身体を活かして脱出できたのかもしれない。もしくは6トン近い大人のスクトサウルスならば、シャッターを押し破って力任せに血路を開けたのかもしれない。

 

だがあいにく彼女はどちらの能力も持ち合わせていなかった。

 

もし運命が違っていれば、メスはサイレンが鳴った時にすぐさま収容部屋に来ていたかもしれない。そうすればヘレンが押した扉の開閉ボタンに気づき、それを押して閉ざされたはずの扉を開いていたかもしれない。彼女にはそれを理解するだけの知能があった。

 

いやそれも違う。スティーブンは閉じ込められる時にある細工を施していた。大掛かりな仕掛けではない。ちょっとボタンを奥へ押し込んで二度と使えなくしただけだ。つまり扉は永久に作動しなくなっていた。

 

ならば力づくで突破するしかないが、今のメスには協力を仰げる仲間はいない。彼女は自ら仲間になりえた者を尽く殺していた。そして利用できるだけの怪物も絶滅している。完全に手詰まりだった。そして最後の最後で彼女は現実の非常さを身を以て痛感することになった。

 

エコーロケーションを展開した。すると閉ざされていた壁の一箇所 ――金属製の分厚い扉の奥に―― の奥に空間が広がっていることが分かった。それさえ判明すれば世話はない。自慢の馬鹿力でもって邪魔な板を破壊し、陽の光を拝んだ暁には愛しの我が子を産み育てて世界を牛耳る。おそらく外界は人間たちの天下なのだろうが、奴らであれば隻腕であろうと思いのままに蹂躪できる。都合の良いことに腕の出血も止まっているため失血死の危険も当分なさそうだ。

なんのことはない。軽く持ち上げた腕を加速させながら振り下ろす。鋭い斬撃が扉を直撃した。確かな手応えを感じる。再度エコーしてみると扉の表面が明らかに歪んでいた。ここぞとばかりに余力を注ぎ込んで扉を破ろうとする。

 

しかし開かない。

 

どれほど歪もうが傷が残されようが、扉は冷酷に彼女を閉じ込め続けていた。徐々に苛立ちが募っていく。残された腕で徹底的に金具の部分を攻撃しようとする。

 

それでも扉は壊れない。

 

やがて流れ弾が壁にまで深々と傷跡を残していく。そしてメスの鉤爪のうち一本が限界を迎えた。血を吹き出して生爪が見るも無残に砕けた。痛みで腕を引き戻す。

 

(なぜ開かない、あと一歩なのに…)

 

痛みを堪えて再び腕を振るう。少しずつ冷静さと正確さを欠いていくメス。皮肉にも彼らが進化の末に獲得しえた比類なき頭脳は、ここが彼女にとっての棺桶であることを理解させてしまった。焦りが臨界点を超える。絶叫を上げながらメスは隻腕も合わせて殴りつけ、ダメ押しとばかりに口でも扉に噛りついた。せめて金具のパーツだけでも外せれば、あとは押すなり引くなりで無理やり扉をこじ開けられる。二の腕の刃も使った。鋭利さなら随一の武器で扉を何度も斬り付ける。それでも地獄の門は開かれることはなかった。

 

なおも開かない。

 

メスは発狂した。

 

この先には自由があるはずだった。邪魔っけな板さえ壊せば出られるのに、これまで屠ってきたどんな敵よりも攻略不能なものがそこには鎮座していた。かつての過ちにより万に一つの可能性に賭けて壁を登って、壁に口を開けたダクトから他の脱出経路を探るという選択肢は取れなくなっている。同時に彼女は施設を徘徊していた間に他の出口がないことも知ってしまっていた。

 

 

 

自我の崩壊。

 

繰り返される攻撃。

 

無機質に爪痕だけを刻む壁。

 

やがて全武装を使い果たしたメスコウモリは、扉にもたれかかるようにして血の海に沈んだ。

 

恨み節のように溢れた吐息を残し、彼女は意識を失った。

 

 

 

 

 

あれからどれ程の時が過ぎ去っただろう。幾多もの憎しみと躯を内包したある男の野望の跡地に再び足音が響いたのは。

 

動く者の気配が失われて久しい戦場を、コツコツと小さな音を立てながら何者かが進んでいる。

正体も、数も、距離も分からない。だが勝者だけは直感的に理解していた。彼の者が“悪女”を殺し、この血塗られた惨劇に本当の意味での終止符を打つのだということを。

 

 

 

彼女は再びは目を閉じた。反射的に手が伸びる。それは凹凸の激しい何かに触れた、自らの血を塗り付けるに留まった。そして自らを貫いた冷たい物が乾いた音を残すまでに息を引き取っていた。






 《生存者》

地を伝う微弱な振動が、彼の意識を覚醒させた。少し動いただけで尾の先から鼻面までが痺れる。全身が酷く痛むが、まだ立ち上がれた。

(どれだけの時が経ったのだろうか?)

物思いに耽っているのも悪くないが、今は近づいてくる振動の主が離れる事が先決だ。息を吸い直すと、むせ返るような血の匂いの中に、それとは異なる香りを感じ取った。自然には存在しえない火薬の香り。それが彼の記憶を呼び覚ます。激しく散った火花と激痛をもって、彼をこの地獄へと封じ込めた忌々しい輩。奴らの妨害により、大切なな同胞は無残な最期を遂げる羽目になった。絶対零度の怒りが彼にもう一度歩き出す力を与えた。 ――もしかすると墓場に漂う怨念ともとれる敗者の残留思念が、彼の肉体を突き動かしたのかもしれない―― 唯一殺し損なった仇を殺すことだけを目的とし、彼はボロボロの身体を引きずりながら戦場を後にした。
あたりには怨敵の骸が無数に転がっているが、もはや食べる気にもなれない。それに食べる暇があれば一刻も早くこの場を離れたほうが良さそうだ。

あの分厚い扉の奥へ逃げ延びた獲物の匂いや声。そして姿形といった情報が渦となって思考を埋め尽くす。もはや憎しみとしか形容できない感情が彼を突き動かしていた。2本の脚はまるで棒のようだ。それでも彼は歩みを止められなかった。

しかし無理な話であった。ここは幾多もの希望を絶望へと変えてきたアルカトラズ。脱出など不可能だった。



だが彼は看守から誰もが望まないであろう“贈り物”を受け取っていた。かつて脱走を計った際に頂戴した鉛玉。そして贈り物が今回だけは“鍵”となって明日への道を切り開いた。

不意に彼は僅かな痛みを感じた。今まで感じてきた痛みとは全くの別物。切り裂かれるでもなく、殴打されるでもない。内部から…正確には顎の奥から湧き上がるように感じる鈍い痛みは、彼を施設内のある一角に向かわせた。散乱した腐乱死体を踏み越え、階段を下る。この間に後方から幾多もの足音と一発だけの銃声が聞こえた。脳裏を掠めて瞬いた火花と悲鳴。長引く鈍痛に引き摺られるようにして訪れた先には、金属製の防火シャッターが冷徹な壁として横たわっていた。

ところが彼の逃避行には更に続きがあった。
シャッターの一部が僅かに奥に向かって歪んでいる。怪しんだ彼が防火シャッターに顔を近づけた時だった。その瞬間鋭い痛みが彼を襲った。顎の奥から突き上げてくるような痛み。顎の古傷の一つからは血が流れる。痛みに耐えかねた彼が咄嗟に頭を思い切り振った瞬間、顎から痛みの種が飛び出してきた。

血塗れの銃弾が床を転がり、やがて防火シャッターへと滑らかに吸い寄せられる。



確証は無い。体力も残り僅か。それでも彼は自身の直感を信じて、目の前に立ち塞がった最後の壁へと挑みかかった。






時は流れる。

傷は癒える。

だが憎しみは残る。



その日彼は自分の縄張りに愚かにも入り込んだ無礼者を始末するのに疲れたため、日が高いうちから寝ることにした。お気に入りの寝床に身体を横たえる。ひとまず今日明日のところは侵入者の骸が子供達の餌になってくれるので狩りの必要はない。そうして彼は、疲労に誘われて穏やかな眠りへ落ちていった。

この一時の安らかな眠りを妨げたのは、山々を軽く超えるほどの炸裂音。非覚醒状態であっても、そのあまりの強烈さに彼は慌てて跳ね起きた。

急いで周囲の様子を探る。

どうやら視認できる範囲に敵はいないようだが、やがて森に漂ったのはこの世界では絶対に存在しえない ――だが何処かで嗅いだような―― 香りだった。未曾有の危険を前に、彼は咄嗟に我が子の身の危険を予感した。限界を超えたスピードで森を駆け抜けるが、途中で我が子の悲鳴を聞きつけた。すると彼の中で『得体の知れない敵が我が子を傷付けた』ということが確定的な事実として成立した。

忘れもしない記憶が蘇る。大切な者を異次元の力でもって永遠に奪い去れられる苦痛。それはどんな肉体的ダメージよりも癒え難いものだった。

その事実に直面した彼は漂う香りに手掛かりを求め、そうして古臭い記憶の奥底から一つの答えを導き出した。



(…罪を贖わせる時がきた。)



古傷の蹲きを誤魔化すように背の棘を逆立て、脚の続く限りに走る。
丘の向こうに忘れもしないシルエットを見つけた。紛れもなく香りの出処だ。敵を正確に思い出した彼は、仇を何処までも追っていった。

やがて懐かしい光を抜ける。

出口に広がっていたのは植物の疎らな涸れ谷だった。空気は元の世界よりも乾いている。四方八方から得体の知れない者の鳴き声が聞こえるが、そんなものに構っている余裕は今の彼に無かった。前方で谷を登っているのはあの日仕留め損なった獲物と瓜二つの生物。不格好な2本の脚に支えられた身体。そこにぶら下がった両腕は異様に長い。全長は短いのに体高だけが馬鹿に高く、一際威圧感を与えるシルエット。どうやら仇とは別個体らしいが、そんなことはどうでもいい。彼は運命が狂わされたあの日から、奴らを見つけ次第片っ端から殺すと決めていた。その背中には“黒い物体”があるが、どうやら獲物の本体とは分離しているらしい。
狙うのは背中の黒い物体が外された時。それだけを考えて獲物を追跡していく彼へ、古臭い獲物の匂いが流れてきた。どうしても忘れられない匂いが記憶の深みを揺さぶり、彼を別の峠へと向かわせた。

一心不乱に未開の地を進む彼が谷を迂回しつつ登りきった先に待っていたのは、あの地獄のような日に唯一殺し損ねた獲物。僅かに癖だった頭部の頭髪が盗賊の本能を刺激するが、彼は理性を働かせて辛うじて留まり、確実な機会を待った。無理に脚へ力が入ったことで地面の瓦礫を転がり落としてしまい獲物を下手に警戒させてしまうが、幸いにも気付かれずに済んだ。



(ここまで来て逃がすつもりは毛頭ない。)


獲物が背中の物体を地面に降ろした直後、数多もの恨みを一身に背負って彼は殺意に身を踊らせた。

獲物の顔が生涯で最大の驚愕に歪む。
藪を飛び越えて獲物たるヘレンカッターに襲いかかり、懇親の蹴りでヘレンを影下へと突き落とす。そのまま彼もヘレン共々落ちていった。例え自分も死ぬとのだとしても後悔はない。

敵の恐怖と驚きに満ちた顔。これを待ち望んでいた。



“悪女”ヘレン・カッターの絶叫が鮮新世の谷に響き渡る。

その瞳には太古の『盗賊』の姿が永久に焼き付けられてた。
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