キィン!!
川奈バッティングセンターのケージに響く快音。
右打者用のボックスに立つのは、里ヶ浜高校女子野球同好会に審査の為、仮入部している九十九伽奈であった。じっとピッチングマシンを睨む彼女の目は、鋭い。
発射されるボール。このケージの球速は120キロとある。
しかし放たれた快速球を、伽奈は綺麗なスイングで弾き返した。
「……この球なら、打てるのだけどね」
はぁと一息吐いた伽奈の頭によぎるのは、先日の出来事であった。
「九十九先輩。阿佐田先輩や岩城先輩が言う通り、あなたのセンスは素晴らしいです」
打撃練習中。
マウンドのみづきは、何本目かの快打を放った伽奈へと賞賛を送る。
「私は初心者にはまずは打ちやすい球で接待して、それから少しずつ慣らしていって実力を高め、そして最後は課題を与えるというやり方をしているんですが……先輩には前の二段階は必要ありませんね。次は、課題のボールを投げます」
「……!!」
投球動作に入るみづき。伽奈は、これまでのみづきとは些か気迫が違ってきているのを感じ取って、こちらも警戒して構える。
次に来るのはこれまで以上の速球か、それともここまでずっと直球だったので目が慣れた所を衝く変化球か。はたまた緩い球で、タイミングを外してくるのか。
白球が、みづきの指先から離れる。
飛んでくるのは……
『……直球。スピードも、これまでと同じ!!』
ならば打てると、タイミング良くバットを振り出す伽奈。
『えっ?』
確かに球種はストレート、緩急を付けた訳でもない同じスピードの球だったが、しかし伽奈のスイングは全くズレたタイミングで、空振りしてしまった。
将城のミットに、気持ちいい音を立ててボールが飛び込む。
「おっ、とと……」
空振りするとは思ってもいなかっただけにバランスを崩してしまった伽奈は、立ち上がりつつ尻餅付いてしまって付着した土を払うと、ぱちくりと目を瞬かせて、そしてみづきの所へと駆けてきた。
みづきはと言うと、中々に見事なドヤ顔を浮かべている。
「……鏡原さん、今の球は……」
「フッフッフッ……不思議ですか? 球速は同じぐらいで緩急を付けた訳でもない。勿論左右に曲がったり落ちたりもしない直球。なのに全くタイミングが外れて空振ってしまった」
「ええ、そう……打てると思ったのに」
「はい、打てると思ったのは当然ですね。そう思わせる為のボールですから」
「? どういう事?」
「ウフフフフ……ちょっと実験してみましょうか」
「?」
「九十九先輩、将城とジャンケンをしてみてください」
「? ジャンケン?」
「はい、ジャンケン」
「……」
イマイチみづきの意図する所が見えてこないが、しかし取り敢えず伽奈は彼女の言葉に従って、マウンドにやって来た将城とジャンケンをしてみる事にした。
「では……」
「ジャン」
「ケン」
「「ポン」」
同時に出た手は、将城がグーで伽奈がチョキ。今回は将城の勝利であった。
「勝ったっ」
「……」
小さくガッツポーズする将城。一方で伽奈は当惑顔である。いきなりジャンケンしろと言われて、こんな事で何が分かるというのだろうか?
「では、もう一度やってみてください」
「???」
困り顔だが、伽奈は取り敢えずもう一度やってみる事にする。
「では……ジャン」
「ケン」
「ちょっと将城」
ここで、みづきが相方の肩を叩いた。
「えっ?」
「ポン」「あ、ポ、ポン」
将城は反応した事でタイミングが狂い、後出しの形になってしまった。今度は伽奈の手はパーで将城の手はグー。将城は後出しながら負けてしまった。
「はい、二人ともありがとうございます」
手拍子を打って、みづきは機嫌良さそうである。
「鏡原さん、これは一体何の実験なのですか?」
と、伽奈。当然の疑問と言える。
「簡単に言うと、このジャンケンをバッティングに置き換えると、最初の時は打てるけど二回目は打てないんですよ」
「? もう少し、分かり易く……」
「ジャンケンはジャン・ケン・ポンの三拍子でタイミングを合わせて、同時に手が出るようにしています。だから先出しにも後出しにもならない。バッティングも同じですよ。投手のフォームを見て、1、2の3でカキッ!! そうやってタイミングを合わせなきゃ打てないです」
「成る程、確かに。私もあなたのフォームを見てタイミングを計っていたしね。そこまでは分かりました。では、課題の球が打てなかったのは?」
「簡単ですよ。私は投げる時に軸足に『ねばり』を持たせて、九十九先輩のタイミングを外したんです。時間にして恐らくゼロコンマ1秒以下、ほんのちょっと、ほんのちょっぴりだけね」
「0.1秒以下……そんなにも、微妙なものなんですか?」
「そう。バッティングはそれほどデリケートなものなんです。突き詰めるとバッティングとはタイミングを合わせる事で、逆にピッチングはタイミングを外す事。たったそれだけの事ですが……たったそれだけの事に、アメリカのニューヨーク、クーパーズタウンで野球が始まってから(諸説あります)現在に至る百年以上の歴史の中で、無数の淘汰と試行錯誤が重ねられてきたんです。いや、今も続いています。どうです? 野球は、中々に奥深くて、面白いでしょう?」
「……」
「……ふふっ。今日は調子が良い」
バッティングセンターにて飛んでくる速球を打ち返す伽奈は、少しだけ自分の口角が上がっているのを自覚していた。
本当は、今日はこれから図書室で受験勉強をする予定であったのだが、昨日からこっちみづきが投げたタイミングを外すボールを如何にして打つかの算段が頭の中でぐるぐる回っていて、勉強も手に付かなかったのだ。
こんな風に頭がモヤモヤしたままでは勉強に身が入らなくて、非効率的だ。
それなら今日は一度迷いを吹っ切ってスッキリしてから勉強した方が効率的だろう。
『……なんて、言い訳だよね』
くすっと自嘲的に笑った後、伽奈は内心を自己分析する。
今迄、スポーツでも勉学でも、難しいと思った事は無かった。適切な労力を適切な分量振り分ける事で、こなす事が出来た。だからそこに達成感もなかった。毎日の朝食を食べる事に、達成感を覚える人が居ないのと同じ事だ。
しかしここへ来て、今迄通りのやり方では解けないパズルが目の前に提示された。
どうすれば解けるのか分からない。頭の中で思い付いた何パターンかの方法を試してみて、これはいけそうだ、いややっぱりダメ。その繰り返し、トライアンドエラー。
今迄味わった事の無い感覚だが……しかし不思議と、不快ではないものだ。
『どうやら私は、野球に魅入られてしまったみたいだ』
そんな風に考えながら球が出なくなった事に気付いて、このゲージに並んでいる人が居ないのを確認してからコインを投入して続きの練習をと、そう思った時だった。
キィン!!
隣のゲージから、快音が聞こえてきた。
「……あれは……」
翌日。
ブンッ、ブンッ……
ひまわりグラウンドに響くのは、女子野球同好会会員達の素振り音だ。
今は本格的な練習の前の自主練時間だ。何人かがクラスの用事で遅れてくるのが事前に知らされていたので、全員揃う前に先に来たメンバーがウォームアップや素振り練習をしていた。伽奈もその一人だ。これは仮入部扱いとは言え生徒会の審査で来ているだけ(そういう名目となっている)の彼女の領分からは明らかに外れている行動だが、誰もその事に言及したりはしなかった。
「ふうっ……」
額に浮かんでいた汗を拭ったそこに、みづきがやって来た。
「九十九先輩、今日は何か雑念を感じますね」
「……えっ?」
ちょっとだけ、伽奈は過敏に反応してしまう。
これはみづきも気付かなかった事で、それなりに付き合いのあるあおいならあるいは気付いたかも知れないという程度の僅かなものだった。
「スイングを見れば分かりますよ。バッティングのスイングでは、特に初心者は少しでも速く、また力強くバットを振ろうと全身の筋肉を緊張させて力を込めるんですけど……それがバカなんですよ」
あまりに力を入れすぎると、他の筋肉との連動を阻害してスムースなバットの出に繋がらないのだ。
「そこへ行くと九十九先輩のフォームは力の入れ具合も抜き具合も素晴らしくて、とても初心者とは思えない程に素晴らしいものだったんですが……今日はそこに、ムダな力が入っているように見えます。動きがぎこちないですよ。何かありましたか?」
「……見ただけで、そこまで分かるんですね」
ふう、と諦めたように伽奈は息を吐いた。
これまでの練習からこと野球にかけてみづきには恐ろしい才能があるのは分かっていたつもりであったが。ここまでとは。
「あなたに隠し事はムリみたいだ。実は……」
観念した伽奈は、昨日バッティングセンターで起きた出来事を話す事にした。
「……へえ。バッティングセンターの球とは言え全球をピッチャー返しする技術を持った選手が居て、でもそれはバットコントロールや打ち分けの練習じゃなくて、ピッチャー直撃上等の練習だったって事ですか……」
ふむ、と腕組みしたみづきは頷く。
「ええ、そうです……鏡原さん、あなたはどうですか? 確実に勝つ為なら、相手ピッチャーに打球をぶつけるのも辞さないですか?」
「ふむ……打球が速くて怪我をするというケースは野球では往々にしてありますからね。私だって顔面でボールを止めた経験ありますし。仮に打球を投手へ狙ってぶつけたとしても、偶然か故意か。そんなのを立証するなんて現実的には不可能。だから試合に勝つ事だけを考えるなら、中々に良い手段だとは言えるでしょうね」
「……でも、それは反則では?」
「反則はバレなければ反則ではないですし、バレないように反則するのは高等技術とも言えます。色々と理屈をこねても、卑怯汚いは敗者の戯れ言、勝った者こそが正義なのは競技の種目問わず千古不変の大原則ですからね」
「……では、鏡原さん。あなたも必要とあればピッチャーを狙って打球をぶつけるという事ですか?」
尋ねる伽奈の声には、彼女自身も自覚していない失望の響きがあった。自分の勝手な期待ではあるが、みづきならばもっと別の答えを聞かせてくれるような、そんな気がしていたのに。
「いいえ」
だが、みづきの言葉には続きがあった。
「!」
「私はそんなやり方は意地でもやりません。確かに今言った通り、勝てば官軍、勝った者こそが正義。だからこそ、その正義を守る為には、フェアプレーでなくちゃいけないんですよ。矛盾しているようですがね」
「……それは、プライドの為という意味かい?」
「……まぁ、それもあります。私のプライドは命よりも大切でね」
「……例えばそれが、君が三年生になった最後の大会で、優勝が掛かっている一戦でもかい?」
「私が三年生になった最後の大会で、優勝が掛かっている一戦でもです。昔、東京メッツのジャンボ投手は日本シリーズの第七戦、大阪アパッチとの試合で八百長をしなければ自分が死ぬと分かっていても決して八百長はしなかった。フェアプレーを貫き通した。大勢の観客達に嘘は吐けないって。白鳳学園の兵藤投手も、腹をナイフで刺されても八百長試合をするのは断固として拒否しましたよ。真っ白な体で甲子園に行くって、八百長なんかするぐらいなら死んだ方がマシだって、そう言ってね。私にとっては、彼等のその姿が野球選手の見本になってるんですよ」
「は、はぁ……」
八百長をしなければ死ぬというのがどういう状況かはイマイチ分からないし、ナイフで腹を刺されるというのもどう野球と繋がるのか分からない、恐ろしい話である。第一、ジャンボや兵藤というのがどんな選手なのかも良く分からないが、取り敢えずみづきの言いたい事は伝わってきた。
「……付け加えるなら、反則をして勝つって事は逆説的に反則をせずには、正攻法では勝てないって自分自身で認めてるって事ですからね」
「……まぁ、それは確かに」
伽奈はそれは正論だと認めた。確かに反則をしなくても勝てるだけの十分な実力があるなら、わざわざ警告や退場のリスクを冒す必要など無い。単純な技術や体力、それにチームワークだけで堂々と勝利する筈だ。
「私にはそれは我慢なりません。記録の上では一勝は一勝。白丸一つ。でも同じ一勝でも、勝ちの値打ちが違ってくるんですよ。実力で勝ったのと、反則して勝ったのとでは」
「……それが、誰にもバレなくてもかい?」
「勿論」
みづきは即答した。
「仮に他の人全て騙せても、自分だけはどうやったって騙せないでしょ。さっきも言った通り反則をして勝つって事はフェアプレーで勝つ実力が無かったって、自分で告白してるに等しいですからね。それは私は絶対嫌だ。私のプライドが許さない。だから、どんな相手にだって実力で勝ち切れるように、練習を積むんですよ」
「……」
無言になる伽奈。
みづきはこれを見て取って、くすっと笑った。
「九十九先輩には、イマイチ納得してもらえないみたいですね。言葉ではピンと来ませんか」
「ええ、まぁ……」
伽奈は言葉を濁す。
と、そこに。
「すいませーん、遅れました」
翼と智惠がやって来た。
「おお、有原。ちょうど良い所に。少し手伝ってほしいのだけど」
「? 私に? 良いけど……でも、何を?」
「まぁ、ちょっとした実験をね」
ここで、みづきは伽奈に向き直った。彼女の顔は、笑っている。確固とした自信の裏付けを感じさせる、力強い笑みだ。
「九十九先輩に、お見せしましょう。今し方言った、どんな相手にだって実力で勝ち切れるようにする。その為に練習を積むって言葉の、本当の意味を」