地球が胎動する。
外核が血液を模して流動する。灼熱の血潮は海水に触れ、海の一部を水蒸気へと変換した。膨れ上がった水蒸気の体積が、周りの海水を吹き飛ばす。外核と触れている水蒸気の一部がプラズマと化しながら、水蒸気は海面へ向かい浮き上がる。海底が空気に晒されたのもほんの一瞬。押し退けられた数トンにも及ぶ海水が、瀑布となって岩盤を穿つ。
剥き出しの血管は、すでにマントルに覆い隠されている。下層マントルは筋肉となり、上層マントルは鱗へと変じた。地球全土でマントルにまで達する深刻な亀裂が入る。それは鱗と鱗の間に生じたただの隙間であったが、前代未聞の地殻変動は地球上のすべての生命に影響を与えた。地表は薄氷のように容易く罅割れ、ぽろぽろと宇宙空間へ剥がれ落ちる。
重力すら変化している。時速一七〇〇キロメートルで行われている自転は止まり、物体が地面に引き寄せられる力すら一定には働いていない。地表で繁殖していた有象無象は塵芥のように、空気に揉まれ、海水に呑まれ、土砂に潰された。そして宇宙へ棄てられる。重力が崩壊するのは目に見えていた。
卵の殻に付着していたゴミが、孵化に影響を与えることはない。
地球はサメの卵だった。
地球が孵る。
ここに、アースシャークが誕生しようとしていた。
渦を巻く膨大なサメエネルギー。かつてないほどの高密度なエネルギーはそのままわたしたちを溺れさせかねない。わたしとあこちゃんは岩盤に張り付いたまま、いずこかへ投げ出されていた。今いる場所が海なのか空なのかすら判断できない。ただ周囲に海水や空気があるだけで、とっくに宇宙空間へ出ているのかもしれなかった。
わたしたちに残された時間は僅かしかない。わたしだって仮にもサメだ。宇宙空間で生存できるポテンシェルは持っている。しかし、地表から剥がれ落ちた落ちた、空気、海水、プレートが最低でもトン単位でぶつかり合う中を切り抜けられるかは別問題だ。加えて、あこちゃんは意識を失っているようだった。
サメの真価が問われていた。
高次のサメへの進化が必要だ。
わたしは高密度のサメエネルギーを取り込んだ。劇薬を原液のまま飲むのと同義であり、わたしの肉体は崩壊をはじめる。意識的にサメ因子を励起させ、超高サメエネルギー反応に耐えれるよう、少しずつ器の拡張を図る。
それは鉄を鍛える作業に似ていた。強靭に仕上げるため、熱い鉄を何度も打つ。製品が寿命を迎えれば、一度溶かしてまた一から鍛え直す。それと同じことを、わたしはわたしの肉体で行っている。
新たな器が出来上がった瞬間に、わたしはまたしてもサメエネルギーを吸収し、自身の崩壊を招く。同時に、器の拡張と並行しながら、わたしはロレンチーニ器官を高位の器官へと発達させる。古代の生物が弱肉強食の世界でどう優劣をつけたのかと言えば、それは眼球という器官を生み出し、世界の在り様を正しく認識できるようになったためだ。
視界がある生物は狩りでの優位性、または逃亡での優位性を確立できた。その点で言うと、わたしは未だサメに満ちたこの世界を正しく認識できている気がしない。
わたしのロレンチーニ器官は特別性だ。はじめからサメ因子を感知することに特化させている。そして徐々に理解が追いついてくる。可視光の中でもスペクトルによって見える色が変わるように、ただ漠然とサメエネルギーと感じていたものの中でも、多様な性質をわたしは認識できるようになっていた。
最早物質としての肉体は捨てた。器を拡張する過程で、サメエネルギーの伝導効率、吸収効率が悪いと判断した。細胞の一片に至るまで、サメエネルギーそのものへ転化させた。わたしは意識的に肉体の再構築を行わず、そのままエネルギー体として我が身を昇華させたのだ。
彼我の境界をハッキリとさせ、アースシャークが生み出すサメエネルギーとわたしのエネルギー体との差別化を図る。これでわたしがアースシャーク誕生のために消費されることはなくなった。逆に、わたしがアースシャークのサメエネルギーを取り入れると、わたしのエネルギーとして染め上げ、わたしの一部として活用できた。
これは食事の延長だ。
規模こそ違えど、三百年ほど食物連鎖の頂点に位置してきたわたしと、サメとして生まれたばかりのアースシャークでは、糧を得るための経験に開きがある。アースシャークからサメエネルギーを奪い取れるだけ奪い取り、わたしはあこちゃんを伴って死地を脱した。
すでにわたしにとっては死地でもなんでもなくなっている。大陸プレートの間に挟まれたとしても、わたしは何の痛痒も感じない。もう物理法則によって殺されるような次元には立っていない。
けれどあこちゃんは別だ。気を失っている彼女にとって、ここは危険極まりない。わたしは簒奪したエネルギーで力場を作り、あこちゃんの身を守りながら月へと逃げた。
〝あこちゃん……あこちゃん起きて……〟
月面に降り立つと同時に、わたしはあこちゃんに呼びかける。声を発するというより、思念を送っている。わたしにはもう声帯がない。エネルギーの伝播だけで、すべての意思疎通が図れる。しかしあこちゃんに目覚める気配はない。
わたしはアースシャークの他に強大なサメ因子の励起を感じ取った。意識を地球があった座標へと向ける。そこでは生まれたばかりのアースシャークが、既存の系統樹から発生し得ない怪物に絞め殺されようとしていた。
それは蛸のような頭部を持ち、頭足類の触腕を無数に生やしている。それには四肢があり、手足からは巨大な鉤爪が伸びていた。その鉤爪がアースシャークの身体を貫き、腕の長さを活かしてアースシャークの首を絞めている。アースシャークは逃れようともがいているが、怪物は背に生やしたドラゴンのような翼を広げ、バランスを取っている。
そしてその怪物のサメエネルギーは、見慣れた翡翠色の輝きをしていた。
アースシャークから血潮の役割を果たす外核が吹き出す。それは怪物の血肉に重大な損傷を与えた。けれど、半身を失って凍える悲哀と、世界を焼き尽くす赫怒は一向に収まらない。オーボエのようなくぐもった咆哮が思念に乗って拡散する。
やがてアースシャークは怪物に首を圧し折られた。アースシャークに止めを刺すと、怪物も限界を迎えたのかぐったりと動かなくなった。どちらのサメ因子も確実に活動を停止している。
〝あこちゃん見て……わたしたちが地球最後の生き残りになったみたいだよ……イヴとイヴだね……〟
返事はない。あこちゃんはわたしのぐったりと横たわったままだ。あこちゃんのサメ因子は弱々しいが活動している。死んでいるわけではない。わたしは先ほどの怪物を認識したことにより、紗夜さんを思い出していた。彼女の症例と同じというわけではないが、参考にはなるだろう。
あこちゃんは栄養失調のような状態だと当たりを付ける。あこちゃんは自分とわたしを守るために、サメエネルギーを限界まで使い切った。岩盤に打ち込んだ剣を維持する力もそうだが、死地を潜り抜けるために肉体の最適化も行っていたはずだ。
結果として、あこちゃんの身体からサメエネルギーが枯渇し、休眠状態に入っているのだと思われる。
つまり対応策は簡単だ。わたしは自身の肉体の一部を退化させる。エネルギー体としての身体に、物質界に囚われた生身が作られた。それは人もサメも持ち合わせる臓器───胎盤である。サメは魚類でありながらすべての種が卵生というわけではない。そもそも鮫という字は魚が交わると書く。これはサメが交尾をする魚であるところに由来している。そして一定の大きさに育つまで子宮の中で子供を育てるサメもいるのだ。かつての身体機能を復活させる形で退化するのはさして難しくはなかった。
わたしは胎盤から臍の緒を伸ばし、あこちゃんのお腹につなげる。そして腕を一振りし、月が持つサメ因子とサメエネルギーを根こそぎ奪い取った。月の構成物質を崩壊させ、純粋なサメエネルギーに変換する。そのエネルギーをわたしがすべていただき、そのままあこちゃんへ注ぎ込んだ。
〝あこちゃん……あこちゃん、聞こえてる……?〟
「……りんりん、脳に直接───ああ、ダメ。すっごく、眠い」
あこちゃんの意識が回復した。空気ではなく、あこちゃんを覆うサメエネルギーが震えることで、わたしはあこちゃんの声を感知した。
目覚めたあこちゃんは、本人の言う通り、とても眠そうだ。焦点の合わない瞳は、そのまま夢幻を見ているかのよう。
〝大丈夫だよ、あこちゃん……まとまったごはん用意するから、それまで寝てて〟
返事をするのも億劫であるかのように、あこちゃんはこくりと頷いた。再び、あこちゃんの意識が落ちる。わたしはあこちゃんを抱いて、もっと上等な獲物を求めて移動をはじめた。
後ろ髪を引かれたように振り返ると、満月の端を齧った跡から、かつての地球の残滓が見えた。
〝───さようなら〟
もうなくなった故郷へ別れを告げる。想い出だけを引き上げて、わたしは地球の残骸を振り払った。
あこちゃんを元気な姿に復活させる。そしてあこちゃんと、安住の地で幸せに暮らすのだ。
わたしの願いはあのころから、何も変わってはいない。
必ず、果たしてみせる。