「そう言えばご主人、聞いたか?」
「? 何かしら将城」
現在、里ヶ浜高校は定期試験の真っ最中。
この日のテストが終わって、右手にサンドイッチ、左手に教科書を持って明日の予習を行なっていたみづきの元へ、相方がやってきた。
優等生を自称するだけあってみづきの学業の成績は優秀である。パートナーである将城もまた、付き合いの長さから勉強を教わる機会も多いので、テストは無難にこなせていた。
「有原と河北さんの事だよ」
「!」
ぴくりと片眉を上げたみづきは「ああ、あれか」という表情になる。
テスト期間中で部活は休止になっているこの時期だが、智惠はテストが終わった後に自主練をしているらしい。ところがそれは彼女一人ではなく、先日練習試合を行なった清城高校キャプテンである神宮寺と行なっていて、それが原因で仲違い気味という事らしい。
「それで?」
「私達も、仲直りの為に何かするべきでは?」
「ふむ……」
タマゴサンドをパクリと口の中に消したみづきは、しばらく考える様子を見せていたが、すぐに教科書に目を戻した。
「まぁ、疎き者は親しき者を隔てずとも言うし。少しぐらいのいざこざなら時間が解決してくれるでしょ」
「……大丈夫かな?」
心配そうに、首を傾げる将城。
一方でみづきは落ち着いた風だ。
「勿論、こじらせてあまりにも長引くようだったら私も解決に協力するけどね。今は様子見よ。こうしたトラブルって、リトルやシニアの時にも良くあったでしょ。原因も大体分かるし」
「そりゃまぁ。幼なじみとか兄弟で一緒のチームだった人達とかには、よくあったな」
しみじみとした目になる将城。それにこれが翼・智惠間の問題であるという一点については彼女も異議は無いので、みづきの言葉にも一理がある事を認めた。
「人に追い付き追い越すには、人が練習していない時に練習する事。発想は間違っていないが……この前の試合や練習でもエラーの多さを気にしていたのも分かるけど、河北さんはちょっとせっかちだ。焦っても、すぐには上手くならないのに」
「ホントにねぇ……」
ふう、とみづきは溜息を一つ。
「ところで将城、今日辺り、ちょっとバッティングセンターに寄ってかない? いつもの、やりにいこうよ」
「ああ、分かったよ。ご主人」
川奈バッティングセンター。
胸の中のモヤモヤとした気持ちをどうにも出来ず、半ば憂さ晴らし気味にボールをぶっ叩きに来た翼。頭の中では、先日智惠が口にした言葉がぐるぐると回っていた。
『親友やめる』
「……っ」
力任せにバットを繰り出す。
雑念が交じっていてもそこはシニアの全国優勝経験者。マシンが投げる球程度なら、体が覚えている動きで全て跳ね返してしまう。
と、隣のゲージで快音が聞こえた。
ちらりと振り返ると、ネット越しに見知った姿があった。
「あ……神宮寺さん」
しかし、次の瞬間だった。
バシッ!!
聞き慣れた音が、耳に入ってきた。
ボールがミットに入った時の、捕球音だ。
何故バッティングセンターで捕球音が……?
そう思って音のした方を見て……
翼はそこに驚くべきものを発見した。
マシンの5メートル手前に誰かが座っていて、150キロの球を受けていたのだ。
しかもそのすぐ後ろに、バットを持った人がもう一人。
彼女は正対しているので、翼や神宮寺にも誰なのかすぐに分かった。
「「鏡原さん!?」」
二人が揃って声を上げると同時に、立っている方も二人に気付いた。
「あれ、有原に神宮寺さん?」
みづきだった。その時、別のケージでキィンと打球音が上がる。打球は彼女の方へと飛んでいくが、
「おっと」
みづきは持っていたバットで、刀で銃弾を防ぐようにボールを止めてしまった。
「ははっ、やっぱりいつやってもこれは面白いわね。反射神経のトレーニングになるし、ジェダイの気分が味わえるわ」
「な、何やってるの?」
「ちょ、有原危ない!!」
思わず飛び出した翼だったが、みづきに制された。
今みづきが居る所は、打球がどっちへ飛んでくるか分からない危険地帯なのだ。
「おい、どうしたご主人?」
とここで、みづきの背後で座っていた人も気付いて振り返る。
予想通りと言うべきか、彼女の後ろにいたのは相方の将城であった。
「有原と神宮寺が居たのよ。それよりほら、よそ見しない」
「おっとそうだった」
将城が振り返ったところで、マシンから球が発射された。
150キロの速球を、しかし将城は確実に捕球する。
「なんと……」
思わず、神宮寺は感嘆の声を上げた。
ソフトボールでは野球に比べてマウンドからホームベースまでの距離が近いので、ウィンドミルで投げられる100キロほどの球が、体感では野球に於ける150キロの剛速球に匹敵すると言われている。
野球の練習でも、速球派のピッチャーへの対策としてマウンドから1、2メートル程前で投げる事によって体感速度を高めるという打撃練習もある。
そこへ行くと将城は、150キロのボールをマシンから5メートルの距離で受けているのだ。
150キロのボールが正規の野球ルールに於けるマウンドからホームベースまでの距離18.44メートルを進むのに要する時間は、およそ0.44秒だ。そこへ行くと、5メートルを進むのに必要な時間は0.12秒。野球の投球に換算すると時速553キロオーバーという異次元の球速である。
実験で人間の反射神経・反応速度の限界は0.1秒であり、殆どの人間はそれに遠く及ばないとされているので、将城は殆どその反射神経のリミットギリギリの速度で、キャッチングを行っている事になる。
魔球KOBEという、150キロでブレてどこに行くか分からない高速ナックルという恐るべき球を彼女が捕球出来る裏付けは、この練習にあったのだ。
みづきは魔球KOBEを投げる為にバイクを使って指の力を鍛えたと言うが、それを捕球する為の将城のトレーニングもまた、厳しいという次元を越えて狂気の域に足を踏み入れている行いだった。
そして将城の背後に立つみづきは、客がどこへ打つか分からない打球から、将城を守るのが役目だった。
決まったタイミングで打つ正規の野球ルールとは違って、それぞれ違ったタイミングでどこへ飛ぶか分からない打球を、しかもグラブではなくバットで止めるのである。単純な反射神経だけでは足りない。よほど全てのゲージの動きに目を配り、打つ瞬間をしっかり見極めなければ、対応する事など出来ないだろう。
「迷惑掛けてるのは私達だから、いないものだと思って打ってくれて良いわよ。ここの店主さんとは懇意にさせてもらってるから、私達は特別に許可してもらってるのよ」
「打ちに来る客はいても、捕りに来る客は開業以来初めてだよ。打球をバットで防ぐ客もね」
これは店主のコメントである。
そう言っている間にも打球が飛んできて「おっと」と、みづきはバットでボールを打ち落とした。
「将城、安心してキャッチングしなさい!! あなたの背中は私が守るわ!! なんてね」
「ここに来る度にそれ言ってるよな、ご主人」
「この前は胸を貸してくださって、ありがとうございました」
「受け取っておきます」
将城が差し出したスポーツドリンクを、神宮寺は取った。
今は休憩スペースには、翼・将城・神宮寺の3名がいる。みづきは神宮寺に挨拶をした後で、10球クリアの景品をプレゼントすると言ってストラックアウトコーナーに行ってしまった。
「あの……ともっちは?」
どこか言い辛そうに、翼が尋ねた。
「河北さんの事ですか? 先程まで自主練していましたよ。テスト勉強も頑張っているようですね」
「そ、そうなんだ……」
「最近、あまりちゃんと話をしていないとか。河北さんとは子供の頃からのお友達だそうですね」
「うん、家が近くで……親友、なんだ」
親友の下りで、少しだけ翼が口ごもった。
「私は野球に親友が必要だとは思いません」
「えっ?」
「必要なのは勝利という目的に邁進出来る戦友です」
「……戦友……」
「私情を挟むと、どこかに甘えが出てしまうでしょう?」
「甘え……」
「河北さんがあなたに教えてもらいたくないのはそれが理由ではないんですか?」
「……」
パン、と手を打つ音がして翼と神宮寺の視線がそちらに集まる。音を立てたのは将城の両の手だった。
「まぁ、人と人との関係には色々あるって事だよ、有原」
「……そう言えば」
思い出したように、神宮寺が顔を上げた。
「どうして岩壁さんは、鏡原さんの事をご主人と呼んでいるんですか?」
「あ、それ。私も聞いてみたかった」
「ん……そうだな。別に隠す事でもないし、良いか」
と、将城は少しだけ腕組みして考えた後で話し始めた。
「私とご主人が出会ったのは、幼稚園の時だった。有原と河北さんと同じで、家が近所の友達でな。昔からご主人は野球漫画が好きな野球バカだったが当時から凄い球を投げていてな。誰も捕れるヤツが居なかったんだ。私以外はな」
「ああ……」
「さもありなん、ですね」
みづきが投げた魔球KOBEは150キロオーバーの速度で揺れる高速ナックル。回転が殆ど掛からないナックルで150キロ以上も出るという事は、しっかりと縫い目に指を掛けて浅く握り、回転が掛かるフォーシームで投げれば、一体どこまで速くなるのか。もしかしらたら160キロ以上の剛速球となるかも知れない。
屈強なメジャーリーガーの男ですら、そんな球を投げる人間はそうは居ない。
それを、高校一年生・15才のみづきが投げるのである。女子野球では、プロであってもストレートが130キロも出れば十分に剛速球と言えるが、緩いナックルでさえ20キロ以上もそれより速い。
「こうして考えると……」
「鏡原さんは本当に人間ですか?」
「さぁ? まぁ、実は新人類どころか新生物、あるいは異星人だったと言われたって、私は疑わないがね」
ともあれ、中学を出たばかりの今でさえそんな球を投げるのだ。
勿論、体が出来てきたとか努力の成果もあるだろうが、小さい頃からその才能の片鱗を見せていたというのに思い至るには、さしたる推理力も必要ではない。
「とは言え、その一人だけ捕れる私でもキャッチングの練習ばかりしていてやっと捕れるぐらい、それぐらいご主人は凄かった。そしてリトルリーグに入る前日に、ご主人が言ったんだよ」
『将城、私の専属捕手になってよ。あなたは打てなくていい、守れなくていい、リードが下手でいい、足が遅くていい、肩が弱くてもいい。兎に角キャッチングだけ練習するのよ。あなたの野球の楽しみは、私がもらう。その代わり、あなたは私の一番傍の特等席で、私の伝説を見続ける権利を上げるわ』
「……ってね」
笑いながら語る将城とは対照的に、翼と神宮寺は目を丸くする。
「そ、それはまた……」
「とてつもなく、ワガママな話ですね」
野球は走攻守三拍子という言葉があるように、様々な要素が絡み合うスポーツである。
だから守備はダメでも打撃がずば抜けている人は指名打者や代打として出たりするし、守備も打撃もダメでも足が速い人はピンチランナーでベンチ入りしたりする例もある。
とは言え、様々要素があるからこそ野球は面白いというのも事実。
その面白さを、キャッチングしか味合わせないなど野球人として、なんという傲慢かと怒りを覚えさえする。
「まぁ、流石に私も無条件で了解した訳じゃない。一つ質問したんだ」
「質問を……」
「そう、当時既にご主人から、自分の目標は打って走って守って三振が取れて、他の選手を強くする事も出来て、良い作戦も立てられて、美味しい料理を作れて、整体も出来て、会社経営も出来る。そんな究極の野球人になりたいとは聞いていたが……だけど、何の為にそれを目指すのか」
『みづき、あんたはそんな凄い野球人になって、何をするの?』
「って、そう聞いたんだ」
100年以上にもなる野球の歴史の中で、数年間かあるいは十年間か。その時間、鏡原みづきこそがナンバーワンであった時代があった事を証明するのか。
選手と監督を兼任するプレイングマネジャーというのは時々聞くが、前代未聞の選手と監督と経営者とを兼任する三足のわらじ、プレイングマネージャーアンドオーナーという肩書きを目指すのか。
それとも、単純に野球が好きだからいつまでも野球に関わっていたいというだけなのか。
「まぁ、答えはなんでも良かったんだ。私が考えた可能性のどれを取っても、凄い事だからね。私がそんな人を作る助けになれたならそれも良いかって、そう思ったんだ」
「でも、違っていた」
神宮寺の言葉に、将城は頷いて返す。
「そう、もっと凄かった」
『人類を進化させるのよ』
『は?』
『だから、人類を進化させるのよ。野球で』
「「……はっ?」」
思わず、翼も神宮寺も当時の将城と同じ反応を返した。
予想通りの、昔の自分と反応を見て、将城はくっくっと喉を鳴らした。
「私も最初はからかっているのかと思ったがね」
『みづき、人間を進化させるって、どういう事?』
『知ってる、将城? 昔から野球に限らず、スポーツ選手が戦争の犠牲にならなかった時代は無いって。戦死は勿論、負傷して活躍出来なくなったり、徴兵されてその間に全盛期が過ぎてしまったり、そうでなくても戦争で大会が中止になったりとかしてね。そんな風に才能ある人達が消えてしまうなんて、哀しい事だとは思わない?』
『成る程。つまりみづき、あんたは凄い野球選手になって、大活躍して、引退後にはそのネームバリューで政治家になって、そして戦争を止められる役職に就くって事か』
それでも凄い夢だったから、将城にみづきの申し出を受ける事を決心させるには十分過ぎた。もしみづきがそれをやったのなら、みづきをここまで導いたのは自分なのだと、そう胸を張って叫ぶのだ。
『いや、少し違うわね。それも良いけど、現役選手の時からそれをやるのよ』
『……そんな、無理だよ』
『無理じゃないわよ。この世に不可能なんて事は何一つとて無い。まぁ、それでも今迄誰もやった事のない偉業と言うなら流石に私も躊躇するかもだけど、でも人類の歴史は深く、長い。スポーツで戦争を止めるっていうのは、既にそれをやった人が何人も居るのよ』
『嘘だぁ』
『ホントです!! 古代ギリシャでは、戦争中であってもオリンピックの時期だけは、戦争を中断してオリンピックをやっていたのよ。当時の選手達やポリス都市国家にとって、代表選手が優勝の証であるオリーブの冠を被る事は戦争で国が勝利する以上の栄誉だったのね。スパルタの選手が大活躍した話なんかは有名よ』
『へぇ、みづき。あんたは歴女でもあったのか』
『まぁね。話を続けるわよ。そこへ行くと、近代では戦争の為にオリンピックが3回も中止になっている。それを考えると、人間は昔に比べて退化したとも言えるじゃない? だから、私が野球でもう一度人間を進化させるのよ!! 野球で戦争を止められるようになるの』
『……出来るかな?』
『出来るわ。戦争というのは、要するに外交・政治の一形態だからね。さっきも言ったけど、ギリシャの都市国家がその期間だけ戦争を止めていたのは、戦争で勝つよりも代表選手がオリンピックで優勝する方が国家の威信を強く示せるからだったのよ。同じように世界中で野球が大ブームになって、世界中の恋人が言ってほしいプロポーズの台詞第一位が『私と生涯バッテリーを組んでくれ』で第二位が『あなたの心のミットに私の速球を届けてみせる』とかそんな風になって、自国の代表チームが優勝したら恩赦が出たりして、世界大会やオリンピックで優勝するのが戦争の勝利以上の名誉になれば、戦争は止まる筈よ』
『……』
『勿論、私一人じゃいくらなんでもそれはムリ。だから、手伝いが要るのよ。あなたにはその、最初の一人になってほしいの。私と一緒に来て。将城』
差し出されたその手を、将城は握り返した。
それが、主人と従者が決まった日だった。
二人はそれからずっと、野球に明け暮れて。
みづきの球を捕れるのはやはり将城だけで、練習メニューはキャッチングオンリー。打撃練習をしたのも守備練習をしたのも、遠い記憶の彼方。
「……最初はピッチングマシンの球を受けていた私だけど、段々と物足りなくなって、少しずつマシンのスピードを上げて、あるいは軍手で取るようにして……そうして筋トレでダンベルの重量を増やしていくようにエスカレートしていって……そして今や、150キロの球を5メートルで捕るようになったという訳さ」
「……な、なんて言うか……」
「スケールが違いますね。参りました」
翼も神宮寺も、脱帽という顔である。
「おーい、有原、将城!! ストラックアウト5球で9枚抜き達成の景品で、はなまるロード商店街の商品券5,000円分を手に入れたわよ。神宮寺、あなたも来なさいよ。今日は私の奢りよ。パーティーを開きましょう!!」
そこに、商品券を持ったみづきが駆けてきた。
「あぁ、ご主人。今行く」
「「……」」
翼と神宮寺は顔を見合わせて、くすっと笑い合った。
「じゃあ……」
「ええ、ご相伴にあずかりますか」