じんじんと熱い血飛沫が手から飛び散っている。手が軋むように痛い、ターナケインが振りかざしたナイフはシャルルの掌で止められていた。
「くっ……ターナケイン……君は……」
ターナケインは鬼気迫る勢いでシャルルを睨んで、拳に突きつけたナイフをさらに突き刺す。その度に、鋭い痛みがシャルルの手を蝕んだ。
「あんたは俺の相棒を殺した……! 今まで復讐を望んでいたんだ……!」
「まさか……飛空士になったのも……」
「ああそうさ! お前を殺す為だ!」
ターナケインは勢いよく短剣をシャルルの手から引き抜き、逆手に持った。シャルルは鋭い痛みに耐えきれずに片膝をつく。
「本当は空で撃ち落とすつもりだったが、この際どうでもいい! 貴様をこの場で殺して……」
と、そこまでターナケインが言ったところで、鋭い笛の音が鳴り響いた。
「貴様! そこで何をしている!?」
ターナケインの怒号を聞いた飛空場の憲兵隊の笛の音だった。ターナケインはそれに向かって小さく舌打ちをすると、ナイフを持って一目散に逃げはじめた。
憲兵隊の静止する声も聞かず、走り出したターナケインはナイフを憲兵隊員の一人に投げつけた。ナイフは命中し、憲兵隊員の肩に突き刺さる。
「シャルルさん! シャルルさん!」
聞いたことのある声が聞こえてくる。メリエルが片膝をついたシャルルに駆け寄り、そのままシャルルの掌を見た。
「嘘……衛生兵! 早く!!」
シャルルは鋭い痛みに耐えきれず、そのままゆっくりと目蓋が閉じられる。意識は、そこで途絶えていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ゆっくりと目を開ける。
明るい天井と光が目蓋から入ってくる。蛍光灯の明るい光と、白い天井。ここが、サン・ヴリエル飛空場の医務室だと気づくのはそんなに時間はかからなかった。
シャルルはベットから上体を起こして、改めて体を見渡す。胸などには傷はないが、右の掌だけにはしっかりと傷跡が残っていた。その手は、ターナケインの刃を受け止めた手であった。
「あ、シャルルさん」
目覚めた先で出迎えていたのは、聞き慣れた一声であった。傍にはメリエルがベッドの横に座って、シャルルの目覚めを待っていたらしい。
「ここは……? 飛空場の医務室?」
「はい、そうです。シャルルさんが気絶してしまったので、ここまで運びました」
「…………あれからどれくらい経ったの?」
「日を跨いで十時間くらいです、今は早朝ですよ」
彼女のいう通り、窓の外では小鳥が囀って東から朝日が登っていた。暗い暗い闇の時代を照らすかのような、燦々とした太陽だった。
「…………ターナケインは?」
「……捕まりました、現在は飛空場の独房に入れています」
どうやら、メリエルの話によるとターナケインはナイフを憲兵隊に投げた後に逃走したが、先回りした憲兵隊によって捕まったそうだ。
最後まで必死に足掻いていたらしいが、今では大人しく捕まっているという。それを聞いて、シャルルは途端に申し訳なくなった。
「メリエル……僕は」
「シャルルさんが気にすることではありませんよ。戦争なんですから、犠牲はつきものです」
メリエルもターナケインから事情を聞き、彼が相棒の復讐をしようとしていたことを知っているらしい。だが、シャルルは彼の復讐心を芽生えさせたのは自分の責任だと自らに重しを乗せ始めた。
「ターナケインはそれを分かっていない、割り切れていないだけなんです……だから、シャルルさんは」
「いや、いいよ」
メリエルの励ましに、シャルルはベットから起きて拒絶した。
「僕にだって責任はある。僕がターナケインの気持ちを解ってやらなかったから、こうなったんだ」
「シャルルさん……」
「元々飛空士にさせよう、なんて身勝手な考えだったんだ。ターナケインの心は戦争で傷ついていたのに、その気持ちをわかってやらないで……」
シャルルは自負の責任を全て自分に被せた、その言葉にメリエルも俯いて言い返すことが出来ないでいた。たしかにそうだ、彼の気持ちを解っていたら、このような悲劇は起こらなかっただろう。
と、その時医務室のドアがガチャリと開けられた。外から出てきたのは大柄の、それでいて人柄の良さそうな軍人の男性だった。サン・ヴリエル飛空場司令官、アントニオ大佐だ。
「状態はどうだね?」
「はっ、手の怪我だけですので、問題はありません。痛みも引いているので、戦空機の操縦もできます」
シャルルはそう言って少し痩せ我慢をした。本当は今も痛みが続いているのだが、それを言ってアントニオ大佐を心配させるわけにはいかない。
「そうか、それは安心したよ」
「あの……ターナケインは……?」
「今は飛空場の中の独房に入れられているよ、捕まえたときはかなり暴れていたが、今は大人しいよ」
それを聞いて、シャルルはさらにターナケインに申し訳なくなる。暴れていたということは、まだ未練があったということだ。あのとき、自分がターナケインに殺されて死んでいたら、ターナケインだって満足していただろう。
それが、シャルルをさらに蝕んでいっていた。今は複雑な気分だ、手の痛みはいつの間にか引いて、その代わりに胸の痛みがこみ上げてくる。
「あの、アントニオ司令」
「なんだね?」
「ひとつお願いがあります」
そう言って、シャルルは一呼吸を置いて自らの望みを言った。
「彼と……ターナケインと会わせてくれませんか?」
◇◆◇◆◇◆◇◆
冷たい床、日の光が届かない暗い部屋。目の前の鉄格子の扉だけが、外界との接点だった。ターナケインはサン・ヴリエル飛空場の独房で何もできないでいた。
ここは飛空場の地下室で、日の光もあまり届かない。冷たい床にシンとした空間には気が狂いそうである。
「くそっ……」
ターナケインは結局憲兵隊に捕まってしまっていた。ナイフも没収され、手元には何もない。そして、海猫はおそらくまだ生きている。殺し損ねた事を後悔しながら、ターナケインは静かに独房で座り込んでいた。
その時、不意にコツコツとした足音が聞こえてきた。俯いた状態からその方向に目を向けると、ターナケインの憎き相手が立っていた。
「海猫」
「ターナケイン」
二人はお互いを鉄格子越しに睨み合う。ターナケインには復讐の心が、シャルルには攻撃を仕掛けてきた相手への同情が滲んでいた。
「君の事情、メリエルから聞いたよ。竜騎士時代の相棒の、仇を取りたかったんだね」
「…………」
海猫は、この期に及んでまで飄々とした雰囲気で話しかけてきた。それが、ターナケインの神経を逆撫でする。
「たしかに辛いと思う、僕も悪かった……そんな君のことを知らずに飛空士にしようだなんて勝手なことを言って」
「もういい……」
ターナケインは海猫の物言いを遮り、そうぶっきらぼうに呟いた。
「もういいんだ! あんたはそうやって厚かましい態度で接して! それで俺の相棒が報われると思っているのか!?」
「…………」
「なあ、答えろよ海猫……! 貴様が殺してきた人間やワイバーンの数……それを忘れていいのかよ!!」
「それは違います」
と、傍からターナケインの叱咤を遮る言葉を誰かが投げかけた。メリエルだった。
「ターナケインは何も分かっていません。戦争は戦争なんです、あなただって、あの戦争で人を殺せば思うはずです。考えないようになるはずです。だから……」
「あんたまで……あんたまで海猫の味方をするのかよ!!」
ターナケインはその言葉を吐くと、近くの椅子に蹴りを入れて叩き割った。
「どいつもこいつも! なんで相棒のことをわかってやらないんだ! あいつは苦しんで殺されたってのに!なんで…………」
「ターナケイン」
その傍ら、海猫は一言呼びかけてターナケインを呼び止めた。
「君の気持ちもわからないでもない。けれど、それでは相棒の子は浮かばれないと思う」
「知ったような口を……」
「だからこそ、君にチャンスを与えたい」
そう言って、海猫はターナケインに手を伸ばしてこう言った。
「まもなく、パーパルディアに対する攻勢作戦が始まる。君ももう一度一緒に来ないか? ターナケイン」
◇◆◇◆◇◆◇◆
王城の一室から、暁闇の中で目覚めた王都を見下ろす。何度思い返しても、この数ヶ月間は奇跡としか言いようのない事態だった。
突如来訪してきたレヴァーム、天ツ上の艦隊。やってきた大使たちはさながら救世主のようだった。
そして、パーパルディア皇国に出向き、皇帝ルディアスの意外な一面を見れた。そのままレヴァームに行き、ルミエスは亡命を果たした。
アルタラスでは、パーパルディア皇国大使カストが、王女だった私を私欲のために奴隷にしようとしたり、王国経済の要であるシルウトラス鉱山の採掘権を皇国に献上するように命令したりと、大国とは思えないほどの下劣な外交を繰り返していたという。それを命じたレミールを、私は生涯許せないだろう。
初めて見るレヴァームは凄かった、天を貫く摩天楼、鉄道と呼ばれる交通機関、夜も明るい眠らない街。人々も明るく迎えてくれて、まるで御伽噺の中にいるかのようだった。
しかし、皇国の魔の手はレヴァームと天ツ上にも迫ってきた。私は、皇国からは逃れられない運命なのかと絶望した。
レヴァームの大学の友達は「大丈夫」と言っていたが、不安は的中し、アルタラス王国でレヴァーム人と天ツ人が皇国に虐殺されてしまう。
この事変こそが、パーパルディアを滅亡に導いた。パーパルディア皇国の軍はレヴァーム天ツ上の連合軍を前にほぼ全滅した。しかも、連合軍の被害者はいなかったという。
報道を聞いたとき、私は神に祈った。レヴァームと天ツ上の力を借りて、祖国アルタラスの地から皇国軍を追い払い、再興をなせないかと夢を見た。
彼らはそれを叶えてくれた、見事アルタラス島内の皇国軍を駆逐し、元アルタラス国人達が蜂起して統治機構を制圧、再独立を果たしてここにいる。
そして──
凱旋式を終えた女王ルミエスは、空を見上げた。剣と三日月があしらわれた、美しい飛行機械達が編隊飛行をしている。中には純銀色の美しい機体もいた。
その奥から、さらなる轟音が鳴り響く。空を揺らし、空気を轟かせる揚力装置の爆音が、辺り一面になり響いた。空を、影のような飛空艦が通過する。
飛行機械の吠えるような轟音は力強く、編隊を組んで飛び去っていく光景は圧巻の一言である。飛空艦隊はその偉容だけでも威圧感がある。
彼らは悪魔のような国──パーパルディア皇国に、正義の鉄槌を与えるための神の軍勢。ついに皇国本土での決戦が始まる。皇国にとっては、悪夢と絶望の序章となるだろう。
ルミエスたちアルタラスの民は、神聖レヴァーム皇国のグラナダⅡとアイレスV、天ツ上の真電改、両国の飛空艦隊達を特別な感情で見上げるのであった。