「そう言えば、一つ聞いておきたかったんだけど」
中華屋「鉄人」での会食から一夜明け。
教室での休み時間に、和香が話し掛けてきた。
「うん? どうしたの鈴木さん?」
「女子野球同好会って、経験者は有原さんと鏡原さん、それに岩壁さんの3人だけなの?」
「うん、そだよ」
「……」
即答する翼。対照的にみづきは少しだけ目を細めて、考える仕草を見せる。
「良いの? それで」
「もっちろん」
屈託なく、再び翼は即答した。
「……優しいわね、すずわか」
一方でみづきはくすっと笑いつつ、すぐ後ろで秘書のように控える将城に向き直った。そうして二人で頷き合う。
「え? どういう意味?」
翼が尋ねてくるが、みづきは微笑したままで答えを返さない。
「……」
同じように和香も何も言わなかったが、彼女にはみづきの言いたい事が伝わっているようだった。
翼だけがコミュニケーションから取り残されている形になっていて、ちょっとだけ居心地が悪くなった。
和香の言葉の意味は、野球経験者である3人に向けられたものだった。
今は、野球部として最低限成立する人数を集めるのに必死で、そんな事にも気が回っていないのだろう。
でも、首尾良く人数が集まったとして。
それで学校に活動実績を認められて、同好会から部に昇格したとして。
その時に、素人ばっかりのメンバーの中で、野球経験者の翼は。凄いピッチャーだったみづきは。そのみづきの恋女房の将城は。満足に野球が出来るのかと。
和香が言っているのはそれだ。
「大丈夫よ」
さっきの翼と同じく、屈託の無い笑顔でみづきは答える。
「!」
「私はどこでも誰とでも。野球をやるのが嫌いだとかつまらないとか、退屈だとか思った事は無いわ。今迄ずっとそうだったように、きっとこれからもそれは同じよ」
「私はご主人専属の『カベ』だからね。ご主人が野球やってる限り、どこまでも付いてくよ」
「有原はどうかな?」
みづきが尋ねる。ここでやっと、翼は先程の和香の問いの意味を理解したようである。そして彼女の答えは、最初から決まっていた。
「私も!! 野球やるの、楽しいよ!!」
「そう……」
和香は、少しだけ安心したようにそう答えるだけだった。
その日の放課後。掛橋先生がやって来た。
「見付けたわよ。野球の練習に使える場所。元々はグラウンドだったけど、地主さんに頼んだら、使っていいって」
「本当ですか?」
「早速行ってみましょう」
先生に連れられ、学校から少し離れた所にそのグラウンドはあった。
ただし、今はこの場所をグラウンドと言って良いのかどうか、言葉に詰まるような有様ではあったが。
「ここが、グラウンド……」
もう何年も使ってはいないのだろう。
外野も内野も雑草が生え放題になってしまっていて、土が見えない。一面、草の色に覆い尽くされている。
「昔は綺麗だったんだけど、使う人がいなくなったらあっという間にこんな風になっちゃったわ。整備道具はまだ使える筈だけど……」
先生に連れられてやって来た和服の老婆、管理人なのだろう彼女の説明を受けて、一同はグラウンドに目をやる。見れば腰の高さぐらいにまで生えた草に隠されているが、あちこちに野晒しで放置されたトンボやレーキが散在していた。中にはすっかり茶色くなったベースもあった。
「「「ありがとうございます!!」」」
野球同好会一同が声を揃えて頭を下げる。地主の老婆は、シワだらけの顔を柔和に微笑ませた。
「こちらこそ使ってもらえて嬉しいわ」
「じゃあ、私は剣道部の顧問の仕事があるからこれで。無理しすぎないようにね」
掛橋先生と地主が去った後、残されたのは女子硬式野球同好会のメンバー6名に、和香を含めた7名。
「本当にここ整備するの?」
改めてグラウンドを見やって、和香は圧倒されたように言った。これではグラウンドと言うよりもまさに草むらだ。全くの1からグラウンドを作るのと、そこまで近いがあるとも思えない。
「やるっきゃないっしょ!!」
最初にそう言って、腕まくりして飛び出したのは翼だった。両手に持った小型スコップや草抜き器で、次々に草を引っこ抜きに掛かる。続いて智惠も作業に取りかかった。茜と夕姫も、僅かに遅れて参加する。
「ふふふ、まぁ、こんな感じになるとは思ってたわ」
どこから取り出したのか、みづきの右手には大型スコップが握られていた。彼女はそれを軽快に、ヌンチャクのように振り回してポーズを付ける。将城が持っていたスマホで、その姿を撮影した。
「スコップを持ってきて正解だった。さぁ、行くわよ!!」
先程の翼よりも凄い勢いで、スコップを振りかぶったみづきは草の覆い茂ったグラウンドに突入した。
「うりゃりゃりゃりゃりゃ~~~っ!!!!」
勢いに任せて、他の4人が束になったよりもスピーディにかつパワフルに、根こそぎ土をほっくり返していく。
その作業スピードに、翼達も僅かな時間だが呆気に取られたようだった。
「凄い、鏡原さん」
「まるで重機みたい」
圧倒された顔で、それぞれ感想を述べる。
「こういうの慣れてるからね、私は!!」
掘り返した土を周囲にバラ撒きながら、みづきが叫んだ。既に彼女の足下には小さな穴が出来始めている。
「……慣れてる?」
疑問顔の和香には、将城が解説した。
「中学の頃、ご主人がこれと同じような荒れ果てたグラウンドを整備した時があってな。その時の写真がこれ」
写真アプリを立ち上げたスマホを渡す将城。
受け取った和香と、それを肩越しに背後から覗き込む翼達。
「……月面写真?」
「いや、爆撃の跡地では?」
翼や夕姫がそんな感想を持ったのも当然だった。
大小無数の穴ぼこだらけになった地面の写真が、スマホの画面一杯に表示されている。
「いやあ、それ。私がやった写真よ。スコップとかでね」
「私も手伝ったぞ」
「「えっ!!」」
驚くのも当然だ。
地形が変わるのを危惧しなければならないほどの、大量の穴、穴、穴。
勿論みづき一人の手によるものではないだろうが、それにしてもこれを女の子が人力でやってのけたとは。
「勿論グラウンドを整備するって目的もあったけど……昔マンガで『アリ地獄』ってトレーニングメニューを読んでね。是非やってみたいと思っていたから。夢が叶って、嬉しかったな。当時は」
顔中に玉の汗を浮かべ、鼻歌交じりに掘削作業を続けるみづき。既に彼女の腰ぐらいの深さまでの穴が生まれている。
「嬉しい……?」
飛んできた土が当たらないように少し距離を置きつつ、和香が繰り返した。
「どうして?」
「ん?」
「どうして、そんな風に思えるの?」
和香は思い出していた。
昔のみづきは、彼女にとって憧れであると同時に大嫌いな存在でもあった。
同い年なのにチームエースでスラッガーで、とてつもなく凄い選手。彼女のようになりたいと、そう思い憧れつつも、そんな風には決してなれないという事実を残酷なまでに突き付けてくる。
どんなに手を伸ばしても月を掴めないように。
私はあなた達みたいにはなれないと。どんなに人間が鳥に憧れて、羽根を持って羽ばたいても空を飛べないように。
あるいは、ちょっと羽ばたくようなニワトリの真似事ならば出来るかも知れない。だが、みづきはその比ではない。遙かな上空、目では追えない高さを飛ぶ渡り鳥だ。
だから、彼女のように出来ないのは仕方無いと諦める事はできる。
だが分からないのが一つ。
何故、みづきほどの才能のある人間が1からグラウンドを作るなどこんな事をしているのか。
どうして、こんな事を嬉しいと思えるのか。
彼女なら、もっと設備の整ったチームで、良い環境で野球が出来るだろうに。
「そうねぇ」
ここで、初めてみづきは作業の手を止めて穴から這い出てくると、和香と視線を合わせた。
「楽しいから、かな?」
「……楽しい?」
「うん」
みづきはにっこり笑って頷いた。
「こうしている毎日が、夢に一歩一歩、近付いていると思えているからね」
「夢……鏡原さん、あなたの夢は?」
「究極の野球人よ」
「……?」
「ご主人、それじゃ分からないだろ。もう少し具体的に説明してあげなよ……」
と、将城。この指摘を受けてみづきは「あぁそうか」という顔になった。
「……すずわか、私はね。打ってはサイクルヒットにホームランを量産、守っては鉄壁、走っては盗塁連発、投げては三振の山と一試合の投球数81球で完全試合。そして他の選手を強くする事も出来て、良い作戦も立てられて、美味しい料理を作れて、整体も出来て、会社経営も出来る。そんな野球人になりたいの。野球の全てを極めたい。極め尽くしたいのよ。こうしてグラウンドを整備するのも野球の一部だからね。だから大変だけど、楽しいわよ」
「……」
絶句。
同じように、翼も目を丸くしていた。
走攻守揃ったユーティリティープレイヤーも、大エースも目指す者は居るだろう。だがバッティングピッチャーや監督、管理栄養士、理学療法士、球団のオーナー。それら全てを同時に目指している人間など、見た事がない。
自分をからかっているのかと思ったが……その可能性はすぐに頭から棄却された。
目を見れば分かる。みづきは本気だ。
「夢があれば、気持ちは楽しくなるものよ」
「夢……!!」
鸚鵡返しする和香。
自分にも、夢があった。
野球を辞めてから、いつの間にか諦めて、忘れてしまったけれど。
それはきっと、みづきには分からない気持ちだ。
「鏡原さんは、負けて挫ける事はなかったの?」
和香には続く言葉が分かっていた。きっとみづきはこう言う。「無かったわ」と。
でも違っていた。みづきはこう言ったのだ。
「え? あったわよ? 沢山」
あっさりと、彼女は認めた。
「野球をやっている以上、沢山負けているわ。あなたのお兄さんにもホームランを打たれて負かされてる。すずわか、あなたの作戦にだって、私は負けた。でも、それも楽しいのよ」
「楽しい? どうして?」
和香には分からない。負ける事が、挫折する事が、どうして楽しいなどと言えるのだろう。
みづきは笑ったまま、明瞭に回答する。
「次こそは勝ってやるぞって、そういう気持ちになるからよ。ファイトとやる気がムンムン湧いて来るのを、負ける度に私は感じてたの。その度に、自分はもっと上手く、もっと強くなれるって、信じられるから」
「……昔の私もそんな風に思えてたら、今も野球を続けていたかもね」
どこか自嘲するように、和香は呟いた。
自分にも、夢があった。
こんな風に翼やみづきと会わなければ思い出さなかったかも知れないけど。
お兄ちゃんと一緒に甲子園に行くって夢が。
そして彼女達に会わなければ、こんな気持ちにはならなかったろう。
もう一度、夢を見て、夢を追いたい。
少しだけ形は違ってくるけど、もう一度、今度は仲間達と一緒に。
和香は、すぐそこに落ちていたシャベルを手に取った。そうして、整備作業に加わる。
「私もやるわ」
彼女が女子硬式野球同好会に入会届を出したのは、翌日の事だった。