魔法使いに憐れみを 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
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【 207279.2/December 2003 】
ほう、と吐息がこぼれていた。
好い香りがしている。鼻腔に広がり、喉を滑り落ちる粗雑のない上品な味から察するに、まずは一口と振舞われたこの紅茶が
ではそれらを所有する眼前の屋敷のあるじたる男は、果たして如何なる性質の人間なのか。自らを召喚した魔術師が成金道楽の益体ない
「どうするつもりなのかしら、これから」
「いくつか確認しても? ……聖杯戦争について、どのような理解をされていますか」
聖杯戦争。
七人のマスターと七人の
「その通り」ですが、と男は付け加えた。「それが、すべてではない」
「どういうこと」
「お話しします、ですが先に確認をさせてください。貴女の宝具を」
躊躇いがあった。コルキスの王女であるキャスターは「ニーベルンゲンの歌」における英雄ジークフリードが振るった
「それが――」
〈
斬りつけることで、ありとあらゆる魔術的な存在を破戒する概念宝具。
すべてを失った裏切りの魔女の逸話が皮肉にも宝具へと昇華されることで手に入った、対人ならぬ対魔術宝具。
「なるほど。……ちなみに訊いておきたいのですが、
憂鬱が裡に膨らむのを感じながら、かぶりを振った。
「わかりました」
男の反応は、非常にあっさりとしていて、キャスターの予想を裏切るものだった。落胆するどころか、かすかに喜色を滲ませてさえいる。「ええ。惜しい気もしますが、特に何も問題はありません」明かしたキャスターのほうが、じゃっかん狼狽えてしまっていた。
「では最後に。キャスター、貴女の聖杯にかける願いは?」
「……“故郷”に帰ることよ」
動揺を隠しながらそう言うと、ようやく男の顔に戸惑いが現れた。
「故郷というと、……つまり、コルキスに?」
男は小さく唸ると、顎に手をやって考え込んでいる。キャスターはその間に、男の隣で静かに座っている少女へ目をやった。
始めは少女という印象だったものの、明かりの下で見ると二十歳を過ぎているのかもしれない。長くて美しい髪を持つ娘だった。魔術師の弟子にしては
「キャスター。正直に申し上げると、貴女の願いの種類が過去改編もしくは時間旅行の場合、これに必要なのは第二魔法か、でなければ第五魔法になります。それを、聖杯という願望器で叶えることは難しい」
「なんですって――」
「なので」
男はキャスターを制すると、ローブに隠されている双眸を見透かすように、にやりと笑いかけた。
「ひとまず、グルジアに向かいましょう」
「……は?」
【 207279.3/December 2003 】
窓の外には、地平線が見えている。
「ねえ」
キャスターは、空を飛んでいた。飛行機と呼ばれる空飛ぶ鉄の箱舟に乗り込んでいる。現世に召喚されたときには、まさか高度一〇〇〇〇メートルを飛ぶことになろうとは考えもしていなかったが。
魔術ではなく科学を用いて引き起こす現象に幾分かの不安はあったものの、今のところ落下する気配はない。仮にも魔術師でありながら平然と電子機器に頼る男に想うところがないでもなかったが、しかし敢えて指摘して不和を引き起こす必要もなかった。
「さっきから、何をしているの?」
飛行機には藤乃と男とキャスター、飛行操縦士と客室乗務員しか乗っていない。貸し切りだった。気を遣ったのだろうか。キャスターは、いまいち男の本心が読み切れずにいた。
魔術師が「使い魔」に向ける態度を考えると、この男の応対は「甘い」と言わざるを得ない印象だった。
まさか色目を遣っているのかとも過ぎったが、視線に邪なものは含まれていない。敬意を払われていると感じるし、友好な関係を築きたいと考えているのかもしれない――こうしてわざわざグルジアへ向かっていることなど、まさにそうだ――が、だからこそ聖杯戦争を勝ち抜くための万夫不当の英霊たちと渡り合えるような戦闘力を持つとは思えない非力な自分に信頼を寄せる態度でいる男の内心が、気がかりだった。
「株資産の運用です」
ノートパソコンから顔を上げると、男は眼鏡を外しながらそう言った。
――株?
「兵站の充実は必要不可欠ですから。
グラスを呷ると、苦笑しながら続ける。「部下に任せられればいいんですが、理解させるとなると、これがなかなか複雑で難しい。こういうときほど、黄金律があればと思いますよ」
「
首を傾げると、ああ、と男は察したように頷いた。
「“
関心の薄い相槌になった。〈聖杯〉から知識が与えられているとはいえ、流暢に理解するには慣れが必要だった。
「あっ」
キャスターの隣に座る、藤乃が不意に声を上げた。
「どうした?」
「いえ。今のフレーズ、どこかで聞いたことあると思ったら……そっか。ホンキィ・キャット」
急に言ったかと思えば、勝手に一人で納得している。この娘も、キャスターを恐れてはいなかった。むしろキャスターの時代のことについて質問攻めにしてくるほどだ。大人しそうな見た目に反して、物怖じしない性格らしい。とはいえ害意は感じないため、キャスターもそう悪い気はしていなかった。
「………、」
ふと、眼下に目をやった。
飛行機に乗って、数時間が経っている。
黒海の向こうに、見覚えのある地形が現れていた。
「キャスターさん?」
信じられない、という驚きと共に、懐かしさが胸に込み上げてくる。
キャスターは、ちらと男を覗いた。
彼は、何も言わずにこちらを見つめている。キャスターは感情を読み取る前に目を逸らすと、再び景色を眺めることにした。
しばらくして離着陸特有の浮遊感を過ぎると、飛行機は国際空港に着陸した。男が用意したパスポートで入国審査を通り抜けると、キャスターはいよいよ故郷の土地を踏むこととなり、緊張している自分を嫌でも意識せざるを得なくなっていた。
空港を一歩出ると、記憶のそれとは似ても似つかない景色が広がっていた。
様々に行き交う車両の騒音。
様々な人種の
「行きましょう。ここから先は車になります」
人込みを避けた場所で男が紙片を取り出し、簡単な結界を周囲に敷いた。知性あるものの意識を逸らす、魔術とは異なる呪術だと判る――術者である男の技量の程も。続いて紙で作られた小箱を足元に置くと、独りでに開いた小箱から「自動車」が現れた。
どうぞどうぞと藤乃に押し込まれ、あれよあれよという間に乗車させられる。大勢が乗り込むバスと比べれば衛生的に我慢できる環境ではあるけれど、どうして他と違ってこの車にはドアが二つしかないのだろうか。「クーペは、そういう車種なんです。そこがいいんですよ」意味が分からなかった。だからといって、キャスターは不思議と霊体化しようとは思わなかった。
それから更に数時間をかけ、後部座席で藤乃がうたた寝をし始めた頃、キャスターの目に飛び込んできたものは、上空からも確認できていた、あの懐かしの「ファシス川」だった。
現代ではリオニ川として知られる川であり、この川の先に、果たしてその「街」は今も存在していた。
「着きましたよ。ここが」
クタイシ。
かつて、コルキス王国が存在していた場所。
――我が故郷。
クーペは中心部へ進み、オペラハウスの近くで停車した。観光客らしき男女の集まりが、噴水の前で写真を撮っている。キャスターは、夢心地の気分で車から降りた。ローブ姿でいるキャスターに好奇の視線を向けてくる者はいない。人避けの魔術など、容易いものだった。
「見て回りますか」
「……ええ」
男は、一人で回ることを許可してくれた。信用されているのか、侮られているのか。今のキャスターにとっては、真実はそのどちらでも構わなかった。
「―――」
面影は、やはりどこにも残ってはいない。城も、城下も、神殿も、霊脈も、空気も、民も。何もかもが。コルキス王国のみならず、多くの国が此処で興り、そしてこの地で塗り替えられてきたのだ。あれから何一〇〇〇年も経っている。ならばこの結果は、分かり切っていることでもあった。
――それでも、覚えているものはある。
街が、夕焼けに照らされている。その光景を一望できる丘に立ちながら、キャスターは顔を覆うローブを解いた。いつの間にか背後に立っていた彼へ、問いかけるようにして呟く。
「過去へは戻れない。そう言ったわよね」
「ええ。冬木の聖杯で、貴女の願いを叶えるのはおそらく不可能です。少なくとも
ですが、と男は続けた。
「貴女が望めば、貴女はもう一度やり直すことができる。魔力によって編まれた仮初の躰ではなく、一個の生命として肉を得、この世に根を下ろし、貴女自身の意思によって再びこの地を踏むことができる」
「……受肉」
「ええ」
沈黙が流れた。
一二月の風が、吹き抜けてゆく。
「いいわ」
キャスターは振り返ると、男を見つめ返した。
「誘導されたようなのが少し癪ですけれど、貴方の計画に乗りましょう。マスター」
「そうですか」
マスターは初めて、ほっとしたような笑みを浮かべた。
「感謝を、キャスター。貴女の協力は、とても心強い」
――そんな、子供みたいに気を抜いた顔を裏切りの魔女に見せるだなんて。
――まあいいわ。今だけは見逃してあげましょう。
「何も成し遂げていないうちから、感謝なんていりません。……それは、私が言うべきことだわ。此処に、連れてきてくれて」
ただ、気になることがあった。
「私が断ったら、どうするつもりだったの」
口にしてすぐに、これは失言であると気づいた。相手は、苦笑いしている。問うまでもなく、決まり切っていることだった。
あれほど遠いと思っていた景色を見ることができたからだろう。気が緩んでしまったのは、どうやら自分もだったらしい。これでは、彼のことを笑えない。
「……安心なさい。貴方が私を裏切らない限り、私も貴方を裏切らない」
「信用しています。行きましょう、キャスター」
――行って参ります、お父様。
「あっ。キャスターさん」
「藤乃。これから世話になるわね」
「……はいっ。よろしくお願いします」
【 207279.4/December 2003 】
暗がりの部屋に、明瞭とした声が響く。
消去のなかに退去、退去の陣を四つ刻んで囲まれた召喚陣が、呼応するように光を発している。
「――【告げる】」
光が渦を巻き、そこへ冷徹な声が重ねられてゆく。
「【抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ】――」
光が収束し、大気の震動が収まった。
「――サーヴァント・アサシン。影より貴殿の呼び声を聞き届けた」
召喚陣の上に、白貌の仮面をした大男が立っている。
「貴殿が私のマスターか」
「はい。私があなたのマスターです、アサシンさん。藤乃と言います」
私は魔力が失われた倦怠感に襲われながらも、しっかりとそう返事をした。するとアサシンの意識が、私の背後に飛ばされた。
「貴殿らは――」
「そこの藤乃の師をやっている、崩月と言う。そしてキャスターのマスターでもある。俺の心臓に
「なぜ、他のマスターがここにいる」
「俺たちの願いは恐らく競合しない。貴方の願いを叶えると同時に我々の願いを叶える計画がある」
「聞いて下さい、アサシンさん」
頼み込んだ。もし彼が敵意を見せた場合、先生の予想通りに私の掌に召喚と同時に現れた令呪を遣わざるを得なくなってしまう。それは先生の計画に、大きな支障をもたらしかねなかった。
「話を聞こう」
暗殺者の声が、低く響いた。張り詰めた空気に、殺気が滲みだしている。
正面からそれを浴びているはずの先生は、けれどまるで動じていなかった。
「アサシン。貴方の願いは」
話が終わるまで、私はじっと耐えていた。
「―――」
やがて、殺気が収まる。
「……いいだろう。私は、マスターに従う。だが」
アサシンは、話の間ずっと黙り続けていたキャスターに目をくれると、言葉を止めた。キャスターは口元にかすかな笑みを湛えると、翻りざまに霊体化してしまった。
「話の続きは、こちらで。……行くぞ、藤乃。大丈夫か」
頷いたものの、本当は思っていたよりも消耗が大きかった。先生と昨日パスを繋いだおかげで、意識を失うほどではなかったけれど、それでも
よくやった。囁くように言われ、私は耳が火照るのを感じた。
先生のあとに続き、私も部屋を出る。
【 207279.5/December 2003 】
私が知るメイドたちのなかで最も胸が大きく背も高いアスタマキナが入れてくれた紅茶を飲みつつ、私たちは客間で情報交換を進めた。
すべてが終わった頃には深夜であり、そのあとは体力の回復に努めると、翌朝になって顔を合わせた私たちに対し、先生はやはり、いつものように少し皮肉な笑みを浮かべながら言った。
「――それでは、アインツベルンに乗り込むとしようか」