リレー小説の原稿です

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オトガミ様

 演奏を終えると、聞き浸っていた彼女の瞳が開いて、端正な顔がくしゃりと歪む。まるで「まだ聞いていたい」とでも言いたげな。聴衆もなければ喝采もないが、ただ一人自分の演奏に聞き入り、終われば名残惜しんでくれる人がいる。

 音楽家にはなりきれなかった私にとって、自分の人生を肯定してくれる瞬間だった。

 

「ずっと聞いていたいです。頼りなくぶら下がっている心臓が、下から優しく支えられるような感触で」

 

 書き物をしているだけあって、詩的な表現をするものだ。感心してそう言うと、口許を手で隠しながら自嘲した。

 

「でも、よく現実とは剥離していて伝わりづらいって言われますのよ。私の表現は」

 

 自分の中では、何かを感じ取った際に頭の中に浮かびあがるイメージ、それは彼女曰くシュールレアリズムに傾倒した絵画または映像で、それを現実の出来事と結びつけて書き起こすことで表現しているのだという。

 

「でもそういうイメージがないひとからは、奇想天外あるいは荒唐無稽と切り捨てられてしまうようで。慣れていたつもりではいましたけれど。――先生に褒められて気づきました。やっぱりどこかで分かって欲しかったんだなあって」

 

 ありがとうございます。と結ぶ声が少し震えていた。彼女のガーネットのように輝いていたはずの瞳が、不意にくすんで見えた。

 もしかして泣いているのか? 

 

「そろそろ、こういう機会は控えた方がいいかと思いまして」

 

 理由を尋ねると、気え入りそうな声で応えた。耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小さい声で、舌も回っておらず、普段ならば私の耳に届くまでに落っこちてしまった言葉だったと思う。けれど、なぜか聴覚が冴えわたっていて、聞こえてしまった。そんな自分をひどく憎んだ。

 

「どうしてですかっ」

 

 嫌だ。嫌だ。

 感情が荒ぶり、語気が強くなってしまった。彼女がびくんと小さい肩を震わせる。私の心は雨に打たれた子犬のようであるというのに、彼女からは私が狼に見えているということを忘れていた。

 

「ごめんなさい、取り乱しました。ただ、あなたとこうして過ごす時間が、なくなってしまうのかと考えると名残惜しくて、せめて理由だけでもと」

 

 しばらくの沈黙。顔を上げた彼女の上目遣い。それが一瞬、何故だかすごく怖いもののように思えた。

 彼女がたまらなく可愛く見えるときがある。

 彼女がひどく恐ろしく見えるときがある。

 それはルビンの壺が、壺に見えるか二人が向かい合っているように見えるかと似ている。

 

「なんでも自分の思い通りになってしまっているのが、たまらなく怖いのです。これ以上は、もうやめておきます。それこそ奇想天外と思われてしまうので」

 

 彼女が囁いた言葉は、呪文のように意味深だった。それは、私からこれ以上の追及を奪った。グランドピアノの前から動けずに突っ立つ私を置いて、彼女は音楽室を後にした。こちらに振り返ることなく放った「さようなら」の余韻の中、つるべ落としのように、すとんと陽が落ちた。

 

 会えなくなった、わけではない。彼女と二人きりでここで過ごす時間が、少なくなるというだけなのに。私の心は深く深く沈んでいた。

 ちょうど、彼女に一目ぼれしたのと同時に、彼女が既婚者であることを知ったあの出逢いのときの感触に近い。そのとき、自分は何を思ったのか。

 

 あのさらりと揺れる漆のような髪を撫でて、あの絹のような白い肌に歯痕をつけて、あの柳のような細い腰を羽交い絞めにしている存在がいると想像して、黒い何かが胸の中で蠢いていた。

 

 窓の向こう側で、碧い月が雲に隠されて音楽室は闇に閉ざされた。

 

 やっと、やっと手に入れたのに。どうして、私から彼女が()()()奪われなければいけないっ!

 

 身を包む黒が、心にまで染みてしまったようだった。

 落ち着こう。私は彼女と身体を交えたわけではない。手を触れたことすらない。交わしたのは、言葉と彼女の主人の蔵書の買取くらいじゃないか。忍び寄る黒を自嘲で振り払い、家路についた。

 

 桟橋で古本屋と我が家のある対岸を細目で眺めながら煙草を吸っていた。やけに煙が目に沁みる。都会と比べれば田舎の風景は、やはり自然なので表情豊かだとか、その逆もよく聞くが、所詮は慣れすぎて鈍感になったが故のない物ねだりに過ぎない。湧き上がるものを抑え込んだところで、私の心は荒んでいた。

 ふと、対岸から目を移した先。ぽつんと佇む灯りの下に、制服に身を包んだ女学生がいた。――あれはうちの学校の子じゃないか。

 そこでまっすぐ立ち去れば、見過ごすところだったが、その女学生は藪を分け入って姿を消したのだ。非常勤とはいえ仮にも教師だ。見てしまったとなれば、その背中を追いかけないわけにはいかない。あと数分で船がやって来るところだったが、それは諦めて走った。

 ちょうど、女学生がそうしたように藪を分け入ると、古くは使われていたであろう山道が伸びていた。

 

 さっきまでは、こおろぎの声が響くぐらいだったのに、藪の中に入った途端、けたたましいくらいの鳥の声が。周りを囲む木々に椋鳥が有象無象にとまっており、おぞましいくらいだった。

 こんな深くおどろおどろしい空間を、あの少女が歩いていたのか、なんとも肝が据わっていることだ。

 

 椋鳥の声に鼓膜を舐めまわされながら、もはや獣道と化している山道を登っていくことしばらくして、行き止まりにあたった。

 木々がその箇所だけ塊のように密に生えていて、壁を作っていた。あの少女はどこに消えたのか、そう思っていたところ、声がした。

 

「――たしは、とんでもないことをしでかしました。応えてください。あの人が、死んだのは」

 

 聞き覚えのある声だ。いいや、聞き覚えがあるどころではない。自分がいつも聞き惚れていた、()()の声だ。

 壁の向こう側へと回り込むと、そこに彼女はいた。

 

「先生、――どうしてここにいらっしゃるので」

 

 彼女は、ぼろぼろになった祠に向き合っていた。

 

「それは私の台詞です。あれからまっすぐ帰ったものかと思えば……」

「私のことを悪い子だと思って見限ってくれましたか。親から組まされた縁談で恋も知らぬままに結婚させられて、そのままのうのうと暮らして来た少女が、恋を覚えてしまったら、――良い子でなんていられないと思います」

 

 薄ら笑いを浮かべる彼女の表情は、月明かりしかないはずなのに、はっきりと見えていた。慎ましやかに上がる口角と愛らしいえくぼ。私が見慣れていた笑顔はそこにはない。

 

「私の夫が癌だったまでは本当です。でも夫が死んだのは、いわば不審死でした」

 

 不審死という言葉を語る表情は、彼女が未亡人になったときに見せたあの悲愴に塗れたものではなかった。ある種の安堵のような、諦めのような、それでいて悲しみもないわけではない、一言ではとても言い表せられない。

 

「許嫁だかなんだか知らないですけれど、後先短い命だからと籍を入れられて。そこから予後は良くなり、婚約期間は伸びれど夫は病室に籠りっきり。私を娶った男が与えてくれたのは、無味乾燥の束縛。先生、私、あなたに見つめられたあのとき、とっても興奮したんですよ。あなた、私と夫との関係を想像して嫉妬を燃やしていたのでしょう?」

 

 否定できない。

 けれど、なんでその一瞬魔が差して湧いてしまっただけの感情を、彼女が知っているんだ。それが彼女の憶測だとして、私に面と向かって言い切れる根拠は何だ、と問い詰めた。彼女に看破されたことを私のプライドが許さなかっただけかもしれないが。

 

「ここに祀られているのは、オトガミ様。ここに植わっている木は、古くは楽器を作る際に用いられていたもので、その楽器たちは、逸品であると同時に不吉な事件も巻き起こしてきました。この木々にはオトガミ様が宿っている、そう信じた人たちが祠を立てたんです。それが忘れ去られてこうなった。私は小さい頃にこの場所を見つけて、人知れず良いことも悪いこともオトガミ様にお願いして来ました。それが初めて叶ったのが、夫が()()()()()()ときです」

 

 戦慄が走った。

 私が可憐だと見惚れていた彼女が、夜な夜なこの場所で病床で苦しむ夫の死をただひたすらに願っていたというのか。

 

「オトガミ様は、本当に才のある人の願いしか聞き入れてくれません」

 

 彼女がふらふらとした足取りでこちらに歩み寄ってきた。闇の中で、彼女の手許が鈍い光を放っている。

 

「あなたのジムノペディを聞いた瞬間、確信が持てました」

 

 一歩、また一歩と近づいて来る。

 私はもうすっかり彼女の気迫に腰が引けてしまっていて、後ずさりをするはずが、バランスを崩して地面にへたり込んでしまった。見上げる形になった彼女の背は、ずっと大きく見えて――いよいよその手許が鈍く光を放っていた理由を知ることになる。

 

「あなたはオトガミ様に気に入られてしまったんだと。礼は言っておきます。夫を殺してくれて、ありがとうございます。そして、私に恋を教えてくれたことも。でも……」

 

 刃渡り十七センチほどの包丁が、彼女の右手に握られていた。それが月光を反射していたのだ。

 

「ここで見た全ては、あなたの命ごと消させてください」

 


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