胸元に下げた真鍮の鍵を握り締める。
彼女は一体、わたしに何を預けたのだろう。何を託そうとしたのだろう。新人スタッフさんのとぼけたような笑みがずっと脳裏をチラついて離れない。
わたしとあこちゃんは属性持ちと呼ばれている突然変異サメの討伐報告をしたあと、自宅として利用している民家に帰った。引っ越してまだ数ヶ月の期間しか経っていないが、前の住人の痕跡は徐々に消えつつある。最後まで残り続けるのは、上階の床に染み込んだ腐った体液に違いない。
怨念染みている。死者ですら、そうやってこの世に生きていた証を残しているのだ。
新人スタッフさんは何を残そうとしたのだろうか。そればかりが、ずっと頭の中で反響している。
日はすでに落ちた。うつらうつらとしながらも、わたしは思考を保っている。完全に眠りに落ちることはない半覚醒の中にわたしはいる。
「しろかねは変なヤツだな――ぁ。眠りたければ、眠ってしまえばいいじゃないか。自分でもそう思わないかい?」
記憶の中のスタッフさんは血色がよい。まりなさんと並んでCiRCLEのカウンターに座っていたころを思い出す。思い出すというよりも、それをもとにして、こんな夢現の狭間に現れているのだろう。
半ば眠っているわたしの夢想。海馬にこびり付いている幸福な記憶。
髪をポニーテールにまとめた彼女は、ライトカーキのシャツとデニムパンツを着用している。そしていつも通り、気の抜ける笑みを浮かべていた。
「何の鍵か気になるかい? けど、知らないなら知らないままでもいいんじゃないかな? うだがわ妹にだってちゃんと説明してないんだからさ。危なそうなものには近寄らない。サメがあふれる世界じゃあ鉄則じゃあないか」
まったくその通りです。あなたが誰にも喋っていないのなら、預かり物の存在を知っているのはわたしだけ。わたしが鍵を紛失し、存在を忘れてしまえば、目に見えた厄介事はわたしとあこちゃんの前に現れない。
「そうそう。厄介事だよ。生存圏すら危うい中で、そんな余計な苦労を背負おうなんて真似は自殺行為にしかならないよね――ぇ」
押し付けてきたのはあなたでしょう。咄嗟にそう返すが、本人は痛くも痒くもないとばかりに笑みを崩さない。所詮は空想だ。居もしない相手に文句をぶつける意味はない。
彼女が居るのは〈弦巻財閥〉の内側だ。
スタッフさんは〈弦巻財閥〉に連行された。彼女たちは生き残った人類の最大幸福のために動いている。今日における幸福とは、生存に直結すると言っていい。つまりスタッフさんは、人類の生存を危うくするような何かに関わったのだ。
その鍵が、今わたしの手の内にある。文字通り。
「けれど〈弦巻〉だって相当怪しいんじゃないかい? ある程度の文明水準が保たれてるのは彼女たちのおかげだけどね。しろかねの目的を考えると、どっちの方が相容れないんだろうね?」
わかりません。けれどこの世には、もうまともなものなんて数えるほどしか残っていません。なら、きっとどちらもロクでもないものなんでしょう。
わたしは目を開ける。半端な睡眠からの目覚めは熟睡したときと比べて中々眠気を払えない。けれど今日に限っては、頭の中にわだかまる霞は春風の如き覚悟によって吹き散らされた。
どちらにも迎合できないとわかったときは、この風に吹かれて流れていこう。
我が家と言って憚らない他人の家の中を歩き、わたしはあこちゃんが使っている部屋に入る。
「りんりん? どうしたの?」
ベッドの中からあこちゃんが問いかけてくる。わたしがドアを開けるかすかな物音で目を覚ましたようだ。
「わたし、新人スタッフさんに会いに行こうと思う……」
「わかった。あこも行く」
即答だ。あこちゃんならそう言ってくれると思っていた。あこちゃんはベッドから飛び起きて、素早く身支度を整える。歯車を模したボタンが至るところに縫い付けられたシャツに袖を通し、薄く細長い金属板を繋ぎ合わせたコルセットで胴を締め、その上から革のコートを羽織った。下半身は厚手のタイツで脚全体を覆い、ホットパンツを着用するだけの簡素な装い。けれどゴツゴツとしたニーハイブーツを履くことによって、どこから見ても物々しい雰囲気を放っている。
戦装束に身を包んだあこちゃんを見て、わたしは淡く微笑んだ。
わたしは自身の髪を結う。もうロクな手入れもできないのだから、すっぱり切ってしまおうか悩んだロングヘア。あこちゃんの反対によって結局伸ばしたままにしている長髪を、後頭部で縦に連ねるように二つのお団子にした。まとめきれずに余った毛先は、お団子の間から空へ向かって跳ねさせた。
いつもの装備を身に着けて、わたしたちはガレージに赴く。ボイラーに火を入れて、
「あこちゃん。たぶん、ここが分水嶺になると思う。これからわたしたちは、誰かが隠してる秘密を無遠慮に探りに行く。もしも真実を知ることができたら、わたしたちは東京から逃げなくちゃいけなくなるかもしれない」
伏し目がちにあこちゃんに告げる。後戻り不能地点に立つことで、わたしの中で不安が鎌首をもたげた。現状維持ではいけないのか。自分から厄介事に首をつっこむような余裕がどこにある。今の社会は安寧とはほど遠いが、それでも安定は見せている。それを自分から捨てようとするのは愚か極まりないのではないか。出発する直前になって、わたしの弱さが滲み出る。
あこちゃんは何もわかっていない。あこちゃんよりも情報を持っているわたしが何も理解できていないのだから、あこちゃんにわたしの危惧が伝わるはずもない。
それでも、あこちゃんは笑ってこう言うのだ。〈大崩落〉を経てなお変わらない無邪気な笑顔で。
「だいじょーぶ!」
あこちゃんはわたしの手を包むように握る。
「あこはりんりんとならどこへだって行けるよ! それに、りんりんがやった方がいいって思うなら、それは絶対やらなきゃいけないことだよ。あこはりんりんをずっと見てたから。りんりんが悩んで、考えて、苦しんで、頑張ってたとこを知ってるから。だからりんりんがやるって決めたなら、あこは絶対それを手伝う。そう決めてるから。もしもりんりんが間違ってたら、それはそのとき考えればいいんだよ!」
あこちゃんの掌から、熱がわたしに注がれる。わたしの弱気を吹き飛ばす、信頼に満ちた眼差し。いつだって背中を押してくれる言葉に、わたしはいつも救われている。
わたし───あこちゃんが好きだ。
掛け値なくそう思える。改めてそう思った。わたしは顔をあこちゃんに近づける。こつん、と額と額を擦り合わせ、互いの鼻先が触れ合う度にくすぐったい気持ちになった。
「りんりん……」
求めるような甘い声がわたしの唇を撫でていく。
「あこちゃん───こんな世界でも、絶対幸せになろうね」
「うん……」
そして、わたしたちは誓いを交わした。
わたしはあこちゃんと平穏で幸福に満ちた暮らしをしたい。今のままでは懸念事項が多すぎる。誰が信用できるのか、そこだけでもはっきりさせなくてはならない。わたしたちの幸せのために、不確定要素はすべて潰す。
「クックックッ。この大魔姫あこの魔眼を以てして……えーっと、あれ、高い建物をカッコよく呼ぶときの……」
「摩天楼?」
「摩天楼の最奥に隠された真実を暴いてやろうぞ!」
ニッとあこちゃんは笑う。くすくすとわたしは笑みをこぼした。
「行こう、か」
「うん! 目指すは都庁!」