それは去年の夏。
全国大会出場を掛けた、地区大会の決勝戦。
有原翼が所属する藤浦シニアと、相手チーム・君嶋シニアの試合はいよいよ佳境に差し掛かっていた。
藤浦シニアはこれまで6点を奪われたものの、徐々に盛り返してついに最終回で逆転。
7対6に持ち込み尚もノーアウト満塁。勢いに乗って更に追加点をという場面である。
相手チームのピッチャーもこれまで良く投げてきたが、かなり疲れているのは翼の目から見ても分かった。肩で息をしているし、前の回ぐらいから球がうわずってきていてコントロールもままならなくなってきている。
そんな場面だった。
ピッチャーがタイムを掛けて、外野手も含む選手全員をマウンドに集めた。彼等はしばらく話し合っていたようだったが……
やがてキャッチャーが審判に選手交代を申し出る。
現在のキャッチャーがベンチに下がり、ベンチから交代の選手が出る。
交代で出てきたキャッチャーは岩壁将城(いわかべまさき)といって、ぽっちゃりとした体型の少女だった。
更にピッチャーとセンターが交代する。
交代でマウンドに上がった選手へ、翼を含めて球場全体の視線が集中した。
名前は鏡原みづき。
女性であるが男子以上の長身であり、しかしひょろ長いという印象ではなく均整の取れた体付きだ。顔には眼鏡を掛けていて、腰まで届く亜麻色の長髪が、風になびいていた。
この相手チームと対戦するに当たって、彼女の情報も翼達は調べていた。
昨年は4番ピッチャーを務め、君嶋シニアが全国大会に出場する原動力となった、チームのキャプテンにして牽引車的存在。現在はセンターを守っているがその強肩好守で幾度も失点を防ぎ、バットを持ってはホームランを量産した強打者。この試合でも三打席連続ホームランを放ち、6得点の内5点までを叩き出している。
しかし今年の大会で、彼女がマウンドに立った記録は無かった。
新しいエースが現れたのかとも思ったが、だが今まで投げていたピッチャーは去年のビデオで見た彼女よりは、失礼ながらずっと劣る実力でしかなかった。
ならば何故、今迄投げなかったのかだが……
「それじゃあ、行くわよ~」
みづきはニンマリと笑って、左手に持ったボールを右手に嵌めたグローブに叩き付ける。彼女のグローブには、指が6本あった。
翼も知識としては知っていたが、実物を見たのは初めてだった。
両利き用のグローブだ。端から2本目の指は、指を入れない時には網の代わりになるのだ。
「サウスポー?」
「いや、でもビデオでは右で投げてたような……」
チームメイトからざわめきが出るが……やがてそれも消える。
マウンドのみずきが、投球動作に入った。
上手投げ。ゆったりとした、力強いフォームだ。
「おっほえ!!」
奇声と共に、指先からボールがリリースされる。
コンマ数秒後に、キャッチャーミットが気持ちのいい音を立てた。
コースはど真ん中の絶好球。だが翼のチームのバッターは、バットを振る事も出来なかった。
速い。
藤浦シニアも全国大会には何度も出場している強豪だが、彼等の誰も見た事が無いような剛速球だった。
「おっほえ!!」
続く第二球。
今度は辛うじてバットを振れたが、降り出す前にボールがミットに入った。それほど速い。
しかも真っ直ぐではなく、初球は微妙に落ちて二球目は僅かにスライドした。とんでもないクセ球。
バッターはこうなったら1、2の3で振るしかないと心を決めるが……
三球目。
今度は前の二球に比べて遅い。しかも高めに浮いた。
失投かと思って振りに行く。
だが、バットは空を切った。キャッチャーミットは、アウトローに構えられていた。
「お……落ちた」
「フォーク……いや、サークルチェンジか……?」
「違う……今のは……もしかして……?」
翼の中に生まれた僅かな疑問は、次の打席で確信に変わった。
みづきは、グローブを左手に嵌め直した。今度は右で投げるつもりだ。
体を沈め、球を持った手を大きく天へと突き上げる。下手投げ、サブマリン投法。
低めのストレート。バッターは打てると思って振るが……
しかしバットは空を切った。
しかも低めのストレートだった筈が、キャッチャーミットの位置は高めだった。
地を這うようなボールが、しかし落ちる事なくホップした。浮き上がったのだ。
「う……浮いた?」
「ラ、ライズボール? でもソフトなら兎も角、野球でそんな……」
ネクストバッターズサークルの翼の背に、チームメイトのざわめきが聞こえてくる。
バッターは、球が浮いてくるならそれを線の打撃で捉えるべくにダウンスイングを試みるが……しかし二球目。
アンダースローから投じられた球が、今度は浮き上がるかと思いきや、落ちた。
しかも高めにすっぽ抜けて頭より高かったボールが、地面に叩き落とされたのだ。信じられないような落差。
バッターは、構えてはいるが明らかに動揺している。ただでさえアンダースローのピッチャーは絶対数が少なく練習機会が少ない。まして浮き上がる球と落ちる球のコンビネーションなど、練習でも打った事など無い。試合では更に絶無。
あえなく、次のライズボールで三振に取られた。
ノーアウト満塁のチャンスが、あっという間に二者連続三振でツーアウト満塁に。
しかしまだチャンスは続く。
バッターボックスに入る翼。彼女も女子ながら、藤浦シニアでクリーンナップを張る強打者である。
「凄いね!!」
翼が、キャッチャーの将城に声を掛けた。
「?」
「マンガのピッチャーのモノマネで、あんな球を投げる人なんて初めて見たよ」
「……分かるんだ」
マスクの向こう側で、将城は少しだけ目を見開いた。
「うん。最初の左投げは京浜アスレチックスの守護神、毒島大広投手。剛速球ストレートと魔球ブスジマチェンジ。次のアンダースローは青森代表・春のセンバツベスト4の斗南農林の4番ピッチャー巽球児選手が投げたライズボールと落ちるボールのコンビネーションだよね」
「ふーん……タイム!!」
将城はタイムを掛けて、マウンドに走っていった。
数十秒ほどバッテリーは何か話していて、そしてキャッチャーが戻ってきた。そして座りながら、翼に話し掛けてくる。
「リクエストさせろだって」
「え?」
「だから、どんなピッチャーと勝負したいか、あなたにリクエストさせろと。ごしゅ、じゃなくてみづきのモノマネレパートリーの中に、お望みのものがあるとは限らないけど……」
翼はその申し出を受けてしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがてその意図を察してくすっと笑った。
「それじゃあ………………」
翼の口から出たその名前を受けて、キャッチャーの少女は思わず「えっ」と声を出した。
「えっと……こっちから言っておいてなんだけど、別の投手にしない?」
「? 出来ないの?」
「いや、そのピッチャーはごしゅ……じゃなかった、みづきが一番得意とするフォームだから。絶対打てないよ。どうせなら別のを……」
「将城!!」
マウンドの、みづきが声を上げた。
「「!!」」
「好きにさせなさい」
顔を見合わせる翼と将城。
ややあって、将城がサインを出した。
みづきが、にやっと笑ってそして投球動作に入った。
投げ手は右。フォームはオーバースロー。
力みのない大きくてゆったりとしたワインドアップ。
柔軟で力強い下半身からの踏み込み足。
ベストの重心移動。
そしてスパイラルリリースによって、球が放たれる。
唸りを上げて、伸びのあるボールが飛んでくる。
『……ストレート?』
バットを振ろうとする翼だったが、テイクバックを取ったその瞬間だった。
球が、消えた。
「!!」
一瞬遅れて、ミットが立てる快音。
スライダーだった。ストレートと見紛うような高速スライダー。その変化のキレがあまりに鋭かったので、翼の目からは消えたように見えたのだ。
ごくりと、翼が唾を呑んだ。こんなに速くて切れるスライダーなど、初めて味わった。
マウンドのみづきが、さっと両手を広げる。これは「お気に召したかな?」のポーズだ。
「どうする? 今からでも別の投手を……」
将城がそう言い掛けて……言葉を切った。
すぐそこに立つ翼の目が、先程までと全く違っているのに気付いたからだ。
「……間違いない……」
爛々と光って、燃えている。
「やった……私、今……世界一のピッチャーと勝負してるんだ……!! しゃーっ!!」
気合いを入れ直して、バットを構え直す翼。
モノマネなど紛い物と笑う者が居るかも知れないが、そうではない。
先程までの二打席を見れば分かっている。フォームも、投げた球も。全て本物だった。昔読んだ漫画の世界から、その投手が飛び出してきたように。ならば今、みづきがモノマネしているこの投手だってきっとホンモノだと。
分かるから、信じられるから、だからこそ挑む。それに挑戦するのが、本当に嬉しい。
こんな楽しい野球が出来るなんて、世界中で自分一人かも知れないから。
第二球。再び高速スライダー。
今度は、ボールにバットが当たった。ただし飛んだ方向は前ではなく、真後ろ。
キャッチャーの将城がぎょっとした顔で目を見張る。
たった二球目で、高速スライダーを当てた。しかも、真後ろに飛ぶという事はタイミングが合っている。
三球目、直球。
翼は咄嗟に指一本分バットを余し、振る。
再びバットはボールを捉え、しかしミートは完全ではなくファールになった。
「ふう……」
一息吐いて、構え直す翼。
その時、マウンドのみづきと目が合う。
二人とも、相手が笑っているのに気付いた。
言葉は無くてもどっちもこの野球を、この瞬間を、楽しんでいるのが伝わってくる。
四球目、直球。ファール。五球目、直球。ファール。
直球一本で押すみづき。翼はそれをヒット出来ないまでも、粘る。
もう、両軍のベンチからは声が出ない。見守り続けるしかない。観客も、声を忘れて見入っているようだった。
15球目。直球。ファール。
『さて、どうしよう?』
マスクを修正しつつ、将城は考える。
『ここまで直球を続ければ、この人の頭からスライダーが消えている筈。私なら、ここでスライダーをアウトコースに要求するけど……』
ふう、と溜息を一つ。次で22球目。投手は1イニングの投球数が20球を越えるとコントロール・球威が下降線を辿るというデータもあるし、これ以上球数を投げさせるのははばかられる所だが……
『まぁ、良いか。何をどこに投げるかはご主人が決める事。私は何が来ようと捕るだけだし』
考えがまとまるのと、みづきが振りかぶるのが同時だった。
投げる。
思い切り前につんのめって、みづきの帽子が落ちて、ついでに髪の毛が外れてマウンドに落ち、その下にあった坊主頭が露わになる。長髪はカツラだったのだ。
尤も、それも翼の目には入っていない。
迫り来るボールにタイミングを合わせ、振り出す。
球種は直球。コースはインロー、低め一杯。
快音が鳴って、打球が伸びていって……
「ゲームセット!! 7対6を以て、藤浦シニアの勝ち!!」
「「「ありがとうございましたーーっ!!」」」
結局、君嶋シニアは最終回ノーアウト満塁のピンチを1点のビハインドで凌ぎきったものの、逆転は叶わず、軍配は藤浦シニアに上がった。
そして表彰式が終わり、翼達がグラウンドを去ろうとした、その時だった。
「フレー、フレー、藤浦!!」
「「!!」」
聞こえてきたエールに、足を止めて振り返る。
「フレッフレッ、ふ・じ・う・ら」
みづきが、声を張り上げてエールを送ってきていた。
「「ガンバレガンバレふ・じ・う・ら!!」」
その応援に、みづきの恋女房役の将城も加わった。
「お、おい……」
「ああ……」
それを見ていた君嶋シニアの選手達もそれぞれ顔を見合わせて……そして、駆け出して、応援の列に加わった。
「「「ファイトファイト、ふ・じ・う・ら!!」」」
相手チーム一丸となったエールを受けて、翼達藤浦シニアの面々はぴしっと整列すると、帽子を取って頭を下げる。
「頑張ってきなさいよ藤浦ーーーっ、私達の分もねーーーーっ!!」
みづきは大きな体を一杯に使って、最後に翼が退場するまで、手を振り続けていた。
「……終わったね、ご主人」
「いや、将城。まだまだこれから。今度は高校で野球するわよ。当然、あなたも一緒に来るわよね? あなたしか私の球を捕れる人は居ない。あなたが居ないと、私は投げる事すら出来ないんだから」
「はぁ、それは良いけどご主人、あんた野球は中学までって親に約束してるんじゃ? だから高校は野球部の無い所に行くって……」
「将城」
悪戯っ子のような、意地の悪い笑みを見せるみづき。将城は「悪い事考えてる顔だ」と直感した。
「私が親に約束したのは野球部の無い高校に行くってだけ。高校で野球部を作らないって約束は一切してないわ」
「なんとなんと」
肩を竦める将城。おみそれしましたという表情だった。
「ついてきなさい、相棒!!」
「お供しますよ、ご主人」