熊野と世界の果てで 優しさの場所   作:あーふぁ

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小さな世界の始まり

 俺は提督として大きな失敗をした。

 今まで多くの時間を共にし、楽しい時も悲しい時も一緒にやってきた艦娘たちを1度に13人も沈めてしまった。

 深海棲艦と戦争をし、段々と生存権を奪われ追い詰められている近頃は軍からの要求も苛烈になっていた。

 貿易航路を切り開くための海域奪還作戦は成功したが、その犠牲は現実から目を背けたいほどに大きい

 戦争だから怪我や死ぬことがあるのはわかっていた。でも今まで誰も死なせてこなかっただけに、その衝撃は大きいものだ。

 夜、目をつむって寝れば、夢の中で戦場に行かせた艦娘たちが俺のことを恨み、ひどく失望した目を向けられる。

 それで夜中に叫び声をあげては飛び起き、そばにいてくれた艦娘に心配されるという日々が続いた。

 夢を見ていくたびに罪悪感が段々と強くなっていき、俺を心配する艦娘の目や視線ですら怖くなっていく。

 俺は軍上層部と連絡をして仕事を続けられないと言い、代わりの提督が来ると逃げるように本土へと戻った。

 与えられた宿舎で1年ほど引きこもるようにして暮らしていたが軍は俺が28歳と若くもあり、実績のある軍人を放っておけないということで、あらたに配属任務を出された。

 それは時々やってくる深海棲艦の監視だ。

 配属先の場所は以前深海棲艦に攻撃をされたために、人は海岸から離れたところへ暮らしていた。

 その海岸線での監視が俺の新しい任務だ。

 提督とあらたに配属される艦娘とたった2人で。それはただのやっかい払いにしか感じなかったが、今の俺にとってはありがたかった。

 静かな場所にいることができると思って。そして、今度は艦娘を大事にして何が大切かを考えながら生きていこうと。

 来たときは日本特有のじめじめとした梅雨の季節だったが、ここに来てから今日で3週間が経った。

 7月を少し過ぎた今は海から吹き付ける風が心地よく、少し体を動かすだけで汗が出るほどの暑さは今まで北方にいたからか、生きているという実感がある。

 そう感じる季節の、朝食を食べ終わって少したった時間に俺は仕事をしていた。

 仕事をする場所は木造2階建ての監視所兼住居の建物で、広さは16畳ほど。

 その1階部分は窓を開けていて、明るい太陽の光と共に網戸越しに海の匂いが爽やかな風と共に運ばれてくる。

 その過ごしやすい空気の中で、涼しくて様々な作業がしやすく、でもそこそこ使っていたために薄汚れた白色の事業服。ツナギのような雰囲気の服を着た俺は机に向かって作業をしている。

 だが、これは提督としての仕事ではない。ここでの仕事は沿岸監視で、深海棲艦が現れたら電話をすることと艦娘を使っての時間稼ぎだ。

 今やっている作業は新しく部下となった、目が見えない視覚障害の熊野のためだ。

 小さな執務机の上にあるのはパーキンスブレイラーと呼ばれる点字用タイプライターと点字の本、それに国語辞典だ。俺はそれらの本をにらみつけるように読みながら、ゆっくりとタイプライターのキーを打ち込んでいく。

 カシャン、カシャンと断続的に音を鳴らしながら間違いのないようにしっかりとキーを打ち込んでいると、集中のあまりに頭がぐつぐつと沸騰してきそうだ。

 この打ち込んで出した紙は、切り分けたあとにテープやノリで張り付けて本のタイトルや書類を挟むファイルの表紙へと張って使いやすいようにする。

 今までこういう仕事は経験がなく、以前やっていた書類仕事とは違う頭の使い方は中々に苦労する。

 だが、その苦労は俺がしたくてやっている苦労だ。

 これは新しく部下となって3週間が経つ、艦娘である熊野のためだ。

 熊野は深海棲艦との戦闘の結果、視力を失った。だけれど、かろうじて光があるかないかは感じ取れるとのことだ。

 前線で使えないがまだ戦闘能力があり、ここに配属された熊野は俺にとってありがたい。

 熊野は普段から目を閉じているため、俺と目が合うことがない。

 そう、今までは艦娘と目が合うことや複数の視線を感じたりするのはとても怖かった。1対1なら多少は耐えられるが。

 でも今の目が見えない熊野なら、俺は安心して一緒にいられる。

 彼女は目が見えないために普通の艦娘のような戦いはできないものの、今の俺にとっては嬉しい存在だ。

 その熊野が、よりよく過ごしているために俺はこうして自腹で道具や資料を揃えて頑張っている。

 タイプライターを叩く手を止め、大きく息をついてから熊野の方を見る。

 熊野は軍から支給された制服をきっちりと着こなし、窓辺にある椅子へと静かに座り、窓の外へ目をつむった顔を向けている。

 時々、肩のあたりまである淡い栗色のポニーテールが風でふんわりと揺れる姿は目を奪われてしまう。

 10代後半の幼さと大人っぽさがある横顔を見ていると、心が落ち着く。

 こんな田舎へ配属が決まったときは人生の終わりかとも悲観したが、実際に来てみると悪くはなかった。

 建物はこの監視所兼家だけだが、建物が小さくて古くとも電気やプロパンガスに上下水道がある。

 人員は28歳のおっさんである俺と目が見えない熊野の2人だけだ。

 仕事がそうあるわけじゃないから、これで充分だが。不満があるとすれば、物資配給が少ないために自分たちで野菜を育て、魚を捕る必要があるぐらいだろうか。

 なにもかもが足りないが、それでも深海棲艦にあげるほどに余っているものがある。

 それは時間と自然豊かで人工物の音が一切しない静かな環境だ。こんな環境に深海棲艦も暮らしてみれば、もしかしたら戦争をしなくなるんじゃないかとバカな考えをしてしまうほどに。

 そうやって熊野を見ながら様々なことを思い出し、考えたあとに仕事に戻ろうとタイプライターに手を伸ばす。

 だが、そのときに俺の心を惹く軽やかな声で言葉をかけられた。

 

「提督。真面目に頑張るあなたは好きですけど、そろそろ休憩なさってはどうです?」

 

 窓の方に体を向けていた熊野は、俺がいる方向へと体を向けて優雅さを感じさせる微笑みを浮かべている。

 熊野と出会い、一緒に暮らすようになってからは、俺を心配してくれている彼女のためなら多少の苦労など苦労ではないと思うようになってしまった。

 俺と違い、熊野は出会ったときから気分が良かった。戦いで視力を失い、それでも艦娘としての仕事をやれと言われているのに。

 少しぐらいは"提督"という存在を恨んでもよさそうだが、そんな様子は全く感じられない。

 軍から渡された書類では、熊野は疲労が溜まったまま連続の戦闘をさせられ大怪我をした。修復する順番も後回しになり、そのせいかわからないが目だけがどうしても治らずに当時の提督から捨てられたと書いてあった。

 だから、会う前までは仲良くなれないかと思っていたんだが。

 

「美人な熊野に言われては休むしかないな」

 

 俺は椅子からゆっくりと立ち上がると、固まっていた筋肉を背伸びして伸ばしながら部屋を見渡す。

 熊野と暮らすようになってからは、普段の生活にも気を遣うようになった。

 1人で暮らしていたら、床には物が散乱し歩きづらくなっていただろう。だが今は床は綺麗にし、机や椅子はいつもの位置からずれてしまったら直すようにしている。

 我ながら掃除をした自分はすごいと満足しつつ、熊野がいる場所までゆっくりと歩いていく。

 足音に合わせ、熊野は顔の向きを常に俺へと変えてくれる。その熊野のところまでやってくると「肩をさわるぞ」と驚かせないように小さく言ってから、両肩に優しく手を置いて顔を近づけるとフローラルな髪の香りを嗅いでいく。

 

「それ、セクハラになりますわよ?」

「俺の精神安定には必要なことなんだ」

 

 苦笑する熊野に返事をする俺の手を、熊野はそっと掴んではずしてくる。

 熊野は今まで出会ってきた艦娘と違い、ついこういうふうにちょっかいを出してしまう。それはこの静かな場所と熊野の落ち着いた雰囲気、目と目が合わないことだと思う。

 心の栄養を補給した俺は熊野から離れ、机へと戻る。その途中、部屋の色々なところに張り付けている点字紙の確認をしていく。

 電気のスイッチ、本棚の中にある本の背表紙、書類を入れるキャビネット。点字によって物を区別できるのは熊野と俺のためでもある。熊野がこの建物の中で生活しやすくなるし、俺の仕事も手伝ってもらえる。

 本棚の前に立っていると熊野が椅子から立ち上がり、壁に手を這わせながら隣まで来て俺が買ってきた点字本を探しはじめる。

 

「熊野お嬢様は優雅な読書時間に入りますか?」

「ええ。そうさせてもらいますわ。その代わり、お昼にはきっと私に感謝すると思いますわ」

 

 本の背表紙に指を置き、はじっこからなぞって本を探していくのを見ながら言うと、熊野は笑みを浮かべて『旬の野菜料理』という点字本を手に取り、読書好きの熊野はウキウキとした様子で椅子に戻っていく。

 俺は熊野が本を読み始めたのを見届けたあと、机に戻ってタイプライターとの格闘を再開した。

 ―――長い時間ととてつもない集中力を使ったタイプライターの作業は終え、視覚障害を知るための本を読んでいると熊野が本を閉じる音が聞こえた。

 机に置いてある時計を見ると時刻は12時少し前だ。

 

「そろそろご飯の準備をしてもいいかしら」

「時間もちょうどいいからな。やってくれ」

 

 熊野は本を持って立ち上がると、壁に手を這わせながら壁伝いに台所へと歩いていく。

 今日の昼飯はいったい何を作ってくれるんだろうと期待しながら、そのうち視覚障害者用の時計を買わないとなぁと思う。

 軍からは必要最低限な予算しかくれないため、次もタイプライターのように自腹で買うことになりそうだが。

 ……しかし、こうも女性のためにお金を使うことが以前の俺には考えれなかった。熊野の生活をよくしてやりたいという気持ちと、熊野のためならお金をたくさん使ってもいいと思うから大きく気にはしないが。

 熊野がご飯を作ってくれいる間、変わっていく自分に喜ぶべきか悩みながら本を読んでいると、料理ができあがり熊野に呼ばれる。

 部屋の真ん中に置いてあるテーブルには皿が置かれ、お米と野菜炒め、サラダが置かれている。

 目が見えないと料理はどうするかなんて思い、何度か料理をする姿を見せてもらった。

 それを見たら考えていたよりは危なくなくて安心した。

 野菜を切るときは刃先をさわりながらで、皮を剥くときはピーラーを使っていた。ボトルに入った油も手に垂らしては量を調節。

 フライパンの温度調節は、はじめのうちは直接さわっても熱くはない。火の通り具合は匂いや菜箸でさわったときの感触でわかるとのことだ

 目が見える人よりちょっと手間がかかるだけで、見えなくても1人でできる工夫があるもんだなと感心したものだ。

 熊野が頑張って作ってくれた料理に感謝しつつ、でも肉がないことを寂しく思いながらおいしい食事を食べていく。

 そうして2人で昼ご飯の料理についてや午後何をするかを話しながら食事が終わった。

 30分ほど休んで腹を落ち着かせたあと、俺は首にタオルを巻きつけてから麦わら帽子をかぶって外へと出る。

 監視所の裏手には俺が汗水流して肥料を混ぜて種を蒔いて作った畑と、以前誰かが作っていた物置小屋がある。

 その物置小屋からジョウロを持っていき、監視所の表側、そこから少し行ったとこにある井戸から水を汲んでいく。井戸のそばにはバケツが草むらへと隠れるようにして置いてあり、昨日から行方不明だったバケツはここにいたのかと安堵のため息をつく。

 水をいっぱいに入れたジョウロを持って畑へ行くと、まだ涼しいうちに水を撒いていく。そのときに一瞬だけ強い風が吹き付けてきて、慌ててジョウロを持っていない手で押さえつける。風が吹いたからちょっとは涼しく感じたが、日差しの下で水をかけているだけでも、じんわりと汗が出てくる。

 井戸へと3往復してジョウロを使い終わったあとは、しゃがみ込んで畑から野菜の芽が出始めているのは感動するものだ。自分が始めから手をかけ、自分自身で食べるものを育てる喜びを感じ取ることができたのは、この場所に飛ばされてからだ。

 ジョウロを物置小屋からしまい、目の前に広がっている、だけれど小さい畑を見るのは充実した気分だ。これからは雑草を刈り、石を取り除き、土作りをして畑を作っていこうと思う。

 畑を見ながら、これからどうしようか予定を考えていると足音が聞こえてくる。

 

「もう水撒きは終わってしまいましたか?」

 

 少し遠くから声をかけられて振り向くと、そこには左手で視覚障害者用の木製である白杖を地面の上で左右に滑らせつつ、右手には水が入ったバケツを持って歩いてくる熊野がいた。 

 だが、頭には何もかぶっていない。普段から外に出るときはしっかり帽子をかぶっておけと言っているのに。

 

「頭の帽子はどうしたんだ」

「あぁ、それはついさっき、いたずら心を持った夏風さんに遊ばれましたの」

「そこで待っていろ」

 

 おでこから大粒の汗を流し、少し荒い息をしている熊野に駆け寄ると、俺はかぶっている麦わら帽子を外して熊野の頭へとかぶせる。

 そうしてから水で重くなっているバケツを、熊野のバランスを崩さないように慎重に、でも急いで取り上げる。そのバケツに、俺が首に巻いていたタオルを冷たい水の中へと突っ込んで水をしみ込ませると、その冷たくなったタオルの余分な水をしぼってから熊野の汗を拭いていく。

 

「ひゃっ! ……提督、先に声をかけて欲しかったのですけど?」

「悪い。忘れていた」

 

 機嫌悪そうな熊野の声を聞き、大事なことを忘れてしまった。すぐに汗を拭かないといけない。そんな考えが先に行きすぎ、見えない状態から突然冷たいものを当てられたときのことまでは考えていなかった。

 普段は体をさわるときは声をかけるようにしていたのだが。慌てるとどうにも忘れてしまう。

 熊野の汗を拭き続けていると、熊野は俺の手を押さえてタオルを取ってしまう。手に持ったタオルは1度俺の胸へと当ててから、体伝いに手を移動して顔を丁寧に拭いてきた。

 

「少しは自分を大事にしてください。私は艦娘なのですから、すぐにどうにかはなりませんわ」

「でも熊野のほうがずっと大事だ。そう、豪華で綺麗なドレスを着せて多くの人に美しい姿を見せびらかせたいほどに」

「あら、くどいていますの?」」

「まさか。大事な労働力に倒られては困るからな。それに女は20代後半がいい。高校生みたいな熊野よりずっと大人の女性をな。水やりはもう終わったから、休んだあとは海に行くぞ」

 

 そう言うと、俺に文句があるらしく、がしがしと痛いぐらいに力を入れて顔を拭いてくる熊野の手を掴んで遠ざけたあとに背を向けて歩き出す。

 

「私みたいな良い女に気づかないだなんて、物凄く人生を損しているかと思いますけど?」

 

 俺の背中へとかける楽しそうな声が響き、俺の後をついてくる足音が聞こえてくる。

 こういう何気ない会話が楽しめるのは熊野のおかげだ。

 こんな静かすぎる場所でもきちんと生きていけることに感謝する。

 少しのあいだ、監視所で一休みして水分補給をたっぷりしてからは海岸へと行く。

 何か変わりがないか見るのは仕事のひとつだが、それだけでは物足りない。だからか、ここに配属されてからはすぐに海岸に何か落ちてないかを探すようになった。

 今日も俺はバケツを片手に持ち、後ろにはきちんと麦わら帽子をかぶせて白杖を持った熊野を連れていく。

 監視所そばの防砂林がぐるりとめぐらされている周囲5kmほどには民間人は住んでいなく、深海棲艦が現れることもあるから人がいるところを見ることは滅多にない。

 所々ゴミが漂着している白い砂浜。そこに艦娘が出撃するための桟橋とモーターボートが係留してある。

 熊野を桟橋手前に残し、船や桟橋が傷んでないかを確認したあとは散歩の時間だ。

 熊野が歩きやすいようにと俺の腕を掴ませると、その掴まれた腕をまっすぐ伸ばして動かさないように強く意識し、海とは反対の側の砂浜を歩かせる。

 波打ち際辺りは漂流物があるため、そこからはだいぶ距離を取って気をつける。

 砂浜は気が向いたらゴミ拾いをしているために、それほどゴミは多くない。漂着している中には海藻や魚。時々深海棲艦と思われる体の一部や艦娘が着ている服装の切れ端などが流れ着くこともある。

 

「今日は面白いものが何かありまして?」

「面白いものか……」

 

 熊野に気と使いながら、ゆっくりと立ち止まると、首をぐるりと見渡したあとに歩いていく方向の遠くを見る。

 空を飛んでいくウミネコの姿や遠くの海面に魚が飛び跳ねたのを見かけるが、さして面白いものにはならない。

 そんな"何もない"と言える地の果てへと来てしまった俺と熊野。

 何もなく静かに過ごせるのは悪いことではない。俺と熊野だけでは監視と深海棲艦が現れたら報告するぐらいがせいぜいだ。来たら、逃げきれずに死んでしまうことだろう。

 軍の支給も満足になく、これから先はずっとこのまま静かすぎる場所で人生を終えてしまうのだろうかと思う。

 前線から離れた理由としては情けないものだし、俺はもう以前のように多くの艦娘を指揮できないだろう。いや、そもそも普通の艦娘と会うことすら怖い。

 隣にいる熊野は目が見えないからこそ俺は安心しているわけだから。

 だから、こんなところからはもう離れられないんじゃないかと思う。

 1度そう思ってしまうと、これからの人生に希望などなくなってしまう。この場所と風景を言葉にするのなら―――。

 

「……人生の終着点だな」

 

 ため息をつき、静かに言うと、すぐに元気な熊野の言葉が返ってくる。

 

「世の中のものは何でも我慢できる。幸福な日の連続だけは我慢できない」

 

 その言葉の意味はなんなのか。気になって熊野の顔を見ると、彼女は正面に顔を向けたままだ。

 

「どういう意味なんだ、それは」

「ずっとおいしい物だけを食べるのは飽きるし、体にも悪い。ゲーテの言葉を簡単に言うなら、こういうことになりますわ」

 

 熊野は白杖と俺の腕を手放し、地面を1歩ずつ確かめるように歩き始めていく。

 俺はすぐに落ちた白杖を拾うと、いつ転んでしまうかと不安になりなから後ろをついていく。

 

「提督がここに配属された理由は存じ上げませんが、私は望んでここに来ました。目が見えなくても歩くことができ、文字もわかる。そして、世界を見ることができなくても、耳や肌で素敵なことを感じ取れますもの!」

 

 明るい声でそう言い放つ熊野は立ち止まると海へと体を向けて歩いていき、波が靴へとわずかにかかる位置まで歩いていく。

 

「あまり海に近づかないでくれ。危な―――」

 

 熊野に1歩近づいて声をかけている途中、熊野は突然両手を勢いよく広げ、強く吹いた風に麦わら帽子を取られてバランスを崩しながらも俺の方へと体を向けて微笑んだ。

 

「ここに来てから私は幸せです。誰にも怒られもせず、悲しまれず、変に同情されることもない。気分よく過ごすことができていますわ。提督である貴方は私に優しくしてくれるし、艦娘だからと強引な指示も出してこない。私の目が見えていたのなら、きっとあなたは素敵な顔立ちをしているのでしょうね。いえ、もしそうでなくても素敵な人に違いありません。……提督はここでの生活をどう思っているのかしら」

 

 初めて聞く、ここでの暮らしのこと。その言葉にひどく俺は安心する。熊野がここで快適に暮らしていることがわかって。それに俺のことも素敵と言ってくれるのは嬉しいことだ。

 だが、時々髪の匂いを嗅ぐというセクハラなことはどう思っているんだろうかと怖くて聞けない。だが、それを含めての評価だと思う。

 重巡洋艦の艦娘、熊野。彼女は目が見えないというのに、実に楽しそうに生きている。

 麦わら帽子をかぶり、支給されている制服。風になびくポニーテールとスカート。俺へと優しく向けてくる微笑み。

 多くの艦娘を自分の欲のために殺してしまい、恨まれた。今でも彼女たちの冷たい視線が思い出せてしまう。

 自然と息が荒くなり、呼吸が苦しくなってくる。流れてくる汗は暑さによるものか、ストレスなのか。

 

「俺には息苦しい。艦娘であるお前の提督としてやっていける自信がない」

 

 そう、今はまだなんとかできている。だが、俺は以前の自分と変わっていけるだろうか。自分のこと以外を考えれるか?

 悩んでいると、熊野は後ろ向きで海の中へと入っていき、膝あたりまで海の中へと入ってしまう。

 

「……熊野?」

 

 その姿はまるで熊野が自殺をしてしまうように見えた。でもそれはないはずだ。さっき、幸せだと言っていた。だから、そんなことはありえない。

 "お願いだから、その足を止めて戻ってきてくれ!"

 俺は熊野へ言葉をかけようとしても口を開いただけで終わってしまう。

 熊野はバランスを崩し、海の中へと倒れ込んでしまう。

 それを見た瞬間、俺はすぐに白杖とバケツを放り投げると急いで熊野の元へと駆け寄り、体を抱き上げる。

 海の中から顔を出した熊野は咳込み、無事な様子に一安心した俺はそのまま引きずるようにして砂浜へと歩いていく。

 そして熊野を波打ち際から離れたところで地面へそっと降ろしていく。

 

「危ないことをするな、バカかお前は! いくら艦娘が丈夫な体でも小さなことで―――」

 

 熊野のすぐそばで膝をつき、顔を覗き込みながら文句を言っていたが熊野は両手で俺の顔をさぐりあてると、俺の顔をなぞり、壊れ物でも扱うかのように優しくさわってくる。

 

「泣いていますのね。そんな優しいあなたなら素晴らしい提督になれます。他の誰が否定したとしても、私はあなたを信頼しますわ」

 

 いつの間にか俺の目から出ていた涙を、熊野は海に濡れた指でぬぐってくれた。

 それだけのことに俺はひどく安心する。

 それは熊野が海の中へ沈まなかったことを。俺自身の手で救えたことを。熊野に感謝されたことを。

 声も出せないでいると、熊野は俺の涙を拭った手を俺の首に回すと、体を起こしながら胸元へと抱き着いてくる。

 

「あなたの苦しみ、この熊野にわけてもらえるかしら」

 

 心配する優しい声を聞いて、なにもかもを吐き出したくなる気持ちを強く抑える。

 これは俺の苦しみだ。熊野に負担をかけたくはない。そして俺は提督で、熊野の上司だ。上司たるもの部下に弱みを見せるときは限られる。そして、それは今じゃない。

 今の空気を壊したいと思い、そのための手段がすぐに思い浮かぶ。その考えをすぐに実行して熊野の腰と膝の裏を持ち上げると、お姫様抱っこの体勢で持ち上げて勢いよく立ち上がった。

 

「おらぁ!!」

「きゃっ!」

「お前はな、自分のことを1番に考えていればいいんだ。色々悩むのは提督である俺の仕事だ!」

 

 熊野を抱き上げたままでぐるぐると体を回転させ、難しいことを考えている熊野の頭の中をすっきりさせてやろうとする。

 強くしがみついてくる熊野の感触がなんだか気持ちよく、ちょっとだけ嬉しくなって回り続けていたくなるが、目が回る前に俺が先に地面へ倒れてから腕の中にいる熊野を雑に転がした。

 乱れた呼吸のまま、仰向けの体勢になって夏になっていく雲がまったくない透き通るような7月の青空を見上げる。

 

「提督」

 

 と、横に転がしていた熊野は仰向けになると俺へと片手を伸ばし、体に当てた手からなぞりながら頬まで動かしていく。

 

「この熊野、目は見えなくとも耳があります。耳で聴いて、耳で呼んで、耳であなたを感じ取ります。だから、あなたが不安になったときは望むままに―――」

 

 熊野へと素早く手を伸ばして口をふさぎ、その続きの言葉を言わせない。

 そんなのは俺が望んでいない。ただ、隣にいてくれればいいと思っているんだ。そして、一緒にこの平穏で退屈な日常を過ごしていきたい。

 ここに配属される時、同僚からは『お前、提督としての人生が終わったな』と言われた。

 心に傷を負った俺と目が見えない熊野。何もと言える場所で、たった二人だけの監視任務。

 どう良く見ようとしても、確かに出世の道はなくなり、未来は暗い。

 だが、こんな何もない場所で俺たちは楽しく生きようとしている。

 

「さっきも言ったとおり、そういうのはいらない。お前がやりたいことをやればいいんだ」

「……本当にやっていいんですの?」

 

 小さく、ちょっとだけ不安で揺れた声と共に熊野の目が開く。

 宝石を連想するような薄い青色の瞳は焦点があってないものの、俺の顔へと向けられている。

 熊野の目を見ていると怖い気持ちを思い出す。だが、この目は違う。俺の過去を知らないとか見えていないというだけでなく、俺の何かを許すような。

 

「ああ。好きにしてくれ」

 

 今まで一緒に暮らしてきての不満や罵倒が飛んでくるかもしれない。そんな心構えで俺は言葉を出した。

 でも違った。

 熊野は俺の頭を両手で掴むと、俺の頭を抱きしめてきた。海で濡れた冷たい服越しに感じる胸は小さくとも柔らかく、なんだか安心する。

 

「この3週間、一緒に暮らしてきましたがあなたは私のことを考えてくれる人です。そこにどんな考えがあろうとも、提督、あなたに優しくしてあげたいと思うのは当然のことだと思いますわ」

 

 ここに来てからは今までやってしまったことの罪滅ぼしをしようと思い、熊野に優しくしていただけのこと。

 でも熊野と接しているうちに義務感ではなく、心から大切にしたいと思えてきた。

 それは熊野が今のように俺を受け入れてくれたから。

 熊野に抱きしめられ、心はひどく落ち着いてくる。だからこそ、心の底から思う。ここに来れてよかったと。

 誰からも見捨てられたと思うような、この世界の果てで。

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