魔法使いに憐れみを 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
【 3315.6/October 1998 】
人ごみのなかであっても、着物姿というものはやっぱり目立つ。人ごみでなければ尚更だし、しかも着こなしている人の容姿が美形であれば嫌でも目を引く。それでも彼女とすれ違うだけで声をかける者がいないのは、やはり高嶺の花が醸す楚々とした雰囲気と、冷ややかで静謐な眼差しとが近づくことを敬遠させるからなのだろう。
「
「……
着物の上から赤いジャンパーを羽織った彼女が振り向き、僕らは肩を並べて歩き出した。
「偶然だね。学校は?」
「今日は午前で終わりだ」
「そっか。……どうしたの?」
「なんでもない」
そう言っているくせに、その綺麗な両目は呆れたものを見る眼差しで。式がきちんと通っているのを、僕が喜ぶのはそんなにおかしなことだろうか。
「ついてくる気か」
「だめかな。これも、何かの縁だろうと思ったんだけど」
「おまえ、暇なの?」
「それは、まあ」歯切れが悪くなる。仕事がないという意味でなら、ご指摘の通りなものだから。「そう言えなくもないかな」
「……好きにすれば」
やっぱり、呆れられてしまったみたいだった。確かに自分でも、不甲斐ないとは思う。
「どこへ?」
「喫茶店」
「式が!?」
大声のあまり、式の目が三角になっている。「あのなあ。オレだって喫茶店くらいは利用するぞ」
「ごめん。正直言って、驚いたよ。どこの喫茶店?」
「失礼なやつだな。おまえも知ってるところだよ」
「アーネンエルベ? もしかして、待ち合わせだったりする? だったら僕は」
「今さら気にする相手じゃないだろ。なんてったって
「橙子さんと?」それって、つまり。「珍しいね、事務所じゃないなんて」
「オレに会わせたいやつがいるんだとさ。まったく、なら向こうから顔出すのが筋ってもんだろうに」
ドイツ語で書かれた看板を確かめて、僕たちは入口のベルを鳴らした。
アンティークな雰囲気の喫茶店。ランチタイムからそれほど経っていないというのに、客の入りは少なめだった。此処の照明は壁に穿たれた窓の陽射しのみだから、窓際のテーブルは浮かび上がるように明るく見えて、対照にカウンターの奥は影ができるほどに暗くなっている。
目的の人物たちは、窓際の四人掛けに陣取っていた。そこに予想外の人物を見かけた僕は、危うくまた声を上げそうになった。
「
「兄さん?」
妹が、あんぐりと表情豊かに驚いている。その隣で僕たちを一瞥し、煙草を吸いながら片手を上げたのは橙子さんだった。「早かったな」
鮮花の前には、鮮花と同じ歳くらいの大人しそうな少女が座っていて、何故か式のほうをじっと――それ以外は目に入らないというように――見つめている。そんな彼女の横で煙草を吸っていたスーツの男性は、先ほどから双眸を蒼くして黙り込んでいる式を見やると、笑みを湛えながら口を開いた。
「久しぶりだな、両儀シキ」
「……おまえ、なんで死んでないんだ?」
親しげに言った彼へ、式はとんでもないことを言い放ったのだった。
【 3315.7/October 1998 】
視界に入った瞬間から、普通の人ではないと感じた。
「おまえ、なんで死んでないんだ?」
着物の女性が、先生に向けてそんなことを言う。彼女の深く蒼い双眸に、私は恐怖とよく似たものを感じてしまって――滅多にない、自分の感情の動きに意表を衝かれたことで――私は〈魔眼〉を開きそうになった。
「藤乃」
先生に窘められていなければ、私は〈歪曲〉を行使していたかもしれない。
「おいなんだ急に、おまえたち。顔を合わせて一秒で殺し合いでもする気か?」蒼崎女史が引き攣った顔をしている。「知り合いだったのか、式?」
「知らない」
答えたのは、着物の人だった。既に両眼は蒼くなくなっている。つまり、彼女も私と同じ〈魔眼〉の持ち主ということなのだろうか。その目が、私のほうを向いた。綺麗なひとだ。不思議な感覚がした。初めて会ったはずなのに、私は今、この人のことをあまり好きになれそうにないと感じている。まずそんなふうに考えてしまう自分が意外だった。たとえ不躾なことを言ってくる相手でも、私は、あまり人を嫌いにならない性格だと思っていたのに。
「そうだな。
「勝手によろしくしてろ」
「式、あんたねえっ」
鮮花がテーブルから立ち上がって怒っている。式、と呼ばれた女性は蒼崎女史を睨みつけると、そのまま踵を返した。彼女の背中に先生は怒った様子もなく、むしろ苦笑しながら呼びかける。
「確かによろしくするほど親しくはないな。ただ君には借りがある、それを返そうと思ってね」
懐から取り出した黒い小瓶を放り投げると、両儀式は後ろに目が付いているかのようにそれを掴み、胡乱な視線を向けてきた。
「借りなんて知らないぞ」
「だろうな。俺がそう思っているだけだ、助けられたと。ただ、それは取っておけよ。いずれ必要になる」
両儀式は、連れ合いらしい人の良さそうな眼鏡の男性に小瓶を押し付けると、喫茶店から出て行ってしまった。
「……なにあいつ!」
「いいのか?」
蒼崎女史が呆れ顔で先生に言うけれど、先生は気にしていないらしい。煙草の灰を、テーブルの中央に置かれた猪口のような陶器に落としている。備え付けの灰皿ではなくて先生が持ち込んだものだ。魔道具であるらしく、先生と蒼崎女史の手元から立ち上る煙は小皿の上に吸い寄せられながら螺旋を描き、猪口の直径からはみ出さないよう、積乱雲の塊のようになって滞空している。
「すいません。式が失礼な態度で」
「構わない。恐らく死が見えたんだろう。考えてみれば、俺は特別性だからな。悪いことをした気もする。あとで謝っていたと伝えてくれ、黒桐くん」
「え? 僕の名前……」
「ホウヅキさん、何だか式に甘くないですか? 本当に知り合いじゃないんですか?」
「違う。そう見えるか」
「ねえ、藤乃もそう思わない?」
「はい」
私もそう思います。
「気のせいだろ」
鮮花は納得いかないという顔だけれども、先生はあまり詮索されたくないようだった。
「兄さん、立っていないで、こっちへ座って。橙子さん、もっとそっちへ寄ってください」
「おいおい」
「いいよ鮮花、僕は」
「いいからっ」
押し切られる形で、眼鏡の男性は鮮花の隣に座らされると、先生と私を見比べた。
「あの、
「浅神藤乃です」
男性は「黒桐幹也です」と頭を下げると、隣を気にしつつ、躊躇うような間を開けてから口にした。「お二人はその、魔術師なんですか?」
「そうだ。蒼崎とは古い縁があってね……今日は久々に日本で用があったから、ついでに顔を見ておこうと思ったのさ」
渋々といったように認め、蒼崎女史はこの男はいつも突拍子がないから困る、と愚痴を続ける。黒桐さんは何故か微妙な表情を浮かべていた。私は、この人の良さそうな男性が何度か鮮花の手紙に出てきた彼女のお兄さんであること、しかもその人の口から「魔術」という単語が出たことに驚きながらも、とりあえず相槌を打つだけに留めておくことにした。
「鮮花は、……驚いてないな。もしかして知ってたのか、魔術師だって?」
「ええ。知っていました」
「もう、間違いなく橙子さんの影響ですよね、鮮花がオカルトに踏み込みつつあるのって」
「踏み込むも何も、鮮花は――」
「橙子さんっ」
「あー、そうか。すまん、なんでもない。気にするな黒桐」
「なんですか二人して。……ところで、鮮花はどうしてここに?」
「橙子さんから連絡があって。藤乃が日本に帰ってくる機会なんてあんまりないし、普段は手紙でのやり取りだもの、せっかくなら会いたいと思ったんです。そうしたらシスターも特別にこの時間だけ許してくれて」
「そっか、二人は友だちだったんだね。いつも鮮花がお世話になっています」
こちらこそ、とあまり広くない空間で日本人らしく交互に頭を下げ合ったあと、黒桐さんはおずおずと手の中の小瓶を見つめた。「それでこれは、いったい?」
「
一度きりの使い捨てだが、と先生が話すと、鮮花が唖然としている一方で、黒桐さんは困惑している。
「流石にユニコーンの角には及ばないがな。エクスポーションってところか」
「どんな怪我でも治せる? なら……」
「ああ――ちなみに言っておくが、両儀の腕を治すのは無理だ。時間が立ち過ぎている。血が固まり切る前に使うのが理想だな」
黒桐さんの困惑がいっそう強くなった。「えっと、何の話です? 橙子さん、もしかして式が怪我したんですか?」
「いいや。私が知る限り、あいつは
今度は、先生が呆気に取られていた。口から煙を立ち上らせながら。「そうか」遅れて愉快な事実に気づいたとでもいうように、大きく肩を揺らし始める。「
先生は、あまり品の良くないわらい声を上げている。幸いにも注目を集めることはなかったけれど、ときどき先生はこんなふうに突拍子もなくわらい出すことがあった。わらいが収まった後に理由を訊いても教えてくれたことはない。私の名前が不穏なワードと一緒に出たけれど、どういうことだろう。考えても分からなかった。
それと、鮮花がかなり引いている。
「悪いな黒桐くん。俺の初歩的な勘違いだった」
「い、いえ、それは構わないんですけど……高価なものなんですよね?」
「気にしなくていい。他にもいくつか用意はあるし、こうなるとどういうふうに事態が進行するのかは微妙だが、それでも両儀か、あるいは君にとって必要になるはずだ。即死でなければほとんど万能な傷薬だ、有効に活用してくれ。たとえば、裂傷による失明とかな」
「即死とか失明って。物騒ですね。予言か何かですか」
「さてね。予言ついでに、鮮花くん。一つ訊いておきたいんだが」
「なんですか」
「君の学校に、
「……ええ、いますけど」
「そうか。ならいい」
「ホウヅキさん?」
「後になるのか先になるのかはわからないが。流れは出来ている。成るように為るしかならないってことなんだろうな。ノータッチの俺から君に言えるのは、頑張れってことくらいか」
「どういう意味です、それ」
「さて。火種自体はすでに熾きているはずだ。あとは探偵でもしてみるんだな」
「教えてくれるつもりはないんですね」
先生は、笑みだけを返している。
「相変わらずおまえは思わせぶりなことを言うやつだよ、錬金術師。気を付けておくんだな鮮花。こいつがそういうことを言い出す時に限って面倒なことが起きるんだ。いや、今の言い草だと既に起きているのか? 覚悟だけでもしておいて損はないと思うぞ」
「秋も終わりだな、もう」
日陰に視線をやった先生は、コーヒーを飲み干すと、立ち上がって言った。
「例の件、頼んだぜ人形師。そうだ、もし
「はあ? なぜあいつの名が」
「達者でな、黒桐兄妹」
行くぞ藤乃。万札を置いて店を出た先生を追い、「鮮花、それではまた」「……あっ、うん、手紙送るね」「はい」私は慌てて別れを告げると、街道を歩く先生の隣に並んだ。
「先生っ」息を整える。「……よかったんですか、あれで?」
「ああ」
ゆっくりとした歩調で、私に合わせてくれている。
「なあ藤乃」
「はい」
「お前は、黒桐くんのことをどう思った?」
「どう、と言われても。……そうですね。優しそうな方だと思いました」
「好きになったか」
「はい?」
いったいどういう脈絡でそんな質問が出てきたのだろう。時計塔の教室の子たちじゃあるまいし。
先生は私を一瞥すると、くつくつとわらい、かぶりを振った。「なんでもない」一転して、今度は憂鬱そうな声で言う。「つまらねえことだ。忘れろ」
「はい……」
先生の表情は、照り返しによる日差しが影を作っていて、私からは見えなかった。そのことに何故だか胸騒ぎのようなものを感じていると、思いついたように先生が言った。
「よし、パフェでも食うか」
「さっきのところで頼めばよかったのでは?」
「
「でもコーヒーと煙草は一緒ですよね」
「それはそれ、これはこれだ」
そんなものだろうか。
「まあいい。時間もあるし、たまには羽を伸ばすぞ」
強面に反して甘党な先生の希望もあって――もともと私に拒否権なんてものはないのだけども――この日は結局、土産店も並ぶスイーツ街道でクレープを食べ歩くことになった。
「なんだかんだで、よく食うよな、藤乃は」
「先生だって。でも、はい。せっかくですから」
ただ、と頭の片隅で思う。鮮花が知ったら、残念がるかもしれない。それを言うと、先生は「なら今度は、一緒に回ればいい」と小さく笑った。
「いいんですか?」
先生の気遣いが嬉しかった。ロンドンだと、食べ歩きにはフィッシュアンドチップスくらいしかないから。
普段は遠く離れている友だちと、甘味を食べ歩くのを想像する。「それって、すごく素敵なことですよね、先生」
「そうだな」
はしゃいでいる私を見つめる、先生の眼差しはいつになくやさしくて、私は不意に胸が詰まるような感じに襲われた。なんとなく、恥しいような気持がして、視線を周りにやってしまう。今の私たちは、周りからどんなふうに見られているのだろう? 年の離れた兄妹? それとも、休日に一緒の時間を過ごしている
「どうした」
「ううん」
私は心配させたりしないように、精いっぱい楽しんでいることを伝えるために、笑顔を見せる。
「なんでもありません。先生?」
「なんだ」
「私、こうしていられて、とっても楽しいです」
「そうか」
先生は、眩しいものを見るように目を細めると、私から視線を外した。
「なら、来てよかったかな」
【 3315.8/October 1998 】
私立礼園女学院。
敷地の大部分を森のような深さの林で囲まれ、
視界の端を、青い蝶が飛んでいる。職員室には魔術師の他に事務員がいたが、その羽ばたきに気づいている様子はない。蝶は職員室の扉の前でふわふわと旋回している。魔術師は作業を中断して扉を開けてやった。蝶は廊下に舞い出ると、軽やかに浮かびながらもその場に留まっている。魔術師が近づこうとすると、蝶はゆっくりと動き始めた。魔術師が足を止めると、蝶も進むのを止める。まるでこちらを何処かへ
蝶に誘われるまま、魔術師は廊下をしばらく歩いた。生徒たちとすれ違う。こんにちわ玄霧先生。「こんにちわ■■君」蝶の存在は生徒たちには映っていないらしい。
旧校舎。
開け放たれた空き教室に、蝶は入ってゆく。机を撤去されたその部屋には椅子が一つだけ残されており、黒い小瓶が置かれていた。魔術師が教室に入ると、蝶は力を失くしたように落下する。
近づいてみれば、それは蝶などではなく、白い二枚の紙片になっていた。
〈調子はどうだ、言霊使い。エイエンの探索は順調か?〉
唐突に紙片が燃え上がる。炎のなかから、男の声が聞こえてきた。
「――そうか。君か」
魔術師は口角を上げ、「笑っている」とされる表情を浮かべた。
「
焔が、皮肉そうに歪められる。
〈今日は、借りを返そうと思ってな。お前にプレゼントがあるんだ〉