8回裏、清城高校側の攻撃。
里ヶ浜高校は、キャッチャーが和香から将城へと交代して守備に臨む。
何球かの投球練習の後、バッターがラップ。
この回の清城高校の打順は良し。4番バッターから始まって、6番の神宮寺にまで回る好打順である。
「良いですか?」
ネクストバッターズサークルで待機する5番打者に、神宮寺が話し掛ける。
「どうしたの、小也香?」
「この回からの、あのピッチャーの投球。一球たりとも目を切らないように」
「え?」
「私の考えが正しければ……これから私達は、スゴイものを目の当たりにする事になりますよ」
「?」
5番打者は神宮寺の言葉の意味を掴みかねて、狐につままれたような顔だったが……
そうこう言っている間に、マウンドではみづきが振りかぶって、足が上がった。
ダイナミックかつ滑らかな投球フォームで、ボールが放たれる。
ズバァン!!
一瞬の後、何かが爆発したのかと錯覚するような、豪快な音をミットが立てた。
「「……!!」」
この時、グラウンドからは捕球音の残響以外、全ての音が消えた。
里ヶ浜高校も清城高校も。審判ですら声を失った。
バッターは、構えたバットをぴくりとも動かさなかった。
否、動かせなかった。
『は……速い!!』
真ん丸な筈のボールが、一本の白い糸のようにしか見えなかった。
白い糸が振るわれたみづきの左手から伸びたと思ったら、もう将城のミットに収まっていた。
そんな速球が、インハイギリギリのコースに決まったのだ。
「ス、ストラーイク!!」
自失していた主審がはっとした顔になって、ストライクをコールする。
審判をしていた彼も、まさか女子野球の練習試合でこんな速球を目にするとは思っていなかったに違いない。それほど速かった。
たった一球でグラウンド全体の時間を止めてしまったみづきが、間髪入れず次球を投じる。
またしても白い糸にしか見えない剛速球が、今度はアウトローギリギリのコースに決まった。先程のインハイで体が立っていたバッターは、やはりバットをぴくりと動かす事すら出来ずに見送るしかなかった。
バッターの彼女は、慣れ親しんだホームグラウンドが、今は初めて訪れた場所のように思えていた。
マウンドからバッターまでの距離は、18.44メートルもある。
だがその18メートル超の距離が、これほど短いとは思いもしなかった。
もしかしたらみづきは何かしらの魔術かトリックで、マウンドからの距離を縮めているのではないか? そんな馬鹿な事を、真剣に考えた。
ソフトボールでは野球に比べてマウンドが5メートルばかり前にあるので、100キロ程度の打ち頃の球が、バッターの体感では野球に於ける150キロの剛速球に匹敵すると聞いた事がある。
同じ理屈でみづきは実はずっと前から投げているのではないかと疑ったが、何度目を凝らしても、彼女はマウンドにどっしりと陣取ったままだった。
以前に、練習の一環で特打ちをすべく、隣町の川奈バッティングセンターを訪れた時、名物である最速ケージで150キロの速球に挑戦した時の事を彼女は思い出した。
その時に味わった150キロの球よりも、今のみづきが投げる速球の方が速く感じる。
同じスピードならマシンよりも人が投げる球の方が速く感じるというアレなのか、それとも実際に150キロ以上も出ているのか。
だが有り得ないと思う。
女子野球では、球速が130キロを超えれば十分に剛速球と呼べるスピードなのだ。一年生ながら自分達のチームのエースである神宮寺の投げる速球も、130キロを上回る日は滅多に無い。
それを150キロオーバーの速球など……有り得ない。メジャーの無骨で屈強な男性選手とて、その域のスピードを投げる投手はザラには居ないのだ。まして中学を出たばかりの女子が……
……と、頭ではそう思うが、どれだけ否定しても実際に恐ろしいスピードで球が飛んでくるのだ。しかも、もうツーストライクまで追い込まれてしまっている。更にインハイで仰け反らしてからアウトローとコースを突いてきた事からコントロールも抜群に良い。失投は期待出来ないだろう。
何とかしなくてはならない。
「すっ、スゴイ!! 鏡原さん、こんな速い球を投げられたんですね!!」
「スゴイのだ、鏡原!!」
「鏡原さん、頑張って!!」
ツーストライクを取った事で、里校ナインも漸く我に返ったらしい。堰き止められていたダムが決壊して、鉄砲水が吹き出るように、溜まりに溜まったエネルギーは歓声となって溢れ出した。皆、興奮気味にみづきへとエールを送る。
「2年前よりも、また速くなっているわね」
里校ベンチでは、腕組みした龍が感嘆の声を漏らした。
「こんな球を投げる力があるのに、私の練習の為に抑えていたのね」
呟く和香の表情には、悔しさと感心がちょうど半々ぐらいの割合で滲み出ていた。
そうして、みづきは三球目の投球動作に入る。
構える将城のミットの位置は、ストライクゾーンのど真ん中。
『こ、こうなったらもう一、二の三で振るしかない……ひっ、ひっ……』
肩をいからせて構える4番打者。
本来、余計な力を入れるのは筋肉を緊張させて却ってスイングスピードを損なってしまうのだが、これほどの速球をいきなり見せ付けられて力むなと言う方が無理な相談であろう。
上がった足が踏み出されて、投じられるボール。
先程と同じぐらいのスピードで、白い糸が向かってくる。
だが、厳しいコースを突いてきた前の二球に比べて、今のコースはど真ん中。
『こ、これなら……!!』
野球は、打者は三割打てれば一流と言われるスポーツだが、では何故三割しか打てないかと問われると、そこにはコースや球種、緩急といった駆け引きが存在するからであって球種とコースが分かればバッターは六割打てるとも言われている。
いくら速くてもコースがど真ん中で、タイミングが合えば打てる。
川奈バッティングセンターでも、しっかりタイミングを合わせていけば、150キロの速球でさえ前に跳ね返せた。マシンと人の違いはあっても、打てる!!
そう確信してバットを振り出す。
しかし。
白い糸が、ブレた。
「なっ……!! 速球が……揺れたーーーーっ!!!!」
「な、何!? この球は……!?」
「ナ、ナックル……!? でも、速すぎる……!!」
150キロ超の剛速球が、揺れながら向かってくる。
見た事も無い変化を捉えられず、バットは空を切る。
快音を立てるミット。
審判が、アウトをコールする。
「う……うおおおおっ、凄い!! 凄いぞ鏡原!! フレー、フレー!!」
「こ、これは大スクープにゃ!! 明日は特集を組むにゃ!!」
「が、頑張ってー!!」
外野からのエールを背に受けて、みづきは将城からの返球を受け取った。
「さ……小也香……今の球は……!?」
顔を真っ青にした5番打者は、神宮寺を振り返った。
神宮寺は、笑っていた。
ただし顔を引き攣らせて、でも嬉しそうに。
「……やはり彼を、連れてきたのですね」
「……彼?」
「神戸翼成高校の4番ピッチャー、生田庸兵選手。その実力と将来性を評価され、交通事故で他界しても尚、12球団から1位指名された大投手です。そして今、あのピッチャーの投げた球こそ、彼のウイニングショットであった高速ナックル……魔球KOBE!!」
「こ……高速ナックル……」
ナックルという球種は、5番打者の彼女も知っている。
揺れる魔球と呼ばれて、その時の気温・湿度・風向きなど様々な条件によって一球一球ごとに違った変化をする、キャッチャーも捕球が難しく、ピッチャーにさえコントロール出来ない物凄い変化球なのだ。メジャーでもこれを投げる投手はそう多くないという。
無論、女子球児の彼女は実物を体験した事など一度も無い。
しかし本来のナックルは100キロも出ない、キャッチボールの球かと錯覚するような緩い球だと聞いている。それをみづきは、150キロ以上の球を揺らしてきている。
「そ、そんな球が有り得るの?」
「……全ての変化球には、遅い球と速い球があります」
カーブとスライダーは、同じように曲がるがスピードが違う。スライダーには更に通常のスライダーとストレートと遜色無い速さから曲がる高速スライダーなるものが存在する。
落ちる球、フォークボールには通常のフォークと、ストレートの速さから落ちるSFF(スプリットフィンガードファストボール)が存在する。
ならばナックルにも、緩い通常のナックルと速いナックルの二つがあっても不思議ではない。その速いボールこそが、高速ナックル・魔球KOBEなのだ。
「兎に角……目の前の彼女はそれを投げてきているのです。その事実は動きません」
マシンが投げる150キロの真っ直ぐですら何とか打てるぐらいだったのに、それ以上のスピードでしかも揺れながら飛んでくる球など打てる訳が無いと、へっぴり腰で打席に向かう5番打者。
彼女にも、みづきは魔球KOBEとストレートのコンビネーションを投じる。
結果は、敢えなく三球三振だった。
そうして、打順は6番打者の神宮寺に。
一礼して打席に立った彼女を、将城が観察する。
『……笑ってる』
そう、今の神宮寺は笑っていた。
歓喜の笑み。
「……この目で見ても、未だ信じられません。魔球KOBEを、本当に投げる人が居るなんて」
「……だろ。尤も、私しかこの球は捕れないから、私がキャッチャーの時しか投げられないけどね」
自慢げに言う将城。神宮寺は頷いて返す。遅いナックルですら、それを投げるナックルボーラーのピッチャーには専属のキャッチャーが付いて、しかもソフトボール用の大きめのミットを使ってやっと捕球するという。
それを150キロオーバーの高速ナックルを、将城は後逸もせずに捕球しているのである。投げるみづきはバケモノに違いないが、捕る将城も十分にバケモノである。
「私は野球漫画が好きで……今よりもっと子供の頃は、思っていましたよ。一生に一度で良いから、こんな漫画のピッチャーやバッターと、対決してみたいって……」
バットを握る手に、ぎゅっと力が入った。
「夢が、叶いました。あなた達が、叶えてくれました。私はいつも野球には真剣で全力ですが……でも、この打席は人生一番の集中力を以て、挑むとします」
にっ、とマスクに隠された唇を将城が吊り上げた。
「……手加減はしない」
「よろしい。望む所です」
頷き合う二人。そうしてマウンドに目を向けると……
みづきが、硬球を持った左手をぐっと前に突き出した。
親指と小指でボールを挟み、間の三本は爪を立てるようにボールに当てた異様な握り。ナックルの握り方だ。
これを見せるという事は、その意図は一つ。予告投球。
「魔球KOBE一本で行くわよ」
本来ならば、1点もやれない所で予告球など正気の沙汰ではないが……だが、みづきも神宮寺も分かっている。これはアスリートとアスリートとが今迄練習してきた全てで以てぶつかり合う、崇高な真剣勝負なのだと。
特に、神宮寺にとってはこんな球を投げるピッチャーと対決する機会など滅多にあるものではない。あるいは、これが生涯最初で最後になるかも知れない。だからこそ、この打席に懸ける集中力をみづきは感じ取って、その気持ちを汲んだのだ。
投じられる魔球。
振るわれるバット。だが、掠りもしなかった。
神宮寺も三球三振に取られ、審判がバッターアウトとチェンジをコールする。
「……今回は、私の負けですね」
言葉通り、この勝負は完全に自分の負けだったが……しかし悔しさこそあれ、暗い感情は少しも湧いてこなかった。それどころか清々しい気分ですらある。
正々堂々とぶつかり合った者同士にしか、この気持ちは分からないだろう。
ぐっ、と三振に取られた神宮寺がガッツポーズを決める。
これを受け、打ち取ったみづきもまたガッツポーズを返した。
わっと、グラウンドが拍手と歓声に包まれる。
拍手と歓声は、里ヶ浜高校ナインと清城高校ナインの、両方から上がっていた。
敵味方の垣根を越えて、皆がこの対決を讃えていた。
こうして、里ヶ浜高校は8回裏を三人三球三振、9球で切って落とし無得点に抑える。
9回表、最後の攻撃に望みを残した。