サメ因子、と日菜さんは言った。
「この世に存在するあらゆるものは、不安定な状態から安定した状態へ遷移しようとする力が働くことはわかる?」
「はい。……表面張力、とかですよね……?」
「そうそう。中性子単独だと崩壊するけど、陽子と一緒なら安定する、みたいにね。何事もこれ以上安定力が働かなく方向へ収束しようとする特性があるんだよ。物理の話だけじゃなくて、動物とか植物でも収まるべき場所に収まってるっていうか、あらゆる可能性を網羅した結果、最もバランスが取れているもの以外は淘汰された感じなのかな?」
わたしとあこちゃんは日菜さんに導かれるように、海底を泳いでいる。不思議な感覚だった。海はいくつもの流れが層になってできている。流れの緩急。ほんの少しの温度差。人の感覚では水中にいるとしか思えなかっただろう。今は速い流れに乗り、その流れが途切れれば流れと流れの隙間に身を潜ませ、再び望む流れに身を任せる。
バタ足のように水を蹴る真似はしない。ただ潮の流れに便乗しているだけ。にも関わらず、わたしは最小の労力で最大限の速度を発揮できていた。
水に対する知覚能力が向上している。泳ぐ能力も人だった頃とは比べ物にならない。水の抵抗は空気の十倍以上あるというのに、今のわたしはかつて地上を走っていたころよりも速く移動できている。人の身体ではまとわりつくように感じていた水の重みも、今は無いに等しかった。
人間ではなくなったことを強く実感する。けれど、やはり、わたしは変質したことに、戸惑いや恐怖、絶望といった感情を抱かなかった。人間の身体に未練がない。
安定性。これもまた、ひとつの安定した形なのだろう。
「そして、あらゆる種はまだ淘汰されてる最中なんだよ」
最後に残るのはサメなんだ、とわたしの考えを補強するように日菜さんは言った。
「サメの形状や生態が最も安定していて……どんな環境にも適応できるということですか……?」
「ちょっと違うかなー。姿形なんてどうでもいいんだよ。残るのは概念。サメっていう概念が宇宙の終わりまで残り続けるんだー。で、一体何がサメがサメ足らんとしてるかっていうと、それがサメ因子になるわけ。このサメ因子は万物に偏在してるよ。勿論、あたしたちの中にもね」
「……つまり、そのサメ因子を注入したことで、わたしとあこちゃんは
「外から取り入れたわけじゃない。人間だったころからあたしたちの中にはサメ因子が眠ってたんだよ。あたしはそれを起こして、少しサメ因子側に傾くようにバランスを崩してやっただけ。そしたらあとは、サメ因子が勝手に構造を最適化してくれた。二人だって、前時代的な常識だと考えられないサメが跋扈してる姿を見てきたと思うけど?」
日菜さんの問いかけに、わたしは頷く。
わたしたちはそれを属性持ちと呼んでいた。無機物が命を得たように振る舞うサメを見た。炎のような拡散するエネルギーが実態を得たサメを見た。あれらはサメになったのではなく、はじめからサメでもあったということか。
サメ因子。万物が内包する要素。わたしや属性持ちは、少しだけシャークサイドに偏ってしまっただけにすぎない。
「ねー、ひなちん」
そこで、今まで黙ってわたしの横を泳いでいたあこちゃんが口を開いた。
「よくわかんないけど、結局、サメはさいきょーってことでいいの?」
「あはは。そうだね、サメ、サイキョー!」
けらけらと笑う日菜さんを尻目に、わたしは本題へ繋がる問いを投げた。
「氷川さん───いえ、紗夜さんもすでに、シャークサイドに落ちているということですよね?」
「…………うん。まあ、見ればわかるよ」
日菜さんは先を急ぐ。彼女の背を追いかけながら、わたしは移り変わり行く景色に驚いてばかりいた。
信じがたいごとに、海底には文明が築かれている。至るところに西洋に多く見られる石造建築を模した住居が見受けられた。決定的な違いがあるとすれば、西洋の石造建築は煉瓦や切り石を積み上げているのに対し、目前の住居には繋ぎ目がない。さながら一枚の岩板を紙細工のように折り曲げたかのよう。
建物の先端には巨大なクラゲがカサを広げて発光していた。それは地上の照明よりもよほど明るく海底までを照らしている。その綺羅びやかさは、さながらおとぎ話の竜宮城を思わせた。
「あれもサメなんだって。ハウスシャークの亜種って言ってた」
あこちゃんが口を開く。反射的にわたしは顔をしかめた。
「すごく、嫌な名前だね……」
クラウドファンディングを募り大金を集めておきながら、お金をかけてもB級はB級、サメはサメということを世に知らしめた駄作と同じ名前。けれど著しく不安を煽る名前とは対照的に、技術力の高さには目を瞠るものがある。
いや、この考え方は間違っているのか。
「……あれもサメってことは、誰かが作ったわけじゃなくて、はじめからああいう形に変質したってこと……?」
わたしが人間の身体から半人半魚の身体になったように。海底の岩盤が家の形に変わったのか。
〈弦巻〉でも、属性持ちを有効活用するノウハウはあった。日菜さんならより細かくサメの変生をコントロールできるのかもしれない。
「……それにしても、意外と人が多いね」
先ほどから何十人もの往来を交わしながらわたしたちは泳いでいる。勿論、休日の渋谷や新宿のように混雑しているわけでもない。けれど、この短い時間の間にわたしは少なくはない魚人を目にした。
彼らが全員人から
「りんりんが目覚める前に、あこ、ちょっと通りがかった人と話してみたりしたんだけどね、東京の外だと定期的に仲間にしてくれってこっちの人とコンタクト取る人が多いらしいよ」
「……なんか、色々合点がいったよ。だから〈弦巻〉は、あんなにも背信行為に対して強固な対応をしたんだね……」
人が生き残る上で、サメは退治しなくてはならない障害だ。そのサメへ身を窶すなど、人類を裏切った敵とみなされるのが自然だろう。敵になった以上は討伐対象としてカウントするし、情報漏洩を行うような危険分子は判明次第刈り取るに限る。
加えて言えば、東京に逃げてくる人はほとんど海なし県の住人だった。海岸近くに住む人たちが救いを求めてこちたへ逃げているのだとすれば、ひょっとすると、海中の人口は東京の人口を越えているかもしれない。
〈弦巻〉が危機感を抱くには十分だ。
わたしの知らなかったところで人とサメは対立の溝を深めていたらしい。
「着いたよ」
そう言って、日菜さんは一軒家を模した建物の二階の窓からするりと身体をすべりこませた。誰も地に足付けて移動していないし、最悪、肩幅が通るだけの大きさがあれば出入りは可能だ。海の底では、玄関口といった家の顔はもう消えているのかもしれなかった。
わたしはあこちゃんと日菜さんの後に続く。部屋の中はとにかく殺風景だった。生活感が無いどころか、廃墟と言い換えていいかもしれない。飾るようなインテリアもなく、ただ間取りを仕切るための壁があるだけだ。剥き出しの岩壁は、ここが住居ではなく洞窟という印象を強く与えてくる。
「みんな昔の習慣で派手な建物造ったり、住む場所を探すんだけどさー、前よりも身体は頑丈で危険がないし、盗まれて困るようなものもないし、水中を漂って寝るから布団とかベッドみたな寝床もいらないし、食事も魚に齧りつくだけで調理する必要がないから、家にこだわる必要性ってほとんどないんだー」
まぁ、でも、起きたとき変なところに流されてないのはメリットかな、と日菜さんは世間話をするように言った。
徐々に日菜さんの声音が硬くなっている。紗夜さんがいる場所に近づいているのか、緊張しているように見える。
わたしたちは床に開いた、一階と二階を繋ぐ昇降口をくぐった。階段や梯子の類は、当然のようについていない。
そしてその先の部屋に紗夜さんはいた。
紗夜さんは半透明の薄い被膜のようなものに包まれて、壁に固定されている。さながら、羽化を待つ蛹であり、孵る寸前の卵のようにも見える。
その被膜の向こう側には、一年半ぶりに見る紗夜さんの顔が浮かび上がっている。鱗のない、きめ細かい肌。整った柳眉と筋の通った鼻梁。柔らかさを感じさせる唇。どれもあの頃のままであり、荒廃世界の苦労など知らないかのよう。だからこそ、〈大崩落〉から見た目が変わっていない彼女の顔は、否応なく死相を思わせる。目を閉じて身動ぎすらしない姿は、わたしに死体を連想させる。
このヴェールこそがわたしたちと紗夜さんを隔絶させる絶対の境界線であり、彼女はヴェールの向こう側でハデスの手を取ってしまったのではないか。
「……あ、あの、日菜さん……紗夜さんは……」
「生きてるよ。脈はある。息もしてる。けど意識だけがない」
狼狽するわたしの言葉を遮るように日菜さんがしゃべる。
「ひなちん、紗夜先輩は
「なってるよ。なってるけど、あたしたちみたいに変生しなかった───それでそのまま起きなくなった」
深く、重い声だった。忸怩たる思いが滲む悔恨の響きは、石のようにごろごろとわたしの中で転がりだす。テレビの中で明るく笑っていた彼女を知るだけに、この落差に目が眩んだ。
頭を振って気を保つ。
「紗夜さんを目覚めさせることに異論はありません……それで、わたしたちは何を協力すればいいんでしょうか……?」
「ぶっちゃけて言うとさー、わかんない。あたしも結構色々やって、最初から半魚人だった連中よりもサメ因子に詳しくなったつもりだけど、成果なんて無いし。だから、もう手当たり次第に試せることは試すフェーズに入ってるんだよね」
「外的要因で試せることは一通りやってるんですよね? ならわたしたちにできることは紗夜さん自身に語りかけること……Roseliaのことを話せば、反応してくれるでしょうか?」
「わからないから、それをふたりにお願いしたいんだよ」
「じゃあさりんりん! 歌おうよ!」
「そう、だね……下手に言葉を飾るより、そっちの方がわたしたちらしいかもね」
そして、わたしとあこちゃんはかつて友希那さんがライブステージで歌っていた曲を口ずさむ。思い出の曲を紗夜さんに届けるように歌った。
けれど、紗夜さんの死相のような表情が、変化することはなかった。