これは今から少しだけ昔の話だ。
キィン。
快音が、グラウンドに響く。
しかし打球は、ボテボテのイージーゴロになってサードが捕球、ファーストへの送球でバッターはアウトになる。
「くっそー、今のは打てたと思ったんだがなぁ……」
凡退して戻ってきたバッターは、バットの感触を確かめるように握りを変えたりしながら、マウンドに立つ少女へ目をやった。
リトルリーグ、美崎ファイターズと貝渕チャレンジャーズとの練習試合。
試合はもう5回になるが、ファイターズ打線は初回からずっとこのパターンで打ち取られている。
確かにチャレンジャーズのピッチャーはまだ4年生の女の子にしては凄く良い球を投げている。コントロールも良い。しかし決して手が出ない程には速過ぎはしない。寧ろ打ち頃といって良いだろう。実際に、ファイターズの面々は公式戦ではもっと速い球を投げるピッチャーに何度も出会っている。
にも関わらず、初回から凡打の山で凡退続き。
ここまで少女ピッチャーの投球数は二十球にもならず、全員キッチリと処理されて、仕留められているという言葉がぴったりである。
「……あれ? もしかして……」
ファイターズのベンチに座る鈴木和香は、目を瞬かせた。
「どうした?」
すぐ隣に座っている、兄・健次郎が尋ねてくる。
「あのね、もしかしたら……あのピッチャー、打てるようになるかも」
「そっか。あの時のピッチャーの子がもう高校生か。時間が経つのは早いもんだ」
里ヶ浜ベースボールに和香と一緒に来店していた健次郎は、みづきの事を覚えていた。
昔話に華を咲かせるという空気ではあったが、立ち話もなんだからという事で一行はそのまま、近くの中華料理店「鉄人」へと足を運んだ。
「そう言う健次郎さんだって、今じゃプロも注目する選手じゃないですか」
「皆さんは、お知り合いなんですか?」
こう尋ねるのは夕姫である。
鈴木兄妹と、みづき・将城の視線がそれぞれ交わされ合う。
「ええ、昔私と将城が所属していたチームと、この二人がいたチームとで、何回も試合したのよ」
「強かったよ。特にお兄さんは、あの頃から強打者でね。ご主人も何度か打たれてた」
「それなら、そっちの鏡原さんだって小さいのに凄いピッチャーだったぞ。当時、俺は他のピッチャーからは6割を打っていたが、彼女からは2割そこそこしか打てなかったからな」
「それって、凄いの?」
「勿論!!」
茜の質問には、翼が答えた。
「野球は、基本的に打者の方が不利なスポーツなの。プロ野球の選手の場合だと、打率3割、つまり10回打って3回ヒットを打てれば一流って呼ばれるの。だからリトルリーグとは言え6割打てるのも凄いし、他の人からそんな凄い打率を打っている人を、2割ぐらいの打率に抑える鏡原さんも凄いんだよ」
「……でも、意外だったわ」
「むん? ひゃにが?(うん? 何が?)」
この店の看板娘である近藤咲がサービスしてくれた特盛りチャーハンを頬張ってハムスターのようになったみづきが、和香に向き直った。
「鏡原さんが、チームキャプテンだったお兄ちゃんは兎も角、選手でもなかった私を覚えているなんて」
「もぐもぐ……ごくん」
口の中を空にして、みづきが話し始める。
「だって、ファイターズの作戦を指揮してたのはすずわか、あんたでしょ? 試合の度に、随分と苦しめられたわ。今となってはそれも良い思い出だわね」
この返答を受けて、和香は少し目を大きくして小さな驚きを見せた。
「……分かってたの?」
「そりゃあ、ベンチでの会話とか視線の動きとか見てたら、自然と分かるでしょ。そんなの」
ちらっと視線を健次郎に動かして「そうでしょ?」とみづきが確認の意図を見せる。健次郎は、正確にみづきの考えを読み取ったようだった。
「ああ、リトルリーグの頃は練習メニューや作戦考えたり、スコアブック付けたり用具の手入れもしてくれたよな。凄く頼りになったぞ」
「お兄ちゃん!!」
「鈴木さん、それなら是非、私達と一緒に野球やってください」
「……お断りするわ」
「ええっ!!」
ガーンという効果音が聞こえてきそうなほど、翼の勧誘はあっさりと却下された。
「……私は、野球はしない」
「「……………」」
この時、和香には気付かれないように健次郎とみづきが視線を交わし合って、そしてみづきはそのまま傍らの相方へとアイコンタクトした。
「?」
将城には、イマイチ意思疎通がなっていないようだったが、健次郎が会話を切り替えた。
「しかし、鏡原さん。君のボールには手こずらされたよ。微妙に落ちたかと思えば、右に曲がったり左に曲がったりしてな」
「お兄さんこそ、その私のボールをホームランしたくせに。良く言いますね」
「あれ?」
話を聞いていた翼は、二人の会話の流れに違和感を覚えたようだった。
来た!!
内心で、みづきはガッツポーズを決める。
翼なら必ず、出来の良いルアーを前にしたブラックバスのように食い付いてくるだろうと思っていたが、しっかりとハマった。
「鏡原さんって、小学生の頃から変化球を投げてたの? でも、リトルリーグは変化球は禁止なんじゃ?」
「あぁ、有原。それはね」
ポケットから硬球を取り出すと、縫い目に指を掛けた握りを見せる。
「握りはこの通り、直球、ストレートの握り。でも、縫い目で変化を付けたのよ」
「ご主人の研究の賜物だよ」
「? ボールって、曲がったり落ちたりするんですか?」
「うん、握りを変えて回転を掛けたり、逆に回転を殺したりすれば落ちるけど……でも、縫い目って言うのは……?」
途中から、翼の言葉が怪しくなる。
「ふふふ……それはね……」
にやにやとみづきは笑いつつ、
「すずわか、パス!!」
ぽいと硬球を、和香に投げ渡した。
「えっ……」
戸惑いつつも、両手で掬うような姿勢で和香はボールをキャッチした。
「あんたなら分かるでしょ。是非、ご教授下さい」
両手を少しばかりオーバーに広げて、促すみづき。
「え、えっと……」
「「「……」」」
戸惑った様子の和香だが、夕姫や茜の期待の込められた視線を受けて、観念したようだった。「はぁ」と溜息を一つ。
そうして解説を始める。
「ボールのスピードや軌道には、シームが深く関わってくるの」
「シーム、ですか?」
「そう、シームとはつまりこれ……縫い目よ」
硬球の縫い目を、和香の指先がゆっくりとなぞっていく。
「縫い目の曲線が緩い所を垂直に握ると、ボールが回転した時には一回転で縫い目が4回通る事になる。これがフォーシームと呼ばれる握りで、ピッチャーが速い球を投げる時には、必ずこのフォーシームで握るようにしているのよ」
ここで一度言葉を切って、和香は指先に掛かる縫い目の位置を変えた。この時、健次郎やみづき、将城がそれぞれ微笑して和香を見ているのに、彼女は気付いていなかった。
「こんな風に、縫い目の曲線がきつい所を握れば一回転で通る縫い目は2回。これはツーシームと言って、曲がったり落ちたりする球になるの」
「どうして、縫い目を握る位置を変えるだけでそんな風に変化するんですか?」
「……ボールが回転していると、その後ろには空気の渦が生まれるの。この渦は、縫い目や回転の多い球の方が遅く小さく作られる。だからツーシームの一回転2本の回転よりも、フォーシームの一回転4本の縫い目の方が、渦は小さくなる。そしてこの渦は、周りに比べて空気の圧力が低いの」
「「「……???」」」
ここまでの説明でも、野球未経験の夕姫や茜には良く分からないようだった。
……それは仕方無いのだが。明らかに分かっていない顔をしているのが、もう一人。
「翼、知らなかったの?」
ちょっと呆れ顔で、智惠が肘で親友の腹を小突いた。
「い、いやあ……挟んで握って投げたら回転が無くなってフォークになる。ストレートは良く回転させた方が速くなるってのは知ってたんだけどね……」
あはは、と苦笑いする翼。
「まぁ、有原は感覚派だからね」
頬杖を突いたみづきが、レンズの奥の目を細めた。
「……続けるわね。圧力の小さい部分は、そこに引き寄せようとする力が働くの」
「要するに注射器と同じだな。圧力の低い方に、引き寄せられる力が生まれる」
これは将城の補足である。
「だから球の後ろに渦が生まれればそれが大きい程、前に進もうとするボールに後ろ向きのブレーキが掛かって失速の度合いが大きくなる。つまり小さな渦しか生まれないフォーシームの方が、ブレーキは小さく。速い球が投げられるの。更に……」
「まだあるんですか?」
圧倒されたような夕姫に、和香は一度頷いて少し乾いた口内を水で湿らせて解説を再開する。
「有原さん」
「え、私?」
自分がここで呼ばれるとは思っていなかった翼が、少し戸惑ったように応じる。
「ええ、有原さんはさっき、ボールを挟んで投げると回転しないからフォークになって落ちるって言ったけど、じゃあフォークってどんな風に落ちるか、知ってる?」
「え? そりゃ、フォークはこう、ストンと落ちるんじゃ」
手を横から、斜め45度ぐらいに落ちるように動かして、フォークの軌道を再現する翼。
「それも間違いではないけど。でも、より正確にはそこまでスムーズではなくて、波打って落ちてくるのよ。こんな風に」
和香が、こちらは翼が見せたのよりも落ちる軌道を曲線的にして、フォークの軌道を再現してみせる。
「実は、フォークと言えどほんのちょっとはボールが回転していて、縫い目が空気抵抗を拾うからスムーズには落ちないのよ……それで」
ここで一度言葉を切って、和香はみづきに向き直った。
「鏡原さんが投げていたボールは、直球の握りだけど握る位置を工夫して、回転軸を調整する事で通る縫い目の本数や角度をずらして、少しだけ落ちたり曲がったりさせるようにしていたのね」
「微妙に変化する球をバッターはストレートだと思って打ちに行くから、微妙にバットの芯を外してしまって、凡打の山を築かれるって訳だな」
と、健次郎。それが昔の試合で、ファイターズの打線が幼いみづきに抑えられていた真相だった。
「うんうん。でも、あの球は試合の途中までは通用していたけど打たれたわね。お兄さんには生まれて初めての満塁ホームランをプレゼントされたわ。で、すずわか、あんたはどんな作戦で私の球を打たせたんだったっけ?」
頬杖付いて笑ったまま、みづきが次の質問に移った。和香は、もう回答を躊躇わなかった。
「……あの時私は、ベンチから見ていて球が微妙に動いて芯を外れているのが分かったから。だから、芯が太めのタイ・カップ型バットを使って打てば良いんじゃないかと思って……」
「そして結果は、あなたの予想通りになった。当時私は既にチャレンジャーズのエースだったけど、6点も取られたのはこれも初めての経験だったわ…………しかし」
「? ……どうしたの?」
和香はここで、みづきや将城、そして兄が自分を遠くから見るような、優しい視線を向けてきているのに気付いた。
「いやあ、すずわか……あんた、今でも十分野球が好きなんじゃない。シームがボールのスピードや変化にもたらす影響を、ここまで詳しく説明できるなんてね」
「あ……」
ここで和香は、ここまでの流れがみづき・将城・健次郎の策略であった事に気付いた。昔話を利用して、自分に解説をさせるように仕向けさせたのだ。
まんまと策に嵌まった事を理解して、赤面する和香。
「ね、すずわか。もう一度、好きな野球やってみない? 今度は、一緒のチームで」
「……考えておくわ」
「ん。それで結構よ。今はね」
野球をしないと言っていた先程に比べれば短い時間で随分な変化だと、みづきは頷く。
健次郎と将城は、それぞれ事が思い描いた通りに進んだ事を読み取って、頷き合った。