練習に明け暮れ、気が付けば合宿も最終日となった。
今日はこれから仕上げの練習である。みづきはいつも通り、疑似ナックル発生装置をホームベースに設置してノックの体勢に入る。将城もいつも通りぽいと、ボールをトスする。
……いや、今日は一つだけいつもの練習とは違う所があった。
「……」
この日のみづきは無言のまま、吹き出る空気の流れに乗って揺れるボールへと、バットを振り抜いたのだ。
カァン!!
快音が響いて、ライトへとボールが飛んでいく。
「え? わ、わわっ……」
虚を突かれて戸惑った様子の茜だったが、初動が遅れてあたふたして、キャッチした時に尻餅を付いたもののグローブにボールを収める事には成功した。
「え? ちょっと……鏡原さん、今、どっちに打つか言わなかったんじゃ……」
夕姫が、違和感を覚えて声を上げる。
智惠も、きょとんとして親友へと視線を送る。「言わなかったよね?」の意味だ。翼も戸惑いがちに頷いた。
たまたま忘れたのか。
「いえ……」
サードの守備に付いている龍が、その考えを否定する。
みづきほどの者が、そんなポカをやるとは思えない。
と、いう事は……
「補助輪はそろそろ外そう、って事よ」
あっけらかんと、みづきは言い放つ。
「より実戦的な練習にシフトする、って事か。ご主人」
最も付き合いの長い将城は、みづきの言わんとする事、この練習の狙いを正確に把握しているようだった。
「……より実戦的な練習……って言うと……」
「あらかじめ打球がどっちへ飛んでいくか分かる試合なんか無いよね? 打球がこっちへ飛んでくると分かっていて捕れたって、それはおざなりな……要するに練習の為の練習であって実戦で活きるものじゃないわ。練習は、実戦で活かす為にするものでしょ」
「成る程……」
「確かに」
理由を聞いた女子野球部の面々は納得が行ったという風だが、この時、野球経験が長い翼や龍は同時に別の側面を理解していた。
本当に重要なのは試合に近い練習をするという事ではなく、茜が予告無しの打球をしっかりと捕球出来たという点だ。
もしこの、打球方向を予告しないノックを合宿初日にやっていたとしたら、彼女に限らずキャッチ出来ずにバンザイやトンネルを連発し、自信を無くしてしまったり場合によっては野球部を辞めると言い出す者まで出たかも知れない。
とは言え、練習の為の練習ではなくより野球が上手くなる為、実戦に近い練習をするというのは自然な流れではある。ではどうして、みづきはこの練習を最初からしなかったのか。
答えは明白。
みづきは茜や智惠など、経験の浅いメンバーに実力が付くまで待っていたのだ。
実力が付いた上でなら、難しい課題をクリアする事によって逆に自信を付ける事ができるというものだ。
以前、中華料理屋『鉄人』にて祝杯を上げた時、みづきは言った。同じ高さへと到達するのに、短期間でロッククライミングのようにして行く事は難しいが、階段を一歩一歩上がっていくように小さな課題を一つずつクリアしていけば、いつか必ず登り切れると。
その言葉が、実践されつつある。
これまでの合宿の経過を見て、皆がそろそろこの段階の練習をしても大丈夫なだけの実力を備えつつあると見切っていたからこそ、みづきは練習のレベルを引き上げたのだ。
選手として「超」が軽く4つか5つは付く程に一流である事は今や疑いようも無いが、彼女はちゃんと部員全体を見ている。コーチや、監督としても十分に一流以上と言えるだろう。
経験者はより上手く。初心者も確実に上達させ、更にはそれを実感させてモチベーションを引き上げ、保ち、更に上手くなりたいと思わせる好循環に引き込んでいく。
「さあ、次もどっちに飛んでいくか分からないわよ!! みんな、一瞬も気を抜かないように!!」
「「「は、はい!!」」」
こうして今までに無い程の緊張感と共に、合宿仕上げの練習は終了した。
その夜。
「はあ……」
就寝場所である大広間からこっそり抜け出してきた夕姫は、溜息を一つ。
「随分悩んでるみたいねぇ、野崎さん」
「あ」
バットを担ぎ、全身玉の汗を掻いたみづきと将城がやってきた。
夕姫は知っている。みづきが毎晩、近距離から発射される180キロもの剛球を打つ自主練を積んでいる事を。その練習の帰りなのだろう。
勿論彼女が十年に一人どころか数百年に一人……と言うよりも本当に人間かどうかも怪しいような不世出の天才かさもなくば突然変異のバケモノであるのは疑いようも無いが、その超越的な実力を支えるのは不断の努力。持って生まれた才能だけで既に磨く必要の無い天然の芸術的カッティングが施された100万カラットの原石だが、それを更に磨き倒しているのだ。
「サブポジでピッチャーをやる話だけど。考えてくれたかしら?」
「その事ですが……鏡原さん……私にはとても……」
龍やみづきがピッチャーをやるべきだと推薦してくれているのだ。二人の実力は知っているし、自分に素質があるのもきっと本当だろう。だからやってみようとも思うのだが……まだ少しだけ、喉に引っ掛かった魚の小骨のように、何かが心につっかえている感覚が夕姫には残っていた。
「ふむ」
しばらく思案顔になったみづきは、ぐいっと夕姫の手を引いて駐車場へと連れ出した。
そうして18メートル超。ちょうどマウンドからホームベースまでと同じぐらいの距離を取る。そうして自分は、ぐっとバットを構える。ミットを嵌めた将城はすぐ後ろに座って捕球姿勢を取った。
「さあ、投げてみて」
「え? でも私……」
不安を隠せない夕姫だが……対照的に打撃姿勢を取るみづきはいつも通りに自信満々の表情である。
「ぶつけちゃったら……」
「大丈夫大丈夫。たとえデッドボールだろうが何だろうが、私は跳ね返すから」
自信を通り越して最早確信の域にまで到着している圧倒的自負。
決して過信ではない。実際にみづきはピッチングマシンから発射された顔面直撃コースの荒れ球に、見事に反応して素手でキャッチしてみせている。
「さ、どこからでもどうぞ」
「……」
「良い音させてボールがミットに入ると、気持ちいいぞ。思いっきり、どんと来なよ」
と、将城がミットを叩く。
二人に背中を押されて、夕姫は大分気分が楽になった気がした。
「……ふふっ。それじゃあ……行きます」
渡されたボールを握ると、大きく振りかぶり。
投げる。
スピードで言えば舞子以上の速球が走る。
コースはど真ん中。
「む」
みづきは流石にここでホームランを打つような大人げない真似はしない。ぴくりとバットを動かして、タイミングだけ取って見送る。ボールはそのまま、将城のミットに飛び込んだ。
ズバンと、紙鉄砲のような音が鳴る。
「……!!」
ここまで凄い音が鳴るとは思っていなかったので、投げた夕姫自身が驚いたようだった。
ちなみにこれはみづきと将城が仕込んでいたトリックである。
投げた時、音を倍に出して気持ちよく夕姫に投げてもらう為に、あらかじめミットの綿を抜いていたのだ。これは「赤いプロテクター」の島市蔵捕手や「ドカベン」山田太郎も使っていたテクニックである。体験会の時、みづき自身も自分のグローブからワタを抜いていた。
「いい球一本」
「「!」」
聞き慣れない言い回しに振り返ると、そこには寺の和尚が立っていた。
「ああ、そのままそのまま。続けなさい」
「ん……将城、あんたはこのまま、野崎さんの球を受けてあげてて。私は和尚さんと少し話があるから」
「分かったよ、ご主人」
「ほっほっほっ。よい仲間が居るようですね」
「ええ。私にはもったいないぐらいですよ」
少しだけ、躊躇ったようにみづきは視線を泳がせる。その後で心を決めたように言った。
「昔のあなたと同じぐらいにね。正夫にいちゃん」
そう、みづきが口にした時には、彼女のすぐ傍らに立っている者は70は越えているであろう老境の和尚では既になく。妙に粗末で古臭い服を着た、十代半ばぐらいの少年に変わっていた。
「もう十年以上も前かな……あなたに出会って、野球を教えてもらったから、将城や……有原達。みんなと会えた。あなたには、感謝してますよ」
和尚の姿が変わった事に少しも動ぜず、みづきは話を続ける。彼女は、最初からこれを知っていたのだ。
「なんの。感謝しているのは僕の方さ。思いっきり、のびのびと野球が出来て……僕の時には、出来なかったからね。それが今や、女の子でも野球をやるようになるなんて。良い時代になったんだね」
「……戦争、か」
はあ、とみづきは嘆息する。
高校野球の歴史は長い。大正4年に豊中球場で第一回大会が行なわれて、第三回大会では鳴尾球場。そして高校野球の聖地である甲子園球場に舞台が移ったのは第十回大会からである。それから現代に至るまで100年以上の歴史の中で、数多の名選手が輩出され数限りない名勝負が繰り広げられてきた。
しかし、甲子園大会が常に毎年開催されていた訳ではない。
太平洋戦争中、甲子園の中等大会は戦争の為に中止され、野球は敵国のスポーツであるということで英語を使う事も禁止された。ストライクなら「いい球一本」。ボールなら「わるい球一本」という具合に、野球用語は全て日本語で呼ぶように決められたのである。
「はぁ、本当に……人類は退化したわねぇ。昔は、オリンピックの為に戦争が中止になっていたのに」
もう一度、嘆息するみづき。しかしすぐにニヤッと不敵な笑みを見せて、正夫少年に向き直った。
「でもまぁ、心配しないで正夫にいちゃん。にいちゃんの仇は、私が取るから。あなたが出来なかった分まで、私はいつまでも思いっ切り野球をし続ける。そして、今度は私が野球で戦争を中止にさせてやるから。まぁ、見ていて」
「ああ。君の事は何も心配してない。僕はずっと見守っているよ」
「うん」
みづきは頷くと、持っていたグローブを正夫少年に渡した。正夫少年は最初は戸惑ったようだが、すぐに彼女の意図を察した。グローブを嵌めると、距離を取る。
「久し振りに、キャッチボールをしましょうよ。そう……十何年か振りに」
「ああ。そうだね」
頷いた正夫少年が座るのを確かめると、みづきはざっと振りかぶる。
ゆったりとしたワインドアップ。
柔らかく滑らかに足が踏み出され、鞭のように腕がしなる。
そして最後に、ボールを切るように指を離す。
ただ速いだけでなく、高速のバックスピンが掛かったノビのあるボールが、白い糸のようになって正夫少年が構えるグローブへと飛び込んだ。
ズバァン!!
爆発するような音を立てるグローブ。こちらは将城のミットのようなワタ抜きはしていない。つまりこの音を出すのは、純然にみづきが投げたのがそれほどの剛球だったという証左である。
正夫少年は、この威力をまともに受けて体ごと後ろに押し出されそうになった。
「……す、凄い。凄い球だ。あの時の女の子が、こんな凄い球を投げられるようになっていたのか」
顔に浮かんでいるのは、驚愕でも困惑でもない。
それは、感動だった。
自分が野球を教えた女の子が、これほどまでに凄いアスリートになった事への。
思わず、涙を堪えようと正夫少年は目元を抑えた。
「正夫にいちゃん、コールを」
「あ、そ、そうだね。いい球……」
「違うよ。にいちゃん」
「! ……そうか。そうだったね」
ふっと、正夫少年は微笑して、言い直す。
ずっと言いたくて、でも言えなかった言葉を。
「ストラーイク!! ナイスボールだよ!!」
そうして、みづきへと返球する。
バシッと音を立てて、愛用の両利き用グローブにボールが収まる。
それが、最後だった。
みづきが見ると、もうそこには正夫少年も、和尚の姿も無かった。まるで最初から、そこには居なかったかのように。
「……フッ」
みづきは驚きもせずに、正夫少年の立っていた所に置かれているグローブを拾い上げると、月を仰いだ。
「見ていて、正夫にいちゃん。東京メッツと大阪アパッチの日本シリーズ決着戦のように。そっちにまで名前が轟く程に、私は凄い野球人になるから。見守っていて。この、鏡原みづきの生き様、私が創る伝説を。それが私からの餞だよ」