海底は時間の流れが曖昧だ。日の光が乏しく、一日の感覚が掴めない。加えて、
鼓動の速さの違いで、身体の大きい生き物と小さい生き物では体感時間の流れが違うと聞く。この説が正しければ、わたしの時間の捉え方は緩やかになっていると言っていい。わたしの心臓は人間の頃と比べて、とてものんびり動いている。
あるいはわたしの常識の無さが、心を子供時代に戻しているのかもしれない。
海底で寝起きする生活はすべてが目新しい。見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの、すべてが初めての体験であり、すべてが驚嘆に値するものだ。
ここで何一つ経験則を持たないわたしは、無垢な子供と同義である。世慣れする前の時分に回帰しているとも言えた。
「結構遠くまで来たよね」
「そうだね。こんなに深い場所まで潜ったのは、わたしたちが初めてかも」
「ホント!? クックックッ。闇の底より這い出し魔物たちよ。大魔姫あこの使い魔に相応しいか、妾自ら魔眼の力によって真の姿を見定めてやろうぞ───ッ!」
「飼うのはおすすめできないかな……」
「えーっ!? なんでりんりん! カッコイイの居そうじゃん!!」
一辺の光も差さない闇の中で、あこちゃんと他愛ないやり取りをする。
わたしたちは紗夜さんを目覚めさせるため、日菜さんに協力している。もう人間だった頃とは状況が違う。一番の変化は、ある程度の安全が保障されたことだ。自ら捕食者側になることで、ほかのサメから攻撃されることはなくなった。
この身体は燃費がいいのか、少量の食事で長時間活動できる。海面近くにはあらゆる生物の死骸が漂っているが、海そのものの懐はかなり深い。
生命の安全という意味では、もう何の心配もない。余裕ができたのだ。陸にいたときは自身とあこちゃん以外に関心を払うゆとりなどなかった。余分なものを背負えるようになったと言えれば良かったのだが、わたしの内面は陸にいた頃とさして変わってはいない。
聞き及んだところによると、紗夜さん以外にも
わたしも、あこちゃんも、ある日唐突に意識を失い、目覚めなくなる可能性がある。
この可能性は看過すべきではないし、幸いにも、問題を解決できそうな天才が近くにいる。わたしが手を貸すのは当然と言えた。
日菜さんは言った。
『要するに、癌と同じなんだよ。サメ因子ってやつは』
『癌、ですか……それなら、勝手に増えていって、いずれサメになるんじゃないですか?』
『その考え方で
『紗夜さんのサメ因子を活性化させても、人体のバランスは崩れなかった……バランスを崩すに至らなかったということは、紗夜さんが持つサメ因子は不活性なのでしょうか……?』
『あたしもそう思って、あたしの血液や体液や細胞を色々移してみたんだけど、効果は無かったよ。だから、いま考えてるのはその逆。サメ因子が不活性なんじゃなくて、おねーちゃんのサメ抑制因子が強すぎるんじゃないかってこと』
『なるほど……だから、例えが癌なんですね……人体には癌遺伝子に対抗する癌抑制遺伝子を持ってますから。際限なく細胞を癌化させ増殖させる癌遺伝子がアクセルなら、それを止める癌抑制遺伝子はブレーキ。サメ因子が人体のバランスを崩す働きをするなら、バランスを守る抑制機構があってもおかしくはない』
『最後までサメに抗う存在。きっと地上なら〈シェパードの血統〉とか呼ばれるんじゃない?』
『日菜さんの仮説が正しかったとして、取れる手は二つですね……サメ抑制因子を不活性化させるか……』
『あるいは、おねーちゃんのサメ抑制因子が太刀打ちできないくらい、サメ因子を強化するか。───あたしは不活性化させる方で色々考えてみるよ。……もう一個の方、お願いしていい?』
『…………雲を掴むような話ですよ……? 抗生物質と逆の働きをする物質を見つけるようなものです』
『うん。わかってる。けどあたしたちに時間切れは無い。それに、そろそろあたしたちは、どうして地球にガンマ線バーストシャークがやって来たのか、その理由を考えるべきなんじゃないかな』
かくして、わたしはあこちゃんとともに、当てのない旅へ出た。
インドア派だったわたしがコロニーを飛び出し、世界中の海を渡り泳ぐことになるなんて。我が事ながら驚嘆する。
目的はあれど目的地がない旅は、難航していた。差し当たって、わたしたちはより深い方へと進路を取りつつ移動している。
「……最も深い底の底は、海の奥の奥とも言い換えれる、なんてリリックでしかない根拠だけど」
最深部にはまだ誰も見つけていない秘密が眠っている可能性は高いだろう。それが例えゼロに近い可能性だとしても。
とうに光は届かない。計測器が無いのでたしかなことは言えないが、わたしたちは深海と呼べる深さまで潜っていると思われる。
「深海って結構簡単に来れるんだね」
「普通は、無理だよ……水圧で潰されちゃうから……」
「でもあこたち、コロニーにいたときから身体の調子は変わってないよね?
「うん。たぶん、そうだよ……元々深海にしか生息してないサメだっているし、
「じゃあその気になれば、あこたちは陸の上も土の中も、雪山や空、宇宙だって泳げちゃうってこと!?」
「うん。サメだからね……やれないことは、ないと思うよ」
あこちゃんはきらきらと目を輝かせている。
このように、一片の光がない環境でも、わたしはあこちゃんの顔を視認できている。視界に色は無いが、数メートル程度の距離なら姿形の判別は容易にできた。人間の眼球ではありえない。サメの目もそこまでよくはなかったと思う。そもそも、わたしはずっと陸にいたときと変わらぬ視界を維持していた。空気中と水中では光の進み方が違うというのにだ。
これまで見たこともないグロテスクな魚がわたしとあこちゃんの傍を通り過ぎたとき、ぽつりとあこちゃんが言葉を漏らした。
「なんか、変な感じ。ぴりぴりする」
あこちゃんは泳ぐのをやめ、その場に留まる。そして注意深く、何かを探るように辺りを見回している。わたしはあこちゃんの傍に寄り添った。同じように周囲を観察するが、わたしに異常は見受けられない。
けれど、あこちゃんが納得するまでは、わたしもジッと息を潜める。いまさらあこちゃんの鋭敏な感覚をわたしが疑うはずもなかった。
五分か、十分か。ただ時間が過ぎていく。ほんの数メートルしか見渡せない暗黒の世界で静止していると、世界そのものが停まっているような錯覚を抱いた。
闇の中であこちゃんがわたしに向き直る。
「ごめん、りんりん。たぶんあこの勘違い───」
その瞬間、わたしの知覚範囲外から、わたしの胴ほどの太さを持った触腕が恐るべき速さでわたしたちに迫った。
反応できたのは奇跡に近い。咄嗟に動けた自分を誇らしく思う。根拠のないあこちゃんの直感を愚直に信じ切った結果であるだけに。気を抜いた直後のあこちゃんではこの触腕から逃れられない。人体とは比較にならない
あこちゃんの身体はくの字に折れ曲がり、無抵抗で蹴り飛ばされた。あこちゃんへは触腕の脅威は届かない。
安堵の息を吐く間もなく、わたしは触腕に絡め取られた。全身に吸盤が張り付く。触腕だけでわたしの身長は超えている。
ダイオウイカだ。
わたしを捕食せんとする生物の正体をわたしは悟った。海の魔物はきりきりとわたしを締め上げる。潰されないよう、わたしは死ぬ気で抵抗する。人の身とは違い、
「───、───」
口端から血が零れる。堅牢な筋肉に守られている骨や内臓が軋みをあげる。雑巾を絞るように、身体をねじ切られそうになる恐怖。わたしは生命の危機を久しぶりに感じていた。死の足音が忍び寄る。
わたしは必死に足掻いた。死にたくない一心で懸命にもがき続けた。けれど触腕の吸盤は外れない。もがけばもがくほど、わたしを締め付ける力は強くなる。
「ぅ───、ぁ───」
喘ぐように大口を開ける。鰓を塞がれているわけでもないのに息ができない。文字通り、内臓が口から飛び出してしまいそうだった。
「りんりんを放せぇえええええッ!!」
───ああ。あこちゃん。折角ダイオウイカから逃げれたのに。
鬼の形相であこちゃんが迫る。ひらりひらりと触腕を躱す様は舞踊のように見事だ。かつての身体能力や反射神経は、
あこちゃんは笑う。ギザ歯を剥き出しにして、獰猛に笑う。
あこちゃんが腕を振り上げる。彼女の掌からは、細長い、剣のようなものが伸びていた。
わたしが疑問符を浮かべる間もなく、あこちゃんは腕を振り下ろす。ぞぷん、と音を立ててあこちゃんは触腕を断ち切った。
その瞬間。わたしは海中を漂う浮遊感と、断面から溢れ出た血液に包まれた。
すでにダイオウイカの姿はない。逃げたようだ。
「ふふっ」
思わず、笑い声を上げてしまう。
「意外とあるんだね。ピンチのときに新しい力に目覚めるの」
「だよね。あこも自分でちょーびっくりしてる。りんりんを助けなきゃって思ってたら身体が燃えるくらい熱くなって、なんか出せるようになっちゃった」
しゃこん、とあこちゃんは掌から剣の刃先を出す。一見すると骨のように見えるが、剣の表面には細かい気泡が次々と生じている。あこちゃんはそれでわたしの身体に絡みついている触腕を細かく刻んだ。斬れ味は驚くほどいい。両腕が自由に使えるようになると、わたしはあこちゃんと協力して、残りの塊を一気に引き剥がした。
「その剣みたいなもの、高速で振動してる?」
「うーん、みたい。なんでだろう?
「
「だって、あのでっかいイカをぶっ倒そうと思ったら、武器がいるでしょ? 一番使い慣れた武器って言ったら、やっぱり
「───日菜さんのところまで戻ろうか。あこちゃんが今やったことが、紗夜さんを目覚めさせる鍵かもしれない。一度情報共有しておくべきだと思う」
「ホント? 紗夜先輩、起きてくれる?」
「それはまだわからないよ……けど、絶対一歩先へ進んだと思う」
「そっか……ひなちんの助けになったらいいな……」
「大丈夫。あこちゃんの力は助けになるよ……それと、遅くなっちゃったけど、ありがとう。久しぶりに本気で今回はもう無理って思っちゃった……」
「ううん。ごめんね、りんりん。りんりんが身体を張ってあこの盾になるときって、もう詰んでるときなんだよね。りんりんも、あこも、両方死んじゃうけど、それでもあこだけは守ろうとしてくれてるんだよね。───あこ、もっと強くなから! ちゃんと二人で生き残れるように強くなるから!」
「わたしはいつだって、あこちゃんを頼りにしてるからね」
わたしたちは東京湾沖を目指して移動を開始した。道中はあこちゃんが目覚めた能力に名前を付けたり、体は剣で出来ているごっこをして比較的和やかに時間は過ぎた。紫外線が届かないギリギリの高さまで浮上したからか、ダイオウイカのような大物に狙われることもなく東京湾沖に辿り着いた。
到着して早々我が目を疑う。東京湾が戦火に燃えている。
わたしたちが不在の間に、第一次人鮫大戦が勃発していた。