幻想々話 - いつの日か、鬼札を手に   作:荒木田久仁緒

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雨上がり


 

  何もかもを洗い流そうとするかのように、雨は長々と降り続いていた。

  すっかり日の暮れた空の下、小さく明かりのともった屋敷の上へ、目にも見えない音の粒が、ときたま強まる風に煽られながら、ばたばたと絶え間なく落ちてくる。

 

  雨音と、万年筆の走る音が響く部屋の壁際に、長襦袢を巻いた少女は、膝をかかえて座りこんでいた。

  夕食後に、なかば無理やり投げこまれた風呂で丁寧に洗い梳かされた長い毛が、つやつやと黒く部屋の明かりに光っている。けれど、その表情は憂いの色に翳っていて、組んだ腕の上で時々ころころと頭を転がしては、尻尾を力なく揺らしつつ、何事かを思い悩んでいるようだった。

 

  はあ、と溜息をついて、少女はかたわらに置かれた皿に手を伸ばす。

  皿の上には、昨夜食べたのと同じ、油揚げの煮付けが積まれている。それを小さな指先でつまみあげ、口に入れてゆっくり噛みしめる。舌と喉を潤す甘露の刺激に、しおれていた耳がぴんと立ち、まなざしに力が戻るが、それも飲みこんでしばらくすると、またへにょりと垂れ伏せって、小さな溜息が口から漏れる。

 

  どこを見るともなく部屋の中を泳ぐ視線の先で、もうひとつ畳の上に置かれた皿から、こちらに背を向けて座る藍の手が、油揚げを取り、口に入れるのが見えた。

 

  藍は昨日と同じように文机に向かい、紙に何かを書きつけている。ときおり、書きあがったらしき紙が、文机の上から脇へ下ろされ、積み重なっていく。

  少女は、ぼーっとその尻尾を見つめていたが、ふと口を開いた。

 

「……それって、何やってるの?」

 

「報告書を書いている」

 

  ひたすら万年筆を走らせながら、藍は答える。

 

「ほーこく、しょ?」

 

「……私の役目は、紫様の手足となり、耳目となり、幻想郷の管理すべてについて補佐をすること。その一つとして……定期的にこの世界を見回り、特記すべき妖怪の動向、勢力図の変化、人里の様子……そういったものを調べ、まとめ、報告する仕事がある。昨日お前を拾ったのも、その帰りだった」

 

「ふぅん……」

 

  少女は文机の脇に置かれた報告書の束を見、また油揚げを放りこんだ口をもぐもぐ動かしながら、部屋のすみっこに積まれている、別の紙の束を見た。

 

「……あれも、報告書?」

「そっちは、古くなった報告書や、資料だ。もう必要ないから、処分する」

「捨てるの?」

「ああ」

 

  少女は畳に手をつき、のそのそと近づいて、その紙束を覗きこんだ。そのまま、つかみ上げようとして。

 

「えっと……読んで、いい?」

 

  ちょっとだけ手を戻し、おずおずと聞く。

 

「散らかすなよ」

 

  視線も向けずに、藍はそう答える。少女は、うん、と頷いて、とりあえず一番上にあった一枚を手に取ると、再び壁を背にして座り、読み始めた。流麗な字で書きつづられた文章の下に、湖らしき絵が描いてある。

 

「……霧に……の周りには……小粒ながら、様々な妖怪や……」

 

  読んでいる内容が、ぽつぽつと、声に出ている。

 

「……ほとりに立つ……べ……べにま……?」

「こうまかん」

「……紅魔館に住まう、すう……吸血鬼を恐れて、中程度の妖怪は寄りつかないが、それ故に、妖精や小妖たちの遊び場となり、また、彼らがより力をつけ、名をあげるための、競い合いの場とも、なっているようである……」

 

  真剣そうな目で、書かれた絵と文字とを読みながら、少女はまたひとつ油揚げをつまみ、口の中に押しこんだ。

  その気配を背中で感じつつ、藍もまた油揚げをほおばり、何かを思うようにゆっくりと咀嚼して、再び文机に向かう。

 

  やがて少女がうとうとと瞼を閉じ、そっと寝かされた体の上に布団が掛けられるころ、屋根を叩いていた雨音も止み、虫の声がりんりんと満ちる夜の中で、屋敷の最後の明かりは静かに消えていった。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

  朝。

 

  晴れ渡った青空の下、澄みきった空気を通して、屋敷の門前から伸びる下り坂の向こうに、幻想郷の風景がよく見えた。

  坂の上には、いまだ瞳に涙の色を残しながらも、しっかりとした眼差しで道の先を見つめ、黒く長い毛を風になびかせて立つ、一匹の幼い人狼。

 

「行くのか」

 

  気配もなく後ろから響いた声に、少し驚いた顔で振り向いて。

 

「……あ、えっと、その。あの……」

「どうした?」

 

  もじもじと、居心地の悪そうなしぐさ。怪訝そうに、首をかしげる藍。

 

「……せ……」

「せ?」

 

「……世話に、なった! あ、ありがと……う」

 

  うつむきながら尻すぼみに言う少女に、ああ、と呆けたように息を吐いてから、藍は言葉を返す。

 

「事情聴取の一環。気にすることはない。あと、それも」

 

  少女の着ている服を指差す。

 

「どうせ使っていなかったものだ、返さなくていい。好きにしろ」

 

「……うん」

 

  大きく広がった服の裾をつまみ、少女はその場でくるりと回ってみせた。

 

「気に入ったか?」

「うん。あたし、これ、好き」

「そうか。……派手すぎて嫌だ、と言われてそれっきり、しまいこんでいたやつだが」

 

「え?」

「何でもない。こっちの話だ」

 

  ふうん、と言って少女は、もう何度か服をはためかせていたが、やがて居住まいを正し、藍の目をまっすぐに見上げて、ぺこりと頭を下げた。

  そして顔を上げ、屋敷に背を向けると、走りだし、勢いよく坂を駆けおりていく。

  藍は、じっと少女の姿を見送る。ゆるやかにうねる道の彼方へ、小さな背中がなお小さくなり、ほどなく草木の向こうに隠れて見えなくなっても、静かにその方角を見つめていた。

 

「ずいぶんと、気に入ったみたいね?」

 

  唐突にその耳元で、鈴の()のように響く、女の声。

  藍の顔の横に、小さく深い空間の裂け目がある。声はそこから聞こえていた。

 

「……まさか。話を聞くついでに泊めてやった、それだけです」

「あら、そう? まあ、(ちぇん)も最近こっちに顔を出してくれないものねえ」

 

  くすくすとからかう声に、藍は少しだけ眉根を寄せて目を閉じ、かすかに首を傾け、小さな溜息を吐いた。

 

「それより……後始末のほうは、どのように致しますか」

「あなたなら、どうする?」

 

  問い返しに、ほんの数秒、考えを巡らす。

 

「……半月ほど、人狼退治に参じた者らが原因不明の病で寝こみ、夜の人里に狼の影がうろつく。そんなところかと」

 

「そんなところかしらね。それにしても、やっぱり新しいルールが必要、かな……」

 

  裂け目の向こうの声の主は、少し何かを考えていたようだったが、

 

「ところで、あの子の名前は?」

 

  さらりと、また話題を少女へ戻した。

 

「さあ。縄張りも持てぬ小妖など、記録するに足らぬと思い、聞きませんでした」

「ふふ、そうね。またいつか、聞くことにしましょうか。じゃあ、後はよろしくね」

「はい。おやすみなさいませ」

 

  裂け目は閉じられ、それっきり声も途絶える。

 

  藍はしばらくの間、道の先を見つめたまま佇んでいたが、やがて踵を返し、屋敷の中へと消えた。

 

 

 

  ゆっくりと揺れる、瑞々しく濡れた草木。陽光に輝きながら、長くなびく黒い髪。

  爽やかに潤う風の中、日差しの下を、少女は駆けていく。はるか遠く、森の向こうに眠る湖に向かって。

  そして、いつの日か、自分自身の力で、その居場所をつかむ未来に向かって。

 

  雨上がりの空は、果てしなく高い。

 


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