外で幾つもの生命が散った直後、収容エリアではスティーブンの包囲が始まっていた。これから開催される食事会に混ざろうと、スクトサウルスを葬ったサソリが触肢を振りながら接近する。既に獲物の周囲には他の生物たちが立ち並び、彼の同族も近くに佇んでいた。誰もが首を長くして肉にありつく機会を窺っている。太古の支配者たるラプトル。かつて人類に対する脅威であったサーベルタイガー。出自が不明の海へ戻った霊長類。頭上には先の未来生物たちがいる。この状況では、いかにして中心の獲物を手に入れ、周囲の敵をいなすかが重要だった。
最初に痺れを切らせたのは、首に銃創を負ったラプトルだった。漆黒の軌跡を描いて一直線にスティーブンへ飛び掛かり、鎌のように研ぎ澄まされた鉤爪を喉と胸へ突き立てる。コウモリもサソリも反応が間に合わなかった。苦痛の声を漏らして血を噴き出すスティーブンとともに、ラプトルは放物線を描いて反対側へ弾着する。スティーブンの後頭部は床へ強かに叩きつけられ、意識は一瞬で飛び去った。
しかしその寸前、スティーブンの脳は処理しきれてはいなかったが、彼の網膜には襲い掛かるラプトルと別の生物が映っていた。
それは、スティーブンを挟んで対極に位置していたスミロドンだった。
獲物を仕留めたラプトルを目掛けてスミロドンの剛腕が飛んでくる。ラプトルをはじめとする獣脚類は前肢が後肢と比較して短く、対して上半身に莫大な筋肉を持つスミロドンには圧倒的に不利であった。ただちに反撃はできない。俊敏な身のこなしで二発、三発と次々に放たれる打撃を回避する。ウロコを逆立てて甲高い声で最大限の警告を放つが、戦闘態勢に突入したスミロドンは意に介さない。全身の筋肉をバネにし飛び掛かるスミロドンを前に、ラプトルは一時的に獲物を手放して飛び退くほかなかった。距離を取って螺旋を描きながらスミロドンに向き直すと、スミロドンはスティーブンの首を咥えて今にも持ち去ろうとする。
ラプトルが奪い返そうと駆け出す前に、コウモリが既に動いていた。突然スミロドンの背中の左側に裂傷が走り、鮮血が飛び散る。攻撃の方向へスミロドンが顔を向けると同時に、反対側から2本の長い指がその頭を鷲掴みにし、勢いよく床へ叩きつけた。下顎を強打し、名の示す通りにサーベル状をした牙が折れて飛んでいく。体勢を立て直す時間をも与えず、コウモリが胴体を押さえつけて脇腹に噛り付く。肉片がえぐり取られ叫び声を上げるも、スミロドンは腕を真横に振るってコウモリを薙ぎ払う。腕はコウモリの右腕に直撃してそのままへし折り、肋骨付近の肉を剥き取ってコウモリそのものを吹き飛ばした。
その背後から矢のように飛来してくる者がいる。ラプトルだ。ラプトルのシックルクローが、コウモリにもがれた腹の部位を目標地点に飛んでくる。スミロドンは半歩飛び退いて直撃を避け、つい先ほどまで胴体があった位置に着地したラプトルへ左腕を叩き込む。ウロコを散らしながらラプトルもその場に叩きつけられるが、直後にコウモリが再起動した。しかし迎撃の用意は整っている。確かにスミロドンとコウモリには体格差があり、腕のリーチではコウモリがスミロドンを遥かに上回る。だがスミロドンの拳はいわば一撃必殺。いかにリーチとスピードでコウモリがスミロドンの上を行こうが、正面からは迂闊に手出しできなかった。スミロドンの攻撃はことごとく回避されるが、コウモリの攻撃もスミロドンの頭部を対象にはできない。コウモリは主に後ろ足だけで立ち回りながら、隻腕を振るって背に脚に攻撃を加えていく。
両者が拮抗する間にラプトルも立ち上がり、その矛先はコウモリを向いた。
スミロドン相手に攻めあぐねるコウモリは気付くのが遅れた。
ラプトルのシックルクローがコウモリの胸を横から深々と射止め、そのまま両者は数メートル離れた地点まで吹き飛んでいった。スミロドンはそれを瞬間的に確認すると、スティーブンの肉体を離れたところへ運ぶために咥え直す。
その前には、いつの間にか別の2頭のコウモリが立ち塞がっていた。
状況を即座に判断したスミロドンはスティーブンを離し、2頭に向かって大きな咆哮を上げた。
吹き飛んで行ったラプトルは体勢を立て直して、コウモリの腹を鉤爪で抑えつけて固定し、自らを上位にして安全を確保していた。
コウモリは身をよじって鉤爪の呪縛から脱さんとしたが、動けば動くほどに凶器が肉へねじ込まれてゆく。先端が臓物をひっかき、想像絶する激痛が走る。絶叫。徐々に肉に切れ込みが入り傷口が深く広がっていく。開いた穴に血液が溜まるほどの出血。
だがそれは、鉤爪が下腹部へ移動していることを意味していた。やがて抵抗するコウモリの腕がラプトルの顎に届きはじめ、コウモリが体を起こすと、一気にラプトルの口が左手に捕縛された。ラプトルが口を使った攻撃に出なかったのは、これを懸念してのことだった。腹部に重傷を負わせておきながら頭部を危険領域に近づけて狩られたのでは何の意味もない。しかし、万全の備えをしてもなお、コウモリの射程範囲に頭が捕捉されてしまった。ウロコをガチャガチャと逆立てて前肢を振り回すが、コウモリは鉄柵をも抉じ開ける怪力をもってして、強靭な靭帯で保護されたラプトルの姿勢を捻じ曲げていく。そのまま頚椎をへし折る気である。まさしく肉を切らせて骨を断つ戦法に、ラプトルは窮地に立たされていた。鉤爪をコウモリの腹へ何度も何度も斬り付けて抵抗する。真皮を何度も何度も細かく短冊状に切り裂き、地獄の我慢比べのデッドヒートが展開される。
しかし、ラプトルも覚悟を決めた。首を押さえつけられているなら抑えつけられる方向に向かえばいい。コウモリの右腕はスミロドンに破壊され、残るは今頭を掴んでいる1本のみ。腕の力の方向は下向きだった。抵抗をやめ、頭部を急降下させた。コウモリは驚いてラプトルの首を支えようとするがもう間に合わない。下に構えるコウモリの喉笛を食い破る。
──はずだった。
真横から別の衝撃が襲った。
自身の体重を遥かに上回る何者かが、コウモリを仕留める寸前に首に食らいついたのだ。全身を激しく揺さぶられ、体がコウモリから離れて宙を舞った。そしてそのまま冷たい硬質な床へ打ち付けられる。衝撃による脊髄損傷。神経が骨に押し潰され、これまでに経験したことのない激痛が脳に直撃する。足腰はもはや動作しなかった。4本の牙が首に突き刺さり、気管に穴を開けているのが感じられた。未来生物の喉を噛み千切るつもりだった。それが今や、別の生物が己の喉に食いついている。喉から空気が抜け出てゆく。肺に、気嚢に、酸素が送られない。薄れゆく意識の中で、ラプトルは自身らの命を奪った相手を認識した。
いかにも風変りだ、と初めて見たときには感じられた。
その体は陸上に適応しているとは言い難く、むしろ川や海が生息域に思える風貌。当然亀裂の抜ける前の世界では目にしたことのない生物だった。水棲霊長類。海へ帰った人類の子孫の可能性さえある存在。完全な陸上生物である捕食者たちに、反旗を翻したのだった。
一方で、スミロドンの戦いは一方的だった。
いかに強大な力を誇ろうと、圧倒的な手数で勝るコウモリを2頭相手にするのは無謀だった。繰り出す打撃は軒並み空を切り、自慢の牙も当たらなければただの長い棒きれに過ぎない。ガチンガチンという歯の噛み合う音が虚しく鳴ったが、コウモリたちの歓喜と狂気に満ちた鳴き声はその音が響くことさえ許さなかった。かろうじて爪が灰色の悪魔にかすると、彼らの攻撃が激化した。頭を床へ何度も打ち付けられた。爪牙が雨のように降り注ぎ、腹部と既に食い破られた脇腹、そして喉が集中的に狙われた。血は止まることなく流れ、傷は次々に増えていった。
絶望的な状況に、これまでの生涯が頭に浮かんでいた。飼い主バレディーの記憶。麻酔から目が覚めると、触れると痛みの走る珍妙な檻の中に居た。定期的に外へ出され、傭兵部隊を相手に暴れ回った。一定時間が立つと檻に無理矢理引き戻され、ダクトから放出される肉の塊を口にした。その間も、ずっと頭からはバレディーのことが離れなかった。亀裂を抜けて現代にやって来てから、毛布を、ミルクを、肉を与えてくれた。人間の女性の愛を受けて育った。この冷たい施設とはまるで違う保護だった。
なぜ彼女を殺してしまったのか。なぜあのタイミングで襲ってしまったのか。気付けば彼女は血と肉の塊へ変貌し、自分の脇腹には小さな尖った物が刺さっていた。あの時のような衝動が、自分の体を支配していくのを感じた。脳の方向性が一方向に定められた感覚。全身の血管に針金が通り、筋肉が重い石で覆われたようにガチガチに凝り固まっていく。
その衝動は喉に噛み付いている小汚い獣に向けられた。もはや限界など知ったことではない。極限まで顎を開き、1本だけとなったサーベルをがむしゃらに突き刺す。肉をかき分け、骨の隙間を貫き、血管を断つ。予想外の攻撃に叫び声を上げるコウモリに、万力のごとき力で歯を喰い込ませていく。バキバキとコウモリの骨が悲鳴を上げる。既に顎の感覚は失われていたが、ブラックホールでも生成するかのように深く深く噛み締めていく。
もう1頭のコウモリが助太刀に入り、即座にスミロドンの頭蓋を叩き割った。そのまま抵抗するコウモリとともに執拗なまでに攻撃を加えるが、床に倒れ伏してなお、完全にコウモリに組み込まれた顎は外れない。大動脈を裂かれたらしいコウモリは、既に動かなくなったスミロドンに食いつかれたまま、苦しみ悶えながら四肢を動かしていた。心臓の鼓動音は裂けた血管で反響し、歪な波形をなしているのが観測できた。四肢の動きは次第に緩慢になり、声も小さくなっていった。
もう1頭は、この犠牲者を見捨てる決断をした。
この個体はもう助からない。弱者は死ぬ。それは自然界でも、この収容施設でも通用する普遍の定理。自らの周囲に目を向けなければ、次に狩られるのは他ならぬ己自身である。彼は自らの防衛に努めることにした。
超音波を発して収容エリアの状況を視界の届かない領域まで音速で把握すると、妙な手ごたえがあった。先ほどまで生命体として活動しただろう者たちが、ほぼ全て沈黙したオブジェクトと化していた。たった1体を除いて、空気の動く音も、心臓の拍動する音も見えない。静止した世界。もはや黄色い檻の枠と変わらない死骸が周囲に散っている。そしてこの荒廃した世界の中で唯一動いている生物に、コウモリは向き直った。
【残存生物】
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