ハチナイ PM   作:ファルメール

11 / 42
第11球 龍VSみづき 2

 

 一年前の夏、リトルシニア全国大会準決勝。

 

 藤浦シニアと蔵元中央シニアとの試合は、一方的な展開となってきていた。

 

 5回を迎えた所で蔵元中央シニアは4点を先取。対して藤浦シニアは無得点どころか未だノーヒットである。単純に得点で負けているというだけでなく、試合の流れ自体が不利に傾いている。

 

 シニアの試合が7回までである事を考えると、そろそろ1点でも返しておかない事には勝つ見込みが無くなってしまう状況である。

 

 本来であればこういう時こそ、チーム一丸となって失点を防ぎ、1点ずつ追い付くという気概を発揮せねばならない所ではあるのだが、プレイしているのは大人ではなく中学生の少年少女でしかない。あらゆる状況で正しい判断をしろと言うのは酷な話であろう。

 

 藤浦シニアのメンバーは集中力の発揮を求められる局面にありながら、逆に集中が切れ始めてエラーやフィルダーチョイスが目立つようになってきた。

 

「ドンマイ、この回全力で守り切ろう!!」

 

 マウンドに集まった内野陣の中で、翼が持ち前の元気さを前面に出した。しかしそれだけでは、まだ切れかけた気持ちを繋ぎ直すには不十分なようだった。

 

「いくら守ったって、もう……」

 

 ピッチャーの視線がスコアボードに動く。

 

 4対0。

 

 地方大会レベルの相手ならまだまだ射程距離と言えるが、相手は全国優勝も十分狙える名門チームである蔵元中央シニア。そうそう、付け入る隙を与えてくれるとは思えない。だからこその絶望であったのだが……

 

「楽しいね!」

 

 この時点で絶望していない者が、少なくともこの球場には3人居た。

 

「え、なんで……」

 

「だって、こんな大きな球場でみんなと野球やれてるんだもん。攻撃のチャンスはまだ2回ある。最後の最後まで、思いっきり楽しもうよ!」

 

「……ありは」

 

「フリエエエエエエエエエーーーーーーッ、フリエエエエエエエエエエエエエーーーーーーーーッ!!!!」

 

「な、何だ?」

 

 何事か言い掛けた彼の言葉は、突然聞こえてきた大蛮声に掻き消された。

 

「あれは……」

 

 声の出所は観客席。

 

 最前列でハチマキを巻いたみづきが、両手を大きく振って声を張り上げていたのだ。

 

「ふ・じ・う・らーーーーーっ!!!!」

 

「オウッ!!」

 

 すぐ後ろでは将城が、どこから持ち込んだのか、和太鼓を思い切り叩いている。

 

「ガンバレガンバレふ・じ・う・ら!! ファイトファイトふ・じ・う・ら!!!!」

 

 たった二人だけの応援団。しかし背中を押すその声の、なんと心強い事か。

 

「……そうだな。まだ2回も残ってる」

 

「逆転しようぜ。まずは1点取れば、その目はある」

 

「そうだな。そうすりゃガックリ来るのは向こうだ。そこに持ち込む。野球の逆転劇ってのはそうやって始まるんだ」

 

「俺たちなら出来るさ。相手のエースのモノマネをした鏡原さんの球を打ってきたんだからな。よくよく考えれば前の回から、タイミングは合ってきている」

 

 湿っていた心に火が付いた。もう、試合を投げている者は居ない。

 

 この回は何とか無失点で抑え、6回。

 

「逆転だああああぁぁぁーーーーーっ!!」

 

「取り返せええええーーーーーーっ!!」

 

「かっせ、かっせ、ふ・じ・う・ら!!」

 

「翼、ガンバ!!」

 

 いつの間にか、藤浦シニア側の応援席は総立ちになって歓声を送っていた。その中には、智惠の姿もある。

 

 みづきが投げ込んだ火は風を起こし、風は火を踊らせて更に燃え広がっている。

 

「ホント、鏡原さんは野球バカだね」

 

 くすっと笑って、翼がサムズアップを送った。

 

 何より好きな野球だから、誰より真摯に取り組む。それは自分がプレイするだけでなく、他の野球をやる人の力になる事をも惜しまない。

 

 自分の野球は中学までと決めているけど、でもいつか、みづき達とまた野球がしたい。

 

 この時の翼は、心からそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 現在。

 

 まだ咲いていないヒマワリ畑の中に飛び込んでいった硬球を目で追いつつ、マウンドでみづきは仁王立ちしていた。

 

「か、鏡原さんの負け……?」

 

 ベンチで見ている夕姫が、隣に立つ茜や良美へ不安そうに視線を送りながら言った。

 

 あれほど自信満々に魔球を投げたと言うのに。蓋を開けばいきなり龍に大ホームランを叩き込まれてしまった。

 

「嘘……」

 

 茜はそう呟くのが精一杯だった。

 

 自分から見てみづきは、その差が分からない程に遙か上を行く者。恐らくは翼と同等かそれ以上の実力と才能を持つ名選手なのに。

 

 龍はそのみづきをも超える、恐るべき実力者であったのか。

 

「い、岩壁さん……」

 

「まぁ、見てろ。ご主人の顔を」

 

「え……」

 

 言われた通り夕姫が視線を送ると、マウンド上のみづきは少しも動揺などしておらず、落ち着いているのが分かった。初球をホームランされた事に開き直って諦めている……の、とは断じて違う。佇まい、何気ない仕草のどれ一つ取っても、微塵の揺らぎも感じ取れなかった。

 

 この反応の差は、そのまま付き合いの長さの差である。長い間、みづきと一緒にプレイしてバッテリーを組み、みづきを酸いも甘いも噛み分けた将城だからこそ分かるものがあるのだ。

 

「大丈夫なのだ。勝負はここから。鏡原はこれからなのだ」

 

 このあおいのコメントは、勝負師としての分析だった。勝負における微妙な気の流れ。単純な実力の他に、勝敗を左右する曖昧なもの。言語化する事は難しいが、彼女はそれを感じ取るカンを、他人があらゆる勝負事で接戦を幾度も繰り返してやっと体得出来るものを、天性のものとして持っていた。

 

「ウチらに出来るのは、応援するだけだぞ。勝負は、鏡原に任せるしかない。フレー、フレー、か・が・み・は・ら!!」

 

 良美の行動はシンプルだった。負けそうな時ほど、声を張り上げて力を与える事。それが応援団である彼女の本領。応援しか出来ないと本人は言っているが実はそうではない。応援する事が出来る。自覚は無く、だがその違いを良美は理解している。

 

「……」

 

 バッターズボックスではたった今ホームランをかました龍が、しかし当惑した表情でバットと自分の手、そしてマウンドのみづきに代わる代わる視線を送っていた。

 

「あ……タ、タイム」

 

 はっとした和香が、タイムを掛けてマウンドに走る。

 

 投手が打たれた時に、間を取って元気付ける事も捕手の役目だ。

 

 彼女は頭ではそれを分かってはいたがしかし、まだ完全に自分のものにはなっていない。シームレスに実践するには今少しの練習や場数を踏む事が必要なようだった。

 

「鏡原さん、今のは……」

 

「いいからいいから、すずわか」

 

 みづきは、しかしさっと手をかざして和香を制した。

 

「で、でも……」

 

「いいから、戻りなさい」

 

「……」

 

 少しだけ、和香はみづきの様子を観察した。

 

 頭に血が上ってアドバイスを受け付けない状態になっているのではと懸念したが、しかし表情からして落ち着いているのは見て取れる。

 

 まぁ、これなら大丈夫か。

 

 和香は気を取り直して、キャッチャーズボックスに戻る。

 

 その和香の背後の翼は、今は審判の自分が何か口出しするのはルール違反なので動けないでいた。

 

『今の球、魔球って言ったけど……少し落ちたり曲がったりしたのかな? 打ち頃のまっすぐにしか見えなかったけど……』

 

「鏡原さん、もう一度よ」

 

 ぐっと、龍が打撃姿勢を取った。

 

「ん? どうしたの東雲?」

 

「いいから、もう一度投げてきなさい!!」

 

「良いわよ。何球でも。有原」

 

「わ、分かったよ。プレイ!!」

 

 タイムが解けて、早速みづきは振りかぶって、投げた。

 

 先程と同じく、回転の掛かった球がまっすぐ向かってきて……

 

「むんっ!!」

 

 キィィィン……!!

 

 これも先程と同じく、龍のバットがそれを完璧に捉えて、ヒマワリ畑の中に叩き込んだ。

 

 またしても大ホームラン。二球目の結果は最初から最後まで、初球のリプレイ、焼き直しの如くに終わった。

 

「「ああ……」」

 

 夕姫や茜は顔面蒼白になっている。

 

「「……」」

 

 一方で、二人よりも近い所に居る翼と和香は違っていた。それぞれ、どちらからともなく目を合わせる。

 

 二人の視線に込められているのは、二つの言葉だった。即ち「まさか」と「いやひょっとして」。

 

「もう一球よ。どんどん投げてきて」

 

 先程よりも逸った様子で、龍が叫んだ。

 

「はいはい、焦らなくても。それっ!!」

 

 投じられる三球目。

 

「ふっ!!」

 

 完璧なスゥイング。

 

 響く、澄んだ反響音。

 

 センター返しになった白球はやはりみづきの頭上を越えていって、ヒマワリ畑に飛び込んだ。

 

 ここまででみづきが三球投げて、三連続ホームラン。

 

 だが打たれたみづきの顔には、ここへ来ても動揺が見て取れない。

 

 一方で打った龍の方にこそ、顔には冷たい汗が伝って、思わず生唾を呑み込んだ。

 

 何かに圧倒されたようになっているのは、翼と和香も同じだった。審判と捕手で一番近い所に居る二人には分かった。

 

 今の三球。スピードは初球より二球目、二球目より三球目と少しずつ速くなっていたが、コースは三球とも寸分の狂いも無く同じ所に来ていた。そして龍のスゥイングも二人は見ている。迷い無く、バットはスムーズに動いていた。

 

『恐らく、今のコースが東雲さんの最も得意とするポイント、打撃のツボ……鏡原さんは、そこに1ミリも外さず三球続けて投げてきた』

 

『打たれたんじゃなくて、まさか打たせた……?』

 

 考えている間にもプレイは続く。

 

 4球目、5球目。

 

 実はこれは現実ではなく記録映像を編集してループさせているのを見せられているのではないかと自分の目を疑う程に、同じ展開が続く。龍はみづきの投げる球を全てピンポン球のように跳ね返して、ヒマワリ畑にぶち込んでみせた。

 

「待って」

 

 6球目を投げようとした所で、龍がタイムを掛けた。

 

「ん? どしたの東雲」

 

「鏡原さん、直球にはそろそろ慣れてきたわ。次は変化球が打ちたいわね」

 

 龍は怒った様子でもなく、真剣な表情だ。

 

「オーケー。では、カーブを投げるわ」

 

 しかしこれには、和香の方が動揺した。

 

「鏡原さん、私はまだ変化球は……」

 

「良いから、すずわか。目を瞑って構えなさい!!」

 

「「「えっ!?」」」

 

 みづきのこの言葉には和香本人は勿論、翼と龍も声を揃えて驚きを見せた。誰よりもしっかり目を凝らして捕球すべきキャッチャーに、あろう事か目を瞑れと言ったのだ。

 

「目が見えたらかえって惑わされるわ。兎に角、私を信じなさい。絶対にミットを動かさない事。それだけを考えて!!」

 

「……」

 

 野球について、虚言やハッタリを言ったりはしないし想像で野球をする人でもない。

 

 まだ短い付き合いだが、和香もみづきについてそれは分かっている。彼女は不安は隠せないが、目を閉じて構えた。

 

「来い!!」

 

 和香に言われるまでもなく、みづきの足が上がって投球動作に入る。

 

「「!?」」

 

 声には出さないがこの時、龍と翼はそれぞれ目を見張った。

 

 リリース。

 

 真っ直ぐよりはやや劣る速さで向かってきたボールが、龍から見て外へ逃げるように曲がり、

 

 バン!!

 

 乾いた音が立つ。

 

 捕球音。

 

 目を瞑って動かさずにいた和香のミットに、ボールが飛び込んだのだ。

 

 ここで漸く目を開けた和香が、言葉は無くしかし「信じられない」と聞こえてきそうな表情で、ミットの中のボールを見やった。

 

「もう一球行くわよ」

 

 みづきが振りかぶる。

 

 今度は和香も目を開けていたが、しかしここで彼女はとんでもないものを目の当たりにした。

 

 みづきが、目を瞑っていたのだ。

 

「やっぱり」

 

 信じられないと、翼が思わず呟いた。龍も同じ言葉を言いたかった。

 

 目の錯覚か何かだと思っていたし思いたかったが、さっき見たのは、間違いではなかった。

 

 みづきは、捕手の和香に目を瞑らせて。そして、自分も目を瞑っていたのだ。それでいて、構えたミットにカーブを入れてみせた。

 

 硬球がみづきの手から放れる。

 

 同じコースのカーブ。やはり完璧にコントロールされた球は、先程と同じコースをトレースするように進んできて、曲がる。

 

「むんっ!!」

 

 龍が、体を投げ出すようにしてボールを迎え打つ。

 

 快音。

 

 6本目のホームラン。

 

 ベンチに座る面々は、もう見ていられないと目を背けている者すら居た。

 

「成る程……確かにこれは、魔球ね」

 

 龍が呟いた。

 

「!」

 

「鏡原さん、分かったわよ。魔球0.0625の正体」

 

「へえ……?」

 

 ここで、龍は振り返って和香と翼を見やった。

 

「あなた達も何となくなら気付いているんじゃないかしら?」

 

「「……」」

 

 一瞬だけ、顔を見合わせる翼と和香。

 

「まぁ……」

 

「そりゃあ、ね。こんなのが続いたら……」

 

 同意を得て、自分の考えに龍は確信を持ったようだった。

 

「0.0625とは、1を16で割った数。1/16……つまりストライクゾーンを縦に4、横に4の4×4で16分割してその一点、1/16の狙った箇所に、投げ手、フォーム、球種、球速に関わらず投げ入れるコントロールが、魔球の正体と見たわ」

 

「つまり、魔球0.0625は球種じゃない」

 

 翼は、みづきがやっていたコントロールの練習を思い出していた。吊したバスケットボールのど真ん中に、当て続ける制球力。今にして思えばあれが魔球の片鱗であったのだ。

 

「鏡原さんが投げる球が、全て魔球になるって事ね」

 

「正解よ。流石ね、東雲」

 

「……続きを」

 

 ぐっと、龍が構える。

 

 表情は真剣そのもの。そして顔には集中からか、先程のものとは違う熱い汗が浮いている。

 

 みづきの才能が涸れているとか、それを思い知らせてやろうかという気持ちは既に失せていた。

 

 最初の一球だけなら偶然かとも思ったが、三度も偶然は続かない。

 

 間違いなく、みづきは龍が一番打てるポイントに狙って投げてきている。

 

 だがこれは、断じて手抜きや接待の類いなどではない。

 

 龍も本職ではないにせよピッチャーの経験はあるので分かる。投げる事には、ボールをコントロールする事にはどれだけ莫大な集中力が必要なのか、彼女は体でそれを識っている。

 

 それを、直球だけならいざ知らず変化球すらも1/16の一点に狙って投げ入れる、しかも目を瞑って投げてさえやってのけるなど、一球一球にどれだけ集中すれば。そしてどれだけの情熱を持って練習すればそんな神業が出来るようになると言うのか。

 

 今のみづきはそんな珠玉の業を使っているのだ。甘く見られている訳ではない。寧ろ逆だ。そんな奥義を使うぐらい、真剣に相手をしてくれている。

 

「そろそろ、難しいの行くわよ」

 

 そう言ったみづきの構えは、先程までとは違っていた。

 

 これまではナチュラルの彼女自身の投球フォームから投げていたが、みづきの真骨頂はモノマネ。名手になり切って気持ちがノリノリになっている時とそうでない時とでは、同じ本気、同じ真剣、同じ全力でもそのリミットの上限が違う。

 

 これまでのオーバースローから一転。横手から投げてくる。

 

「!! サイドスロー!!」

 

「そう、8年連続20勝!! 東京イーグルスの大エース、立花隆志投手のサイドスローを味わいなさい!!」

 

 ボールが放たれる。

 

 横から投げられる独特の球道。しかも右打者の龍からすれば、球の出所が見えにくい上にまるで自分の背中からボールが来ると錯覚するかのような極端な対角線投法でアウトコースに投げ込まれてくる。その球が、更にスライダーで外へと逃げた。

 

 そもそもサイドスローは横から手が出るので、横への変化球が投げやすい投げ方である。みづきはその特性を最大限に活かしている。

 

「……これは打ちにくいわ」

 

 そもそもサイドスローの投手とはあまり対戦経験がないし、そこから更にスライダーを組み合わせてくる投手など初体験だ。

 

 だが、これはただ打つものではないと龍は理解していた。

 

 これは練習だ。

 

 『習い』を『練る』こと。

 

 野球を続けていれば、いつかはこんな技を使う相手と相見える事があるかも知れない。その時の為に慣れておけ。その時、どうやったら打てるか今の内から考えておけ。言葉にはせず、だがみづきはそう言っている。

 

 龍はタイムを掛けると足場をオープンスタンスに変えて、右サイドスローの軌道と平行になるように作る。

 

 更に打席の最前部に立つ。これはスライダーの曲がりっぱなを叩こうという工夫だ。

 

「行くわよ~~っ」

 

 先程と同じ右サイドから、リリース。

 

 今度は、球の出所が見える。球道も、しっかり見えている。そして曲がり始めるその瞬間を、捉える!!

 

 カキィィィン……!!

 

 快音。またしてもホームラン。ただし今度はスタンスの関係上、レフト方向に球が飛んだ。

 

「ナイスバッティング!! その調子よ。それでいいのよ、それで!!」

 

 打たれたみづきが、龍を讃える。

 

「さぁ、まだまだどんどん行くわよ!!」

 

 次々にみづきは投げていき、龍はガンガン打っていく。

 

 実に29球の内、20球をスタンド入りさせて他の球も初見で球筋を見極める為に見逃したもの以外は全てクリーンヒットを打ってみせた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 玉の汗を流し、それを拭おうともせずに構える龍。

 

 この時、審判として立つ翼は、一つの事に気付いていた。

 

『東雲さん、笑ってる……』

 

 これは彼女にも理解できるものだった。

 

 昨日までは打てなかった球が、今日は打てる。自分が上手くなっている事が分かる。その上達の実感。

 

 もっと上手くなりたい。そう思う気持ち。

 

 野球をやる者の、恐らくは最も始原的な悦びなのだと。

 

「さてと、次で30球目。そろそろ終わりにするわよ」

 

 と、みづき。龍にも異存は無かった。

 

 ピッチャーがベストコンディションを維持できる限界は1イニングで20球程度が限界とされている。何故ならそれ以上を過ぎると、球威・コントロールが共に下降線を辿るというデータがあるからだ。それを鑑みても、投球という行為にはその人間の最大の能力が必要とされる事が分かる。

 

 それを29球目まで、恐るべきコントロールを維持出来ている事ひとつを見てもみづきが心技体全てを鍛え抜いている事を、疑う余地は無い。

 

「最後は東雲、あなたへ宿題を出すわ。カットしてでも粘ってみせなさい。出来れば、だけど」

 

「……」

 

 挑発のようにも聞こえるその言葉だが、龍はバットを寝かせるとスタンスも狭く取って、構えを変えた。

 

『……東雲さん、当てに来た』

 

 翼の分析は正しい。これまでの構えが強打重視のものだとすれば、これは大振りを避け、まず当てる事に主眼を置いたミート重視の構えだった。

 

 龍は、みづきの言葉を額面通りに捉えたのだ。

 

『これだけバットとボールで語り合ったんだから。今なら、あなたの言いたい事が分かる。あなたは、同じ野球をやる仲間として、私の背中を押している』

 

 そしてそれは、正しかった。

 

『だから私への宿題という言葉も、ハッタリとかあるいは打たれてばかりで悔しいから本気を出すとか、そんなのじゃない。明日の私が必ず今日より上手くなっているように。そういうメッセージを込めた一投である筈!! ならば私も、全力でそれに応える!!』

 

「……」

 

 ここまで、和香はキャッチャーと言うよりも只のカベだった。用意された所にミットを構えて、ボールが入ってくるのを待つだけ。

 

 しかしこの最後の一球で、初めて和香が動いた。

 

 ミットを『ある位置』へと、動かす。

 

『魔球0.0625。16分割したストライクゾーンの狙った一点に、全力ストレートであろうが変化球であろうが叩き込む恐るべき制球術。でも、これまでの29球で16のコースの内、たった一カ所だけ、まだ一度も来ていないコースがある』

 

 和香がミットを構えたのは、まさにそのコースだった。

 

『ここでしょ? 宿題というのは』

 

 みづきは満足そうに笑って、そして頷いた。和香のリードに従う意思表示だ。

 

『流石すずわか。ちょっと目が醒めるのは遅かったけど、ちゃんと分かってる。ちゃんとキャッチャーとして考えてるじゃない』

 

 翼も、今は審判のマスクで見えないが自分が笑っているのを自覚していた。

 

 誰にも雑念など何も無い真剣勝負。あるのはただ、好きな野球を上手くなりたいという気持ち一つ。

 

『野球はこうでなくっちゃ』

 

 とここで、みづきはグローブを左から右に嵌め直した。

 

「!!」

 

 龍が、警戒を強くした。

 

 次の一球、みづきはサウスポーから投げてくる。

 

 すると、みづきの顔つきが変わった。唇を突き出す。

 

「……」

 

 ここで、翼は何となく察しが付いた。

 

 基本的にみづきのモノマネは、マンガの選手だ。

 

 ピッチャーで、サウスポーで、唇を突き出す、つまりひょっとこ顔になる。

 

 これらのキーワードで線を引くと、その延長線上に居るのは……!!

 

「……東雲さん、多分次、アンダースローが来るよ」

 

「?」

 

 一方で、龍はみづきの足を見ていた。足をプレートの右端へと動かしている。

 

 もう、どんな球が来るか分かった。

 

「ピンチに笑顔(スマイル)、勝利をゲット、行こうぜ甲子園!!」

 

 歌うような掛け声から、振りかぶるみづき。

 

 体を深く沈み込ませ、白球を持つ左手を大きく天に突き上げる。

 

 翼の予想通り、アンダースロー。

 

「やっぱり!!」

 

「この投手は!?」

 

「都立あおい坂高校の1年エース、北大路輝太郎のサブマリン投法!! 受けてみなさい東雲!!」

 

 放たれるのは、地面スレスレを這うような低い球。それがアンダースロー特有の下から上への、独特の球道で向かってくる。

 

 ボールが向かうのは龍に向かい合うみづきから見て、横4と縦4のストライクゾーンを、外角高めを1の1だとすれば4の1、即ちインコース高め。そのポイントは、打者にとって一番難しいコースだ。

 

 何故ならそれ以外のコースは腕をしっかり伸ばしてフルスイングする事が出来る。だがインハイだけは体に最も近く、腕の付け根の肩に最も近いポイント。バットの芯をそこを通るボールに会わせるには、腕を思い切り畳んでバットの芯を体に寄せる窮屈な動作が必要となってくる。

 

 腕を縮めるだけではバットに十分な力が伝達しない。

 

 パワーが伝わる場所とは腕が伸びきって、バットの加速が最大に出る場所だが、インハイは他のコースと違って体の大分前にミートポイントがある。

 

 つまりスゥイングの仕方が違い、打つ場所も全く違う。他のコースとは違った感覚でバットを振らなくてはならない。だからこのコースへのバッティングは、最も高度な技術が要求されるのだ。彼の大打者、ドカベン・山田太郎が唯一苦手としていたのもこのコースだ。

 

 しかも滅多に居ない左のアンダースローからの投球、ピッチャープレートの右端からインコースへ走るクロスファイヤー。プレートの幅を最大に活かして、打者から見てプレートの右端からインコースへと投げる事で、ホームベース上をボールがクロスして通過する球。体にボールが向かってくる為に、右打者が左投手と対決する際には最も打ちづらい球になる。

 

 何重もの打ち辛さ。確かに今後の課題に相応しい。

 

『う……打てるの? こんな球が!?』

 

『打てる。絶対に打てる!! 私は乗り越えられる課題しか与えない!!! 今日は無理でもこれを味わう事で、明日の東雲は必ず打てるようになる!!』

 

『その通りよ!! 私はもっと上手くなれる。もっと強くなれる。もっと先へ行ける!!』

 

『導いてる!! 鏡原さんは鈴木さんを、東雲さんを、導いてる!!』

 

 ガッ!!

 

 初めて聞く、鈍い音。

 

「ああ!!」

 

 初めて、龍が悔しさを滲ませた声を出した。

 

 振り出されたバットが、ボールの下を叩いたのだ。打球は高々と上がって、みづきのグローブに収まった。

 

「スゥイングは完璧だったわ。流石は東雲。だが、捉えが甘かったわね」

 

 

 

 

 

 

 

 この翌日。龍は翼とみづきに入会届を提出した。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。