魔法使いに憐れみを   作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ

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 本作には「独自設定」「著しい改変」「捏造」「過度に残酷な描写」が含まれます。

 上記の要素を了承のうえでお愉しみ頂ければ幸いです。
















make my day
 882/3315/


 

 

 

 【 882 】

 

 

 

 血みどろ女王(ブラッディ・メアリ)

 

 視界の端を跳ぶ雫の色を見て、ふとそんなカクテルが頭をよぎった。不吉な名だ、そしてこれ以上ない皮肉でもある。わらいたくなった。しかし実際に発せられたのは、噛み合わせた歯の隙間から漏れた苦悶の声だけだった。

 

 ばらまかれた雫が、重力に引かれて地上五〇〇メートル下の深森へと散ってゆく。伸びやかな雲と蒼穹、渓谷に囲まれた景色は壮観と言ってよく、だからこそ断ち斬られて踊る片腕だけが滑稽な様だった。

 

 宙を蹴るように身を翻し、風を切りながら魔力の糸を飛ばす。掴む。引き寄せる。「【啜れ火鳥の涙珠(ケアルダ)】」。はためくマントのなかに差し込み、噴きこぼれる切断面に合わせると発光する筋肉皮質がすぐさま覆い包んでゆく。神経接続。ルーン魔術とも異なる一工程(シングルアクション)の術としては破格ながら、死徒ならざる躰ではこれが精一杯だった。それでも、まだ動く。魔導元帥の名を冠する宝石剣を握りこんだ指先も。絶望感に喘ぎながら休むことなく走り続けている思考も。

 

 そそけ立つような冷気が満ちた。

 

 頭上。生成された鏡像の一〇〇〇を超す槍衾が円陣を組んでいる。

 

「【陽を束ね矢と為せ鏡(リフレク)】」

 

 降り注いだ。広域展開した反射防壁が、一〇〇を弾いたと同時に砕け散る。稼げたのは僅かだが事足りた。補助礼装でもあるマント内部に魔力の風を孕ませて翼とし、飛行へと返り咲く。すぐさま弾雨から離脱を試みるが、射角は無制限であり、これらは躱し切れそうもない。

 

「【貪食せよ顎(ファイガ)】」

 

 斜めに飛びながら焼却する炎を放った。槍を呑み込む。滅しきれず飛び出した槍の群れを、動き回りながら(ほむら)で更に撃ち落とす。切りがなかった。次いで膨大な魔力の波動。叫んだ。「【陽を束ね矢と為せ鏡(リフレク)】」

 

 視界が眩く染まった。反射防壁が消し飛ぶ。思考も。しかし途切れかけの意志が命じる。

 

「【精は肉を別たず(レイズ)】」

 

 息を吸う音で目が覚めた。浮遊感。気を失っていたのか。躰の痺れ、灼けるような痛み。眩暈。血管で電流がうねって(・・・・)いるようなこの感覚は〈精は肉を離れず(レイズ)〉による残滓か。「【魔を以て呪を却す(エスナ)】」懐から血のように赤い宝石を取り出し、喉に放り込んだ。呑み込む。吐き気など無視した。魔力が腹のなかに溶けてゆく。【啜れ火鳥の涙珠(ケアルダ)】。神の権能を模した雷撃により、位置は把握した。反撃しなければ。口のなかで唱える。【六魂清浄】。身体を浮上させ、槍群が迫ってくるのを目視した。勢いは衰えることなく、なればこそ融かすのは諦める。

 

「【天地を呑め激流(アクア)】」水塊の奔流が虚空から放出され、すかさず命中するや連続に発動した。「【囚擁せよ檻籠(ブリザガ)】」

 

 瞬く間に凍り付く。氷の柱が虹のように架かり、飛来する槍の軌道を次々と阻害した。途端に膨れ上がる魔力を感知。臨界に達する寸前に、高速詠唱した宝石剣を振り払う。

 

 閃光と暴威が絶叫し、大気を(つんざ)いた。たちまちその反動に呻き、剣を取り落としそうになる。筋線維の何本かが引き千切れ、躰から魔術回路の一本が死亡したのと引き換えに放たれた光撃は街一つぶんすらも消滅させる威力だった。

 

 〈ふむ〉

 

 命中した、そうあってくれと願った直後、視界が凄まじい速度で回転し、上下感覚を喪失させた。轟音に塗り潰される。咄嗟に〈かたちある盾(プロテス)〉と〈かたちなき盾(シェル)〉を発動していなければ切り刻まれていたはずだ。そして飛ぶことすらままならない。「【呪を以て魔を破す(デスペル)】」。やはり意味はない。渦を巻きながら飛ばされるだけだ。

 

 巨山を覆う嵐のなかにいた。大気が哭きながら掻き混ぜられ、空間が軋みながら捻じ曲げられている。〈空想具現化(マーブル・ファンタズム)〉による局所的大暴風。悪夢だ。悪魔だ。炎も、氷も、雷でも、それらを以てしても逃れることはできないだろう。ならばこのまま、襤褸布のように千々となって死に果てるのか。

 

 宝石剣。振るおうとした腕が中程から圧し千切れ、彼方へと吸い込まれていった。治癒が甘かったのか。このままでは骨ごと削り潰される。

 

「【鐘守りは時打つことを忘れる(スロウ)】」千層の風の内側の流れそのものがゆっくり(・・・・)になった。立て続けに唱える。「【暴威に請え風雲(エアロ)】」

 

 嵐のなかに、暴風とは真逆の指向性(かぜ)が噴出する。衝突し合うことで生じた僅かな均衡。【元柱固具】。護符で四方に急拵えの結界を張り、一時的な静謐の場を作り出した。〈浴びろ火鳥の涙雨(ケアルラ)〉で出血だけは止め、印を組みながら懐から巻物を取り出すと歯で噛んで封を解き広げる。片指に引き抜いた一本の髪を挟むと、長巻にびっしりとある墨の文字のうえをなぞるように走らせた。

 

「【急急如律令】」

 

 針のように尖った髪が、均衡の外へと飛び出した。息は止めている。ぞわり(・・・)、と文字が起き上がった。蟲のように羽ばたき出したそれらには銀色の牙が生えており、文字たちはすぐさま暴風のなかへと飛び込んでゆく。「【膨満せよ虚構(バブル)】」。口を一文字に結んだまま唱えた。嵐のなかは夜のように暗くなる。墨の色だ。金属の激しく擦れる音がする。存在情報を水増しされた文字たちが風を、魔力を、その牙で以て食い尽くしているためだ。

 

 空の明かりが見え、嵐がついに掻き消された。文字たちは黒い竜巻のように空に伸びると、今度は荒れ狂う龍の如く空へと駆けあがる。その技量から描いたものが実体化するという逸話持ちの宮廷絵師の一〇〇〇年前の作品に潜んでいた魔物だけあって、とにかく獲物を喰らいたくて仕方がないのだろう。それは文字たちの目指している先に、新たな捕食対象がいるということでもある。

 

 天上から稲光が竜巻を貫いた。文字たちは蟲の群集のように散らされたものの、即座に龍へと再成し獲物に食らいついている。今しかなかった。白紙になった巻物を閉じて結界を(ほど)き、重力に加速して地上へと駆け下りた。索敵の走査を走らせる。どこかに宝石剣が落ちているはずだ。あれ(・・)なくして対抗は不可能なのだから。()に引っかかった。森。距離にして四〇〇ほど。樹木に引っかかっている。目指して飛んだ。息はまだ止めている。術の途中に口を開いたりしくじったりすると使役した術者に軒並み被害が返ってくるためだ。嵐という潤沢な神秘を食らい尽くし〈膨満せよ虚構(バブル)〉によって強化されている今の文字たちの食欲がこちらに向くようなことは万が一にも避けなければならない。

 

 見つけた。宝石剣。それを握りしめている薄汚れた腕も。

 

 途端に、空から影が差した。予感。突然、地面に叩きつけられていた。凄まじい圧。重力が増大したのか。立ち上がれずに這いつくばる。傷口から血が溢れ出している。吐血しながら何とか見上げた。龍だ。炎に包まれている。燃え盛っている文字たちの群体が、真上からここへ墜落しようとしている。「【呪を以て魔を破す(デスペル)】」。僅かに重力が軽減された。打ち消すことは無理だ、範囲と効果が広すぎる。だが充分だった。

 

 魔力の糸を樹木に飛ばす。引き寄せた。ワイヤーの要領で身体を引っ張り、転がりながら重力干渉下を抜け出す。次いで宝石剣を掴み、ぼろぼろの強化マントに風を送り込んだ。一目散に飛び上がる。

 

 間一髪だった。大きく息をつき、ようやく酸素を取り込む。肺が鋭く軋んだ。「【啜れ火鳥の涙珠(ケアルダ)】」。千切れていた腕を繋ぎ直す。痛み。生きているあかしだ、慣れたものだった。背後では落ちてきた龍が雪崩のような音を立てると、燃え盛る蝶の群れのように輝きながら焼滅していた。巻物を森に置いてきてしまっていたが、本体(・・)が消えてしまった今となっては、あれはただの年代物の巻紙でしかない。

 

 鏡像の槍の雨が降り注ごうとしている今となっては、無用の長物などどうでもいいことだった。

 

「【暴威に請え風雲(エアロ)】」

 

 殺到する。展開した暴風を易々と貫き迫る槍に、唱えながら宝石剣を振り払った。

 

 光撃。

 撃墜する。

 

 第二波は来ない。また魔術回路が一本死んだ。まずい宝石を呑み込む。唇に触れた指が、(かじか)んだように震えていた。

 

「【浴びろ火鳥の涙雨(ケアルラ)】」

 

 気を許すことは死を意味する。【六魂清浄】。乱れそうになる感情を懸命に整える。

 

 視界から槍群は消えていた。光撃によって滅し尽くしたのではない、向こうが戯れに消しただけなのだろう。圧倒的なまでの余裕の表れ。対してこちらの礼装は消耗品であり、無限ではなかった。絶大の効果を有するはずの真作ならざる宝石剣も、代償を考えれば延々揮えるわけではない。

 

 それでも。

 

 それでも――まだ、戦える。

 

 〈ほう〉

 

 と、神が僅かに小首を傾いだような、あまりに巨き過ぎて些細な仕草であっても無視できぬ気配の引力に、冷汗の伝う(おもて)を上げていた。

 

 月が、そこに在る。

 

 虹色(イーリス)の輝きを二つ宿した、ヒトを模った黄金の天体が、矮小な人間を見下ろしていた。

 

 〈おもしろい〉

 

 月がわらう。魚は沈み花は羞じ入るほどに透き通った美しい声をして、悪夢の続きを告げる。

 

 〈ならば〉

 

 空想具現化(マーブル・ファンタズム)法則(ことわり)が書き換えられる。

 

 碧空が、闇に染まった。

 

 燦々たる星々が見えている。

 雲は消え、巨大な二つの月が見下ろしている。

 

 いつの間に夜になったのか(・・・・・・・・・・・・)

 

 ――因果干渉者。

 ――人ならざるもの。

 

 声を、失った。

 

 ――闇を統べるもの。

 ――神秘を司る精霊。

 

 言葉を失っていた。

 

 ――世界最強の真祖。

 

 躰はふるえていた。

 

 

 ――朱い月(・・・)

 

 

 地平線に至る空を書き換えたのか、はたまた第四の次元を操作したのか。

 

 いずれにせよ、規模(ケタ)が違い過ぎていた。

 

 まだ、戦える。

 

 戦えるとも。

 戦って――

 

 

 ――戦い続けて、だがそれで本当にあれ(・・)を倒せるのか?

 

 

 〈確か〉

 

 絶対的権能の保持者の意のままに、自然(せかい)は容易く姿を変える。それらは戯れに過ぎないというのに、腰を上げた天体のなぞるような指先は、ただそれだけで最悪をもたらした。

 

 〈こうであったな〉

 

 月下に、新たな光が生まれている。光は雷のようにうねりながら大きく膨らむと、瞬く間に龍のかたちを作った。

 

 一〇〇〇年の神秘に匹敵する龍たちが、三体こちらを見下ろしている。

 

 〈ゆけ〉

 

 叫んだ。矮小な己を奮い立たせるために。

 食い縛った。消し飛んだ躰から意識がこぼれ落ちないように。

 抗った。ただひとり。

 

 〈はは〉

 

 抗うだけだ、戦いになどならない。

 

 天才の生み出した礼装を元に改造した月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)も、霊墓(アルビオン) で発掘した素材を元に作り上げた致死毒刃(ヒュドラ・ダガー)も、死徒の生血と骨を蒐集し製作した変幻する刀身なき武具も、最も天空に近い霊山の頂で育てた大いなる風と鋭き雷を封じ込めた呪術礼装も。なんの役にも立たなかった。

 

「【滾々と溢れよ暗黒(ダーガ)】」

 

 一族に伝わる宝具すらも。

 

「【絶尽せよ霊柩(アーダー)】!」

 

 紙切れのように、打ち破られた。

 

「………、」

 

 宝石が底を尽く。宝石剣は度重なる過剰出力によってついに自壊してしまった。礼装も残っていない。余力も。手足は引きちぎれたままだ。出血を止める程度にしか間に合わず、飛行の精度も攻性魔術の威力も落ちている。あと何があるのか。何を捧げればいい。この命を。しかしそれを使ってすらも、届かないというのか。

 

 ことごとくが崩れ去り、絶望を表情に見て取ったのか。

 

 〈もう、終わりか〉

 

 月は、興醒めしたかのように鼻を鳴らした。

 

 〈よい〉

 

 胸から、腕が突き出していた。

 

 呼吸が止まる。凍々(こうごう)しい声は、すぐ後ろから聞こえた。突き出された手には、脈動する心臓が握られている。初めて見るそれが誰の心臓であるのかは、すぐに分かった。

 

 何かを、言おうとして。

 あっけなく果実は、砕け散った。

 

 〈所詮は〉

 

 (そら)が回った。

 

 翼を失い、心臓を潰された躰は、抗うすべなく地上へと墜ちてゆく。

 

 〈泡沫の、夢であったか〉

 

 月の眼差しには、失望の色だけが窺えた。

 

 

 

 〈精は肉を別たず(レイズ)〉は、発動しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【 映写室 】

 

 

 

 博物館のような広さの部屋だった。

 

 夥しい数の仮面が、壁や天井や床にまで、所狭しと放り出されて山を作っている。

 

 仮面の表情やかたちは様々だった。泣いているようにも見えるし、怒っているようにも見えるし、喜んでいるようにも見えるし、それ以外のようにも見える。

 

 窓はなく、埃っぽい、テレピン油のような臭いが充溢していた。

 

 ここはどこなのか。

 

 強い光を浴びせられ、気が付くと、ここに立っていた。

 

 前後の記憶は断絶している。

 

 部屋の中央に、誰かが座っていた。黒壇を思わせる書斎机には仮面は積まれておらず、しかし映写機のような機械とフィルムが置かれていて、その逆光のために背格好を判らなくさせていた。

 

 真っ黒な影のようになっている人物が、顔を上げる。

 

 視線。

 

 足元から物音が響いた。

 

 一枚の無貌の仮面が落ちている。

 

 目にしたと同時に、えも言われぬ恐ろしさと気持ち悪さが全身から噴き出し、躰を折り曲げた途端、腹の底から込み上げてくるナニカを吐き出していた。

 

 どぼどぼ(・・・・)と床にまき散らされたものは、鼻を刺す臭いを発しながら、真っ赤な色をしている。呆然と膝をつくと、広がる赤色のなかで、無貌の仮面が真っ赤に染まっていた。

 

 吐き切って胸を上下させていると、無貌の仮面が双眸を開いた。

 

 無貌でなくなった仮面の両目は、驚愕に仰け反って床に尻をついている両目のない男の姿(・・・・・・・・)を映し出している。

 

 それが己の姿だと気づいた男は声を上げようとするも、男には唇がなくなっており、喋ることができなくなっていた。

 

 仮面には男のものだった唇が彫り込まれており、次いで鼻が描かれ、そして耳が増えると、赤色を吸い上げながら、頬や目元の輪郭が次第にはっきりと現れ始めた。段々と顔が無貌へと変じてゆく男は、痙攣するように己の吐いた赤色の上をのた打ち回っており、その姿を煌々とライトが照らし出し、映写機は回転を始めながら与えられた機能を刻々と発揮し、椅子に座る人物はただ視線だけをくれ続けている。

 

 男の躰に、あざ(・・)のようなものが浮かび上がった。

 

 あざ(・・)はみるみるうちに数を増し、腕部、腹部、脚、胸部、背中、頭部へと広がると、たちまち無貌の白い仮面へとかたちを変えた。躰を埋め尽くさんばかりの量の仮面は瞬く間に立体感を増し、やがて偏執狂的批判的方法の発明者の描いた時計のように柔らかく張り付くと、色水を吸い上げているかのように色づき始める。

 

 引き換えに男の躰は白く干乾びてゆき、恐怖を訴えもがいていたらしい顔はもとより、全身を真っ白な姿へと変じ遂げると、首を一度だけ起こしたあとは、人形のように動かなくなっていた。

 

 剥がれ落ちた仮面が、乾いた音を鳴らす。それらはいろとりどりに染まっており、囲まれながら倒れている真っ白な人形は、風にさらされた砂のようにかたちを崩すと、跡形もなく消えてしまった。

 

 ライトは何もない場所を照らし続けている。吐き戻された赤色の痕跡も残ってはおらず、物言わぬ仮面たちだけが横たわっている。

 

 映写機の稼働音に交じり、一つの足音が響いた。

 

 足音は、ライトを遮るような位置で止まる。その足音の主である人物は無造作に、瞳の閉ざされている真っ赤な色の仮面を手に取ると、無感動にひとり呟いた。

 

 

「――【次だ】」

 

 

 映写機は、稼働し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【 3315.1/January 1998 】

 

 

 

 身体を揺らす振動は、微かだった。

 

 カーペンターズが流れている。軽やかでポップな曲調。私からすると外国語だけれど、歌詞はもちろん、歌うこともできた。だてに海外生活が長いわけじゃない。やっぱり素敵な曲だと思った。さすがに人がいるからハミングはしないけども。

 

 ところでいつになったら目的地に着くのだろう。時計がないから正確にはわからないけども、最後に人里を通ってからたぶん一時間くらいは経っている気がした。もっとかもしれない。景色はずっと同じだ。遠くには山々と、近くには広大な荒野、そればかりで。けれど何もない場所を走っていても電波は届くのだから、少し不思議だった。アンテナの性能が良いからなのだろうか。

 

 ハンドルに置かれていた、紙巻き煙草を挟んでいる指がそっと伸びて、ラヂオのチャンネルを回した。いくつか切り替えたところで滑りだしてきたのは、暗い雰囲気のグランジロック。

 

 ニルヴァーナ。四年ほど前にヴォーカルが自殺して、世界中で話題になったロックバンドの曲だった。

 

聞こえてるだろう(ハロー)」と「どれだけ堕ちてる(ハウロー)?」を何度も繰り返し、なじるような皮肉った歌詞を叫んでいる。人の生々しい瘡蓋を撫ぜるような曲は、流石に今の気分にはそぐわない。

 

 私は隣を一瞥すると、さりげない仕草を装って手を伸ばし、チャンネルをカレンの歌声に戻した。

 

 視線を感じる。私は素知らぬ顔で、スカートに皴ができないよう姿勢を直した。先生の車。ポルシェ968という、ドイツ社製のクーペの助手席。私専用の席である革製のシートは柔らかく腰を受け止めてくれて、私はぼんやりと天気のいい、代わり映えしない外の様子を眺める。コーラスを聴きながら。先生はチャンネルを変えず、少し笑ったようだった。

 

 運転席側の少し開けられた窓から、紫煙が流れてゆく。車内には、普通の煙草とも葉巻とも違う、薄荷(ハッカ)のような独特の香りが漂っている。

 

「よく眠ってたな」

 

「眠ってません」

 

「眠っていただろう」

 

「目を閉じていただけです」

 

「うとうとして――」

 

「いません」

 

「聞こえたぞ」

 

「え?」

 

「いびき」

 

「そんなはずありませんっ」

 

「まあいい」

 

「よくありません」

 

「もうすぐ着く。ちゃんと目を覚ましておけよ。敵陣のなかで爆睡だなんて、剛毅といや剛毅だが、やっぱりかなり間抜けだからな」

 

 答えなかった。反論するだけ揶揄されるに決まっている。ぼんやりと気を抜いていたのは本当だけれど、何もそこまで言う必要はないと思う。先生は基本的に皮肉屋で意地悪だ。

 

 ほら、と手が差し出された。いつの間に取り出したのか、包み紙のキャンディが掌に乗っている。

 

 しばらく無視していても、乗せられたままだった。

 

「食べないのか」

 

「……いただきます」

 

 キャンディは、私の好きな味だった。

 

 怒りたいような気分なのに怒れなくて、私はやっぱり何も言えずに、外を眺め続けることになった。飴と鞭。こういうこともそうなのだろうかと思いながら。

 

 

 

 【 3315.2/January 1998 】

 

 

 

 車が、滑らかに停止した。

 

 鬱蒼と草木が生い茂り、路を阻んでいる。雑木林に陽光を隠され、一四時を回った程度だというのに辺りは随分と暗かった。

 

 ――「この先行き止まり」

 

 錆び付いた看板には、薄汚れた字でそう書かれてある。

 

「ここだ」

 

 促されて降りると、ブーツが湿った土を踏んだ。見回しても目に入るのは樹々の景色ばかりで、これといった不審はない。

 

 無風だった。それでも空気は、肌につめたい。カーディガンを羽織った。先生は普段と同じ服装にコートを着ている。黒いスーツにグレーのネクタイ。夏場でも冬場でも、どんな現場でも一緒だった。襟元は一番上のボタンまできっちりと締めている。そんな恰好で、しかも痩身で腕が長くて、目付きも鋭いから、まるで葬儀屋か、もしくはボディガードの人みたいにも見える。あるいは映画関係者。少なくとも、一目見て堅気の人とは考えられないような風貌だ。

 

「少し待て」

 

 こちらを一瞥した先生が、懐から一枚の、何かの文字の書かれた紙片を取り出した。半分に折り、重ねて折り、更に折り重ねたそれに、ふっと息を吹き込むと、あっという間に紙風船が出来上がる。紙風船は、先生が手を放してもふわふわと浮いている。

 

 再び先生の指が紙を折るように動いた。今度はゆっくりと。しかし手には何も持っていない。私は声をかけずにそれを見つめていた。先生が口のなかで小さく唱えている。聞き取ることはできない。何度目かの折る仕草をしたとき、突然ボルドー色のボンネットが見えなくなった。先生は気にせずに折り続けている。最後の工程を折り終えた瞬間、ふわふわと浮いていた紙風船が急に重たくなったように先生の手に落ちた。まるで「中身」が入ったかのように。

 

 車は消えていた。紙風船を懐にしまうと、先生は次いで紙の人形(ひとがた)を取り出して、足元にそっと置いた。

 

「さ、行こうか」

 

 看板を通り過ぎる、先生の足取りに迷いはなかった。

 

「今のはなんですか?」

 

「アンカーさ。一応な」

 

 【かたちある盾(プロテス)】、【かたちなき盾(シェル)】。先生が唱えると、空気のつめたさがやさしく和らいだ。大気と躰との間に生じた、透明で不定形な防護膜「守護」の効果によって。

 

 荒事が起きるたびに先生はこの呪文を使うから、これから何が待ち受けるのかは判り切っていた。荒事そのものは、先生に弟子入りして以来よくあることだから、今さら怖気づくこともない。

 

 ごろごろしている倒木を避けるように進む。

 

 名の知れぬ草花が雑然と伸びている。擦れ違うたび、スカートの裾は夜露を吸って重たくなってゆく。周りはどんどん闇に近づいている。あと、どれだけ歩けばいいのだろう。

 

 いつの間にか、雨に濡れたような黒肌の岩山が、道を塞いでいた。

 

 先生、と呼びかけると彼は微かに笑っていた。「気づかないか?」何に気づかないというのだろう。「よくできた仕掛けだ」

 

 先生は、壁に触れられるほど近づいた。手を伸ばす。

 

 触れたかと思うと、手が岩をすり抜けた。そのまま先生もすり抜けてしまう。

 

 慌てて追いかけると、先生が消えていた。眼前にあるのは紛れもなく岩だ。まさか幻。触った。やはり実体のある岩だった。先生はどこへ行ったのか。まさか置いてけぼり? 焦りながら指先で探ってみると、いきなり手首から先が「向こう」にすり抜けた。隙間だ。ちょうど大人ひとりぶんくらいが通れる大きさの穴がある。意を決し、恐る〃々身体を押し入れた。

 

 潜り抜けられた。しかし、景色は変わらない。むしろ闇が濃くなっている。

 

「先生?」

 

 小さな声になった。返事はない。流石に心細くなり、もう一度呼びかけようとしたところで、腕が何かに掴まれた。

 

「――っ、」

 

 咄嗟に〈魔眼〉を使いそうになった。

 

「俺だ。捩じってくれるなよ」

 

 胸を撫で下ろし、私は細々と息をついた。「先生」少し尖った声で言うと、濃い闇のなかでも笑っている気配が伝わってくる。

 

「こっちだ」

 

 手を引かれるまま歩く。

 

 一分か二分くらいすると、闇の奥に、裂け目のように光の筋が現れた。

 

「これは――」

 

 辿り着いたとき、私は言葉を失った。

 

 陽光が降り注ぐ。しかし太陽が中天に座す輝きではなく、むしろ月に明け渡す頃合いの(だいだい)で。

 

 黄昏が、空に溶け広がっていた。外はまだ、そんな時間ではないはずなのに。

 

 呆然とする私の目に更に飛び込んできたものは、囲うようにどこまでも続いている高い塀と開け放たれた鋼鉄の門、その向こう側に煉瓦屋根の家々が軒を連ねている光景だった。

 

 まるで街。しかも無人ではなく、どうやら走り回っている者たちもいて、大人や子供たちで賑わいを見せている。

 

「ここはいったい」

 

 さながら別の世界、誰かのユメにでも迷い込んでしまったかのような心地で、私は人たちを眺めていた。

 

「〈空想具現化(リアリティ・マーブル)〉……〈固有結界〉とも少し違うか。色々と混じってるな。随分と手間をかけたもんだ」

 

 空を見上げていた先生は、独特な香りのする煙草に火をつけながら、独り事のように呟いた。

 

「それも今日で仕舞いなわけだが。――さて藤乃(ふじの)、いつまでも呆けているなよ。実地訓練を始める。返事は?」

 

「は、はい。先生」

 

「よろしい」にやりと笑って、先生が言った。「では行こうか。楽しい愉しい狩りの時間だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


















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