魔法使いに憐れみを   作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ

6 / 8

 Nemo ante mortem beatus.

















 3315//////207279/

 

 

 

 【 3315.13/February 1999 】

 

 

 

 しんしんと雨が降っている。

 

 タクシーを止めた私は、行き先にホテルの名前を告げた。到着するやお釣りも受け取らず、飛び込んだエレベータのなかで、私は乱れた髪と呼吸を整えようと努める。

 

 エレベータが止まった。

 

 廊下に出る。私の泊まっている部屋の一つ隣。チャイムを押した。

 

「先生」

 

 反応は無い。鍵がかかっている。中にはいないのか。躊躇っている暇はなかった。私は〈チャンネル〉を切り替える。〈千里眼(クレアボイアンス)〉。一瞬だった。部屋には誰の姿もない。

 

 なら、私の部屋は。開けて入ると、ベッドに封筒を見つけた。筆記体で綴られた「急な用事ができた」「暫らくお別れだ」「母親と仲良くしろよ」の簡素な文字列。

 

 ――まさか。

 

 最初から、そういうつもり(・・・・・・・)だったのだろうか。

 

 現実(せかい)が歪んで見える。力が抜けて、立っていられなくなる。予感。重たげにとぐろを巻いている。だけど、座り込んではいられない。

 

 エントランスホールに駆け降りた。目についたフロントマンに話しかけ、先生の泊まっている部屋番号を調べてもらう。

 

 つい先ほどチェックアウトなさっておりますね。

 

「―――」

 

 街に繰り出した。光の洪水のなかを、人にぶつからないように走った。

 

 傘は差さなかった。そんなことは、頭から抜け落ちていた。

 

 ――どこに行かれたんですか、先生。

 

 中心街に立つ。探す方法は一つしかない。意識の〈チャンネル〉を切り替える。〈歪曲〉ならざる私の異能を、全力で行使する。

 

 軒を連ねる高層建築群

 迷路のように曲がりくねった混凝土道路

 溢れる人たちの無数の色彩と影

 

 ――それら街の俯瞰風景。

 

 〈千里眼〉による膨大な情報量に、脳がとろけそうになる。脚が、崩れそうになりながら。

 

 でも、まだだ。

 もう一度。

 

「っ……、」

 

 街の全貌を、視界下に収めた。口のなかで、水と鉄の味が混じっている。鼻から血が流れていた。指先で拭う。

 

 読み取った地形図を私の意識が認識しきれずとも、別に構わなかった。「魔力針」は持ち合わせていないけれど、人を探す術はある。昼間の女の子のときのように。見も知らぬ他人ならばともかく、今回はましてや、私の先生であるならば。

 

 「匣」を「願い」で満たし、「呪」には「祈り」を込める。

 

 羽化した蝶が、私の掌から飛び立った。

 

 ――お願い、先生を探して。

 

 ひらひらと飛んでゆく。白い息が視界を霞ませ、私は躰から体温が奪われてゆくのを感じる。蝶の後をやみくもに追いかける私は、だから声をかけられたのにも、気が付かなかった。

 

「アンタ」

 

 黒いローブを着た、女の人だった。恰幅がよく、五〇代は過ぎている。手を掴まれていた。引き留められた私以上に、その女の人はびっくりするような表情をしていた。「放してください」そう頼んでも、私の手を、まじまじと覗き込んでいる。「放してくれないなら――」

 

「そうか、あの男の。やめておきな、嬢ちゃん。アンタそっちに行くと、死ぬことになるよ」

 

「……なにを」

 

 刃で衝かれるような衝撃があった。目元が熱くなる。不快感のあまり、〈魔眼〉を開きそうになる。

 

「なにをっ」言ってるの、この人は。

 

「ここで引き返さないと、アンタはもう取り返しがつかない。今ならまだ間に合う……」

 

 振りほどき、私は走った。悪夢から逃れるように。邪魔されている間に遠くへ行ってしまった蝶を何とか見失わないよう、目印にして。

 

 やがて蝶に導かれ、私は工業地帯へと辿り着いた。建築を途中で放棄されたビルが乱立し、区画は雑然と入り組んでいる。まるでスクラップの寄せ集めのように。

 

 重たげに飛んでいた蝶が、ひとりでに落下した。紙片に戻っている。表面は濡れ透けていて、大きな穴が開いてしまっている。

 

 辺りは暗く、そして静かだった。街からも存在を忘れ去られたかのような弱々しい外灯があるだけで、人の気配など感じられない。こんなところに先生がいるのだろうか。もう一度、蝶を飛ばそうとした。紙片を折ろうとするものの、(かじか)んだ手ではうまく作ることができなかった。

 

 とにかく、探すしかない。此処にいないのなら、別の場所を。

 もしも。もう、この街から居なくなってしまっているのなら、そのとき(・・・・)は――

 

 考えない。その先を、私は考えなかった。そんなことは、考えたくはなかった。気分がわるい。さむい。ここはなんてつめたいのだろう。「先生」声を張り上げる。私の声が、空虚な夜に反響する。

 

 返事はなかった。いつまでも、返事はないのだろうか。

 

 ――暗い場所。先生、どこへいってしまったのですか。

 ――寒いです、先生。どうしていなくなってしまったのですか。

 

 空き缶が転がっている。男たちが歩いていた。もしかしたら、何か目撃しているかもしれない。「すみません」男たちの視線が、雨に濡れた私の身体を舐めるように見回した。笑みを浮かべている。

 

 なんだい。男の一人が言った。私は先生の背格好を伝え、見たことはないかと訊いた。男たちは顔を合わせてにやにや笑っている。さあな、知らないね。ああ俺も見てない。「そうですか」もう用はなかった。待てよ。踵を返すと、呼び止められた。俺たちも探してやるよ。こっちへ来て、もう少し詳しく教えてくれよ。「結構です」魂胆は判っている。つまらない人たちにかかずらっている暇はない。

 

 来いって言ってるだろ。男の手が伸びる前に、躱した。睨みつける。男たちはにたにた笑っている。

 

「いやです」

 

 先生を探さないと。「邪魔しないでください」

 

 うるせえな、さっさと来いよ。

 

 男が腕を掴む。痛い。他の男たちが近づいてくる。わらい声。うるさい。視線。歪んだ顔。きもちわるい。何を考えているのか、明らかだった。

 

 ――なんで、私の邪魔をするんだろう。

 

 振り解こうとする。強い力で引っ張られた。

 

「せんせい」

 

 あの人とは似ても似つかない人が、私の躰に触れている。

 

「やめてください」

 

 下卑た笑みだった。

 

「おねがいです。やめて」

 

 ふつふつと、膨らんでゆく。抑えがたい感情のさざめきが、私の躰をふるわせてゆく。

 

「やめてくれないのなら」

 

 私は、男を見つめ返した。私が抑えられなくなっていることに気がついて、今からでもやめてくれることを微かに期待して。

 

 けれど、意味はなかった。男たちはわらっている。馬鹿な人たち、と俯きながら思った。つまらないだけじゃなくて、ひたすら邪魔で鬱陶しい人たち。よりにもよってこんなときに。きっと、頭がわるいのだろう。そんな人たちが、警告を無視してまで、私の邪魔をするというのなら――

 

 躰の奥底。

 昏い熱が、波のようにうねり、砕け散った。

 

 

「【(まが)れ】」

 

 

 弾け飛んでいる。

 

 足元には、シャワーで撒き散らしたみたいに肉塊が散らばっている。背骨が捩じ切れる男を目の当たりにし、ようやく蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとした彼らは、今や興味本位で食い散らかしたあとみたいにぐちゃぐちゃに積み重なっていて、どれが誰の部位なのかも判らなくなっている。

 

 ふと、返り血に汚れた靴が目に入った。あ、と声に出してしまう。靴だけではない。血は、服にも点々と飛び跳ねていた。

 

 汚れちゃった、とぼんやり眺めていると、電子音が響き、私は顔を持ち上げた。雨に打たれながら肉塊に埋もれ、携帯が滲んだ点滅を繰り返している。呼び出し音。数度繰り返すと、電源が切れたように大人しくなった。

 

「―――」

 

 ずれていたピントが、焦点を結ぶような感覚。雲った硝子が澄んでゆくように、不意に私のなかに、私のしたことが鮮明に飛び込んできた。

 

「…ぁ……」

 

 掠れた音が出た。喉が、詰まったような感じ。躰に、圧し掛かってくるものがあった。雨のように降りかかり、覆い被さるようにして広がってくる闇。

 

 ――人を、(あや)めてしまった。

 

 魔術師ではない。ただの人間をだ。

 

 眼前で、ぐちゃぐちゃになっている。

 

 致命的に。

 取り返しがつかないほどに。

 

 明確に、それ(・・)らは死んでいた。

 

 ――先生。

 

 携帯を取り出そうとした指先が、慌ただしく滑った。わなわなと躰がふるえている。おぞましい焦燥が駆け巡っている。動悸は痛いくらいにうるさいのに、全身は血が凍り付いたみたいに冷たくなっている。

 

 視線を感じた。誰もいない。此処には私の壊した人間だったモノ以外には、闇と、外灯があるだけだ。なのに、誰かに見張られているような気がした。私の傍らに横たわる血まみれの肉塊と、それを生み出した私の肚の底をつぶさに見透かされているような気がして、私は途方もない恐怖に締め付けられた。

 

 おかけになった電話番号をお呼びしましたが、お出になりません。

 

 愕然とする。なんてこと。希薄になっていた呼吸が浸水してくる感情に呑み込まれ、たちまち思考は染め尽くされた。ある戦慄に。

 

 私、間違えてしまった。

 人を殺してはいけないという(・・・・・・・・・・・・・)先生との約束を破ってしまった(・・・・・・・・・・・・・・)――

 

 おかけになった電話番号をお呼びしましたが、お出になりません。

 

 噛み合わせた隙間から、込み上げてくるものがあった。抑え込んでいたはずの涙とともに。唇を結んで堪えようとするけれど、次々とそれは心の隙間から溢れ出してきた。

 

 ――無機質な声ならぬ応答は、まるで最後通告のようで。

 

 おかけになった電話番号をお呼びしましたが、お出になりません。

 

「…ぁぁ……」

 

 頬を伝うもの。ここに来るまでの疲労と、罪の意識と後悔とが流させる涙だった。ふるえは止まるどころかひどくなるばかりで、拭っても拭っても、手元がよく見えなかった。私は必死に暴れる息を整えながら、なんとか機械を操作しようとした。繋がりはしない。でも他に何も考えつかなかった。手掛かりはこれしかないのだから。謝らなくちゃ。そう思った。先生に、約束を破ってしまってごめんなさいって。はやく謝らなくちゃ。じゃないと――

 

 おかけになった電話番号をお呼びしましたが、お出になりません。

 

 思ってもみなかった、こんなことになるだなんて。買ってもらったばかりの服を、汚してしまった。〈魅了(チャーム)〉を使えば簡単に追い払えただろう人を、その場の感情で殺してしまった。そして今は、ずぶ濡れになって、嗚咽を漏らしながら、繋がらない携帯に縋りつくしかなくなっている。

 

 機械の返答は、いつまでも変わらなかった。

 

 ――こんなこと。

 ――せん、せい。

 

 こんな私を見て、あの人は何を思うだろう。約束を破り、挙句に取り乱すしかない私は、あの人の瞳にどんなふうに映るのだろう。私のしでかしたことに、あの人は憤るだろうか。悲しむだろうか。あるいは私に蔑む目を向けるかもしれない。

 

 いっそ、そうして欲しかった。叱ってほしかった。どんなふうに怒られてもいい。私は、どんな罰だって受けたかった。ただ、もう一度あの人に会いたかった。そしてあの人に謝りたかった。私はたぶん、なにか怒らせるようなことをしてしまったのだろう。私は先生に嫌われるくらい悪い子だったのだから。いい子になる。今度こそきっと、必ずいい子になります。もっとずっと、先生のお役に立てるような娘になります。頑張ります。なんだってします。だから先生、お願いです、わたしを――

 

「………、」

 

 だけど。

 

 その願いが叶うことはないのだと、私は気づいていた。涙と一緒に、思考を曇らせていた熱も流れ出していたから。抱き続けてきた破局(よかん)が、ついに現実(わたし)に追いついてしまったのだと思った。頭の片隅の、ひどく冷静なところで。

 

 ――そっか。そうなんだ、わたし。

 

 あの人が現れることはない。

 何故なら私は、あの人に捨てられたのだから。

 

「………、」

 

 腕を上げていられない。指先が動かなくなった。番号を押そうという意思も、残ってはいなかった。ただ唖然と、此処にいる現実(わたし)を見つめた。

 

 私はこの数日間、こんな結末になるだなんて微塵も考えてはいなかった。母との再会に浮足立っている、何も知らない私のことを、先生は内心でわらっていたのだろうか。先生に「綺麗」と言われて、真に受けて喜んでいた私のことを、彼はばかにしていたのだろうか。空虚だった。怒りはあったけれど、でもそれは胸に空いた虚しさに比べればほんの小さなものだった。「……っ、」ひゃっくりのように、引き攣った声が出た。喉がふるえ、気が付くと、それはわらい声に変わっていた。

 

 こんなだから。唐突に思い浮かんだ。こんなだから、私は先生に見捨てられるんだ。おかしかった。降って湧いて出たような考えに、私は納得のようなものを感じてしまって、だからこそわらいは止まらなかった。おかしくておかしくて、涙が出た。涙を流しながら、私は肩を揺らし続けた。まるで悪夢みたいだと思った。悪夢と違うのは、この景色がいつまでたっても決して終わりはしないだろうということだけだった。

 

 本当は、ずっと悪夢のなかにいたのかもしれない。私はそれに、気づいていないだけだったのかもしれない。私は鈍い人間だから。もしかすると、先生はずっとそれに気づかせないようにしてくれていたのかもしれない。だって彼は、こうして私に、ずっと気づかせずにいられるくらいの演技派なのだから。

 

 わらい声が闇に消えてゆく。私は、両腕で躰を掻き抱いた。失われてゆくものを押し留めようとするように。意味はなかった。私が押し留めたいと思っていたものは、すでにどこにもなくなってしまっていた。

 

 闇に、逸るような足音が響いた。

 

 ゆっくりとそちらを向いた。誰かの気配があった。

 

 警官だった。散らばった肉塊を見て取り乱している。警官が、私のほうを向いた。銃を構えている。幽霊か化け物でも見るような形相で。

 

 恐怖と害意。まざまざと蘇った。もう夢に見なくなったはずの、故郷での蔑みと恐れの視線。それが、先生の貌と重なった。私は彼に、やさしく微笑みかけた。

 

 ――「藤乃」

 

 上擦った声をして、警官が叫んだ。

 

 引き金に指が掛けられるのを、微笑みながら、私はただ眺めていた。

 

 

 

 【 3427.14/February 1999 】

 

 

 

「【参列せよ睡惰の徒(スリプル)】」

 

 糸が切れたように、警官が崩れ落ちた。

 

 倒れ伏し、意識を失っている。少女の濡れた双眸が、倒れた警官の背後へと動いた。

 

 闇のなかから、着信音が鳴り響いている。決して幻聴などではなかった。やがて音が止み、少女の手元の携帯が通話時間を刻み始めた。少女はそれに気づかずに、茫々と闇を見つめている。

 

 影が浮き彫りになるようにして、人が現れていた。スーツ姿の男。傘を差しているため、表情は判らない。もう片方の手には、携帯を握っている。

 

 【精は肉を別たず(レイズ)】。

 【啜れ火鳥の涙珠(ケアルダ)】。

 

 ばらばらの肉塊が個々に光を放ち始めた。肉塊たちはかつてのかたちを取り戻そうと細胞の記憶を頼りに蠢き出し、それぞれの本体(・・)へと結集すると、続けざまにかけられた魔術で動きを活発化させ、間もなく巨人に乱雑に引き千切られたようだった塊は、かろうじてヒトガタに再融合を果たしていた。

 

「【浴びろ火鳥の涙雨(ケアルラ)】」

 

 新たな筋肉皮質が接合の緩い箇所を補い、臓器の活動を励起してゆく。光が収まると、肉塊は裸の男たちの姿になっていた。全身の骨格や筋肉総量は捩じ切られる前のものといくらか別人の比重になっていたが、完全に途絶えていたはずの呼吸は正常に再開されている。

 

 少女は、呆然と男を見上げた。男は無言のまま空中にルーン文字を描き、警官にそれらを施してゆく。忘却のルーン。少女も習ったことのある魔術だった。

 

「待ってくださいっ」

 

 男が闇に踵を返そうとした瞬間、少女は縋りつくように叫んでいた。どうして姿を見せたのか。いつからここに隠れていたのか。訊きたいことはたくさんあった。疑問は嵐のように掻き乱し、だがどれ一つとして言葉にまとまらず、だからこそ奥底の叫び声だけが吐き出された。

 

「先生。私を、おいていかないでください」

 

 男は、背を向けたままだった。少女は息を潜めながら男の反応を待った。このまま行ってしまうのではないか。もう二度と会えないのではないか。沈黙が恐ろしかった。目を瞑ってしまえば楽になれるだろうと思った。実際そうするのは簡単なことだった。しかしそれ以上に、少女は視界から彼が消えてしまうことのほうを恐れていた。

 

 

「失敗した」

 

 

 ぼそりとした声が、携帯から発せられた。

 

「誤算だった。ただの槍として使い潰すつもりだった。そのはずが、……情が湧いた。崩月(おれ)には不要のものだ。悲願のためには、邪魔でしかない。コンマ数パーセントの勝率と、小娘の命。比べるまでもない。なのに、それを天秤にかけて、あまつさえ俺は……」

 

 男の声は鬱屈としており、自嘲するような響きが込められていた。馬鹿げてるな。そう、疲れ切ったように呟く。

 

「他に、やり方が思いつかなかった。けっきょく慣れない真似をして、案の定だ。こうなる前に、さっさと離れりゃよかったのに。走り回って、泣き喚いて……見ちゃいられなかった。甘すぎるな。我ながら反吐が出るような愚図っぷりだ。死んでも治らねえ馬鹿さ加減だな」

 

「……先生は」

 

 少女は、驚きのあまり涙が止まっていた。

 

「私を、嫌いになったんじゃ」

 

 男は、くつくつと肩を揺らした。少女がよく見慣れている仕草で。

 

「私に、怒って……」

 

「いいや」

 

「わ、私。この人たちを……約束、破って」

 

「そいつらは、まあ、そうだな。けど、べつに俺は怒っちゃいない」

 

「じゃあ、どうして」

 

「急な用事ができた。手紙、読まなかったのか」

 

「ふざけないでくださいっ」

 

「……俺は、お前が母親のもとへ行けばいいと思ってたんだ。もしお前が誘いを断ったとしても、その頃には俺は、飛行機で遠くにいるはずだった。その予定だったんだ」

 

「違います、私が訊きたいのはっ」

 

 少女はくぐもった声で、鼻をすすりながら言った。ゆっくりと立ち上がりながら。

 

「私、もう会えないんじゃないかって。だから、私……」

 

 深い、ため息だった。「理由があった」

 

「話してください」

 

「なあ藤乃。俺はろくでなしだ。自分でも嫌になるくらい馬鹿だと知っている。今もそれを、証明したばかりだしな。まったく本当に、俺は生まれたときからとことん(・・・・)救いようがない。……怒ってるか?」

 

「はい」

 

「だよな。憎いか、俺のことが?」

 

「いいえ……」

 

「許せないだろう」

 

 かぶりを振る。そんなことはない、と否定するように。

 

「理由が、あったんですよね」

 

「そうだ」

 

「先生は勝手です。ほんとうに勝手。いきなり、何も言わないで消えて。嘘までついて」

 

「………、」

 

「でも、助けてくれました」

 

「お前は」

 

 押し殺すような声。

 

「お前は、俺に都合のいいものを見過ぎているな。教えたはずなんだがな。わかってるのか。俺はお前に、平気で、俺のために死ねと言うような奴なんだぜ」

 

「構いません」

 

 少女の位置からでは、男の表情は窺えない。

 

「教えてください。どうしてこんなことをしたんですか」

 

 少女は、一歩を踏み出した。

 

「俺がもうすぐ死ぬからだ」

 

 踏み出した一歩が止まりそうになるのを、少女は泣きそうになりながら、それでも前に進めた。

 

「敵がいる。俺が、どうしても(ころ)さないといけない敵が」

 

「それって……」

 

「とんでもない敵だ」

 

「はい」

 

「生きて帰れないかもしれない。たぶん、生きては帰れないだろうな」

 

「はい」

 

「藤乃」

 

 少女は、そう呼ばれるのが嬉しいというように、微笑んだ。

 

「やっと母親と会えたんだ。せっかく親子の時間を、取り戻すことができたんじゃねえのか。そうやって普通に暮らしていく選択肢っていうのも、お前にはあるんだ。あるんだよ、まだ」

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「覚えていますか。約束」

 

「―――」

 

「約束しましたよね、初めて会った時に。あなたに助けてもらう代わりに、あなたが困っていたら、私が助けるって。覚えてますか」

 

「……ああ。覚えてる。俺とお前の、最初の契約だ」

 

「お母さまのこと、嬉しかったです。楽しい時間を過ごせました。でも、今の私にとっては、あの約束も。ずっと大切な記憶なんです。だから」

 

 少女は、男の服の裾を、そっと掴んだ。

 

「あの日の約束を、私にも守らせてください」

 

 男が沈黙した。

 

 少女は小さく、しかしはっきりと想いが伝わるように呼びかけた。

 

 先生(・・)、と。

 

「……俺を助ける、か」

 

「はい」

 

「そのためなら、死んでも構わないと?」

 

「はい」

 

 少女の答えは、変わらなかった。少女が男を想っているように、男もまた少女を想っていると、ようやくそれが分かったから。

 

 男は「(しゅ)」に縛られたように、立ち尽くしていた。

 

「―――」

 

 そして、男が振り返った。もはや携帯は不要の距離だった。開きかけた口が、戦慄くように震え、それからまた固く閉ざされた。どんな表情をしているのか。今の少女の位置からならば、はっきりと知ることができていた。

 

「わかった」

 

 傘を、少女の側に寄せながら、男は言った。

 

 

 藤乃。俺と一緒に死んでくれ。

 はい。藤乃は、先生と一緒に死にます。

 

 

 ――「残念だけどね」

 ――「アンタに未来はないよ」

 

 男は、琥珀色の双眸を見つめながら、占い師に言われた言葉を思い返している。

 

 どうして間違えてしまったのか。

 いつから間違えてしまったのか。

 

 いつまで間違え続ければいいのか。

 

 空を見上げた。しばらく、雨は続くだろう。

 

 雨が、いつまで続くのか。

 

 男には、わからなかった。

 

 

 

 

 

 【 3427.15/February 1999 】

 

 

 

 

 

 やがて、■■■■回目の夜が来る――

 

 

 

 

 

 【 3427.16/February 1999 】

 

 

 

 

 

 虫の知らせ、という言葉を信じているわけではない。だがそのときに感じた不思議な感覚は、もしかするとそうだったのかもしれない、と女は思った。

 

 魔術工房は安置所(モルグ)のように低温に保たれている。大勢の肢体に囲まれながら、女の眼前で、一体の人形が燃えていた。

 

「そうか」

 

 火の気などあるはずもない部屋だった。どこからともなく発生した炎は今や人形の全身を呑み込み、しかし炎は煙を上げず、近づいても熱を感じさせず、焼け焦げる臭いすらも発していない。その人形以外の、他の総てに飛び移ることも決してなかった。

 

 燃え盛る人形の首には、あざ(・・)があった。

 

「おまえ、死んだのか」

 

 つまりは、そういうことなのだろう。女はおもむろに、懐から煙草を取り出した。この場所は禁煙だと思い定めていたが、火を眺めていると、なんとなく吸いたくなってしまったのだ。

 

「……おまえも吸うか?」

 

 人形の唇に、くわえさせてやる。すると煙草の先から、しばらくして一筋の煙が立ち上った。葉っぱの香りが鼻先に広がってゆく。これは感傷による幻覚か、はたまた偶然による悪戯だろうか。どちらでもいい、と女は笑った。

 

「さようなら。奉月(ほうづき)

 

 光が強くなった。

 

 視界が一瞬真っ白になったかと思うと、女の前から炎は消えていた。

 

 人形の姿もまた、なくなっている。まるでそこにあったのが、夢幻(ゆめまぼろし)であったかのように。

 

 夢幻ではなかった。

 

 煙草の本数は、確かに一本ぶん減っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【 映写室 】

 

 

 

 博物館のような広さの部屋だった。

 

 夥しい数の仮面が、壁や天井や床にまで、所狭しと放り出されて山を作っている。

 

 部屋の中央にある、黒檀を思わせる書斎机に座る人物は、映写機が映し出す物語を見つめている。

 

 ――「どれほど固い鉄であっても」。

 ――「どれほど怖い敵であっても」。

 

 ――「どれだけ辛い事があっても」。

 

 逃げずに奮闘し、諦めずに懸命し、当然のように敗北した者たちの物語を、ライトは照らし続けている。

 

 物語が終わると、部屋には男が立っていた。

 

 ライトを浴びた男は腹の裡に溜め込んでいたものを仮面へと移し替えると、塵となって、跡形もなく消えてゆく。

 

 ライトは何もない場所を照らし続けている。吐き戻された赤色の痕跡も残ってはおらず、物言わぬ仮面たちだけが横たわっている。

 

 映写機の稼働音に交じり、一つの足音が響いた。

 

 足音は、ライトを遮るような位置で止まる。その足音の主である人物は無造作に、瞳の閉ざされている真っ赤な色の仮面を手に取ると、僅かに口端を吊り上げ(・・・・・・・・・・)、ひとり呟いた。

 

 

「――【次だ】」

 

 

 映写機は、稼働し続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【 207279.1/December 2003 】

 

 

 

 暗がりの部屋に、明瞭とした声が響く。

 

「【素に銀と鉄。 礎に石と契約の大公。

 降り立つ風には壁を。 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ

 閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)閉じよ(みたせ)

 繰り返すつどに五度。

 ただ、満たされる刻を破却する】」

 

 「消去」のなかに「退去」の陣を四つ刻んで囲んだ召喚陣が、呼応するように光を発している。

 

「――【告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ】」

 

 光が渦を巻き、そこへ冷徹な声が重ねられてゆく。

 

「【誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者。

 

 汝三大の言霊を纏う七天、

 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ】――」

 

 光が収束し、大気の震動が収まった。

 

 

「――サーヴァント・キャスター。召喚に応じ参上しました」

 

 

 召喚陣の上に、ローブで顔を隠した女が立っている。

 

「貴方が、私の“マスター”かしら」

 

 女の問いに、正面に立つ男が左手の令呪を見せながら頷いた。

 

「貴女はコルキスの王女、メディア殿で相違ありませんか」

 

「……ええ」

 

「ではキャスター、まずは召喚に応じて頂き感謝を。私は崩月と申します。こちらは弟子の藤乃」

 

 男の背後に控えていた少女が、慌てた様子で頭を下げる。女は両名を測るように見据えながら、どうやら地下らしい小綺麗な部屋を見回した。

 

「さっそくですが、場所を移しましょう。神代の魔術師殿をこのような狭い地下室に押し込めておくのは失礼ですし、何よりこうしていては落ち着いて話もできない」

 

 男たちは女に対してあっさり――無警戒に――背中を見せると、さっさと階段を上がってしまった。女はそのことに若干驚きながらも、男の後に続いてゆく。

 

 広い廊下に出ると、女は応接間と思しき部屋に案内された。長椅子に座るよう促されると、ちょうど黒髪のメイドが台車を押して入ってきたところだった。

 

「紅茶でよろしいですか」

 

 いい香りがしていた。サーヴァントに飲食は不要だが、食べて困るということもない。魔力の流れを感覚しつつ、キャスターは正面の二人組を改めて観察した。師弟と云うことに偽りはないだろう。男のほうが師で、娘が助手か。しかしホムンクルスに人間が(・・・・・・・・・・)弟子入りしている(・・・・・・・・)というのはあまり聞かない。逆ならばともかく、事情がありそうに思えた。

 

「ロンネフェルトの最高級茶葉を使っています。お口に合えばいいのですが」

 

 キャスターはカップに注がれた「液体」について〈聖杯〉による生活知識で理解すると、警戒を裡に秘めながらも、おずおずとそれを口にした。

 

 

「――あら、美味しい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 第五次聖杯戦争篇、開幕。














  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。