あちこちに死骸が散乱した空間の中を匪賊──ラプトルが歩む。コバルトブルーのアイシャドウに、光を吸い込むほどに黒い可動式のウロコ。カウンターシェードの完成した上品な肉体が尾を振りながら進む。しかしその美しい外見とは裏腹に、獰猛な性質と極めて狡猾な知性を持つ。最終局面でついにその姿を現し、これまで自らの手を汚さずに生き延びてきた。外傷はせいぜいウロコが一部剥がれ落ちている程度というのがそれを物語っている。
その向こう側には灰色の怪物がいた。長い四肢を持ち、目がどこに存在するか一目では分からない風貌。体色以上に禍々しい、ドス黒い残虐性を持つ。この生物が群れで外へ解放されてしまえば、人類の滅亡の要因となりうる。鉄を捻じ曲げるほどのパワーと、人間が到底捕捉できないスピード。そのポテンシャルを静かに秘めながら、向かってくる恐竜の末裔を待ち構えていた。
ラプトルが歩を止めた。ピタリと静止し、呼吸と拍動以外の一切の動作を停止する。その視線は真っすぐにコウモリを見据えている。一挙手一投足を見逃さない構えだ。コウモリも同様だった。ラプトルから発される音波を寸分の狂いもなく観測し、新たな動作を確認すれば即座に始末に動く計画。全神経をラプトルの動きに集中させていた。膠着状態が10秒近くにわたって続いた。
先に動いたのはコウモリだった。一瞬でラプトルの真横に距離を詰め、腕がラプトルの口を捕らえることのできる射程圏内に侵入した。このコウモリは、ラプトルとスミロドンと別のコウモリの戦いを観察していた。ラプトルが脚を主な武器とすること、そしてその脚を主に前後上下にしか動作させていないことを突き止めていた。恐竜の骨盤で大腿骨頭を受け止める寛骨臼は、ヒトなど哺乳類や原始的な爬虫類とは異なり、窪みではなく穴として貫通している。このため、ラプトルの自慢の鉤爪は左右方向へ猛威を振るうことが不可能だった。勿論解剖学的所以をコウモリが把握していたわけではない。しかし、このわずかな期間で得られた情報から仮説を導く能力は、コウモリの持つ卓越した知性の福音であった。
真っ直ぐに頭部を目掛けて腕が高速で迫る。ラプトルはとっさに身を翻すが、続けざまに2発、3発と爪が間近で風切り音を立てる。ウロコの1枚宙を舞う姿がラプトルの目に映ると同時に、4発目が口元を裂いた。しかしこの時には既にラプトルは攻撃に転じていた。突如としてシックルクローが空中に出現し、コウモリの胴に向かって電磁加速砲のごとく射出される。当たれば致命傷となり得る高出力。当然回避行動をとるコウモリに対し、数メートル離れた位置に着地したラプトルがすぐさま牙を剥いた。
前肢を構え、左右のどちらにコウモリが逃げようと攻撃を食らう算段。後方に逃げたならそのまま直進して攻撃を続行する。そしてその後ろには黄色い檻の枠が立っていて、後方への逃走には限界がある。最大の懸念は枠に登って回避されることだが、その場合には自己の跳躍で間に合わせる。ラプトルの脳は瞬時に演算処理をこなし、それに支配される体が敵に向かって加速する。
だがコウモリはさらにその上を行った。文字通りに上を行った。跳躍。ゴルゴノプスを相手にペルム紀で見せたものと同等の跳躍。ラプトルも反射的に跳び上がるが、基本スペックに絶対的な差があった。コウモリの跳躍能力は檻の枠の高さを優に超え、その上に降り立つほどだった。しかし降り立っただけではない。枠の壁面を蹴りつけての急激な降下。ちょうど着地したばかりのラプトルを上方から高速で仕留めにかかった。本来備えた筋力に加え秒速9.8メートル毎秒毎秒での加速。細く、しかし引き締まった筋肉の塊である腕が、ラプトルの背と口を衝撃と共にホールドする。ラプトルとともに床面を数回転分転げまわり、先に上に立ってねじ伏せる。警戒すべき後脚は封じられた。残るは頚椎の破壊のみである。腕の筋肉が収縮し、回転の力が加えられ始めた。
シックルクローが機能不全に追い込まれようと、ラプトルは既に首の破壊に対する策を練っていた。コウモリは右腕を左回転させて首を折ろうとしている。そして背中を確保した左腕は右方向へ圧を加えている。それならば、首を軸にして全身を時計回りに回転してやればよい。ある程度コウモリの力に抵抗し、やがて限界が訪れるポイント。そこが目印だった。コウモリの力に抗えなくなったように偽装工作を仕掛け、その力を利用して全身を軸回転した。先の戦いを見ていなかったコウモリは予想外の動きに一瞬混乱を見せた。体が空中に浮いたのをいいことに、待ってましたとばかりにシックルクローを撃ち込む。空中で繰り出した攻撃のため威力は不十分だったが、爪は一瞬でコウモリの臓器を一突きし、そして脚力でコウモリとラプトルは互いに反対方向へ弾き飛ばされた。
ラプトルは再び体勢を立て直すや否やコウモリに向かって突撃し、一方のコウモリも出血をものともせずに特攻する。ラプトルには先ほどの意趣返しをする絶好のタイミングが訪れた。コウモリは檻枠で跳ね返って攻撃をした。同じことをしてやる。コウモリの弾道を予測して跳び上がる。回避のためではなく、撃墜のためだ。コウモリにとっても予想外の動きであったらしく、その形相からは虚を突かれたことが読み取られた。檻枠に後脚を着弾させ、即座に稲妻のごとき軌跡を描いてコウモリの脇腹へ突撃させる。
鈍い音を立ててシックルクローが完全にコウモリの脇腹に突き刺さり、両者は床面を転げ回る。そしてこのまま鉤爪を引き下げて掻っ捌く──はずだった。予想以上に速度が出ていたらしい。そして肋骨を上手いこと外れたらしい。それが仇となった。コウモリの脇腹には鉤爪が完全に埋没し、それどころか指もろともめり込んでいた。臓器には大変な損傷を与えているが、コウモリにも1つ有利な状況があった。ラプトルの主要武器を1つ体内に封じ込められたことだ。ラプトルがそれに気づき、指ごとではなく関節の運動で切開しようとしたときだった。コウモリの腕がラプトルの喉を掴んだ。
コウモリが立ち上がりかけていたラプトルを床へ引き倒すと、そこからは血を血で洗う死闘が繰り広げられた。コウモリの爪がラプトルの喉を引き裂くと同時に、ラプトルの爪が回転して腹を切り裂いた。なんとか爪が脱出するスペースを作って引き抜くが、コウモリはラプトルの胸に、首に、腹に、無茶苦茶なまでに攻撃を開始した。ウロコが吹き飛び、そのうち何枚かがコウモリの腕にも突き刺さるも、コウモリは全く意に介さない様子で喉元へ食らいつく。対するラプトルもなりふり構ってはいられなかった。両脚のシックルクローを次々にコウモリの腹という腹に蹴り込み、包丁で食材をスライスするように切り裂いていく。脚力で一時的に引き剥がされても、すぐにラプトルの首を手繰り寄せて距離を詰める。執念の勝った者が勝利する、血みどろの争いと化した。
その状態が何分続いただろうか。いや、きっと長くとも十数秒だったに違いない。しかし両者には1秒1秒がまるで10分に感じられるような、永遠にも等しい長い長い苦痛の時間だった。やがてラプトルに蹴られたはずみで、コウモリは掴んだラプトルの首を軸にして床の上を回転した。そう、ラプトルはコウモリを蹴り飛ばしてしまったのだ。己の最良の武器が届くことのない射程外へ。悪手を悟ったのか後脚を暴れさせるが、何者もいない場所でただ虚しく空を切るだけだった。
こうなると分は前肢の長いコウモリにあった。既に呼吸もままならないラプトルの頭を掴み、首を抑え込んだ状態で躊躇なく反対側へ折り曲げた。ボギン、という音が収容エリアに響き、ラプトルの動きが急激に衰えた。苦しみもがいて活発に動いていた四肢が、急にピアノ線を切られたかのように力なく伸びる。目から光が失せた。完全なる死亡。高い知性を持った生物が、また1種、絶滅を迎えた。
それを葬ったコウモリには特に何の感慨もなく、ただ邪魔者を駆逐しただけに過ぎなかった。
壁の向こうが騒がしいことに、コウモリは気付いていた。
何十という声や足音が扉の向こうから響いてくる。扉についた丸い小窓からは、人間にしては骨がありそうな、濃い色調の帽子を被った男がこちらを覗いていた。当然他種族の感情を詳細に理解する術など存在しないが、おそらくはあれが恐怖や嫌悪という感情なのだろう。ぼうっと眺めていると、薄い色合いの頭をした男が手前に姿を現した。最初にこの収容エリアに入ってきたときに扉を叩いて叫んでいた男だろう。
施設で唯一生き残ったというのに、余計な傷を負いすぎてしまった。あの者たちがこれから扉を破り、私の命に終止符を打つはずだ。あるいは、私がここで衰弱死するのを待つ気かもしれない。しかしもうどうでもよい。あの数を殺しきる体力は最早残ってはいないのだから。
コウモリは立ち上がろうとするが、足腰に全く力が入らない。電気回路にゴムでできた絶縁体を挟まれたような感覚だった。ラプトルの死骸の前で力の限り叫び声を上げた。収容施設に囚われて冷たい建物で一生を終える獣の叫び。この世界の歴史を変えることなく散りゆく生命。引き裂かれた腸と血の澱みの中へ、未来の捕食動物はゆっくりと体を沈めていった。
【残存生物】
なし