『ここまで全力投球……そろそろ疲れが出る頃』
マスク越しにマウンドの舞子の状態を観察しつつ、和香は思考を巡らせる。
舞子は肩で息をしていて、しんどそうである。
みづきが考えた通り、そろそろスタミナが切れてくる頃ではある。とは言え、初心者であり勿論実戦のマウンドに立つのも初めての舞子に、9回までのきっちりとしたスタミナ配分などは求める方が酷というもの。むしろここまで良く持ったという評価が適切ではある。
そしてやはり、疲れてくると球威・制球共に衰えてくる。
三軍とは言え流石に名門向月。その隙を逃さずに攻勢に出てきた。
連打を浴びて、2点を返されてしまう。これで6回表7対4。
しかもまだノーアウトで、ランナーは一三塁。向月は追加点のチャンスであり、里校側のピンチは続いている。
『……どうする? みづき?』
和香はちらっと視線を動かして、ベンチに座する監督の動きを伺う。
舞子は先発として責任回数の5回は投げたのだし、別のピッチャーも居るなら交代するのも悪手ではない。
リリーフとしての練習を始めている夕姫の現時点での完成度をテストするか。
それとも、圧倒的な実力を持つみづき自身がマウンドに上がるのか。
だが、みづきは動かない。
『……続投か……』
こと野球に関して、みづきは予想を裏切ったり上回る事を好むが、意味の無い事は決してしない。
この場合、考えられるのは舞子が疲れている状態でどれだけ投げられるか。それを確認するのが目的だろう。元気な時に良いパフォーマンスが出来るのは当然。疲れている時に、どれだけベストに近い能力を発揮出来るか。彼女の限界はどこか。これは公式戦ではなく練習試合。勝敗は別として、それをテストする事には確かに意義がある。
だがそれだけではないだろう。
ピッチャーが疲れているなら疲れているなりに、どうやって自分がリードするのか。みづきはそれをも見ている。これはピッチャー舞子のテストであると同時に、キャッチャー和香のテストでもあるのだ。
『分かったわ、みづき。次の球は……』
そうして和香がスタミナ節約のリードを始めたのを見て、我が意を汲んでくれたかと、ベンチのみづきは満足そうに幾度か頷く。
「流石はすずわか、分かってるじゃない。さて、じゃあ私もそろそろゆっくりするのは、終わりにしようかしら」
愛用の両利き用グラブを、今日は左手に嵌めると、すくっと立ち上がった。
「ご主人?」
「将城、付いてきて」
続く打者はライトフライを打上げて、これは茜が危なげなく捕球して現在はワンナウト一三塁。
「みんなー、ここが踏ん張りどころだよ!!」
ショートの翼が、そう声を上げた、その時だった。
ドバン!!
爆薬が弾けたような音が響き渡って、一瞬、このグラウンドの全ての選手はおろか審判、そして両ベンチの控え選手ですら動きを止めていた。
これは、退屈そうにベンチでそっぽ向いていた椿ですら例外ではなかった。
ドバン!!
再び、爆音。
音源は、投球練習するみづきの球を受ける将城のミットであった。
最高のボールを受けて、ミットは嬉しい悲鳴を上げている。
今のみづきは、大きく体を沈めて右手を天に突き上げ、下手投げ(アンダースロー)で投げていた。
無理のある体勢から、しかし勢いを殺す事なく、滑らかにボールが放たれる。
速い。
遠目から見てもそのボールの速さは圧巻。舞子は勿論、向月の三軍ピッチャーよりも。そして間違いなく自分よりもずっと速いだろうと、椿は確信する。
「……!!」
バッグから念の為に持ってきたスピードガンを取り出して、投球練習中のみづきの方へとかざす椿。
次の一球。
再び、将城のミットが爆音を立てた。
スピードガンに表示された数値は……
「なっ……」
絶句。
150キロと表示されても驚かなかったが、表示された数値は……EEE。つまりエラー、計測不能。
「……!!」
今の球は速かった。だから、遅過ぎて測れなかった訳ではない。
考えられる可能性は二つ。スピードガンの故障か、あるいは速すぎて計測出来なかったか。
もし、故障でないとすれば。速すぎて測れなかったのなら、その球速は160キロ以上にもなるという事になる。
頭では、有り得ないと思う。
女子野球では本格派のオーバースローの投手であろうと、120キロが出れば十分に速球投手に分類され、130キロは明確に豪速球だと定義される速度である。なのに、160キロオーバー、しかもアンダースローでなど。
たとえメジャーリーガーの更にトップクラスであろうが、負担の大きい下手投げで160キロ以上の球速を出す選手など、野球が始まってから百年以上の歴史の中で過去にも現在にも、世界中にただの一人も居ない。
だから、普通に考えればスピードガンの故障と見るのが妥当であるのだが……
「……」
じっと、椿はみづきを睨み据える。
たとえ遠目であっても、球速を見誤る程に自分の目は節穴ではない。
スピードガンの故障じゃない。
出たのだ。アンダースローで160キロ以上の球速が。
現れたのだ。そんな、奇蹟の球を投げる投手。バケモノが。
ごくっと、椿は思わず唾を呑んだ。
彼女だけではない。みづきが始めた投球練習に、里校も向月も。全ての選手の目が釘付けになっている。
自分達に向けられる視線を感じ取って、将城はニンマリと笑った。
みづきの狙いは、成功しつつある。それを見て取って、サインを出す。
『じゃあ、ご主人。こいつで、更に皆の度肝を抜いてやるか』
『OK』
続いてのみづきの投球。
今度は、高めに浮き上がるボールだった。球速も先程に比べれば遅く、明らかにボールだと分かる高さだ。
『失投?』
翼は一瞬、そう思ったが。
『いいえ』
龍の考えは違っていた。
以前にみづきが見せた魔球0.0625の恐るべきコントロール。あの、針の穴を通すとはこの事とでも言うべき制球術を体得している彼女が、よもや失投などする筈が無い。
だとするなら、この球は。
龍の考えは、正しかった。
立ったバッターの頭の高さを飛んでいたボールは、将城の数メートル手前から急激に落下。
ワンバウンドして、将城のミットに収まった。
再び、戦慄でグラウンドの時間が止まる。
落ちる球を投げにくい筈のアンダースローで、頭の高さから地面に叩き落とした。
既存の変化球の常識に逆らうような、急激な角度での変化。
これだけでも恐るべきウイニングショットと言えるが。
だが、みづきにはまだ先があった。更なる先が。
次のボール。
今度は先程とは打って変わって、地を這うように低い球道。
だが、落ちる事無く。
ボールが伸びる。浮き上がる程に、ホップして。
高く掲げた将城のミット、ストライクゾーンの上限一杯の位置に、飛び込んだ。
160キロを超える速球だけでも敵陣を凍り付かせるに十分なものがあるが、そこに加えて頭の高さから地面に落ちるフォークと、ソフトボールに於けるライズボールのような浮き上がる球をも組み合わせた上下のコンビネーション。しかもコントロールは抜群。
ここで、みづきはマウンド上の舞子へと目を向けた。
「倉敷先輩、あなたの後ろには私が付いてますよ!! 打たれたって大丈夫。私という保険がありますからね。安心してのびのび投げてくださーい!!」
『!! 成る程、みづき。そういう事ね』
この声援を聞いて、和香はいきなり投球練習を始めたみづきの意図を当初は掴みかねていたが、しかしこれで得心が行った。
疲れているからこそ、リラックスを。
後ろには自分が控えているから安心して投げろと。
一つには緊張をほぐす狙いがあったのだろう。
この声援を受けて、舞子が狙い通り肩の力を抜いて投げられるようになるか。あるいは、逆に発憤して気合いが入るのか。
「これは、ヘバッてられないわね」
一度帽子を外して汗を拭った舞子の視線は、鋭い。目に力が戻った。
果たして、後者であったようだ。
そして、和香はちらっとバッターの様子を観察する。
あんな投球練習を見せ付けられれば当然だが、明らかに先程とは様子が違っている。
『……もし、私の考えがみづきと同じなら……だとしたら、ここはストライクは要らないわ。倉敷先輩、アウトローに外したストレートを。そして東雲さんと翼は前進守備を。野崎さんはベースについて、ランナーのリードを抑えて』
和香から出たサインに舞子は頷き、龍と翼は守備位置を前に移す。これは打球を素早く処理する為だ。逆に夕姫はベースにぴったりと張り付いた。
一塁ランナーはこれを見て、牽制を警戒してリードを抑える。
そうして、舞子が投げる。
和香のサイン通りボール1個以上も外したアウトローのストレート。
本来なら手を出さずに見送るだろうコースだが。
向月のバッターはこのボール球に手を出した。
だが低めに手を出してボールの上を叩いた事で、当たり損ないのゴロがボテボテとグラウンドを転がる。
「倉敷先輩!! セカンドです!!」
「分かったわ」
素早く動いて捕球した舞子は、まず二塁に送球。
夕姫が一塁に付いていた事でリードを抑えられていたランナーは力走するも間に合わず、二塁に入ったあおいが捕球してワンナウト。あおいはそのまま一塁へと送球。夕姫がキャッチして、バッターはアウトに。
セカンドゲッツーが成立して、一瞬にしてチェンジとなった。
里校はピンチを切り抜けたのだ。
普段通りのコンディションなら、向月のバッターは明らかにボールと分かる球に手出しする事なく見送ったであろう。だが、今の彼女は冷静ではなかった。
当たり前だ。疲れで舞子の調子が悪くなったと見えた時に、みづきが投球練習を始めたのだ。誰でも、みづきがリリーフとしてマウンドに上がると思うだろう。
アンダースローで160キロ以上の速球を投げ、頭から地面に落ちる球と、足下から胸の高さに浮き上がる球を操る投手が。
交代したら打てなくなると思う。ならば、交代する前に何としてでも打たなくては……と、焦ってボール球にも手を出してくるという訳だ。
みづきが投球練習を始めたのは、舞子をリラックスさせるあるいは鼓舞するのと同時に、向月高校の拙攻を誘う狙いもあったという訳だ。
「勝負あったわね」
椿は、ベンチから重い腰を上げた。
6回表、先発投手に疲れが見えてきた今こそが得点の最大のチャンスであったのは間違いなかったが、三軍はそれを物にできなかった。より正確には、物にできなくさせられたと言うべきか。
あの投球練習を始めたピッチャー。これ見よがしに豪速球を投げてみせる事で何としても交代する前に打たなければと思わせ、拙攻を誘う心理作戦に三軍連中はまんまと引っ掛かった。
まぁ、とは言えこれは一概に彼女達の責任とは言えない。
あんな同じ人間かどうかも怪しいようなバケモノ、一軍のしかもレギュラー陣であろうと事前情報を得てしっかりと対策を打たなければ攻略は絶対に不可能であろう。みづきの存在と実力を確認出来ただけでも、この練習試合の価値はあった。
椿は、再びベンチに座して監督として全体の指揮に戻ったみづきを睨む。
「バケモノめ……でも、こんな練習試合で、その実力を見せてしまった事をいずれ後悔させてやるわ」
9回表。
「ストライク、バッターアウト!! ゲームセット!!」
結局、6回からマウンドに上がった椿の球を里校側は翼や龍が単打はするものの得点には繋がらず。
一方で、疲れを見せながらも続投する舞子に対して向月高校も丁寧に打って点数を重ねてきたが3点差を覆す事は出来ず、7対6でゲームセット。
練習試合とは言え、里ヶ浜高校女子野球部の、初勝利となった。
わっと、飛び出したメンバーが舞子へと駆け寄ってもみくちゃにする。
その喧噪に、みづきは加わらずに、腕組みして空を見上げていた。
「そら、ご主人」
傍らに控えていた将城が、ハンカチを差し出す。
受け取ったみづきの顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
「うわーん、うわーん、うわーん!! みんな、ありがとう!! ありがとう!!」