「そう言えば、かがみん」
ある日の練習中。
ウォーミングを兼ねたキャッチボールが終わった所で、あおいがみづきに尋ねてきた。
「かがみんって、私の事? はい、どうしました? 阿佐田先輩」
「前の練習試合で、ふにゃふにゃ揺れながら飛んでいくボールを投げてたけど、あれは何ていう変化球なのだ? あおいにも投げられるのだ?」
「あぁ、あれは魔球KOBE……ナックルという変化球の亜種ですね」
「ナックル?」
「すずわか、説明を」
「分かったわ。阿佐田先輩、ナックルというのはボールの回転を、ピッチャーの手から放れてキャッチャーミットに届くまでの間にボールの回転を4分の1にまで抑えて……球の縫い目が空気抵抗を拾い……左右に揺れて……」
「???」
理論派の和香がナックルの原理を説明するが、理屈の半分もあおいには伝わっていないようだった。顔にもチンプンカンプンだと書いてある。
「……見せた方が早いわね」
適当な所で、見かねたみづきが話を切り上げさせた。
ボールをグラブに叩き付けてバシッとした音を立たせる。
「すずわか。受けてくれるかしら?」
「分かったわ。でもナックルを受けるとなると、防具を着けなくちゃ……」
ナックルはメジャーリーガーでもそうそう投げるピッチャーはおらず、一投ごとに変わった動きをするそのボールは投手もどう変化するか分からない、捕手にも捕る事が難しいという魔球である。故にナックルボーラーには専属のキャッチャーが付くというのは有名な話だ。
急いでプロテクターを装着した和香が座ると18メートル超の、マウンドからホームベースまでの距離をみづきが取った。
「阿佐田先輩はすずわかの後ろ、主審の位置で、じっくりと見てください。それと念の為にマスクを」
「分かったのだ」
予備のマスクを被ったあおいは和香の背後に回り込むと、やや腰を落として視線を和香に知覚する。
すると、みづきはジャージのポケットから取り出したサインペンでボールに何かを書き込んだようだった。
「「?」」
「じゃあ、今から私がボールを投げますけど、そのボールに何が書かれているかを、良く見て当ててみてください」
「う、うーむ……」
「それでは、まずはストレートから」
振りかぶって、投げる。
文字通りの真っ直ぐ、落差の少ない軌道のボールが飛んでいく。速度は110キロほど。白球はそのまま和香が構えるミットに飛び込んで、快音が鳴った。
「さて、何が書かれているか見えましたか?」
「い、いや……さっぱり分からなかったのだ」
「良く回転が掛かっていましたからね。勿論、私にも見えませんでした」
と、和香。
「じゃあ、次はナックルを」
「ちょ、ちょっと鏡原さん。私は魔球KOBEなんて捕れないわよ?」
「分かってる分かってる。これから投げるのは普通のナックルよ」
そう言って、右手を差し出して握りを見せる。
練習試合で神宮寺への予告投球時に見せたのと同じ、親指と小指でボールを把持し、間の三本の指は曲げて爪を立てるようにした握りだ。野球の解説書にも記載されている、ナックルの握り方である。
「そりゃっ」
キャッチボールのような、ほとんどスナップスローに近いフォームから山なりの軌道を描くボールが放たれる。
ゆらりゆらり、ふにゃふにゃと揺れて、そして落ちる。
「おおっ!!」
後逸を防ぐ為にあらかじめ姿勢を低くしていた和香であるが、だが捕球する事は出来ずに何とか体で止めた。
「さて、今回は見えましたか?」
「見えた見えた。にゃんこが描いてあったのだ」
「……確かに」
和香がボールを見ると、サインペンで猫の絵が描かれていた。
「絵が見えたのは、ボールが殆ど回転しなかったからですね。回転しないボールだから、縫い目が空気抵抗を拾って左へ右へとランダムに曲がる。つまり、揺れるんです」
「な、成る程。あおいにも投げられるのだ?」
問われて、少しだけ困った顔になるみづき。
「うーん、まぁそこは努力次第、としか」
二人の所までみづきが走ってくると、和香からボールを受け取る。そして間近で先程と同じナックルの握りをしてみせた。
「ボールを回転させない為には、スナップを効かせない為に曲げた指でボールを弾き、押し出す事が必要で、その為には指を鍛える必要があります。最低でも、これぐらいは出来るように。将城、テープ持ってきて!!」
「あいよ」
相方が持ってきたビニールテープを、みづきは人差し指から薬指までの三本に巻き付けてぐるぐる巻きにしてしまう。そうしてガチガチに固めてしまったが、彼女は指を広げる力で簡単にビニールテープを引き裂いてしまった。
「指を使った腕立て伏せとかで、指の力をしっかり鍛えなくては」
「ちなみに本来のナックルは100キロも出ない緩い球だが、ご主人は高速ナックル・魔球KOBEを投げる為にバイクを使って指の力を鍛えたぞ」
「そ、壮絶ね……」
「二番手ピッチャーを誰にするかの相談かしら?」
今度は龍がやってきた。
「ええ、東雲。このチームでピッチャーを出来るのは私とあんただけど、あんたは本職じゃないしサードの守りも疎かには出来ないからね。私一人で全部の試合を完投する訳にも行かないし、サブポジにしてもピッチャーの練習は必要でしょ」
「確かに。それで阿佐田先輩が?」
「そうなのだ。魔球・にゃんこボールを開発するのだ!!」
「にゃんこボール? ナックルですか。確かにそれも良いですが。鏡原さん、私としてはピッチャーには野崎さんを推薦したいわね」
「え、私ですか?」
唐突に指名された夕姫が、戸惑ったように視線を泳がせた。
「ええ、今迄の練習を見ていて、野崎さん。あなたは体格にも恵まれているし身体能力にも秀でている。サブポジションでも良いから、是非ピッチャーをやるべきよ」
「流石は東雲。見る目は確かね。私も同意見よ」
みづきもうんうんと頷きながら、龍の意見に賛成票を投じる。
「サウスポーの投げ方なら私が教えられるし。勿論、強制はしないし今すぐにとは言わないから、検討してくれないかしら? 幸い、考える時間はあるでしょうし」
「え? それって、どういう事?」
これは、話を聞いてやってきた翼の台詞である。
聞いた龍、みづきの二人は「ええっ」と正気を疑うような顔を見せた。その後で、みづきは呆れ顔に変わる。
「……有原。来週からはテスト期間だから、部活は禁止になるのよ。忘れてたの?」
「!!」
表情を固まらせる翼。強張った笑顔に、たらりと頬を伝う冷や汗。
……どうも、本当に忘れていたらしい。縋るような目つきになった。
「え、えっと……鏡原さんは……」
「言っておくけど、野球バカな私だけど勉強だって優等生よ。一球さんの英語は上級生がびっくりするほど素晴らしい発音だったし、MAJORの寿くんだって文武両道だったからね」
モノマネしているのは、野球だけではないらしい。
「それに委員長の月島さんも言っていたわよ。頭も体も鍛えてこそ、大人になれるんだって」
「ううっ……」
「第一、学生の本分は勉強だし赤点でも取ろうものなら補習で部活が出来なくなるのよ? 分かったら、キリキリと勉強しなさい!!」
全くの理詰め、全くの正論、全くの理論武装。
反論する言葉を全て封殺され、翼は涙目になった。
「と、ともっち~」
涙目になって、智惠の方へと走っていく。
「はいはい、一緒に勉強しようね翼」
「やれやれ……」
「な、何!? テスト? もうそんな時期だったのか!!」
「「うん?」」
頓狂な声のした方へ振り返ると、真っ青な顔になった良美が立ち尽くしていた。
「「……」」
……どうやら、テストの事をすっかり忘れていたのは翼だけではなかったようだ。